解読 ボウヤ書店の使命 ㉜-7
朗読譜『カラスの羽根、あるいは雀の羽根、ヒヨドリの羽根』
《《留置所から出てきた男》 文 米田 素子
近頃は酒を飲まなくなったと言うと、酒飲み仲間が、いい加減にしろ、そんなやわな根性でどうするんだ、芸術文化の為には何が何でも飲まねばならぬと言う。しかしどうしたのだろう。彼の言い分が死ぬほどよくわかるにもかかわらず、ある日突然どういうわけか、喉を酒の刺激で焼くのが面白いとは思えなくなった。
私は下戸に憑依されているのだろうか。
しかも、それと同時に、あれほど手放せなかった珈琲も飲めない。あの酸味と苦味がきりりと香り立つ琥珀の液体で、やはり喉をジュッと焼く感触を味わいたいという気になれない。酒と珈琲は恐らく、どちらかを受け入れると、片方も受け入れることができるという、のっぴきならない関係性にあるのだろう。
それにしても、どうして飲めなくなったのか。これらの飲み物が醸し出すなんとも言えない後味や残り香は、古く黄ばんだ紙に落とす濃紺のインクのように、私にありもしない過去を与えてくれていたのに。
ありもしない過去を手に入れる。
それはなかなか興味深いことではないだろうか。「私」という人間を今あるもの以上の重量感に見せる。ありもしない過去を身体の記憶領域に注入することでそれは可能になる。そもそも過去などというものは曖昧なものだから、中身を変化させ、重量を水増しさせたところではっきりと捏造とも言いきれない。
さて。それで思い出したのだが。
知り合いの中に、様々な過去を創り出しては、平気で纏うことの得意な男がいた。
初めて出会ったのは、とある動物園の孔雀の檻の前で隣り合わせた時で、彼はいきなり
「昨日、留置所から出てきたばかりでね」
と私に話しかけた。
「それはまた、何をして、留置所に?」
「裸で運河にダイビングしてね、泳いでいたらパトカーが道路脇に来て、まんまと捕まった」
「どれくらい留置所に?」
「三日間」
「そんなに? 裸で運河にダイビングしたくらいなら、翌朝、帰してもらってもいいでしょうに」
「家に帰るための服がなかったんだ。裸で飛び込んだからね」
男は着ているシャツを引っ張って見せた。
「貸してもらえないのですか」
「甘いね。私が行った留置所はそんなところじゃない」
目の前の孔雀は大きく羽根を広げていた。
私はなんとなく奇妙な話だと思い、そこで話を止めて、「じゃあ、失礼します」と言ってその場を去った。留置所のこともあまり興味がなかった。
ところが、その数日後、仕事で参加した異業種交流会で、その男に再び声を掛けられて驚いた。
「あれ? あなた、先日の、孔雀の前でお会いした」
スーツを着たその男が言う。
「ああ、留置所から出てきたばかりの――」
私が言うと、男は恥ずかしそうに笑い、
「そうそう。よかったら、また後で、珈琲でも」
と言って、名刺をくれて、そのまま、「じゃあ、じゃあ、そのうちに」と私の腕を叩いてから、あっという間にどこかに行ってしまった。呆然としていると、
「あの人とお知り合い?」
別の知人が近寄って来た。
「知り合いというか、前にちょっと話したことがあるだけの――」
貰ったばかりの名刺を見せると、
「やっぱりあいつ、違う人になっているのだな」
と知人が名刺を見ながら言う。「前にどこで会ったの?」
「動物園で、孔雀の檻の前で」
「それはやはり僕と同じだ」
その知人は彼の名刺を取り出して私に見せた。「違う名前だろう?」
確かに、違う名前だった。
「孔雀の前で、彼とどういう話をしたの?」
私が尋ねると、
「あの男、たった今、ロサンゼルスから帰ってきたところでね、と言っていたよ。薬品を入れるアルミの板を製造販売しているらしい。で、君にはなんて言ってた?」
知人は興味深げににやついている。
「私と会った時はそれとは違う話をしていたけど――」
留置所から出てきたばかりだと言った話はしにくい。
「そうだろう? 実はそういう証言をする人が何人も居るの。ある時は年老いた母親の介護をしていたが昨日亡くなってね、と言ったり、教師をしていたが一人の生徒の親の会社にスカウトされてね、と言ったり。ところが、どういうわけか、どの人もみんな動物園の孔雀の檻の前で彼と遭遇している。そして、『たった今、〇〇したところでね』と話しかけられている。そこだけはなぜか同じ。で、聞いた話はまちまちで、名刺を貰うとそれぞれ名前が違う」
知人はますますにやついていた。
「本当に?」
でっち上げた話に思えた。
「本当さ」
私の肩を叩いてから、知人は去った。
それから数日経って、私は、その男から貰った名刺の電話番号に電話してみようという気になった。なんとなくその名前に見覚えがあったような気がしたし、あの日、男は「よかったら、また後で、珈琲でも」と言って名刺を手渡してきたのだから、ひょっとしたら、まだ話の続きがあるかもしれないと思ったのだ。
電話をすると、その男らしき声の人間が出た。
「先日異業種交流会でお会いした――」
と名乗りかけると、
「どういう、過去でしたっけ?」
と聞くので、つい私の過去を話そうとすると、
「それじゃなくて、僕があなたに教えた僕の過去。孔雀の前で言ったでしょう? それは、なんでしたっけ?」
と言う。
「留置所から出てきたばかりで――7、とか」
「ああ、ああ、それね。その人ね」
と、笑った。
それをきっかけに、どういうわけか、その男とは気が合って、なんとなく茶飲み話をする仲になってしまった。人間というのは相手が生真面目な人間だから安心して付き合うとか、こちらが得するから会ってみようとするだけではなく、単に気が合うからという気軽な理由でも仲良くなるものなのだ。
しばらく経った頃、
「ところで、なんで、そんなことするの? ありもしない過去を捏造するなんて」
と聞いてみた。
「厳密に言うと、どれもありもしない過去というわけでもない。それよりも、僕にしてみたら、どうしてみんながみんな、動物園の孔雀の檻の前に立っているのか。そのことの方が不思議でね」
彼は肩をすくめた。
「人間のみんながみんなそうじゃないだろう? 虎の前や麒麟の前にもいるだろう? 動物園でなければ電車を待っていたり、ケーキ屋の前でモンブランにするかオペラにするか迷っていたりする。それとも、孔雀は大きく羽根を広げて見せるから、人間はみんな虚栄心に惹きつけられるのだと、たとえ話でも言いたいのか」
「そうじゃないんだ。そういうことじゃないんだ。だけど、みんながみんな、そうなんだ」
意味不明なことを言って、ゲラゲラ笑った。
結局、「みんなが動物園の孔雀の檻の前で立っている」ことの意味はよくわからなかった。
いずれにしても、今でも私は彼とちょくちょく一緒に珈琲を飲む。酒は止めたが珈琲は復活した。
ありもしない過去を手に入れようとして。
しかし、今でも彼の本当の名前を知らない。
彼の本当の過去も知らない。
(了)
制作2020年8月25日》
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