野球紀行/花束を渡す、その前に ~川崎球場~
ラーメンというよりは「中華そば」という味。素朴で美味いと思うのは、ガイドブックに載っているようなラーメンの大半が、油ギトギトな上に、このラーメンがたまにしか食べられないせいか。それとも球場で食べるからそう感じるのか。
とにかく腹を満たすと眠くなってくる。スタンドの最上段で横になり、ウトウトしながら心地よい球音を聞く。「何しに来たんだ、あんたは」と言われそうだが、答えを言うと「別に何もしない」。だけど仕事がやたら忙しいという状況(徹夜に深夜残業に休日出勤の連続で疲れ切っていた)の中であえてここにいる。ますます訳がわからない。僕にもその目的をはっきりと説明するのは難しい。ただ、ここで一日を過ごす事が必要な気がしたのである。そう、ただ「一日をそこで過ごす」事。それが僕の、川崎球場への餞別だ。
社会人野球東京大会。通称「スポニチ大会」は、一年で最も早い硬式野球の公式戦。それがこの球場の、野球場として最後の勤めである。もっとも以前から、プロ野球を呼んで川崎球場の最後を飾ろうという気運は高まっており、事実3月26日にベイスターズ対マリーンズのオープン戦が組まれ、当日はあの「10・19」以来の観衆が詰め掛け、川崎球場は文字通り最後を飾る事ができた。だがこれは急遽決まった打ち上げパーティーのようなもので、野球場のための野球ではなく、野球のための野球場である川崎球場の、つまり日常の仕事納めとしては、このスポニチ大会がまさにそれで、観衆もまばらな中、それを見届ける事が川崎球場へのお別れだと僕は思っていたのだ。
本当は最終日に訪れたかったが、僕が来れるのは今日ぐらい。だけど最後までいてやるよ。そんな気持ちで、さらに何か大きなものに抱かれるような充足感を感じながら、グラウンドを見下ろすと、こちらはこちらで派手な打ち合いが展開されていた。これで3本目のホームランだろうか。社会人のパワーに金属バット。しかもホームランが出やすい事がわかっているから尚更一発を狙って振ってくる。まだ三回もこれで9-2。JR九州を大きく引き離す日石三菱。
フェンスの存在など眼中にもないかのように飛ぶボール。乾いた金属音が、もうこの球場が時代にそぐわなくなっている事を告げているようだ。3月26日に集った人々は、それぞれが球場への思いを巡らせた事だろう。しかし若いアマチュアの選手達にとって、たぶんここはただの狭い球場でしかない。その姿は、祖父の庭で、彼の過去の事など何も知らずに元気に遊びまわる子供のようにも見える。老いた主の目に、彼らはどう映っただろう。
しかし野球は進化を続けなければならない。器(球場)が窮屈なら遠慮なく蹴破らなくてはいけない。だけど最後の時くらいはじっくり球場と「付き合い」たい。この球史のもの言わぬ証人の姿を目に焼き付けておきたい。そう思うといつまでも寝転がってはいられない。
バックスクリーン裏は外野の出入り口。開いているところを見たことはめったにないが、最後の日には開くのだろうか。気のせいか、その時に備え、色めき立っているような気もした。ライトスタンドに二つの出入り口があり、実はこの二つは裏で一本の通路でつながっている。中央寄りの入口は、まるで閉鎖されたまま何年も放置された雑居ビルのようで、通路は、向こう側の出口が確認できる他は真っ暗。僕はこの通路を「鍾乳洞」と呼んでいる。恐る恐る入ってみようとすると、もう先客がいた。
子供が二人、中を探検していたのだ。これこそ「祖父の庭で何も知らずに遊ぶ子供」そのものである。彼らの年頃には、廃屋を見るとやたらと探検したくなったものだ。暗闇の中で苦笑する。
わずか数メートルの闇を抜けると、あのライトスタンドだ。狭い上に、高い塀を控え、いつも日当たりが悪い。しかも照明塔がライトだけスタンドの中に建っているので、カクテル光線すら当たらない。ナイトゲームの時は、井戸の底のようだった。
ライト側と一塁側は、全体的に日当たりが悪く、寒い。この球場で長く不遇の時代を過ごしてきた大洋ホエールズとロッテオリオンズのファンが、この場所で長いトンネルが終わるのを待っていた事を確かに感じさせる。ここにいると、数え切れない思いが染み付いているのがわかる。その思いは、使い込まれた土鍋に染み込んだ味のようなもので、試合を料理に例えるなら、しばし凡庸な料理に絶妙な味を与えてくれる。
