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シロクロ
田部 智子
⬜◼
ほわっと、おっぱいのにおいがした。
そんな気がしただけかも。
目をとじたまま、かたっぽずつ前足を出してみる。
右、左、右。左……。
でも、足にはなんにもさわらない。
ついでにくるりと顔をなでてみた。やっぱりひとりぼっちだ。
と……。
バンバン! バン!!
上から大きな音がふってきて、まわりがびりっとふるえた。
びっくりして、足もとの小さなすきまから外にとびだす。
地面の小石をけって近くの草むらにもぐりこんだとたん、かんだかい人間の声がした。
「ママ! 車から子ネコが出てきた!」
「えーっ⁈ ネコバンバンしてよかった! このままエンジンかけて車動かしてたら……。いやぁ、あとは考えたくない!」
「つかまえてくる! ネコ、かいたい!」
「だめよ、うちのマンション、ペット不可なんだから。ん、もう……。駐車場の管理人さんに言っとかなきゃ。ノラネコどうにかしてって」
しばらくわいわいとさわがしい声がしたあと、バタンと車のドアがしまった。ブウンと音がして、ジャリジャリと石の上をタイヤが走っていく。
草むらでじっと待った。どきどきしている心ぞうがおとなしくなるのを……。
「そこのちっちゃいの」
いきなり声をかけられて、またどきっとする。
見ると、横の塀のわれめから、白と黒のぶちネコが首を出していた。
「車の中でねてたのか?」
そう言うとシロクロネコは、塀をぬけてきた。
わたしはこくんとうなずいた。まだひとばんだけだけど。
シロクロは、ゆっくり歩いてくる。あんまり毛なみのよくないネコだ。
鼻のまわりの黒いもようのせいで、ちょっと笑っちゃう、おかしな顔に見えた。
シロクロは近くまでくると、おしりをズンと草の上におろす。
「わるいことは言わないから、車はやめとけ。のったまま、かえってこないヤツがいたから」
わたしがもう一度うなずくと、シロクロは目をほそめた。
「ミケネコだな。女の子か」
「女の子?」
「ミケに、男はほとんどいないからな」
そうなんだ。わたしは女の子だったのか。ついでに、白と黒と茶色のネコをミケネコっていうのも、はじめて知った。
「親はどうした」
「……わかんない……」
シロクロは立ち上がって空を見上げ、クワーンとひとつあくびをすると、じゃあなと、また塀の方へ歩いていく。
そのおしりを見ていたら、むねがキュンといたくなった。
やっと見つけたいごこちのいい場所は、ジャリジャリと走っていっちゃった。
しかも、あそこでねちゃだめだって。
じゃ、今夜はどこでねればいい?
シロクロのみじかいしっぽが、塀のわれめに消えていく。
わたしは思わずさけんだ。
「ついていってもいい?」
しっぽが見えなくなったと思ったら、かわりにひょいと、あのおかしな顔がわれめからのぞいた。
「基本、ネコはひとりでいるもんだけどな。おまえちっちゃいから、エサのとりかただけはおしえてやるよ」
わたしはピョンとはね、シロクロのうしろにくっついて塀をぬけた。
⬜◼
「おれもさ、こんなおせっかい、やめときゃいいのによ……」
さもいやそうにそう言いながら、シロクロはほそい道をぬけた。まわりには、ちっちゃな家がごちゃごちゃ建っている。そんな家のひとつの前で立ち止まった。
ドアの前の階段下に、小さな白いお皿があって、茶色のつぶがこんもりのっていた。
シロクロがふりむいた。
「運がいいな、ミケ。おまえ、おっぱいそつぎょうしてるか?」
ほんとは、まだまだおっぱいを飲みたかった。でも、母さんはおとといから帰ってこない。車の下で待ってなさいって言ったきり。
……きっともう、おっぱいは飲めない。
ためらいながら、わたしは首をたてにふった。
「よぉし。こいつはキャットフードって言うんだ。食ったことあるか?」
こんどは首を横にふる。
「そうか。こいつは、ときどき人間がおいてくれるんだ」
シロクロは頭をツイと下げて、お皿の上の茶色のつぶをカリカリと食べてみせた。
「ほら、食ってみな」
そろりとお皿にちかづいて、鼻をよせた。フンフンとにおいをかぐ。初めてのにおい。おっぱいとぜんぜんちがう。
ちょっとなめてみた。これ、おいしいの?
