コミュニケーションの基本は自分の感情を「ちゃんと」認知することという話と義理人情がガチで分からんという話
人の振り見て我が振りなおせ
他人に関心が無いと、自分が実は相手に失礼な態度をとっていたことにも気づけないかもしれない。
人見知りとか、他人に期待しなさすぎるとかしていると、感情の感度が悪くなる。
こういう態度を取られた時に、自分は不快なのだと気づけなくなる。
そして、その人を不快にする行動は、他人にも同じように当てはまることが多い。
自分が嫌がる事を相手にするなという教えは、自分が不快だと感じなければ、他人に対して実行出来ない教えなのだ。
私は、自分の世界に閉じこもり、塞ぎ込む事が多い。感情(特に負の感情)を表に出すのは悪いというイメージがあるのだ。
いやいや普通だろうと思うかもしれないが、多分私の場合、ちょっと異常なのだ。
正常なら、誰かがその負の感情に共感したり消化してくれるから、負の感情を認知できる。その相手は、母親が多いのではないだろうか。
私の母親はヒステリックで、精神が不安定な事が多く、かつ厳しかった為、私は負の感情を誰かに言うとか、相談することがしにくかった。自分の中でモヤモヤしながら抱えることしか出来なかった。
そのモヤモヤは、人間の感情の感度を下げる。鈍くなる。
そうしていると、他人が何をしてるとか、他人の行動そのものを見なくなる。他人の行動で、自分の行動を省みるチャンスを無くしてしまう。気がついたら、自分が他人に対して失礼な態度をとるようになっており、周りから人が居なくなって、孤立する。
自分が何を不快に感じるか。他人は、何に不快と感じているか。これをよく観察すること。これがコミュニケーションの基本なのだ。
親元を離れてから、まぁ苦労した。常識はあるけど、なんでそんなことを不快に思うのか?という共感性が欠けがちだった。
今でもわからない事は多々あるが、これをしたら他人は嫌がるんだなっていうのはだんだん分かってきた。
それでも、失礼な態度、気配りを怠るなどをしてしまうこともある。これは上手く生きていく為に、実践で学ぼう。
難点は、嫌がるそぶりすら見せてくれない人が多いから、もううーん。しょうが無いのかなぁ。
想像力の問題か、義理人情の問題か。
何をしてもらったら、自分は嬉しいのか。
頑張ったことに対してお礼をもらったとき?自分が嫌だなぁって思っていることを誰かが肩代わりしてくれたとき?飢えている時に、満たしてくれたとき?
ありがたいという感情が、いつ湧いて出てくるか。
書き起こしているとき、私は全然これをしてもらった時嬉しいなぁと思うことがなんと全然出てこない。
やってもらうことが当たり前と思っているから?あっても無くても変わらないから?
有り難いという感情が本当に死んでいる様に思える。
好奇心は旺盛だと思う。興味があることには、ぎゅーっと集中する癖がある。
無意識にこう行動すれば、周りが助けてくれて、WINWINの関係を築ける。なんか良い感じに行動できるとイメージしながら生きている感覚。だから、ここぞというときに不義理を働いてしまう。本心では、義理人情で生きていないから。
私の人生の課題の一つに、義理人情とは何か?を見つけないとなぁって思う。
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