見出し画像

消えゆく原宿ロリィタとSNSの関係について考える

最近ユニクロの基幹店がオープンとか、原宿駅がリニューアルされたとかで、原宿をニュースで目にする機会がある。その度に該当インタビューで映る街の風景やその場にいる人たちの恰好、つまりはファッションや軒先の雰囲気が変わったなぁと実感する。

実際に原宿へ足を延ばすこともあるけれど、竹下通りには見た目の可愛さだけを目指したチープな商品がこれでもかと並ぶ小さなお店は大分少なくなり、鉄筋コンクリート造の大きなショップに取って代わられている。客層は若い世代には変わりないが、奇抜なファッションよりも大衆迎合のお揃いコーデになり、加えて物見遊山の外国人客が増えた。(今はコロナ影響であんまりいないだろうけど)

かつては原宿の象徴をしていたような奇抜なファッションは消えつつある。もちろん完全に消えたわけではないけれど、確実に減少していると思う。

正直に言うと、私はロリィタファッションが好きで、それこそ7~8年前は過去そういった服を買ったり来ていくために原宿を訪れていた時期がある。当時から多数派ではなかったが、もう少しこの手のファッションを楽しんでいる人口は多かったように思う。あくまでも体感値だけれど、中堅ブランドのクローズや雑誌の終了、大手ブランドではずっと同じモデルのまま、という状況を見るとあながち外れていないだろう。

ここで考えるのは、奇抜な原宿ファッションが消えつつあるのは、やはりSNSの台頭が根源にあるのだろう。10代~20代世代は交友関係や日常のコミュニケーションにおいてSNSなしではいられない環境だろうし、身近にある自身の発信ツールは承認欲求を大いに刺激するだろう。

そんなSNSの中で、一般的には奇抜なファッションは基本的に大衆からの「いいね」は得られないのだ。共通の志向を持つ仲間内同士であれば「いいね」しあうだろうが、周りではより多くの「いいね」をもらえる手段が溢れている。自分自身が「好き」な要素を含みつつも、より多くの「いいね」がもらえるファッションの方が満足度が高く、接触頻度が高まるにつれ愛好心も強化されているのではないだろうか。

また、SNSを眺めていて興味を惹きつけ(劣等感を刺激する)、バッシングも受けにくいのは「個性的なファッションで身を包んだ誰か」ではなく、「普段目にしない風景」であったり「友達とお揃いコーデで何かをしている光景」だったりする。

かつて、原宿だからこそ表現していたファッションは、日ごろ表に出せない自身の願望を外部に発信する手段の一つだったのだと思う。閉ざされた地域の中はある意味ディズニーランドのように別世界であり、仲間を見つけ、互いを認め合うことが心地よかった。

ところが、今では自身の願望を発信する手段は無数にあり、原宿という世界がオープンに公開され、奇抜なファッションは無粋にも大衆の場へ引きずり出されることが増えた。大衆の場では奇抜なファッションはバッシングを受けやすく、それをきっかけに着るのをやめた人もいる。

元々、日ごろ表に出せない願望を別の世界で形にする、ということは普段は日常生活では控えめで繊細な人が多いのだと思う。けれど、オープンになった原宿という世界で願望を表現するには、バッシングを受ける覚悟や強さが必要になってしまった。次世代に至っては、ロリィタのようなファッションへの憧れや願望を抱く機会や動機は大きく減少したのだろう。

つらつらととりとめもないことを書いてしまったけれど、好きなロリィタブランドがクローズしたり、PLが厳しそうな状況を見ると切ないなぁというのが本音。

まあ、そもそもロリィタって着るのも重労働だし、着るためにはがっつりメイクしないといけないし、着た後にできる行動も大幅に制限されるし、前述したようにどこ行ってもヒソヒソ話されるし、同じロリィタでも仲間でないロリィタに対してはチェックが厳しいし、脱ぐのも洗うのも大変だし、単純に行動コストが高いのよね。

ロリィタを着続ける方、ロリィタを作り続ける方々に尊敬の意を抱くばかり。おわり。


これを書いた後に見かけて、通じるものを感じたのでぺたり。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?