思い切って、ひとつぶ口に入れる。
カリッ……。
うまく食べられなくて、かけらがポロポロッと口から落ちた。
とたんにおなかがへってきた。がまんできない。
気がついたらお皿に鼻をつっこんで、カリカリカリ……と食べていた。「な、うまいだろ?」
シロクロが首をかしげて言ったときだ。
「ギャウ!」
近くでドラ声がしたかと思ったら、いきなり頭をたたかれた。
わたしはとびあがって、階段のうしろにかけこんだ。
たたかれた頭を前足でかかえていると、シロクロもとびこんできた。
おそるおそるふたりで外をのぞく。
大きな茶色のトラネコが、こっちをにらみながらキャットフードを食べている。ガリガリと、ことさら大きな音をたてながら。
「またかよー」
シロクロが口をゆがめた。
「あいつは、ほかでもキャットフードもらってるくせに、いつもおれのをよこどりする」
耳がぺたんとたおれているところをみると、シロクロは茶トラがこわいらしい。
キャットフードおいしかったけど、もう食べられないんだな。
わたしがもぞもぞすわりこむと、シロクロもあきらめたようにこしをおろした。
お皿はすぐにからっぽ。茶トラは勝ちほこったように、ピンクの舌で口のまわりをなめている。
すると、その茶トラの上を黒い影がよぎった。
「しっ、しっしっ!」
人間だ! 人間は足でけるようにして茶トラをおいはらう。茶トラはものすごいいきおいで、家と家のすきまに飛びこんでいった。
人間はかがんで、きたないものをさわるようにお皿をつまみ上げた。
「まったく! 自治会でエサやり禁止って決まったのに。近所めいわくなんだよ!」
こわい顔であたりを見まわしている。
シロクロはじりじりとあとずさりをした。わたしも階段のうらへと、体をおしこんだ。
「ミケ、人間には二種類ある」
人間から目をはなさずに、シロクロがささやいた。
「キャットフードをおいてくれるヤツと、キャットフードを取り上げるヤツだ」
わたしはコクコクとうなずく。いい人間と、わるい人間なんだな。
人間は、ぶつぶつと文句を言いながらお皿ごと去っていった。
シロクロはそろりそろりと、階段のうらを出た。
「……ここはもうだめかもな。次、行くか」
わたしはすわったまま小さい声で「ニー」とないた。シロクロがふりかえって目を細める。
「頭、いたいのか? まったく茶トラのやつ、かげんしねーからな」
わたしは首をふった。
「おなか……すいた」
「んじゃ、なおさら次へ行かねえと。なにもしなけりゃ、いつまでたってもはらはすいたまんまなんだよ。おれは行くからな」
プイっと顔をそむけて、シロクロはすたすたと歩いていく。
わたしはしばらくうしろすがたを見ていたけれど、しかたなくあとを追った。
シロクロは、少し広い道に出た。
「車が来るから、気をつけろ」
わたしに目であいずしながら、道をわたりはじめるシロクロ。
あっ!
わたしはピョンととんで、目の前のみじかいしっぽにかみついた。
「ギャオ!」
シロクロが体をひねり、わたしをしっぽからはらいおとしたと同時に、目の前を一台の車が走り去っていった。すれすれのところだった。
ブウン……。車の音が遠ざかる。
シロクロとわたしは、道にはいつくばったまましばらく動けなかった。
ゆっくり起き上がったシロクロは、ぶるっと体をふるわせる。
「わ、わかったな? 今みたいなことがあるから、気をつけるんだぞ」
わたしはだまってうなずいた。
シロクロはフンと言って、アーチのかたちの伸びをする。
母さんは「道をわたるときはあっちもこっちも見なくちゃいけない」とおしえてくれた。
いま、シロクロはあっちしか見てなかった。車はこっちから曲がってきたのに。
ま、ふたりいるんだから、どっちかが気づけばいいか。
⬜◼
道をわたって少し歩くと、広い場所に出た。
「ミケ、公園だ。きょうはだれもいないな」
コウエンか。シロクロはさっさとはしっこへと歩いていく。
草むらにもぐりこむと、そのむこうに何かがおいてあった。
「あれま、ネコカンはからっぽだ」
シロクロが、ネコカンというものに鼻をつっこんでため息をつく。
それから、フンフンと鼻をならして空気のにおいをかいだ。
「あ、来る……」
がさっと音がして、草がかきわけられた。
シロクロとわたしは、さっと葉っぱのかげにかくれる。
草の中に手をつっこんできたのは人間だ。ひざをつき、かがみこんで草むらをのぞいている。さっきとはちがう、ちょっと小さい人間だった。
シロクロはニャッと笑った。
「待ってろ!」
シロクロは人間の目の前へ出ていって、ミャーと高い声でないた。
「あら、白黒のブチ。またおまえなの? ネコなで声出しちゃって。あんたにはこのまえあげたよね。きょうはなしだよ」
人間は空っぽのネコカンをひろいあげると、すぐ消えていった。
わたしは草のかげからにらんでやった。これはわるい人間なんだ。
シロクロはさっともどってきて、早口でわたしにささやく。
「ちぇっ、失敗だ。おまえ、あの人間を追いかけてニャーって言ってこい」
わたしはびっくりして目を真ん丸にした。人間を追いかける?
