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非野球もの/『小さき勇者たち ~ガメラ~』を観た感想

 舞台は志摩地方の美しい港町。多感な少年・透は早くに母親を亡くし食堂を営む父親と2人で暮らしている。
 ある日透は近くの小島に赤い光を発見する。現地を訪ねると赤く光る石の上に何かの卵があった。卵はすぐに孵化し、一匹のリクガメが生まれた。
 透はリクガメを家に持ち帰り、トトと名づける。トトは空を飛び、火を噴き、驚く早さで成長した。とまどう透だが、トトを放逐する事はせず、心を通わせていく。
 透は隣で真珠店を営む家の、3つ上の病弱な娘・麻衣に悪態をつきながらも想いを寄せている。トトの事は自分と2人の友人と麻衣だけの秘密にしている。大人達にはトトを見られないように。

 これでもかこれでもかと繰り出される「少年(少女)と異生物との心温まる交流を描いたファミリーストーリー」のステレオタイプに私はグロッキー状態だったが、実はこの映画、私が「怪獣映画の特撮技術」にはじめて納得した作品なのだった(名古屋での怪獣バトルシーンについてだが)。

 およそ「特撮」に分類される作品で私が最も重視するのが「特撮技術」で、これがダメだと他が良くても全てイマイチになってしまうのだ。だから怪獣モノを嗜好しつつも「いいんだろうか」という思いがいつも片隅にあった。だって特撮技術が言っては何だが世界に誇れるレベルではないから。

 平和な漁港の街を、人を喰らう怪獣ジーダスが襲う。これまでの敵怪獣は大きすぎ、つまり人間と世界が違いすぎるのでリアルな怖さが伝わらなかったが、このジーダスは一人の人間を狙い、一人の人間を食う。一応ファミリー映画なので残酷な描写はないが、何かをついばんでいる様は明らかに人を食っているものであり、かえって怖い。ここでようやく「少年(少女)と異生物との心温まる交流を描いたファミリーストーリー」のステレオタイプは壊される。

 このジーダスが歴代ガメラの敵の中でベストと言えるくらい、子供の映画にはふさわしくないくらい憎たらしくて良い。好戦的で悪そうで生物感がある。炎やビームのようなものを吐くのではなく、鋭い舌を伸ばして敵に突き刺す陰湿なところも。ビルをよじのぼったりする描写にぎこちなさや造り物っぽいところがないのに感心した。今観るとそれなりに粗もあるが、当時は「ここまでできるようになったか」と感心したものだった。

 これらのシーンは麻衣の入院先である名古屋の市街地が舞台となっている。瓦礫が地面に落ち、人を直撃し、人が怪我をする。怪獣が暴れるとこうなるのだという描写がちゃんとしており、何よりエキストラの演技が良い。私が子供の頃観た作品では、都市が破壊されるシーンなのに笑顔で逃げているようなエキストラもいた。こういう細かいところをちゃんとしないから「特撮」は持ち上げられる一方、イロモノのような目で見られるのだ。
 ただ、ガメラが倒れ込んだ道路に、歩道がちゃんと造りこまれていなかったりするところは相変わらずだったが。

「子供だまし」という本来はネガティブな言葉が、なぜか子供を「だます」事を容認するようなニュアンスで使われている。だけど本当は子供の映画だからこそ、大人が本気で造った迫力ある映像を見せないといけない。「だまされて」育った子供は、大人になってやはり子供をだますようになる。そうした連鎖により社会は荒廃する。だから繰り返すが、子供の映画だからこそ、大人が本気で造った迫力ある映像を見せないといけない。

 映像に関しては作り手の誠実さが十分に感じられる本作だが、興行成績は振るわず、酷評する向きも少なくない。しかしそういう人は多分「"ガメラ4"が観たかっただけ」で、その時点で本作をフレキシブルに評価する目を持ち合わせていないとも言える。

 しかし「本線」とはまったく違う世界線で多くの作品が造られてこそメジャーコンテンツであり、本作はガメラがゴジラのようなメジャーコンテンツに近づくためのターニングポイントと位置付けたいと私は思っている。

 顕著なのが「地球の守護神」である平成ガメラに、元々のガメラの属性であった「子供の味方」という部分を強く付加した点だと思う。しかしその成果については不満がある。

 手術を受ける麻衣に透が「お守り」として、トトの卵の下にあった「赤く光る石」を預け、ジーダスと戦うガメラの元に向かう。その石がトト(=ガメラ)にとって必要なものである事を察した麻衣が、石を透のところに持っていこうとするが、当然大人たちは許さない。そこで見知らぬ幼い女の子が「トトにだね」と、麻衣から石を引き継ぎ、その後何人かの子供たちの、逃げまとう大人たちの流れに逆行する果敢なリレーにより石は透の手に渡る。

 この子供たちこそが「小さき勇者たち」のモチーフであり、ガメラが「子供の味方」である証左でもあるのだが、皆このシーンが初出、つまりあまりに唐突なのだ。

 もしもこの子供たちが、このリレーのシーンより以前に伏線と言うか端役として、何か印象的なシーンを演じていたら、観客はこの子供たちにより感情移入しながらこのシーンを観る事ができたのだが、それを思うと凄く惜しい気がする。

 怪獣のアウトラインに関しては、ガメラさえ「33年前にギャオスと戦い人々を守った」以上の事はわからないし、ジーダスに至ってはそもそも何者なのかすら劇中で語られていない。子供側のドラマに重きを置くためだ、と受け取る事もできるが、それならば尚更、端役である子供たちに最低限の「キャラ」を与えて欲しかった。

 そんなところか。後は音楽が上野洋子というのをかなり後になって知った。どういう経緯で怪獣映画の音楽をやる事になったのか知らないが、言われてみれば少し民族音楽っぽいテイストだなと思う。ZABADAKが好きなので個人的には歓迎だが、「"ガメラ4"が観たかった」向きには不満だったかもしれない。しかし異生物の神秘性とか凶悪さの表現という部分に対し彼女もまた誠実な仕事をしたのではないかと思う。

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