日向坂46「JOYFUL LOVE」は何を表現しているのか勝手に考察してみる
今更だけど、4回目のひな誕祭に行ってきました。
昔の曲から最新の曲まで様々な曲を披露してくれて、本当にありがたいライブだったなぁとしみじみと感じます。
そこで、披露された、もはやもう定番中の定番の楽曲になっている
「JOYFUL LOVE」
この楽曲の披露の際は、いつからかファンがペンライトで虹を作るのが恒例の文化となっています。
日向坂を代表する曲を挙げてください、と言われると"おひさま"(ファンの総称)のなかでも答えは三者三様、十人十色であろうが、この曲を挙げるおひさまも多いのではないでしょうか。
(↑言わずもがなの日向坂デビュー曲。キャッチ―すぎる名曲)
(↑前身である"けやき坂46"時代の楽曲であり、代表的キラーチューン)
そんななか、私は"JOYFUL LOVE"について、他の日向坂の楽曲とは何か違う雰囲気を感じ取っています。すなわち、他の曲とは独立しているメッセージ性をこの"JOYFUL LOVE"は備えているよな、と楽曲の公開の時からなんか感じていたのです。
他の曲と異なる雰囲気の正体。
養老天命反転地(MVのロケ地)を見学したことや四回目のひな誕祭での虹などを踏まえて、長年具体的には掴めなかった、”JOYFUL LOVE”が発信するメッセージについて、こういうことじゃないかな~と解釈することができたので、ちょっと語りたいと思います。(あくまで素人考察なので、お手柔らかに…)
養老天命反転地という”聖地”と霊性
このMVは全編通して、養老天命反転地という、”公園の空間全体が一つの芸術作品として完成されているオブジェクト”にて撮影をされています。
上のウィキにもあるようにそもそも養老天命反転地とは、荒川修作氏とマドリン・ギンズ氏による作品です。この作品についても、様々な受け取り方があるかと思われますが、この作品には芸術作品としては異端であろう、”使用法”が作者によって提示されています。つまりは、この作品を鑑賞するにあたっては正式な手続きが存在していて、現代の芸術にありがちな、””解釈は受け手に任せる”というスタイルではないということです。
この作品は、"生まれて死ぬという天命を覆す"ことがテーマのひとつとして存在しているようです。
(出典:https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00460/)
私は、養老天命反転地を訪れた際に、そもそも生きるとはいかなることかという問いを、この作品を通して投げかけられたような気がします。
例えば、「極限で似るものの家」では、視認して、それは確かに家であると認識できるのですが、しかし、私の持つ家のイメージからは乖離した"家"の空間になっています。
壁を貫通している机や、傾斜の上に置かれたあらゆる家具などは、ある事象に対して、肉体や五感を超えた、精神の上での再認識を促しているように感じました。
そして、「楕円形のフィールド」では、世界がまるで、視界の中に収束したかのような、宇宙が養老の地に宿ったかのような、それもまた、肉体を超えた経験をすることができました。
(何を語っても稚拙になるので、百聞は一見に如かず、ぜひ行ってみて体験してみてください…)
話題を日向坂に戻すと、この、"肉体という常識を超越したエクスペリエンス"というものは、"JOYFUL LOVE"の世界観においても共通した問いかけが示唆されているように感じます。
自らと、ある対象(=君)とのかかわりを表現しているように感じます。しそして、ここには徹底して"言葉"が描写されていません。代わりに、言葉による働きかけを超えたコミュニケーションは言葉を用いたコミュニケーションよりも上位に属するという暗示がされていると考えます。(言葉は邪魔になるの箇所)
そして、養老天命反転地を振り返ると、共通して浮かび上がってくるのが、"肉体を超越した、対象との交わり"です。
言葉の否定(言葉は邪魔になる…)=情報を音波として伝達することの否定
行動の否定(何にもしなくても…)=肉体的行動による働きかけの否定
∴ 物質的な行動よりも精神的な活動を上位とする価値観の確立
とみることができました。
要約すると、養老天命反転地が"身体という制約を超えた"体験を提示しているのだとすると、このJOYFUL LOVEもそういったテーマを提示しているという推察がこういったところから可能であると考えます。
