見出し画像

長編小説 コルヌコピア 二部 連結

二部

六章 現実に入り込む過去の具象

1 トウジョウマキオからの手紙

 内田アユラは島から戻り、高層ビルの見える港に降り立っただけで呼吸が楽になるのを感じた。

 ――都会の煤けた空気の方が私には合う。

 もちろん、アーチスト養成プログラムの仕事もやりがいを感じさせるものではある。受講生と語り合うのも充足感がある。

 ――だけど、オプションツアーの島の方はなあ。

 だだっ広い空と海、他には果樹園と民宿しかない風景の中に居ると心が病みそうだった。そんなアユラの気分に反して、プログラムの参加者たちは誰もが解放感に包まれたようだった。むしろ、病んでいた心が癒されると言い、これまでに見た事のない海や空の青さに感嘆し、自身に訪れた人生の転機や幸運を絶対に逃すまいと意気込んだ。
 アユラには到底信じられない思いだった。

 ――あんなに何もないところで羽根を伸ばすなんて。

 この体験から考えれば、アユラはそもそも芸術家肌ではないのかもしれない。ビルやアスファルトで構築された都市で、彼らの作品をどうやって世に出すかを考えたり、ギャラリーと交渉したりする方がずっと肌に合う。作品の意味を考えることには興味があるし、それに、他の人よりも得意だと思える。

 ――やっと帰って来たあ。

 もう、この後は部屋から一歩も外に出ずに仕事をしようと考え、自宅マンションに最も近いコンビニの前でタクシーを降りた。缶ビールと稲荷寿司、カップスープを買う。後は冷蔵庫の中に保存している野菜でサラダを作って突っつけば充分だろう。
 島では、辺りに立ち込めていた潮の匂いが常に人肌への記憶を刺激するせいか、なんだか過去へと気持ちが引っ張られがちだったが、自宅周辺は通行人の化粧やラーメン屋の放つものが主流で、それに対する好悪に関わらず未来へと進むことを推奨している。常に先を急いでいる人々の体臭と化学薬品でごまかされた安っぽい香水の匂い。あるいは、毎日くたくたになるまで煮込み続けられた動物の骨や魚の出汁の匂い。アユラ自身の匂いではないものばかり。この場所で取り入れられる空気はアユラの体内にとって明らかに異物であり、逆にアユラ自身が吐き出す息や醸し出す匂いも街にとっては異物でしかない。その明確な境界線が気持ちいい。
 意気揚々とマンションの入り口に向かい、扉を開けようとしたところで、後ろから声を掛けられた。
「内田アユラさん、ですよね」
 振り返ると、借りているマンションの部屋の大家だった。不動産屋が仲介しているが、賃貸契約の日に偶然店舗で出くわして顔見知りとなった。同じ駅周辺に住んでいるのか、時々見かける。綺麗に切りそろえた角刈りの頭髪と、それほどの美男子でもないが魅力的でほのかな笑顔を持つ。流行りの服装はしない。そして小柄で細身のボクサー体型。アユラの持つボキャブラリーでは「存在そのものがスタイリッシュな男」に分類されていた。
「家賃は入金していますけど」
 アユラは咄嗟に身構える。家賃のことではないのなら、隣近所から何かクレームでもあって叱られるのだろうか。水道をきちんと閉め忘れたとか。
「僕のところにアユラさん宛ての手紙が配達されて、それをお届けにきました。もちろんこれは封を切っていませんが、どういうわけか、僕充ての封筒の中にこれが入っていたので、ちょっとびっくりして」
 大家はグレーのパーカーのポケットから白い封筒を取り出した。
「誰から?」
「トウジョウマキオさんから、となっています」
「トウジョウマキオ?」
 一瞬、誰かわからなかった。
「大学時代のお知り合いではないですか?」
 大家が言うと、アユラはそうだったと思い出した。美大に通っていた頃の先輩で、恋人だったわけではないが、しょっちゅう部屋に遊びに行ったり、二人でドライブに行ったりした。つまり恋人ではないと言っても、それは定義によるところだろう。
「トウジョウさんが私に?」
「アユラさんの住所がわからなかったので僕の所に送ってきたようです。住所も知らないのに、僕がお部屋をお貸ししていることをどうしてご存知なのかはわかりませんが」
 大家は迷惑そうに唇の端を下げて少し微笑んだ。
「大家さんのところに送られてきた封筒にはこれだけ? そして、私に渡してほしいと?」
「それだけではないみたいですよ」
 先程とは逆側のポケットから、ぴっちりと折りたたまれた紙を取り出し、開いて読み始めた。「トウジョウマキオは大学時代の友人です。内田アユラさんに封筒を渡してください。トウジョウマキオは亡くなりました」
 読み終わると、アユラの方をじっと見て、「ショックですか?」と言う。
 ショックかと聞かれても、すぐにはピンとこなかった。
 美大を卒業してからは過去のことなど何も考えずに、ひたすら走るように仕事をしてきたのだ。本来はアーティストになりたかったが業界の体質が合わなくて脱落し、フリーライターに転向して、やっと今のポジションを得たところだった。
「彼とはそんなに深い付き合いでもなかったから」
 自然にそんな言葉が出た。事実と言ってもいい。
 大家は、静かに微笑んで、そうですかと言い、じゃあ、僕の方からはそれだけですと帰って行った。

