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Robert Downey Jr /ブロードウェイ・デビュー(仮訳)

「オッペンハイマー」でアカデミー賞を受賞したでロバート・ダウニー・JRが
 AI新時代の小説家を演じてブロードウェイ・デビュー
ーピュリツァー賞受賞作家アヤド・アクタールの新作「マクニール」ー

(2024.09.30_NYT_Theater Review_仮訳)
ビビアン・ビューモント劇場は、長年にわたってさまざまな側面において変貌を遂げ、メイン州の回転木馬、タイの王宮、南太平洋の軍事基地など、時に異国風とも呼べるシーンを創出してきた。

しかしながら、芸術とAIに関する思考実験であるアヤド・アクタールの新作「マクニール」のセッティングほど、異国風という意味において、どこにも存在しない場所と感じさせるものは、いだかつてなかった。

柔らかく丸みをつけられた周縁、クールな色合い、うつろいゆくスクリーン、こざっぱりとして広大なステージは、まるでアップル・ストアを再現したようだ。

それは、予言的なチャットボット・巨大な文字モデル・生成される知性というコンピューターを通じた交流が、それに先立つアナログ的な交流と対置される「極めて近い未来」を背景とするこの物語に、この上なくフィットしている。

このようなテクノロジーは、どのような創造の機会を芸術家にもたらすのだろうか?どのような人間同士が出あう機会を不必要なものとするのだろうか?

「ペンは剣よりも強し」というが、ペンに対置されるのは、もはや「剣」ではなく「ピクセル」なのだ。

ああ、そして残念なことに、勝つのは「ピクセル」なのだと私は思う。

なぜならば、この月曜日におしゃれなリンカーン・センターで幕が開いた、バートレット・シェール監督による演劇は、ただ挑発としてその役割を果たしているからだ。

時宜にかなったものではあるが、中身を詰め込みすぎていて、演劇としての機能を発揮する場面はほとんどない。テクノロジーについての昨今の不安が繰り返され、登場人物は人間としての存在感が殆どなく、殆ど全て思想という抽象的概念に置き換えられているからだ。

手練れの俳優であるロバート・ダウニー・ジュニアによって演じられるジェイコブ・マクニールは、人格を持たないデータの塊のようだ。

ソール・ベローやフィリップ・ロスのように雄々しく強い意志を持って状況を切り開く、オールド・スクールで正真正銘の小説家とは異なり、マクニールは作者であるアクタールが描写している様に、人を惹きつける、人間らしい人間では全くない。

むしろ彼は、ぐちぐちと不平を述べ、受け身であり、空っぽの存在だ。(「最も良く解釈して、私は詩人なんだ」と彼は言う。)

彼が何かに反応するのでなく、自ら行動を起こすのは、なかなか面白いオープニングのシーンくらい。

かかりつけ医(ルーシー・アン・ミルズが演じる)が彼に悪い知らせを告げようとする際に、自分がノーベル賞を受賞する可能性について、ChatGPTに教えてもらおうとして失敗するくだり。

「この答えがお役に立てば嬉しいのですが」とボットが答える。
「この役立たずめ、魂の欠けた、シリコン製の大馬鹿野郎」と彼は返す。

我々が理解しておかなければいけないことは、マクニールは、極度に人を不快にする性質を(この場合は虚栄心でもあるが)、愛すべき特異性として羽根のついた帽子のように、身に纏っていることである。

彼は無自覚なまま、平等という観念を弄び、道徳上の意味合いについて言及する。自分自身が誠実なアンチWOKEであると激しく主張する。

ニューヨークタイムズの黒人女性記者とのインタビューの際にmあなたが多様性配慮のポリシーの下に採用されたのかと尋ねる。そして、彼女がその話題に乗らないと、何をやってはいけないかをよく知っている人間として、「僕は何かいけないことを言ったかな?」ととぼける。

彼が言おうとすること以上に厄介なのは、自分自身がいかに偉大であるかについての伝説を強化し、拡大しようとすることだ。

物語の大半は、シェークスピア、イプセン、フロベール、カフカに色濃く影響された彼の過去の作品の一部をAIにインプットして、新しい小説の導入部をAIに吐き出させようとする、捻じ曲がった展開の中で繰り広げられる。

彼のエージェント(アンドレア・マーチン)、仲違いした息子(ラフィ・ガヴロン)、新聞記者(ブリタニー・ベリツィアーレ)が彼の話について行こうとするとき、プロットとキャラクターがバラバラになる。

しかしながら、AIビジネスというプロットは、作家側から見れば、ただの目眩し情報に過ぎない。GPTが実用化する前から、マクニールはオールドスクールなりの様々な剽窃を繰り返していたのである。

元恋人のトラウマをフィクションに作り替え、妻が亡くなった後にはその原稿を盗用した。AIは、彼がやってきた剽窃を、よりクリーンな形で、より効果的に行うための手段に過ぎなかったのである。

ダウニーのブロードウェイ・デビューは彼の名声をさらに高めることになるだろう。3月にアカデミー賞を獲得した「オッペンハイマー」を含む多くの出演作品の中で、彼が陰惨な役を演じることを厭わなかったことを勘案すれば、驚くべきことでもないが。

しかしながら、(この役を演じる上で)ダウニーに多くの選択肢があったわけではない。この作品の常軌を逸したプロットを支えるためには、ダウニーは十分に極悪非道であることが要求された。

そうでなければ、重い肝臓障害の診断を受けているにもかかわらず、バーボンをボトルで一気飲みするような人間ですら説得力を持たせられないような役柄を演じることはできない。

そうであるとしても、ダウニーは、マクニールという人間をやわな人間にすることなくマクニールを正当化するという、不可能な役柄に含まれる不可能な仕事をやり切ったと感じることだろう。

しかしながら、作中で交わされる議論は不完全ながら後付けで説明可能であるとしても、全体としてはやはり無理があると言わざるを得ない。

エージェント役のマーチンだけが、心配を抱えつつもプロとしてマクニールと支え合うという人物像をイキイキと描き出している。もちろん、実際にはクライエント出ある作家の作品に立ち入って個人的に編集する様なエージェントを観ることは殆どないが。

付け加えれば、マイケル・イャーゴンとジェイク・バートンによるセットと、同じくバートンによるプロジェクションは、シェールによる印象的な編集とともに、この作品の最大の成功要因となっている。

特にマクニールが、酔っ払い、心が壊れて、あらゆることに投げやりになって文学的表現を吐き出す際の、角型と円形が入り混じったパネル、ポップアップ、流れるようなデジタル・イメージは素晴らしい。

全ての型式の書き物が、多かれ少なかれ剽窃であると考えている様な劇作としては、素晴らしい視覚的イメージである。シェークスピアとて「リア王」のプロットの多くを先人に負っている。だから、「リア王」からプロットを借用して何が悪いのか、その他の物語から借用して何が悪いのか、とマクニールは言う。

AIがやっていることは、全ての作家たちがやっていることと同じ。先行する自然や作品を消化して、限られた素材を拡張して物語を作っているだけだとも言う。

それは作家にとってはとても魅惑的な逆張り論法であり、ピュリツァー賞を受賞した”Disgraced”を含む過去の作品において、アクタールが主張してきたことでもある。

その正当性については、「ボヴァリー夫人」に匹敵するようなレベルの小説がAIによって書かれた時、あるいは「リア王」ほど豊かな劇作がSiriによってまとめられたときに、改めて検討したい。

当面は個々の書かれたことを参考とされたい。


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