そして、一番のサビの箇所
この箇所においても、言葉の否定(理由なんか…)が描かれています。
そして、気になるキーワードが"笑顔の連鎖"です。
LOVEという、他者との唯一のインターフェース
君が幸せと僕が幸せという二つの基準が同値で結ばれるということはいったいどういったことなのでしょうか。
これは、昨今のSNSの発達した世界を振り返ってみると一つの理解が得られると考えます。
インターネットの興隆によって人間は肉体を超越したかのように考えられている節があると感じます。
あらゆる技術の発展は、人間の身体機能の拡張を推進してきました。
例えば、足で歩く代わりに、人力車を、自転車を、自動車を、飛行機を、
視力の限界を超えるために、眼鏡を、双眼鏡を、顕微鏡を、望遠鏡を、
力の限界を超えるために、棍棒を、ナイフを、銃を、爆弾を、
計算能力の限界を超えるために、10進数を、対数を、計算機を、コンピューターを
作り上げてきた歴史が、ホモサピエンスの歴史でもあると私は考えています。
そして、インターネット技術は肉体そのものから人間を自由にしようとしている側面があると私は考えます。
例えば、コロナ禍において、Google Earthで旅行気分を味わうというアクティビティが盛り上がったということを耳に挟みました。また、AmazonやePayなどで世界中の商品を購入できること、YoutubeやSkypeなどを通じて世界中の人と簡単に交流を持てること。
これらの事象はまさしく、人間を身体という制約から自由にする試みであると私は考えます。
そして、こういった試みは、人間に対して、空白の時間を代わりに供給します。目的遂行に対する時間の消費割合が劇的に少なくなる、例えば、買い物で何店舗もまわって値段を比較することなく、インターネット上で最安値が提示されていて、最短ルートで最適解にたどり着くことのできるような状況においては、どうしても”無駄を削って余った時間”が人々に与えられます。
すると人々はその時間を使って、どんな技術を以てしても侵されない聖域である、精神の領域について向き合うようになってきていると感じます。
そこで、人々の心の隙間を埋めるように台頭してきたのがSNSであると感じています。
大前提として、人間は社会的な動物とアリストテレスが説いたように、その精神についてを自らの存在のみにて探求することはできません。ゆえに、人は他者とのつながりを希求し、社会とのつながりのなかで、自らの精神や、存在の意義について探求しているのだと考察します。
そうしたなか、現代人は削れる時間が多くなったことにより、自らとはいったい何なのだろうかという課題に対して与えられた時間が昔のそれよりも多いんじゃないかな~と勝手に想像しています。
そこに良薬かつ毒薬として現れたのがSNSなのだと思います。
SNS、インターネットは世界を縮小したと同時に、人の相対的価値づけを世界の枠組みのなかで行うということを成し遂げてしまいました。
例えば、それまでの世界は、未成年者に対する評価は、学校を主として評価されていました。学校という閉鎖的領域の中で成績がいいのか、悪いのか、何かに秀でていると認められるのか。そして、学校で下される評価について懐疑的な人は、他のコミュニティにおいて評価され、承認欲求を満たすことのできるという環境にあったと思います。
また、働いているならば、その会社組織のなかでのペルソナの評価としての年収や、家庭のなかでのペルソナ、地域のなかでのペルソナの評価など、あるペルソナに対して、ある一定の集団が承認をする、という構図で世界が形作られていたように感じます。
しかし、SNSを中心とするネット社会の流れは、その評価を、人物の持つあるペルソナではなく、全人格的な評価、そして、その評価基準となるのは全世界の人々であるという特異な状況を作り上げてしまったのです。
「上には上がいる。下には下がいる」という言葉がどこか空想性を帯びたものではなく、実在性を以てして、私たちに襲い掛かってきているというのが、このネット社会の承認欲求周りを渦巻く構図であると感じます。
自らの全人格が、ある他人と絶え間なく競争させられているという状況下では、心を摩耗させていくことは自明の理であると思われます。
そうした社会を取り巻く状況の中で、心の安全地帯となるのは何なのでしょうか?
