演技論ゼミの発表 唐十郎の特権的肉体と肉体について
令和3年6月25日(金)
『特権的肉体論』を久しぶりに読んでの感想
何年ぶりに読んだだろうという感じです。初めて読んだのが中学生のときなので、その時はまだ色々知らなかったので私はこれを読んでここに出てくる詩人や演劇人、文学者の名前やエピソードを知ったのでした。
今回読んでいて作品と人生のせめぎ合いについて書かれているような箇所が気になりました。中原中也が実生活と作品を同じにしようと律儀に振る舞ったことを批判しながら、いやむしろ唐さん自身にそういうサービス精神みたいな傾向があるからこそそれを批判しているように今からすると感じました。唐氏はその危険性をわかっていながらも自分でそう振る舞ってしまうというところがずっとあったのではないだろうか。
令和 3 年 7 月 9 日(金)
発表
唐十郎氏の『特権的肉体論』を読む、という課題での発表で自分が何を語れるだろうと考え、考えちょっと考えすぎて原稿をあげることが遅れてしまい申し訳ありませんでした。
で今日お話しすることですが、特権的肉体と肉体についてとタイトルをつけました。 特権的肉体というのは俳優の肉体そのもののことではありません。それは、舞台上に現れる 背景を持った役(キャラクター)です。そこのところについては清末浩平氏の『唐十郎論 肉体の設定』によるのですが、とても明晰で面白く自分的には唐作品のみでなく演劇の上演に対して前向きになれる内容だと感じたので気になる方はぜひとも読んでください。
俳優と役の危うい関係について思うところは色々あるので書いてみたいと思いました。そして唐十郎作品に魅せられてしまった場合非常に個人的にならずに語ることが難しいと感じながら、いや、個人的なことがきっと大事なのだと思いながら個人的なことを交えて語ろうとおもいます。
その危険性
いきなり危険性とはどういうことかと思われるかもしれません。そして唐さん自身もエッ セイの中や作品中で再三書いていることですが、それでも実際に役を演じのめり込んでしまうと俳優は役と密着してしまう部分があると感じます。それは“遠征と襲来”の襲来 の力が世間のほうにではなく、肉体をもつ俳優のほうに侵食してしまうようなことです。しかもどちらかというと社会に襲来することよりも容易に起こってしまうと感じます。そして唐氏の作品にはその力がとても強いように感じます。で、それの何が問題なのかということです。そうなってしまうとそこに縛り付けられてしまうというか、いうなればフラッシュバックを起こして過去から離れられなくなってしまうような、襲来のされっぱなしで遠征に出られない状態になってしまうようなことが問題と思うのです。コンプレックスを武器にして戦えたはいいが、コンプレックスに縛られてそこから離れられなくなってしまう。まずそれが必要な時もあるけれどもずっとそこにいてはいけない。そっちに引っ張られる強烈な引力があるけれどもそれに引っ張られっぱなしになってはいけないと思うのです。
思い出話
実は私は数か月、というか1公演だけなのですが唐組の研修生だったことがあります。で、そのころ私は本当にちょっとおかしくなっていて人生が物語であるように感じている状態になっていました。人生を物語に感じてしまうということは自分を物語の中の登場人物だと感じることとほぼ同じようなことと思います。ちょうどその年は2011年で震災の起こった年で経済的に、とか家の状況、とか諸々重なって数か月で続けることが出来なくなってしまったのですが本気の本気で美学にのめり込んで心身がもたなくなってしまったのもありました。
元々唐作品との出会いは小学生 2年生の時に両親がやっていた劇団で『おちょこの傘もつメリーポピンズ』を上演したのがはじめで、紅テントに初めて行ったのは 12 歳のとき、その後ぐらいから特権的肉体論の載っている『腰巻お千』や『少女仮面』『唐版風の又三郎』などを読み、中学の終わりに『風のほこり』、『透明人間』を観て完全にはまり。その後高校に行きながらバイトしたお金をチケット代にして4~5年は公演ごとに2,3回づつ通うような熱心な観客だったので距離感とか何が何だか分からなくなっていたところがあります。と、めちゃくちゃ個人的な私と唐十郎 みたいな話になってしまいました。
で、めちゃくちゃに嵌って熱心に観ていたのですが感覚的に観ていて、あまりしっかりと理解できていたかといわれたらちょっと自信ないところもあります。しかし観客はそれでもいいかもしれません。しかし新たに作る側に立っていくときにそれでは心許ないともおもうのです。
なので清末さんの『唐十郎論 肉体の設定』や、前回ゲストの唐ゼミの中野さんのように唐作品を荒唐無稽で訳の分からないものとして扱わずにしっかりとテキストを読んでいく事はこれからとくに大事で必要なことと感じます。
特権的肉体に取りつかれ、振り払い、取りつかれ、振り払いしながらも、世界から、自らの感覚から目を背けずに進んでいかなくては、気を引き締めて前を向いて行くしかありません。
今回の発表を終わります。