「いいぞ、その顔。なるべくかわいい声を出せ。でも、捕まるんじゃないぞ。ここへもどってくるんだ。急げ!」
びくびくしながら草むらから広場に出ると、わたしはおそるおそる人間を追いかけた。
「ニャー……」
人間は気がつかない。
「ニャー、ニャー」
ゆうきを出して、もう少し大きな声でないてみた。
すると人間はくるりとうしろをふりかえり、
「あらー!」
とかんだかい声でさけんだんだ。
わたしはびくっとして、しりもちをつく。
「きゃー、かわいい! ミケの赤ちゃん! ほら、おいで……」
人間が手を伸ばしてくる。
捕まっちゃいけない! わたしはあわててとび起き、必死で走った。
もといた草むらまで走ると、シロクロがさっと顔を出して言った。
「そこで人間を待て! きっとネコカンを出してくれる。おれはかくれてるから」
言われたとおりそこにすわって待っていると、目の前に人間がかがみこんできた。
「よしよし、いい子ね。おとなしくしなさい」
手が出てきた。
捕まっちゃいけない! わたしはシャーッとさけんで前足でパンチする。
人間はさっと手をひっこめ、やさしく言った。
「わかった、わかった、捕まえないから安心しなさい。おなかがすいているんでしょ?」
カパッと音がして、わたしの前に新しいネコカンがさしだされた。
頭がくらくらするほど、いいにおい。あれ? この人、いい人間なの?「待て」
かくれているシロクロが、うしろからささやいた。
「食うなよ。ちょっとがまんするんだ」
うう……、がまんできるかな。がまんできそうもない……。グルグルとのどがなる。
わたしが必死でネコカンを見つめていると、人間が笑った。
「うふふ。わたしがいると食べられないのね。ようし、きょうは帰るから、あしたもまたおいで。ネコカン持ってきてあげるから」
人間は小さく手をふると、ふっといなくなった。
「ググ……」
歯をくいしばっていると、うしろからシロクロが飛びだしてきて、ネコカンの中身に食いつく。
「う、うめー!」
シロクロがさけんだすきに、わたしもネコカンに鼻をつっこんだ。
おいしい!
ごっくんとのみこんだものが、そのまま体じゅうをあたため、力になっていく。
じわっと目がぬれた。
「ほら、おれにもよこせって……」
横からシロクロがネコカンをうばう。
わたしもえんりょなく取りかえす。
取り合いながらネコカンを食べているうちに、急にねむくなってきた。
気がつくと、あたりは暗くなっていた。ここ、どこかな?
