伊豆大島ミステリー① 波布比咩(はふひめ)の正体は弟橘姫か?
今年のGWはジェット船で大島へ。家族全員初めての大島渡航。天気にも恵まれ絶好調。
そして一風変わった?旅の収穫話をここに記録しておきます。
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さて、皆さんは昭和のヒット曲、都はるみさんが歌った『アンコ椿は恋の花』をご存知でしょうか?
♪三日おくれの 便りをのせて
船が〜 行く行く
この波浮港を見下ろす形で、波浮神社こと波布比咩命神社が鎮座します。
私達はこちらを参拝しない訳にはいきません。
何故ならば…
かつて伊豆・下田でイコナヒメ様とのご縁を頂いてから、そろそろ2年。
イコナヒメ様を詳しく知るためにも、関連の神社は全て参拝したいものです。
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今回、私達が波布比咩命神社を訪れた際、偶然にも宮司さんにお会いしお話を伺うことが出来ました。
宮司の平塚さんは少し前まで近くの高校の教諭だったそう。
気さくにお声掛け頂いたので、素朴な質問をしてみました。
十和田:「あの〜、ご神紋の三つ巴が、手水場と屋根にあるものとで、向きが逆のようですが…」
平塚氏:「そうなんですよ。理由は分かりません。建設した人が間違えたのでしょうか」
そ、そうなんですか〜?(^^;)あまり深い意味はないようです。
十和田:「この後、波布比咩様のご次男が祀られている波治加麻神社にも参りますが、
ネットで写真を拝見したところ、波治加麻神社の鳥居は、横須賀の走水神社の鳥居と色が似ているように思いました。
両社には何か繋がりがあるのでしょうか?」
平塚氏:「鳥居の素材に寄るものでしょうか?両社に関係はないようです。
ただ、こちらの波布比咩命神社と走水神社とでは、深い関係がありそうですよ。
何故ならば、この波布比咩命神社は元々、弟橘姫のお墓だったかもしれないのです」
十和田:「えええええーーー!?!?!?」
以下、宮司・平塚氏のお話の要約です。
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【考証1】弟橘姫、最期の儀式
走水にて弟橘姫が最期を迎えたときの様子が『古事記』に書かれている。
弟橘姫が入水の際、海面上に、
を幾重にも敷き、儀式を行なったことが伺える。
弟橘姫:「このままでは舟が沈んでしまう。ならば私が生贄になりましょう。タケル様、皆様、さようなら」→ドボン!
ではないのである。
平塚氏:「恐らく白い絹織りの布に包まれる形で、こちらまで流れ着いたのでしょう」
なるほど、「はふ」と聞くと「波布」よりも「白布」の字を連想するのは私だけではないだろう。
(絹織物や養蚕の技術も既に日本に伝搬していたらしい)
晴海埠頭(東京)〜大島間のジェット船航路と殆ど大差ない。
また、
とした記述より、
平塚氏:「夫・ヤマトタケルの身代わりになった、つまり弟橘姫は男装して入水された可能性が高いです。
その場合、ご遺体にはベルトが付いていたのでは?と推測されます。
もしベルトのバックルが見つかれば、たいへんな発見になります」
バックル…!たとえ文字や装飾が刻まれていなくても、成分調査次第では年代や作られた場所の特定が可能かもしれない。
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【考証2】人の営みとかけ離れて建立さた神社
波浮港はもともと838年の噴火でできた火山湖であり、近くに祀られていた波布比咩の名をそのまま頂くには畏れ多いと1文字変えて「波浮の池」と呼ばれていた。
1800年、人力による工事を経て波浮港となる。
工事の始めに波布比咩命神社が整備され完遂祈願が行われるが、明治の時代までは対岸から船で参拝するルートしかなかった。
大正時代の道路整備により、陸路での参拝がようやく可能に。
昭和初期には神社の対岸に店舗が軒を連ね、夜ごと賑わう波浮銀座に。その土地の価格は国内トップクラスにまで跳ね上がる。
令和の現在は静かな港の佇まい…。
つまり古のこの地は現在の景色とは全くかけ離れており、最初に神が祀られた時代には、港はおろか周辺に人が暮らした痕跡さえなかったのである。
人家から離れ何の用もない場所に神を祀る意味はない。もしも高貴な人物でも漂着しない限りは…。
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【考証3】イコナヒメよりも古い時代の女性
波布比咩命神社は式内社である。
式内社には毎年、国司が奉幣をするが、参拝が困難な伊豆諸島の式内社は、下田に分社を置いた。
『延喜式』記載の伊豆国 のうち賀茂郡の式内社については、
パンフレットでは36座とあるが…
ネットで検索した『延喜式』では46座。
(なぜパンフレットの記載が10座少ないのか?不明)
『延喜式』によると、賀茂郡46座のうち波布比賣命神社が2番目に古いことが分かる。
また、
と「ヒメ」の漢字表記が異なっており、
「比賣」
とした方が古い時代の表記であることが分かっている。
イコナヒメ様よりも古い時代の方なんですね(^^);
下田の伊古奈比咩命神社は、「伊豆半島の中では最古」と言うことに??