 トウジョウマキオ。

 ――どうして今頃? 

 アユラは大家から受け取った手紙の差出人の名前を見た。

 ――本当にトウジョウさんかしら。

 差出人の住所もなく、ただ「トウジョウマキオ」と書いてあるだけ。

 ――どうして私に手紙を? 亡くなられた?

 部屋に戻り、ひとまずストレスを与えないブラジルのギター音楽をかけると、部屋着に着替えてからポットにお湯を沸かし始め、手紙の封を切った。白い簡素な便箋が二枚折りたたまれている。恐る恐る取り出して開くと、艶やかな黒いインクでしたためられていた。

《アユラへ。元気? びっくりした? きっと僕のことは忘れていたでしょう。僕は卒業してからファッション業界で生きていました。それについては意外ではないと思うよ。あの頃からアユラにはファッションデザインのことをよく話したから。実は僕は今病気で、もうすぐこの世からいなくなるそうです。医者がそう言ったんだ。それで、僕がこの世からいなくなったら、この手紙が君のところに届くように頼みました。どのようにしてそうできたかの仕組みについては考えないで。いずれにしても、君がこれを読んでいる時は僕はもうこの世にはいない。残念だけど、君はそのことをそれほど悲しんだりはしないだろう。ついでに言うと、僕自身、そのことをそれほど悲しんではいない。周囲の人たちが僕の事をかわいそうだと言うけれど、自分ではそんな感じがしない。強がっているのかなと一応考えてみたけれど、どう考えてみても、自分のことがかわいそうだとは思えないんだ。誰でも時が来れば死ぬし、生きている間にやりたいことをやって、死んだ後はどうなるかというのは、死んだ後にしかわからないことだからね。さて、どうしてアユラに手紙を書いたかというと、大学の頃に僕が貸してあげたオーバーコートのことについて伝えたいことがあった。あれをアユラはまだ持っているだろうか。もしも持っていたら、燃やすか、あるいは切り刻んで捨ててほしい。それだけだ。突然、こんな手紙を渡されて驚いていると思うけれど、僕はもうこの世にいないのだから、あれこれ考えずにそうして欲しい。それだけです。ご活躍をお祈りしています。トウジョウマキオ》