11-3でリードされていたJR九州が、六回に5点を入れると、代わった投手広瀬にも襲いかかり、とうとう1点差にまで迫ってしまった。「負けてるんだから大人しくしてろ!」と日石三菱のファンが叫ぶと、反対側から「うるせー!」と応戦。そう、野次がはっきりと聞き取れるのもこの球場の妙味だった。
七回のJR九州、一死満塁、一打逆転のチャンスに田村あえなく三振。しかし一球一球にベンチが大騒ぎだ。投手が井深に代わったところでパスボール。ついに同点。川崎球場にも「魔物」はいる。伊達に半世紀にわたってドラマを演出してきたわけではない。この器で料理をすれば、そこそこの味になる。あの「10・19」をやった球場なのである。
しかし七、八回で4点を加えた日石三菱がそのまま逃げ切った。驚異的な粘りを見せたJR九州だったが、最後は代わった日野の前に三者凡退だった。試合と試合の合間、選手も観客もドッとロビーに流れ込む。談笑する人々。この大会が川崎球場の仕事納めだという事を皆、知っているのだろうか。淡々と流れる時間。だけど確実にこの球場が使命を終える時は近づいている。そう思うと、まだ帰れない。スタンドに戻ると、空気の色が変わっていた。
軽い眩しさ。照明が灯っていたのだ。今日は朝から雲行きが怪しく、第一試合が1時間遅れたらしく、また打ち合いが続いたため、結局第三試合は3時間以上遅れる羽目になった。だから予定外のナイトゲームなのだが、この照明が灯るのを見るのは、本当に何年ぶりだろう。もしかしたら川崎球場最後のナイトゲームかもしれない。その光は、餞別に応えてくれるかのように厳かにフィールドを照らしていた。
先発は日本IBM野洲が金川、東芝が須田。僕が川崎球場で最後に見た投手となった。金川の一球目は人を食ったような山なりスローボール。しかし意図のよくわからないこの球は東芝打線には通用しなかった。
とにかく打ちまくる東芝。僕と同じように、川崎球場の見納めに来た人もいただろう。そんな感傷を打ち砕くかのように、今度こそ「新しい時代だ」と言わんばかりに、打つ。とどめの一撃とも言える平馬の打球は、場外へ消えた...。
試合は七回コールド、12-1で東芝が勝った。地元のチームで見納めというのも不思議な巡り合わせだ。これで本当に川崎球場ともお別れ。球場の外、まだ照明は灯っていた。それを見ていたら、充足感と寂寥感の入り混じった、何だか不思議な感情が湧き上がってきた。「本当になくなってしまうのか?」
もうこの光がプレイヤーやファンを照らす事はない。この光が消えたら...。それを見るのが怖いような気がした。それを認めたくなくて、「さようなら」と言う代わりに、「これからも野球を支えて欲しい」そう願い、足早にその場を去った。
あのラーメンは、今は川崎区浜町の一角で「川崎球場のラーメン」と堂々と看板を出して営業している。
ある日の昼下がり、狭いカウンターに客は二人。これがあのラーメン、と意識しているようには見えない、普通のラーメン屋の客だ。僕もその仲間に入ろうとすると、ご主人に「川崎球場のラーメンだから来てくれたの?」と声をかけられた。「もちろんです」と答えると、「頑張って続けますから」と。
時代の形見が、こんな所で生き続けている。(2000.3)
[追記]
本業は製氷業の金子商店が提供していた「川崎球場のラーメン」はしばらく浜町で営業していたが、今はもうない。しばらく軟式野球場だった川崎球場がアメフト場「富士通スタジアム川崎」に変貌した2014年以降も、スタジアム主催による球場懐古イベントが行われたが、その際あのラーメンを復刻しようと主催者が店主を探したものの、連絡がつかなかったという。
2023年1月、ついにあの無骨な照明塔が解体された。2019年に有志379人がスタジアムの外野フェンスと照明塔を市の指定文化財として保存するよう求める請願を提出していたが、老朽化で危険、という事だった。市は「モニュメントを造る」と言っているそうだが、それよりも照明はどの道必要なのだから元の姿に忠実に復元してくれた方が嬉しい。