「是々非々」を多用する人が信用できないワケ
最近、「是々非々」という言葉をよく耳にするようになった。
「是々非々で対応する」だとか、「是々非々で連携する」だとか、政治や仕事の場面で多く耳にする。
これほど「是々非々」なる言葉が多用される時代はなかったのではないか?
少なくともぼくの15年に渡るリーマン生活では、ここ近年に出てきた傾向であると感じている。
使用率急上昇の「是々非々」という言葉について、ぼくはこの言葉を聞くたびに違和感が募るのだ。
なぜか?
そもそもの是々非々の意味は、「立場にとらわれず良いことは良い、悪いことは悪いと判断する」ことである(weblio辞書より)。
言葉の意味それ自体には何の違和感もない。むしろ当然じゃないかとも思う。
ぼくが違和感を持つのは、「是々非々」を使用する人の態度なのだ。しかも多用する人の態度なのだ。
マウントとるのに必死な人
どういう態度かと言えば、それは「マウントとるのに必死」という態度である。
例えば、「是々非々で対応する」という発言の前提には、「俺の提案や俺がいいと思っている提案になんでも反対する奴がいる」という状態が措定されている。
しかしちょっと考えてみれば、100%すべてのことに反対して社会生活を生きていくということは不可能なわけで、「なんでも反対する奴」というのは実際には存在しないということがわかる。
実際に存在しない「なんでも反対する奴」を脳内メーカーで作り出すことで、「俺はそういう奴とは違う」という一段高いポジショニングを形成することができる。
極めてレベルの低いポジショニング形成だとは思う。しかしそのことが、「俺は違うぜ」というマウントをとることに最も効率的に成功する方法であること、現代商法と親和性が高く、一定の顧客のニーズにマッチすることには同意する。
この態度に違和感があるというか、正直めっちゃカッコ悪いと感じてしまうのだ。
パワハラ気質な人
しかも是々非々多用論者には、すでに一定の権力を持っている人、権力争いにしがみつこうというタイプの人が多いことにも辟易してしまう。
思想家の内田樹は、ニーチェの奴隷の概念を次のように紹介している。
満たされない思いへの諦めを、自らの意思に基づく主体的判断へと反転させ、権力者と同じような見方をするとき、本人は「俺は他人とは違う判断が行えている」と考えている。
だが周囲の人は、その判断に不自由さと権力者の補完性を見出すのであり、権力者と同じように判断できるという錯覚が拡大自我によるものだと認識し、鎖につながれた奴隷の姿を思い浮かべる。
周囲の人に見えない場面では権威に媚びへつらい、その種の処世術で出世しているにもかかわらず、周囲の目を意識する場面では、「俺は違うぜ、是々非々で議論だ!」と頼んでもいないのにドヤ顔を向けてくる。
ドヤ顔を見るに忍びないのと、「また始まったな」という笑いを隠すために目頭を押さえるふりをして議論を聞いていると、大した中身はなかったり、自分より権力のある人の太鼓持ちになっていたりしていることが多いから唖然とする。
こんな議論をまともに聞く人がいるのだろうかと訝しげに思うが、一定数そうした人がいることにさらに唖然とする。
自らは満たされない思いを諦めたにもかかわらず、まだ諦めていない人がいることへの苛立ちが、是々非々論者への支持と他者への攻撃性へと転化している。こう思えて仕方がない。
「俺は無理な理想は捨てたぜ。現実主義的立場から是々非々で議論できるぜ。お前はどうだ!?まだ俺のレベルに到達してないんか?どうなってるん?」
こんな感じで捲し立てられたら、「俺の正しさ」の押し売りでしかないのだか、捲し立てられたら方は唖然とするどころか、強制的に自省を促されてしまう。
こうして多くの人を唖然とさせないためのパワーワードとして「是々非々」が多用されるのだ。今のところ「是々非々」はやってる感を醸し出せる最強ワードではないかと思う。
立場に囚われず良いことは良い、悪いことは悪いと判断すると見せかけておいて、実際は立場に固執して良いことは良い、悪いことは悪いと強権的に判断している。そのことを察知させないために、「是々非々」なる言葉を多用する。
ぼくには、「是々非々」がパワハラワードに思えてきてしょうがない。
「この辺りのネット工事を担当することになりまして、ご挨拶に」と、突然夜にやってくる訪問販売員と同じくらい信用できないのだ。
もちろん言葉そのものに罪はない。言葉を支える思想と行動こそが問われなければならない。
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