 アユラは手紙を閉じ、著しい疲労感を覚えてソファに寝転がった。アーティストの養成プログラムが始まったばかりで、しかも、やっとオプションツアーの島から帰ってきたところで、いよいよ本格的な仕事に取り組もうとしているところなのに、こんな意味不明な手紙が届くなんて、とんだ差し水じゃないかしら。
 とはいっても、この手紙はいたずらではないだろう。実際にそのオーバーコートを借りた覚えはある。
 大学二年の冬、トウジョウの部屋に行って、帰ろうとしたら雪になっていた。それで急遽、貸してくれたのだ。
 あれは突然の雪だった。その頃アユラが住んで居たアパートとトウジョウのアパートはすぐ近くにあり、その日の夕方、実家から届いたみかんを届けるつもりで上着も羽織らずに訪問したのだったが、つい上がり込んで長話をするうちに夜になり、雪になった。
 帰り際、トウジョウが「近くだとしても冷えるから」と黒いコートを貸してくれた。フランネルの異様に重いコートで、内側の生地にトウジョウの体臭が沁みついている。その匂いでなんだか急に恥ずかしくなって、借りるかどうか一瞬迷ったけれど、あまりに激しく雪が降るので断る理由も見つからず、黙って羽織って自室に戻った。
 ところが、その翌日からトウジョウはどこにも突然姿を見せなくなり、噂では留学の準備をするために休学をして、やがて海外に行ってしまったらしく、結局、借りたコートを返すきっかけを失ったのだった。
 そうなる前から、トウジョウの部屋の隣には人目を引くほどの美人会社員が住んで居て、時々、トウジョウの部屋に遊びに来ているのを見かけたことがあったが、彼女も彼が休学をして海外に行くことを知らされていなかったしく、アユラは近くを通りかかった時に呼び止められて、どこに行ったのかとしつこく聞かれたことを覚えている。
 その女性のあまりにも青ざめた表情が恐ろしくて、ひょっとしたらこの女性はトウジョウの恋人だったのかなと、その時初めて思ったのだ。
 その後、一度もトウジョウマキオと会う機会はなく、ずっとオーバーコートは返せないままでいた。大学を卒業しても、借りたものを勝手に捨てる気にもなれず、今でもそのまま実家のクローゼットに入れたままになっている。母親が捨てたりさえしていなければ、今でも衣類カバーを掛けたまま置いてあるだろう。
 でも十年以上前のことだ。アユラとしてはもうすっかり忘れていた。それなのに、もうすぐ死ぬのだからと言って、どうしてわざわざあのコートのことを手紙に書いてまで、捨てるようにと伝えてきたのだろう。
 ひょっとしてあのコートに何か因縁でもあるのだろうか。ずっと忘れていたのに、隣室の美人会社員が見せたあの異様に青ざめた表情が思い出されてぞっとし、急に背中が寒くなった。

 ポットのお湯の沸騰している音が聞こえた。
 アユラはひとまず気分を切り替えようと、コンビニで調達した稲荷寿司とカップスープで空腹を満たすことにした。奇妙な手紙を受け取って気分は一瞬でかくんと下落したが、お腹が空かないわけはない。
 缶ビールの蓋を開けるのはひとまず止めて、食べながらノートパソコンを立ち上げ、仕事の準備を始めた。トウジョウのことも気になるが、せっかく取材して手に入れた記憶を忘れないうちにメモアプリに落とし込んだり、提出用のドキュメントとして仕上げておきたい。手書きのメモやスマートフォンで撮った写真を選抜しながら、いつものようにさくさくと仕事を片付けていく。キーボードの上をリズミカルに叩きながら、アユラは自身の心の切り替え能に拍手したかった。

 ――私ったら人間失格? 

 そう心の中で呟いて、にやりとする。
 確かに、あの頃トウジョウマキオはアユラにとって特別な存在だった。恋人でもなく単なる友達でもない。心の奥深くまで話せる親友のようなものだった。でも、オーバーコートを借りた日以来一度も会っていないから、本当に親友としての絆があったかどうかも不確かだ。親友であれば急にいなくなったりしないはずだし、連絡くらいしてくれるだろう。

 ――実際、あの頃、トウジョウは私の事をどう思っていたのかしら。

 キーボードを叩きながら、ふとそんなことを思う。トウジョウは一年だけ年上の先輩だったが、すでにプロのアパレル関係との付き合いがあり、アユラからすると異様に大人に見えた。だからトウジョウのような半分玄人めいた男が自分みたいに平凡な後輩に恋したりしないと決めつけていた。
 だけど、わざわざ亡くなる前に手紙を寄越すのだとしたら、少しくらいは気もあったのかしらと思う。