その答えについて、"JOYFUL LOVE"はこう示しているのだと思います。
それは、幸せの比較のない世界です。
あなたは私より幸せ、私はあなたよりも幸せという物差しではなく、
あなたが幸せならば、私もきっと幸せ。
その関係性は、ある種の優しさによって形作られるのではないでしょうか。
幸せを比較しなくてもいい存在、誰よりかは優れていて、誰よりかは劣っている。そんな相対的な価値観がお互いの承認に関与しない関係性。
誰かにとっては家族でしょうし、恋人でしょうし、友人でしょう。そういった関係は、”どんな悲しみでも癒す”優しさで包み込まれているのだと思いますし、帰る場所、居場所という表現がふさわしいのだと思います。それをこの歌詞の主人公は"LOVE"という風に解釈しているのでしょう。
そして、それは日向坂とおひさまの間にも同じようなことが言えるのだと思います。
主観ですが、日向坂のファンは箱推しの人が多い気がします。もちろん推しメンはそれぞれ違いますが、日向坂のメンバーみんなを応援している人が多いと思います。そして、日向坂というグループが好きだというのは、奇跡的な偶然によって集まった人たちが作り上げた日向坂という存在が好きであるということです。それは、メンバーに留まらず、スタッフの方々や共演者の方々が巡り合ったという奇跡も含まれます。
そして、それはまさに唯一無二の対象、絶対的尺度を有していて、他のグループと比較することの原理的に不可能な日向坂(日向坂だけではなく、あらゆる集団に同じことが言えますが…)と、日向坂に共鳴するように集まった”おひさま”の関係性。これは、相対的な承認では語れない尊さを持っていて、JOYFUL LOVEの歌詞に共通する価値観が顕れているのだと思います。
だからこそ、日向坂関係者がこの曲を生誕ライブのラストの曲にして、おひさまはそれに応えるように虹を作るほどに大事にしているのだと思います。
そして、そういった絶対的な愛情をこの時代に宿すことは、世界に対して肯定的に向き合うことの第一歩となり、そうした試みが「笑顔の連鎖」につながるのだと思います。誰かを絶対的に承認し、居場所を世界に作るということは、全人格が比較され、システムの中で価値づけられる冷淡でペシミスティックな世界からの解放を意味していて、その連鎖により、世界はもっと住みやすくなるという風にメッセージを送っているのだと思います。
流転する生命と水から香る死の運命
JOYFUL LOVEのMVのラストには、プールが登場します。
これは養老天命反転地内のオブジェクトではないので、わざわざ場所を変えて意図的に撮影された、特に意味を持つ描写であることが予想できます。
JOYFUL LOVEの世界を今ひとつ考察しきれずにいた私は、このプールのシーンにより、JOYFUL LOVEについて1つの結論を出すことができました。
それは、「JOYFUL LOVE」は霊性と愛情を出発点とし、生と死の回転を描いた作品ではないかなということです。
歌詞中に"僕"と対峙する"君"が出てきます。
これらの箇所で描かれているのは、生きている上での痛みについて"君"との出会いによって向き合い方が変わった"僕"の姿です。"君"との出会いにより、"僕"は生きる上でぶつかるネガティブについて前向きにアプローチするようになったと考えます。
では"僕"の価値観を変えるほどの出会いとはどのようなものなのでしょうか?