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【考証4】台座のある朱い本殿
平塚氏:「実はこちらの神社、ご本殿が二重になっていて、中の本殿の下には台座があるのです」
平塚氏のご厚意により、本殿の中を拝見。
そこには朱色の社が…。しかも宮大工によるかなり手の込んだ造作のように見える。
(恐れ多くカメラは向けられなかったので、パンフレットの写真を掲載)
平塚氏:「一般的には木の柱の上に建てられるものですが、こちらは石の台座の上に建てられているのですよ」
一方向からの拝見だったが、朱色の立派な社の下に四角く切り出された石がぐるりと隙間なく組まれている模様。
平塚氏:「この石の台座の中に、何か秘密が隠されているように思えるのです」
そうです、令和の私達が注目すべきは、目に見える台座の上ではなく、台座の中。
波布比咩の秘密は朱色の社の下に、台座に囲まれて約1700年眠り続けているのかもしれない。
箸墓古墳(奈良・桜井市)のような非破壊検査が行われば、大きな収穫が得られるのか…あるいは秘密は秘密のままなのか…。
(箸墓のミューオン調査結果はどうなったのか?コ〇ナ騒ぎでウヤムヤになったのか?単に私が知らないだけなのか?)
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このほか、平塚氏から教えて頂いた【波布比咩=弟橘姫】なるエピソードを2つご紹介。
【エピソード1】夢に立つ弟橘姫
平塚氏が闘病中の知人に波布比咩命神社のお守りを差し上げたところ、その知人の方の夢に女性が現れ、「私は弟橘姫だ」と告げられたと言う。
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【エピソード2】石碑を覆う木枝
神社境内には「波布比咩命神社のあらまし」が記された石碑が置かれている。そこにはご祭神の波布比咩が「三島の神(事代主命)の后」であることが刻まれている。
(鎌倉末期に書かれた『三宅記』とその解釈によるもの)
現在は周囲の木枝が取り払われ、波浮港を見通すすっきりとした景観になっているが、かつては鬱蒼と枝が生い茂り石碑を覆い隠していたのだそう。
「私は事代主さまの后ではございませんよ」
波布比咩の意志が働いたものかもしれないと平塚氏は語る。
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【考証5】息子ではない?2つの神社
十和田:「では『三宅記』に書かれた波布比咩さまのエピソードはウソなのですね?」
平塚氏:「あれは創作です」
十和田:「となると大宮神社のご祭神・阿治古命が波布比咩さまの長男で…
羽治加麻神社のご祭神・羽路命が二男、という親子関係も…」
平塚氏:「はい、繋がりはありません。あの二社は、危険区域の目印のために建てられたものと推測します」
大島の中心・三原山。太古の昔から噴煙・噴火を繰り返す活火山。
この山麓で生活するために人々は有毒ガスを吸わぬよう警戒する必要があったのだ。
三原山の火口周辺、そしてそこから東に向かって流出する火山ガス。
平塚氏の説が正解ならば、波布比咩命神社の建立理由に反し、大宮神社と波治加麻神社の二社は、人の営みに密着して建立された神社ということになるだろう。
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【あとがき】白鳥伝説と羽衣伝説
人生の最期、
白鳥になったヤマトタケルと
白い布に包まれた弟橘姫
昔々、
大陸から伝えられた『白鳥伝説』が
日本では『羽衣伝説』になったと言う
日本で最初の羽衣を纏った天女は
天に舞ったのではなく
海に散ったのだ
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【おまけ】巨大神とガイア理論
TOP画像は大島観光名所の1つ、地層大切断面。
過去約2万年間に繰り返された大噴火、約100回分の噴出によるもの。
20,000(年)÷100(回)=200(年)
平均すると200年に1度は大噴火ということに。
(個人的にはもっと多そうな気がします)
三嶋神の“島焼き”による伊豆諸島の創造…
地理的創造を巨大な神の御技とするのは世界共通のエピソードですね。
『三宅記』は言うなれば鎌倉時代版の『ガイア理論』なのでしょう。
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