 ――だとしたら、ちょっと損したかな。

 キーボードを打つ手を止めて、小さく苦笑いする。カップスープを底が見えるまで飲み干した。お箸で小さな具をかき集めて口の中に入れる。
 あれこれ考えつつも、キュレータの仕事としてのドキュメント制作をつつがなく行えるのだから、ひょっとして私、二重人格なのかなと思い、「まさかね」と声に出してまで言ってしまった。
 一時間ほどかけてひと通り仕事をやり終え、そこで缶ビールの蓋を開けた。グラスに移し、ソファに座って三分の一ほど飲む。冷蔵庫から出したままにしていたのでそれほど冷たくはない。クラフトビールだから、ちょうどいい温度だ。柔らかな甘味が体に浸透して、細胞から元気になっていく気がする。立ち上がって冷蔵庫を開け、少しずつ残っている野菜と蒲鉾で簡単なサラダを作ってつまみにした。
 安価な皿に乗った料理は見るからに貧相だったが、アユラとしてはそれほどわびしくはなかった。仕事柄、立食パーティーや接待で高級料理を食べる機会は山ほどある。そういった経験の結果、結局のところ、一仕事終えてから一人で部屋で飲むビールと、自身で手軽に用意したつまみが一番美味しいのだと気付いてしまった。誰にも気を使うことなく口に運べる。三十歳そこそこでこんな悟りが訪れてしまうのは早いのか、それとも遅いのか。
 そういえば、トウジョウは部屋に行くとよく瓶麦酒を飲ませてくれた。料理なんか全くやろうともしないトウジョウの冷蔵庫には瓶麦酒がびっしりとストックされていて、この家にはお茶なんてものはないんだと栓を抜き、グラスにとくとくと注いでくれた。小さな皿に柿の種。そんなことを思い出してみると、眼がしらが熱くなり、少しは涙が出ないわけでもなかった。

 ――だけど、本当に亡くなったのかしら。

 ビールをぐいと飲む。本当に亡くなったのかどうかもはや調べようもない。トウジョウとは学部は同じでも学科も学年も違うから、共通の友人は一人もいない。たまたま新入生歓迎会のテーブルで話をしたのが知り合ったきっかけで、どうしていつしか親友のように心のうちまで話したのか、もはや思い出せない。心のうちと言っても、秘密めいた悩みや将来の希望ではなく、もっと深い、どうして人は生まれて来なければいけないのだろうといった哲学めいた話ばかりした。話をしたというか、こちらが聞かされていただけなのかもしれない。具体的にどんな話だったかは思い出せないけれど、アユラの現在の仕事の中には、無意識とはいえそれらがきっと息づいているに違いない。

 ――だけど、これまでそんなこと、考えてもみなかったな。

 トウジョウが自分にとって重要な人だと意識したことはなかった。ただコートだけが返されずに残り、卒業しても捨てようがなかったので実家で預かってもらった程度のことだった。
 トウジョウマキオは本当に亡くなったのだろうか。しかも、どうして大家のところにそんな重要な手紙が届いたのか。

 ――何もかもイミフ。

 グラスの中のビールを最後の一滴まで飲み干すと、さすがに仕事の疲れが頂点に達する。
 
 ――今のところ、この件は深堀せずに放っておけばいいかな。

2 トウジョウマキオとは誰か

 ソファに寝そべって目を閉じていると、珍しく固定電話が鳴った。重要な知り合いには携帯電話の番号しか教えていないので、固定電話なら営業かなにかだろうと無視したが、いつまでもしつこく鳴り続けるので電話機の前に立った。

