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人生史#1(1年9ヶ月ぶりの投稿。)

お久しぶりです、または初めまして。オーキッドです。最近は、学業と大学受験の為の勉強でスケジュールが過密でnoteの執筆が出来ていませんでした。

時の流れの感じ方って様々って聞きますが、自分の場合、今は、早く感じている気がします。この記事下書き保存してその後放っていたんですけど、半年も経っていました。

1年9ヶ月前が最後に投稿していた記事だったらしいので、noteの執筆の仕方・ブログ用語も色々忘れましたし、そもそも投稿の必要性はあんまりないんですけど、執筆▶️投稿することによって、自分史を整理することが出来るのかなと思いまして…まあ自己満足用です、本題に入ります。

私、長野にある志望高校に受かって、故郷(9年住んでいたタイのこと)と家族と離れてその高校で楽しい寮生活送っていたんですけど、半年も経たないうちに、適応障害になってしまって。思い当たる出来事はありますが、原因は未だに不明です。で、その適応障害が転移して鬱病になってしまったんです。母が東京に住んでいたので(父はタイ)、東京と長野を毎週新幹線で行き来して、精神科に4ヶ月ほど通っていました。高校からはまあ色々あって戻る事を恐れられていたので、手っ取り早く言いますと、「高校には来るな、東京で安静にしていなさい。」と言われていたんです。

その高校が言った通りにしていたんですけど、勿論友達もほぼいない住むのなんて9年ぶりの東京で、朝11時(言うて朝でもないが。睡眠障害のような感じ)に起きるという苦しい生活を送っていました。「苦しい」という単語で説明が終わるなら人生楽ですけど、1秒1秒が地獄でした。奇妙な質問ですけど、「地獄に行ったことがありますか?」って道端で聞かれたら、「はい、あります」って言える自信があります。母はその当時働いていたので(私の病状がその後悪化したので、その後会社を辞めました。罪悪感しかなかったです。)朝11時に起きても勿論誰も家にはいませんし、孤独感に襲われていて、かなりキツかったです。11時に起きても生きている感じもしないので、何もしなかったのを覚えています。朝ご飯の目玉焼きは毎日冷たかったな。

起きれない・動けない・力が出ない・やる気がない っていう理由で顔を洗ったり、歯磨きをしたり、髪をとかしたり、パジャマからその日の服に着替えることも出来なかったのを覚えています。自分が憎くて鏡も見れなかったです。でも食欲だけはあったので、高校入学前40kgちょっとだった私の体重は、3ヶ月ほどで57kgまで増えてしまいました。暴飲暴食ってやつですね。外に出ることもないので、母に無理やり散歩させられていたんですけど、社会からジャッジされている・妙に見られていると信じ込んでいた私は、散歩の時も帽子、マスクをしていました。一日中眠くて勉強も手につかなくて、「友達に馬鹿にされる」「友達よりテストの点数が低い」「友達の人生はキラキラしている」と勉強も出来ない自分が大嫌いでした。偶に高校には戻れていたんですけど、仲の良かった親友とも話せない状態になって、変な噂は広まるし、目は毎日腫れているしとても辛かったです。

でもそんな生きた心地もしない辛い中、救いの手を差し伸べてくれた人も沢山いました。彼らとは最近話していないですけど、彼らのことは今でも、これからも脳裏にこびりついています。しかし、体調が悪化するにつれて彼らのことを信用出来なくなってしまい、(彼らは私が「かわいそうだから」仲良くしてくれてるのかなって本気で信じていました。) 最後は消えるようにその高校をやめることとなりました。(口止め料を払われた訳でもないので、月日もかなり経ったので、サラッと言いますが、一言で言うと、「君は戻る資格と信用がないし、他の生徒と君の友達の負担(正確には英語で"Burden")になるからやめてくれ」と言われ、あちらは弁護士も立ててきたので、こちらは見捨てられ、完全に敗北しました。)