きょろきょろ見まわしてひょいと下に目をやると、シロクロがねている。
わたしはのっていたものからとびおりると、シロクロのそばによって、またころんとねころんだ。
「フニャ?」
シロクロがねぼけ声を上げる。
「おまえ、なにやってんだ。せっかく発泡スチロールの上にのせてやったのに。あったかかっただろ? このものおきの、とくとうせきなんだぞ」
いやだ、そばがいい。
わたしはすりすりとシロクロのせなかに頭をこすりつけた。
グルグルとのどをならしているうちに、またねむっちゃったみたい……。
⬜◼
そんなぐあいに、何日かわたしはシロクロといっしょにくらした。
シロクロは、エサの取り方をあちこちで教えてくれた。
人間は二種類。
キャットフードやネコカンをおいてくれるヤツと、取り上げるヤツ。
でも、こっちの出方によっては、おんなじ人間でもちがう種類になることがある。
わたしはたいてい、いい人間にであった。
でもそれは、「ちっちゃいときだけのとくべつな幸運」なんだって。
あとは、なかまとのつきあい方も教わった。
たいていのネコとは、目だけあわせてあとは知らんぷり。
シロクロは、茶トラをとくべつ苦手にしてる。
なるべく顔をあわさずにすむよう、茶トラの行きそうなところはさけてとおった。
反対に、黒と茶色がまらだにまじったサビネコのことは、大すきみたいだ。
ちょっと太ってて、みじかいしっぽの先がコブみたいにまるまってる。
どこがすきなのってきくと、シロクロはうーんって考えこむ。
「わからねーけどな、たぶんそれが愛ってことよ」
シロクロはいつもサビのそばに行きたがった。近づくと「シャーッ!」っておこられるんだけど。
「いつか、あいつにおれの子を産んでもらうんだ。おれには愛があるからな」
シロクロは空の雲を見上げてきっぱりと言うんだ。
そのわりに、いつもいつも「シャーッ!」っておこられて、すごすご引き下がって、なんども前足で顔をこすってはグチを言うはめになる。
「愛はむなしいものなんだ……」
サビにであったときは、わたしはじゃましないようにそっとかげにひっこんでいる。
シロクロがきらわれているのは、わたしのせいじゃないみたいだけど。
わたしたちは何度か、公園の草むらにネコカンをもらいにいった。白黒が言う。
「ネコカンをくれる人間はきちょうだ」
じつはあの人間、わたしとなかよくなりたいらしい。
「かわいいミケちゃん。いっぱいお食べ」
会うたびにそう言うけど、手を出したときはパンチしてやる。
人間がいなくなってからじゃないと、ネコカンは食べない。
食べてるまにつかまっちゃうかもしれないし、シロクロとわけっこできないから。
人間は首をかしげて口をとがらす。
「ミケ、なかなか気むずかしいね……。なんか方法をかんがえなくちゃ」
シロクロはかげでケッとのどを鳴らした。
「ふん! 生きぬくためのネコカン争奪戦なんだ。そっちの手にゃ乗るもんか!」
⬜◼
ある日のこと。
いつもの公園に行くと、あの人間はいなかった。
草むらに入ってみると、見たことのない大きな四角いカゴがおいてあって、その中にネコカンンがふたつも入っている。
シロクロは目をかがやかせた。
「おっ! あいつ、きょうは来られないからネコカンだけおいってったのか? やったぞミケ。はらいっぱい食えるぞ!」
シロクロはさっそく、あいている口からカゴに入りこむ。
わたしはためらった。だって、はじめてのものはいつも少しこわい。
シロクロはおかまいなしで、カゴのすみにおいてあるネコカンに鼻をつっこんだ。
ガシャン!!
カゴの口が、いきおいよくとじた!
わたしはおどろいてとびはね、あわてて草のかげにかくれようとした。
でも。
「シロクロ!!」
わたしはおそろしさをこらえて、シロクロにかけよった。
「なんじゃ、こりゃ……!」
わめきながらシロクロは、四角いカゴの中を走りまわっている。
でも、出口がないんだ。外に出られない。
耳がぺたんとねている。ひげがピンピンしてる。シロクロはすごくこわがってる。
わたしもこわい。むねがズキンズキンする。とびきり悪いことがおこったにちがいない。
どうしたらいいんだろう。
「シロクロ!」
わたしはカゴに前足をかけて、ガジガジかんだ。
かたい。歯がいたい。
どうしよう、シロクロを出してあげられない……。
「ミケ、はなれるんだ」
シロクロがさけんだ。
「おまえはかくれてろ! きっと人間が来る!」
シロクロの声がおわらないうちに、ガサッと草をふむ音がした。
わたしは思わずとびすさって、葉っぱのかげにふせた。
「ありゃー、かかったのはブチだったか」
やっぱりあの人間だ。わたしはもっと体をひくくする。
「かわいいミケちゃんは?」
人間はまわりを見まわす。わたしは土に体をめりこませた。
「しょうがない、ミケはまた今度。きょうはブチだけつれていくか……」
四角いものをよいしょと持ち上げる人間。中でシロクロがあばれている。「だいじょうぶだよ、ブチ。おとなしくしてなさい。保護してあげたんだから、もう安心だよ。手術して地域ネコにしてあげる」
人間はシロクロをのぞきこんでそう言うと、がさがさと草をふんでそこからいなくなった。
わたしはふせたまま、じっとしていた。
いつまでもいつまでも、じっとしていた。
シロクロ、どこへつれていかれたんだろう。
「ホゴ」ってなに? 「アンシン」ってどういうこと?