 ――あら、この番号、大家じゃないかな。

 恐る恐るだが受話器を取るとやはり大家だった。まずは「急に電話をしてすみません」と言う。
「ところで、さきほどの手紙、読みました?」
「もちろん、読みました」
「なんて、書いてありました?」
「言わなくてはいけないのでしょうか」
 アユラはムッとした。大家だから連絡先を知っているとは言え、そこまでプライバシーに踏み込むのは法律違反なのではないか。
「すみません」
 大家はこちらの憤慨に気付いたのか、再びすぐに謝った。「でも、少し気になったことがあって」
「なんでしょう?」
 アユラは子機に切り替えてソファに座った。なんだか話が長くなりそうな気がする。
「差出人のトウジョウマキオという方は本当に亡くなられているのでしょうか。そう書いてありました?」
 アユラの気になっていたことが、やはり大家も気になるらしい。
「そう書いてありました。この手紙が届く時には自分は死んでいると」
「だとすれば、僕のところにその手紙を入れた封筒を届けたのは誰なのでしょうか。差出人のところにはやはりトウジョウマキオと書いてありますが、僕の住所も書いてある」
「それは、トウジョウさんが亡くなる前に書いて、ポストに投函するようにと誰かに頼んだのではないでしょうか」
「でも、実は僕、近所ですけれど、三日前に引越して、まだ誰にも引越したことを話していないんです。なんだか不気味な感じがしませんか。気持ち悪くなってしまいまして。これ、本当にトウジョウマキオと仰る方の書いたものでしょうか。手紙の字とか内容で断定できます?」
 アユラにとって大家との関係は実に淡いものだが、もう三回更新して住み続けているのだから付き合い自体は短くはない。大家が嘘をつくような人間には思えないし、声の調子は本当に戸惑っているように聞こえた。
「内容を読んだ限りでは、トウジョウさんだと思いました」
 そう言うと、
「どんな内容?」
 想像に反して踏み込んできた。
「どんなって、そんなことまで言わなくちゃいけないんですか?」
 悪い人間ではないとしても、さすがに越権行為も甚だしいではないか。
「すみません。でもなんだか、僕としても気持ち悪くて。もちろん、話したくないことなら話してもらわなくてもけっこうです。お二人の想い出に入り込むような失礼なことはしたくないですから」
 妙に大袈裟に言うので、
「別にそんな秘密めいたことじゃないわよ」
 つい、大きな声で言ってしまった。
「そんなに怒らせるつもりはなかったのだけど」
 大家の方は声が小さく泣きそうな感じになった。
「話してもいいですよ。昔彼から借りたコートがあって、それについて、僕はもう死ぬから処分してくれと書いてあるだけです。それだけですが、そんな昔のこと、私と彼にしかわからないはずだと思って――」
「そうかな。その話をトウジョウマキオが誰かにして、トウジョウマキオのふりをしてアユラさんに近付いた、なんてこともないとは言えません」

 ――なるほど。

 アユラは少し黙り込んだ。
「言えなくはないわね」
「でしょ? こんな気持ち悪い手紙、見なかったことにして放置していいものかどうか。筆跡はどうですか。トウジョウさんのものかどうか、わかりますか?」
「それは無理。手紙なんてもらったことないから」
「僕に届いた封筒の表書きの筆跡と、アユラさんの持っている手紙の筆跡が同じかどうかだけ確かめませんか。アユラさんの都合のいい時に、近くのドトールかどこかで待ち合わせて」
 大家の提案をアユラは承諾した。あまり気乗りしないものではあったけれど、確かにこのまま放置するのでは不気味さが残る。それに、もしもこれが誰かのいたずらだとすれば、トウジョウマキオは生きていることになるから、それはそれで嬉しい気もする。
「じゃあ、明日の午後一時、マンション近くのドトールで」
 アユラは手帳を見ながらそう言った。夕方から始まる会議の前なら少し時間がある。
 大家もそれで承諾し、電話を切った。