私は、この優しい出会いのなかで、言葉もなにもかも邪魔になるような尊い交流のなかで、主人公は"死"、つまりは出会いも関係も永遠ではないという事実を見たのではないでしょうか。
"メメント・モリ"と"カルペ・ディエム"
そういった命題がこの曲には内包されているのだと感じます。
そのように至った過程にあったのが、MVのラストにあるプールのシーンです。
水、というのは冥界に近い存在です。水面は鏡となり、あの世とこの世を行き来するドアになるとか、水場には幽霊が集うとかそういったオカルト話は挙げればきりがありません。そして水は万物の母であり、また、輪廻を暗示しているのではないかともでも考えます。すなわち、あえて水を描く、というのは生命についてのメッセージを伝えるという意図があるのではないでしょうか
考察すると、"JOYFUL LOVE"のラストはそれまでの養老天命反転地の自然、オブジェクト=生命 に囲まれたカットから一転し、水と光だけの世界 = 死 への変化であると考えられます。
そして、このことから、"君"は"僕"に有限性を悟らせた存在である、とも考えられます。
つまり、"君"との出会いは、"僕"にある種の終わりを悟らせた。と考えることもできるかと思います。
しかし、"JOYFUL LOVE"はそんな1つの恋愛ストーリーに集約しない、壮大なテーマ性を持っていると私は考えます。
次の章が私の考察の結論になります。
"JOYFUL LOVE"とは
"君"の存在は、"僕"にとって何だったのか。
それは結論から言うと、"神の存在を確信させた存在"です。
先ず、君に出会って、僕は「俯くより顔を上げる」「今日のことはすぐ忘れる」
という未来志向への転換に変化しています。
これは、先述したMVの水のシーンと合わせて考えると、"君"との尊い出会いの儚さを悟り、その先に身体に縛られた今という時間を超え、未来に訪れる死という終焉を悟ったので、有限である時間を噛み締めて歩き出したということであると考えます。
そして、"僕"はそんな終焉を感じさせるほどに尊い"君"の奥にある種の神性を感じたのだと思います。
そのことにより、"僕"には希望が満ちます。終盤の歌詞である
という箇所には、LOVE ではなく WORLDをJOYFULという風に讃えています。
これは、"君"が"僕"に光のある、つまり有限であるからこそ尊い出会いを通じてこの世界の素晴らしさを示した。それにより、"僕"はこの世界を肯定する、この世界は喜びに満ちているという風にとらえるようになったことを示しているのではないでしょうか。世界に色がつく、という感覚ですね。
(私はこの歌詞の考察を通じてTVアニメの「CLANNAD AFTER STORY」の最終話を思い出しました。灰色の世界から、出会いの肯定により世界に色がつくという描写は他者の肯定と世界の肯定は繋がっているんだよ、というメッセージを含んでいるのだと思います。)
つまり、"JOYFUL LOVE"の描くテーマは、
悲しみと孤独のなかにいた”僕"が絶対的な愛情をもって"僕"とかかわる"君"との有限の尊い時間を通じて、"君のいる世界は素晴らしい"と世界を肯定し、その"僕"がまた喜びを連鎖させていく。
という希望に満ちたものであると考えます。
また、MVのラストシーンの人差し指を立て、手首と手首を合わせて開いた両手を180度回転させるカットは、これはあらゆる循環を表していると考えます。
水に暗喩される死と生の回転や、見返りを求めない愛情の連鎖が回転していくということや、精神的活動と身体的活動の循環などです。
JOYFUL LOVE と日向坂
この出会いによる世界の肯定は、アイドルとファンにおいても、関係性の理想形でもあります。"推し活"という言葉が流行して久しいですが、理想的な推し活とは、肯定できる他者の不在という世界を塗り替えるほどのエネルギーを持った"推し"と出会うことを意味しているのではないでしょうか。そして、坂道アイドルを応援するというのは、卒業してメンバーが入れ替わるという仕組みの結果、他のことに比べて圧倒的に推せる時間が短いと感じます。つまり、最初から終わりの見えている存在と出会い、尊い時間を作り上げていく。そういう構図の中におひさまと日向坂はいるのだと思います。
なので、”JOYFUL LOVE”はそんな儚さを持っているゆえにファンから愛される楽曲になっているのだと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?