ほかにもむずかしいこと言ってたけど、ぜんぜん意味がわからない。
ネコカンをおいてくれる人間は、いい人間じゃなかったっけ?
シロクロ、かえって来れるかな……。
わたしは夜になってもじっとしていた。
いつのまにかねむって、大きなネコカンのなかにとじこめられる夢を見た。
朝になっても、シロクロはかえってこない。
いつもふたりで歩く道を、ひとりで歩いた。
鼻を上に向けて、ニィと小さくないてみる。
だれも答えてくれない。
わたしはまたひとりぼっちだ……。
⬜◼
「あんた、シロクロはどうしたの?」
サビが声をかけてきた。わたしが生まれてはじめてキャットフードを食べた、あの階段にねそべっていたんだ。
わたしは階段の下にきちんとすわり、小さな声でこたえた。
「……人間につれていかれました」
サビはわたしをじろじろと見てから、うしろ足でぽりぽりと頭をかいた。「あーあ……。だから、他人の子の世話なんかするもんじゃないんだよ。子ネコになにかありゃ、こっちがせつないし、こっちになにかありゃ、子ネコにもっともっとせつない思いをさせるんだから……。わたしら、自分のことだけでせいいっぱい。そうだろ?」
わたしは地面につくほど頭を下げた。ニャ、ニャーとか細い声が出た
「やだやだ、泣くんじゃないってば」
サビがなげやりに言った。
「シロクロ、またかえってくるかもしれないさ。あんなおかしな顔のヤツ、かえってくりゃかえってきたで、うざいけど……」
サビがぐちぐち言っていると、うなるような声がした。
「いいかげんななぐさめはやめろ」
はっとしてふりむくと、うしろで茶トラがにらんでいた。
サビはバカにしたように目をほそめ、あくびをする。
「あーら、わるかったわね。あながちいいかげんでもないんだけど。だってほんとに、人間につかまって、かえってきたネコはいるもの。耳に切れ目を入れてね」
茶トラはサビにはかまわず、わたしを見おろして言った。
「ミケ、あんまりのぞみを持たない方がいい。かえってこなかったとき、つらいからな。持たなきゃいけないのは、のぞみより生きていく力だ」
そして、階段のわきの方へあごをしゃくってみせる。
「きょうだけ、おれのキャットフードを少し分けてやる。あしたからは、自分の力でエサを取りに行くんだぞ」
「なーにをえらそうに! 食べのこしをめぐんでやるだけじゃないのー」
サビのことばは聞こえなかったふりで、茶トラはのしのしと去っていった。
わたしは二、三度顔をこすってから、そのうしろすがたを見おくった。
階段のわきへ行ってみると、茶トラが言ったとおりお皿にキャットフードがのこっている。
ちょっと考えてから、ひとつぶ口にくわえた。
カリッ……。
はじめて食べたときと同じ味がして、泣き声がもれそうになった。
カリカリ。わたしは食べた。
シロクロがいなくなっても、キャットフードはおいしかった。
⬜◼
何日たったかな?
わたしは、いい人間のところをまわってエサを取っていた。
あんまりこまらなかった。
「ちっちゃいときだけのとくべつな幸運」が、まだつづいているみたい。
手を出してくる人間には、パンチした。
つかまえようとする人間からは、ぜんそくりょくでにげた。
シロクロと別れた公園には行けなかった。
あの四角いカゴを思い出すと、心ぞうがドキドキするから。
あそこに行かなくてもだいじょうぶ。
シロクロは、人間のところからにげてきたら、きっとわたしをさがしてくれるにちがいない。
そんなある日、わたしはシロクロとはじめて出あった草むらにねころんで考えてた。
そばにはあの車がとまっている。
車の中でもう一度ねてみようかな?