 ドトールに現れた大家はグレーのパーカーを着てGパンを履いていた。実際に対面して会うのは、通常年に二回の排水管清掃とガス点検の時だけで、もしも更新手続きや故障対応があればそれに数回プラスされるとしても、それほど頻繁なことではない。その程度の付き合いであるにしても、いつ見てもこのパーカーとGパン姿のような気がする。
「遅くなってすみません」
 大家は額に汗をかくほど急いで来たようだが、待ち合わせの時刻から五分も遅れてはいなかった。
「私も、たった今来たばかりですから」
 テーブルに座っていたアユラが言うとほっとした顔をして、よかったと微笑んだ。座席にリュックを置き、カウンターでアイスコーヒーを注文して戻ってきた。シロップを一個まるまま全部流し入れて、ストローでごろごろとかき混ぜ、ぐいと半分ほど飲んでから、
「さっそくですが、例の封筒を持ってきました」
 リュックから大き目の茶封筒を取り出し、アユラに渡した。「見てください、切手も貼ってあるでしょう。消印がよく見えないので投函した場所がどこかはよく見えません。でも日付は四日前。つまり、僕が三日前に引越す直前に投函したことがわかります。僕がいつこの住所に引越すのかを知っていて、かつ、アユラさんとトウジョウマキオが知り合いであることを知っている人なんて、とても絞られてくるように思いますが、だけど、逆に、それら二つの集合は全く接点がないとも言えますね」
 カフェの中では軽快なポップスのインストゥルメンタルが流れていて、ほとんどの席は埋まっていた。一人でパソコン作業をする人もいれば、集まって愚痴の吐き出し合いをしている女性たちもいる。
「私とトウジョウの関係なんて、今では私だって忘れていたくらいだけど、大家さんの仰る通り、トウジョウがコートの件を誰かに話してしまって、その誰かがいたずらを思い付いたとしても、それほどおかしくはないですね。でも大家さんの引越しについて詳しく知っている人が、同時にこのいたずらを思い付くというのは奇妙ね」
 アユラは持って来た手紙も鞄から取り出し、大家の封筒の上に重ねた。「筆跡はどうかしら」
 じっくりと眺めてみると、どちらかと言えば達筆に入るかもしれないと思った。それほど気合いを入れて綺麗に書こうとしているわけではないが、黒いインクの使い方が慣れている気がする。文字と文字の間が流れるようにつながっていて、漢字のハネやハライ、書き順をきちんと学んだ人の崩し方だ。
「全く別人が書いたとは言えないなあ」
 大家が言う。
「私もそう思う」
 大家が持って来た封筒の字も、アユラ宛ての手紙の字も、それほど違いはない。
「立ち入ったことを聞くようですが、このトウジョウマキオという方と、どういうお知り合いですか?」
 昨日の電話で、それはプライバシー侵害だと怒ったのを覚えているのか、大家は少し怯えながらも、思い切って切り出したようだった。
「大学の先輩。恋人とかじゃないのよ。先に言っておくけど」
「先輩ってクラスですか? それともサークル?」
「どちらでもないわ。新入生歓迎会が行われた会場で知り合って、話が合ったから連絡先を交換して、時々会っていただけ。何もないのよ。一緒にご飯を食べるとか、海沿いをドライブするとか。それだけ」
「それだけって、それでも充分恋人だったように思えますが」
 大家はそう言ってから、「また踏み込み過ぎてごめんなさい」ぺこりと頭を下げた。
「トウジョウには別に恋人が居たのよ」
 アユラが言うと、
「ああ、それなら」
 大家は引き下がるようにうなずき、つうとすまなさそうにアイスコーヒーを吸い込んだ。
 アユラは実際に彼に恋人が居るかどうかを確かめたことはない。でも、隣に住んで居た美人会社員がトウジョウの部屋に上がり込んで居るのを見たこともあるし、女性の部屋からトウジョウが出てくるのを見たこともある。それに彼が居なくなったの時のあの女性の慌てた様子からして――。
「大学内で見かけたり、会ったりもするのでしょう?」
 大家はストローから口を離し、再び氷をごろごろと掻き回しながら言う。
「どうだったかな。学科が違ったのよ。それに、あまり学校には行かないと言ってたような気がする。あの頃の大学って、ちゃんと出席しなくても誰かに頼んだ代返でどうにかなったのよ。今みたいに電子カードで管理されたりしなかったから」
「それはそうでしたね」
 大家も身に覚えがあるらしく、懐かしそうな笑みを浮かべた。「だけど、それじゃあ、本当にその大学の学生かどうかも怪しいですね。なんとなく新入生歓迎会に紛れ込んでいただけの人、なんて可能性もなくはないから」
 大家が言うのを聞いてアユラは驚いた。そんな可能性について考えて見た事もなかった。
「なんだか、細かく考えるのね」
 冷めかけた珈琲に口を付けた。「そこまで思いつかなかったわ」
「僕はミステリー小説が好きなので、つい。ごめんなさい。普通ならさらりと流すところかもしれません。でも、一人でも大学の中に共通の友人がいれば、そんなはずはないと思いますよ。きっとその大学の学生ですよ、トウジョウマキオさんという方は」
「共通の友人はいないわ」
 アユラは手に持っていたカップを皿に戻した。「いないのよ。だから、本当に亡くなったのかどうかを確かめようもなくて」
 大家は、「ええっ?」と突然高い声を発し、周囲の客の中の数人がこちらに視線を向けた。
「そうですか。だとしたら、僕が推理した通り、本当にその大学の学生かどうか怪しい説はそれほど間違ってもいませんね」
「言われてみたらそうね」
 なんとなく二人は黙った。
「まずは大学に問い合わせてみたらどうですか。トウジョウマキオからこんな手紙を受け取りましたが、トウジョウマキオはそちらの学生だったかどうか教えてください、みたいな感じで」
 大家が言い、「それはそうしてみる」とアユラは承諾した。