その後、私がいなくなったのは謎めいていたみたいです。戻ってくると私も確信していましたし、入学してくる新入生ともインスタで繋がったりして、仲良くなった子もいたので。

その学校は、「いろいろな地域・国から厳しい先行を勝ち抜いてきたエリート生徒が沢山いる高校」なんですが、所詮高校生なので、私が消えたことに関して言いたい放題なのだろうと少し思っていました。私の勘は合っていたらしく、て言っても4、5人ですが、ゴミの様に言われていたのが後で発覚しました。本当に病んでいた当時だったら、私の反応もどうなっていたのか想像もつきませんけど、今の私は不思議なことに、怒り2割・「ふーん」1割・「君たちよりキラキラした人生送っているのにな(現在進行形)」7割という反応でした。

その学校を去った後、私は、父もいた故郷に帰ることにしました。日本にある通信制高校のオープンキャンパスや説明会を訪れたり、一年gap yearを取るという道も考えましたが、故郷に戻ることが一番しっくりきました。
2年弱米国式の学校に在籍したんですけど、無事今年の6月に卒業できました。

2年弱といった短い期間でしたが、本当に沢山の学び・体験・出会いがあり、(自分で言うのもアレなんですけど)かなり自信を持って、キラキラな高2・高3生活を送ったぞと言えます。(敢えて高1に関しては触れないのが私の今のポジティブスタイル)

何がキラキラだったのか… 
このnoteは私の自己満足用なので、思い出に浸ってもイイのかな?

・色々なバックグラウンドの人と関わりました
ミャンマー人の友達から現在の紛争裏情報を聞いたり、タイの人口の0.01パーセントとなる豪邸に住む大金持ちと仲良くなったり(その豪邸、訪問済み✅、腰が抜けました、貧富の差に関してもまた執筆します)、タイの王族と長い間関係を持つ家系が全員血筋的に占い師の人と知り合ったり、クラスメイト(18歳)の結婚式に招かれたり…
・GPA4.21で卒業し、卒業式では答辞をしました
・模擬国連に参加、議長にも任命され…
・中国語の独学をスタート、HSK2,3,4級合格!
・沢山の学校の賞をいただきました
・教育・貧困問題に興味があるので、一人で往復1日かけてバスでミャンマーとタイの国境にある児童養護施設権所得教育施設に行き、山岳民族/無国籍の子どもたちに演技(8年間半続けてきた演技を得意分野として)のワークショップや授業のサポートをボランティアでしに行きました
・Runway showにモデルとして参加、お客さんから得た資金をチャリティーに(ミス〇〇の方々とも共演、綺麗でした)
・noteで培ってきた(?)ライティングスキルを活かし、学校の新聞編集長をしてました&卒業アルバムは自分一人で作成しました(出版され、本という形になったので本当に嬉しい)
・フォトグラフィーを意外と真面目にスタートし、沢山のクライエントとフォトシュートをしたり、家にスタジオも設置したり…バンコクで活躍するモデルとのコラボも出来たり…

書ききれないほど沢山の経験が出来て、素直に生きていて良かった、諦めなくて良かった、って思えている自分がいて。

勿論この2年、波乱もありました。人とのいざこざや「これで私はいいのかな?」という迷いも沢山ありました。高1の後半は学校にまともに通えていなかったし、人を信じられなくなっていたので、編入当初は毎日学校に通えるわけではありませんでした。

2年ちょっと前、辞めさせられた高校の校長に言われたあの「Burden」という憎い言葉。私は、あの言葉に何度も振り回されそうになりました。自分は要らないんだ、消えたら皆の荷が軽くなるんだ、って。でも、私はリベンジしてやる、「地獄」から生き返ってやる、ここにいる誰よりもキラキラで高校を卒業してやるというマインドで、シンプルに言うと、生き返りました。


この2年、私は沢山の元気と笑顔と愛をもらい、感じました。

涙でいっぱいの年でもありました。

でも、高1の時流した涙ではなく、努力という花に必要だった涙という水でした。



私、オーキッドの人生史は続く。


オーキッド





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