そうしたら人間が来て、行ったことのないどこかにつれていってくれる。「車はやめとけ。のったまま、かえってこないヤツがいたから」
あのときシロクロはそう言ってたけど、もしかしたら行先は、シロクロがつれていかれたところかもしれない。シロクロだって、かえってこないヤツのなかまになっちゃったんだから……。
わたしは立ち上がると、車の下をのぞきこんだ。
えーと、どのすきまから中に入ったんだっけ?
「車はやめとけ」
うしろで声がして、わたしはぴくっとした。
聞いたことのある声だと思ったけど、ふりむくのがこわかった。
聞きまちがえだとがっかりする。
「ミケ、やめとけ」
もういちど声がして、わたしはぱっとふりかえった。
あの、ゆかいな顔がそこにあった。
「シロクロ!」
とびついてぎゅっとしがみつくと、シロクロはわたしにパンチした。
パンチをかえすと、シロクロがぎゅっとしてくる。
シロクロとわたしは、しばらく草むらをころげまわった。のどのグルグルがとまらない。
「シロクロ、どこにいってた?」
わたしがきくと、シロクロは体をはなして首をかしげた。
「わからねえ。どっか、みょうなにおいのするところ」
ねそべって、うしろ足をぴんと上げてみせる。
「足にチクンとされて、あとはなんだかわからなくなった」
「エサは?」
「目がさめてから、人間がくれた。あいつら、はらいっぱい食わせてくれるんだ。おれの方は、めいっぱいあいそ悪くしてたんだけどな……」
シロクロがふしぎそうに言う。
「で、さっきあの公園にかえしてくれた。それからおまえをさがしたんだ」
なんだかわからないけど、シロクロがかえってくればそれでいい。
わたしはうれしくて、もう一度シロクロに飛びかかった。
「おまえはどうしてた?」
じゃれあいながら、シロクロがきく。
「サビと茶トラに、ちょっと助けてもらった。それから、自分でエサ取れた」
「そっか、そっか……」
シロクロはわたしから手をはなすと、うれしそうにひげをピクピクさせた。
わたしはシロクロがかえってきたうれしさを、ひとりじめしちゃ悪い気がした。
「ね、サビにあいに行く?」
すると、シロクロはちょっとだけおびえたような声でニャグ……と、うなった。
「……いいや、サビにはあいに行かない」
「でも、ひさしぶりだよ。サビもよろこぶよ」
「よろこぶもんか」
うう、……そうかもしれない。でも。
「愛があるんでしょ? 子ネコを産んでもらうんでしょ?」
「……もういいんだ。どうしてかわからねえけど、なんだかもう、そんな気になれない……」
シロクロは力なくつぶやく。
どうしたのかな? あんなにサビのことが好きだったのに。
シロクロったら、人間につかまって愛を取られちゃったのかな……?
それに、なんだかいつもとちがう。
「シロクロ、耳?」
「ん?」
シロクロはクリンと前足で耳をなでた。
「なんかへんか?」
「切れてる……」
シロクロの片方の耳のてっぺんに、三角の切りこみが入ってる。いままでは、そんなキズなかったのに。そう言えばサビが言ってた。人間のところからかえってきたネコは、耳に切れ目が入ってるって。
「そっか、気がつかなかった。まあ……あんまり気にもならねーけどな」
うん、耳なんてどうでもいい。シロクロがかえってくれば。
わたしはまたまたシロクロにとびついて、耳もとでさけんだ。
「シロクロ、エサ取りに行く?」
シロクロは前足でわたしをおさえこんだ。じたばたするわたしを、ペロペロとなめる。
「あのな、ミケ。話があるんだ」
「おなかすいた!」
「だから、ちょっとがまんしろって。大事な話なんだ」
シロクロはまじめに言った。まじめな話をしようとしても、シロクロの顔はゆかいだ。
ゴロゴロ言っているわたしに、思いがけないことばがふりかかった。
「ミケ、おまえ人間のところに行け」
え? わたしは息をとめた。どうして?
「おれは、分かっちまったんだ」
シロクロはぶるんと体をゆすった。
「ネコはな、どうも人間といっしょにくらすようにできているらしい。人間につかまって、思い知ったんだ。ノラで自由に生きてるようでも、ネコは人間の思うようにしか生きてねえって」
なに? どういうこと?
「おまえはまだちっちゃいから、人間のとこへ行ってもやっていける。その方がずっと幸せらしい。おれにはもう、ノラがしみついちまってムリだけどな……。おまえはまだだいじょうぶだ。人間のところへ行け」
わたしは目をみはった。
いやだよ、いままでシロクロと楽しくくらしてたのに。
せっかくかえってきたのに、なんでそんなこと言うんだろ?
