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非野球もの/『GODZILLA』(1998)を観た感想
アメリカの制作会社トライスターピクチャーズが東宝からゴジラの権利を取得して製作したローランド・エメリッヒ監督による「ハリウッド版ゴジラ」。日本の本家ゴジラや後の2014年に公開されたギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA』と区別する意味で『エメゴジ』などと呼ばれる。
ゴジラとは全然似ていないイグアナのような姿から、ゴジラファンからは概ね「こんなのゴジラじゃない」などと顰蹙を買い、後の日本での「ミレニアムシリーズ」でも「日本の学者は(あれをゴジラとは)認めていない」とか「マグロ食ってるような奴」などと揶揄され、特に後者はゴジラに一撃でのされている。
ただ私は、従来のゴジラファンを怒らせたのは決してその姿ゆえではないと思っている。ゴジラと見た目が違っていても、ゴジラらしく振舞ってくれれば少なくとも私は「別のゴジラ」として認めていたと思う。
敏捷な動きは確かにゴジラらしくないがこれは許容範囲。核問題を背景としているところもゴジラらしい。それよりも、たくさんの卵から子供のゴジラが孵化し、人を襲うシーンには、ゴジラをエイリアンか何かと同じにされているようで違和感を覚えた。実際、東宝側が条件としていた「ゴジラは人を食わない」という設定をエメリッヒ監督が嫌っていたという事からも、本当はゴジラを製作する気などないくせに、客を呼ぶために「ゴジラ」の名前を使われたようで悔しくさえ思った。
だがこれは一時の悔しさで、本当に悔しいと思ったのは映像のクオリティであった。日本の学者は認めていないだの、マグロ食ってるようなだの揶揄している相手に、肝心の「映像のクオリティ」で日本の「ゴジラ」は完全に負けていたのである。予算が違うのだから仕方ないだろ、と言われそうだが、予算だけならまだしも「センス」でも負けていたのだ。
もしも巨大な怪獣が市街地で暴れたらどうなるか。その仮定の描写が丁寧なのに驚く。少なくともアメリカには「巨大な怪獣が街で暴れる」映画はあまりなかった筈なのに。
ゴジラが歩くと、人や車が踏まれる。足が地面にめり込む。ゴジラがトレーラーに食いつくと、牙がコンテナを貫通する。中にいる人がその牙を目の当たりにする。ゴジラが咥えたトレーラーから人が落ちる。コンテナの中目線で。
そんな風に、描写が細かい。もしも巨大な怪獣が市街地で暴れたら起こりえる事象を様々な角度と目線で見せる工夫とセンス。それと、怪獣の生物感。
ゴジラを研究する生物学者ニックをゴジラが見つける。ゴジラは「何だ?」とばかりにニックと対峙する。ニックの表情は恐怖よりも感動のようなものを湛え、ゴジラもニックにそれ以上構わずに方向転換する。そして最後、人間に倒されたゴジラが息を引き取る現場にもニックがいるのだが、死の瞬間、ニックを見るゴジラの寂しげな表情が、ニックが自分をもっとも知っている人間である事を知っているかのように、「お前か…」とでも言いたげで、まるで人間のような感情があるように感じさせる。そこはエイリアンとは違うと思った。ちなみに後の日本での『ゴジラ2000ミレニアム』でゴジラと阿部寛が対峙するシーンはこれの「逆輸入」ではないかと思っている。そんなところもまた悔しい。
このように、人間と怪獣が交錯する部分と言うか接点がある事も非常に大事だと思う。「怪獣側のドラマ」と「人間側のドラマ」があって、その2つを分けて考える向きが多いと思うが、実は「ドラマ」は人間側にしかないものなのだ。なぜなら獣には本能しかないが、人間には高い知能と豊かな感情があるから。それでいて人間が怪獣より目立ってはいけないのが怪獣映画の難しいところではある。
で、この『GODZILLA』が何のドラマかというと、「芽が出ないジャーナリストのオードリーが、ゴジラ事件に巻き込まれる事で悪戦苦闘し、成長し、かっての恋人ニックとの絆を取り戻す」という、ちゃんと骨子のあるドラマで、だからこそこの映画が「怪獣映画」としてモノになっているのだ。
こんな風に、映像のクオリティも、ドラマとしての出来も、負けを認めざるを得なかった。「ゴジラを名乗るゴジラでないもの」に。
ゴジラファンからは反感を買うも、いちモンスターパニック映画としては良い出来だった事から興行的には成功した本作。最後、残っていた卵からまたゴジラが孵化するところで終わったように、続編を示唆してはいたが、実現しなかったのはやはり製作サイドも面倒くさくなったところがあるのだろう。ネットに転がっている話では、続編のシナリオは、本作のラストで生まれた最後のゴジラが成長し、ニックに懐き、人類の味方のようなポジションで新たに人類の脅威となる敵と戦う、というものらしく、ますますゴジラではなくなる感じだが、十分面白そうだと思う。
繰り返すが、同じ時期の日本の怪獣映画とのクオリティの差を見せつけられて悔しい思いをさせられた本作。しかしここにきてようやく『シン・ゴジラ』『ゴジラ -1.0』と、世界で通用する作品が造られるようになった背景には、「あんなものはゴジラではない」とバカにしつつもやはりこの時に見せつけられた「差」が原動力としてあるのではないかと思う。
そう考えると、ゴジラとは呼べないとされる本作が、ゴジラ史においては重要なターニングポイントだった事は間違いない。