 大家と会った翌日、卒業した大学の学生課に電話をし、トウジョウマキオの件について問い合わせたが、電話だけでは答えられないとの返答だった。さらに、「直接来てもらってもよほどの緊急性がなければほとんど無回答となります、昔とは違って個人情報に関する規約が色々とありますから」と言って、電話口の職員は早々に電話を切った。おそらく、どちらかと言えば興味本位で電話をしてくる人が多いのだろう。週刊誌の取材や企業の引き抜き前の調査などに違いない。
 アユラはさっそく大家に電話を入れてその事を伝え、調べようがなかったと伝えた。
「このトウジョウマキオさんという方は、なんだか幻みたいですね」
 大家は電話口でぽつりと言う。
「もしも借りたオーバーコートがなければ、大学に入学したばかりの孤独だった私の妄想だと考えてもよさそうなくらい」
 アユラも否定しない。
「そのコートはどこにあるのですか?」
「実家にあるはず」
「じゃあ、そのコートをまずは実家から送って貰うとかして、トウジョウマキオが少なくとも実在した手ごたえをアユラさんの中で得るのはどうでしょうか。そんなことをしたからといって、どこの誰だったのかがわかるわけではないのかもしれないけれど」
 大家の言葉に、それもそうだなと思う。
「考えてみます」
 大家のところに届いた封筒の字と、アユラが受け取った手紙の字が恐らく同一人物によるものだと考えられる限り、トウジョウマキオはまだどこかで生きていると思えた。
 代筆したのが誰か他の人だったり、ポストに投函したのも別人だったとしても、大家の引越しにぴったりと合わせて住所を書いたのなら、まだ生きているはず。トウジョウマキオの死よりも、むしろ大家の引越しのタイミングの方に合わせているかのようだ。
「私からもちょっと立ち入ったことを聞くようだけど、大家さんはどうして引越しされたの?」
「前に住んで居た家の前に新築マンションが建って、それで」
「そのマンションのせいで日当たりが悪くなったとか?」
「いいえ。いいマンションが出たみたいだよと姉に教えてあげたら、なんとさっそく買っていたのです。でも姉は入居直前で途端に転勤になってしまって、一度も住んで居ないのに売ってしまおうかなと言うから、戻ってくる間だけ住んであげることにしました。大家のくせにと思われるかもしれないけれど、僕も今まではわけがあって家賃を支払って住んで居たので、その家賃分を姉の毎月のローンの支払いに充てる。全額支払ってもいいのだけど、差額は姉が自分で支払うと言うので、僕は前の家賃分だけ払うことにしました。その代わり、姉も時々戻ってホテル代わりに使うそうだけど」
「その引越しはお姉さんだけしか知らないはず?」
 アユラが聞くと、大家は「それはそのはずです」と答えた。「両親はもういないし、会社の転勤なんて急なことだし、まさか他の誰かが僕たち姉弟に興味を持たないだろうし――」
 アユラは電話を切り、すぐさま実家に電話をして、部屋のクローゼットから男性用の黒いコートを探し出してこちらに送ってほしいと母に頼んだ。詳しく説明しなくても、それだけがやたらと大きなサイズだからすぐにわかると言うと、その場で母親がクローゼットから探し出して電話口に持ってきて、「黒いフラノ地で裏生地に細かな刺繍のあるものかしら」と言う。
「裏生地に細かな刺繍? そんなのあったかしら」
 それでも、大きな襟や銀色の四角いボタンといった特徴が一致したので、「それに間違いないから送ってちょうだい」と頼んだ。
 十年以上忘れていたあのオーバーコートが部屋に届くのかと思うと少しドキドキする。その身体の熱くなるような、心臓の鼓動が聞こえる感じに戸惑って、ひょっとしたら私は彼のこと好きだったのかしらと思う。そんなことに今更気付いても仕方がない。トウジョウはもう死んだのだと手紙を送り付けてきたのだから。
 母親との電話を切った後、アユラはソファに寝転がって目を閉じた。キュレータの仕事が順調になってきたら、何者かが足を引っ張ろうとして、こんなことが降り掛かってきたのだと思えた。
 ふと、月尾チェルナの作る鳥の嘴のオブジェを思い出す。様々な形のものがあったが、どれもツンと気取った感じがして好ましかった。彼女自身も凛として素敵だ。