泣き声がもれそうになって、わたしはシロクロに背中をむけた。
シロクロはいじわるだ。人間のところへいって、愛をぜんぶ取られてしまったらしい。
ちょっとつかれた声で、シロクロはわたしの頭のうしろに向かって言った。
「ノラでも、しょせんは人間のところからエサを取ってる。鳥とか金魚とか、ネズミを取って生きていくのは大変だ。けっきょくは、キャットフードとか、ネコカンとか、ゴミすてばとか、人間のおこぼれにたよってるもんな。じゃいっそ、そのふところに飛びこんだ方がよかねーか?」
わたしはシロクロにむきなおった。
「シロクロがエサ食べるのはどうして?」
シロクロは目をみはった。
「生きるためだろうな」
「じゃ、生きるのは何のため?」
シロクロはだまった。そしてしぼりだすように言った。
「今までは、おまえといっしょにいるのが楽しい。だから生きてるんだって、そう思ってたんだけどな……」
そうだよ、わたしもシロクロといっしょに生きるのが楽しい。だからエサ取りに行くんだ。
わたしがぎゅっと口をむすんでシロクロを見ると、シロクロは切れ目の入った耳をクリンとなでた。
「おれ、何のために生きてるんだろうな……」
空を見上げるシロクロ。つられて見ると、青い空に白い雲がぽわんとうかんでいる。
「人間の家で人間のそばにいて、ニャーって言って、エサをもらって、決まったところでウンコして、なでられるとグルグルのどをならして……。そんなネコは生きてていいらしいんだ。おれらみたいに、外でうろうろその日ぐらしをして、人間がめぐんでくれるエサ食って、好きなところでウンコして……。そういうネコは、いなくてもいい、いやどっちかっていうと、いちゃいけないネコらしい」
白い雲を見ながら、わたしはニャ……と小さな声で泣いた。
歯を食いしばっても、歯と歯のあいだから泣き声がもれてくる。
シロクロにそんなこと思わせた人間が、にくらしかった。
「ミケ、おまえは人間のとこで幸せになれ。でもよ、おれがいちゃ、そんな気になれないだろ? だからおれは行くよ」
シロクロはゆっくりと立ち上がって塀まで歩いていくと、われめに体をおしこんだ。
わたしは動けなかった。
しっぽが見えなくなったと思ったら、かわりにひょいと、あのゆかいな顔がのぞいた。
「おれはこれから、おまえの幸せだけ考えて、生きてくことにするよ」
そして、シロクロの姿は消えた。
どうしてかわからないけど、わかっていた。もう二度と会えないと。
⬜◼
すっかり暗くなるまで動けなかった。
ずっと同じところにすわっていると、ふっとそばに人間のけはいがした。「子ネコだ……」
かすかな声がして、そっと細い指がさし出される。
あんまりおずおずと出された指だったので、パンチするのをためらった。「この子、ひとりぼっちなのかな……」
両手が出てきて、わたしをそっとつつみこむ。
ひやっとした手。
わたしはにげることもわすれてた。
「わっ、あったかい……」
持ち上げられて、ほっぺたをよせられる。
「……ふわふわだね。息もあったかい」
ぽつんと、上からつめたい水がおちてきた。
見上げると、その人間の目から落ちてくる水だった。
「生きてるんだもんね。あったかいよね。そうだ、生きてるとあったかいんだよね……」
シロクロはいつ見てもゆかいそうな顔だったけど、この人間はつらそうだなと思った。
「……なんで、おまえに出会ったんだろう」
もうひとつぶ水が落ちてきて、今度は人間の指にかかる。
わたしはその水を、ペロリとなめてみた。……しょっぱい。
「うわ、ベロもあったかい!」
人間は、わたしをぎゅっとむねにだきしめた。そしてぽつんと言った。「……おまえのために生きるって、ありかな?」
わたしのために生きる……?
この人間は、何を言ってるんだろう。
シロクロは言った。
おまえの幸せだけ考えて、生きてくことにするよって。
わかんない、わかんない。
生きるってなんだろう。何で生きているんだろう。
何かのために……?
だれかのために……?
自分のために……?
「……かえろうかな……」
わたしをだいたまま、その人間が言った。
⬜◼⬜◼