 ――チェルナさん。連絡が途絶えているけど、隣の島でうまくやってるかしら。

 眼を閉じたまま、少し微笑む。チェルナには、後でメッセージを入れてみようと考えた。きっと、新たな気付きが訪れて、これまでと違った作品が出来ているに違いない。アユラはそれが自分のことのように待ち遠しい。いつかギャラリーに彼女の作品を展示するのだ。瞼の裏にそのビジョンを映し出す。そうだ、展示には彼女の小さくても誠実な言葉を添えよう。
 微笑んだままで目を開ける。

 ――もしもトウジョウマキオが生きていたとしても。

 始まりもしない恋愛に足を取られるつもりなんかない。
 天井を眺めていると、プロジェクト会議で求められた訂正や加筆をしなくてはいけないことを思い出した。

 ――こんなことばっかりしてられない。

 晴れやかに起き上がって、パソコンの電源を押した。

(六章 了)

七章

1 アユラとそれぞれの関係

 アユラの携帯が鳴った。アポもなく、いきなり電話が鳴るのなら、ほぼ母親からだろう。見ると予想通り。受信すると、これから例の黒いオーバーコートを宅配便で送ると言う。
「それから実はね――」
 庭にイタチが来るようになった話を始めた。隣の家との仕切りになっているブロック塀の下を掘って行ったり来たりして困るというのだ。「どうすればいいかしら」
「嫌なら役所に行って処分して貰えばいいじゃない」
「でも隣の奥さんがかわいそうだって言うのよ」
「じゃあ、イタチが掘った穴を埋めてしまって、こちら側には来ないようにしたらどう?」
「それもなんだか、お隣にバレたらあてつけがましいでしょう。イタチが来なくなったら、それはそれで寂しいような気がしないでもないし――」
 どうとも言えない曖昧な気分を延々と話始めた。
「ちょっとごめん、今、仕事中なの。コートを送ってほしいなんて面倒なことを頼んでおいて申し訳ないんだけど、その話、また今度聞くってことでいいかな」
 アユラはそう言いつつ、罪悪感を感じていた。
 実際には、文芸誌に載せる美術館論の原稿は今日中に仕上げなくてはいけないものでもない。だから、仕事中なんて嘘のようなものだ。それでも、今はイタチを巡る葛藤を延々と聞く気分ではなかった。
「あ、そう、ごめんね」
 急に目が覚めたように、他人行儀な声色になる。
「こちらこそごめん。今度その話教えて」
「いいのよ、別に。じゃあ、コートは明日着くように送るから」
 母親はそう言って、そそくさと電話を切った。
 アユラはほっとすると同時に、胸の中にじんわりとした罪悪感がしばらく居座った。

 ――聞いてもよかったんだけど。私、なんとなくいらいらしてる。

 島のツアーでチェルナと話をすることを楽しみにしていたのに、それが叶わなかったからだろうか。あるいは、チェルナが間違えて渡った島のことが気になっているのだろうか。このことを本部に報告はしたものの、その島については誰も知らないようだった。月尾チェルナから連絡が入って、ちゃんと無事が確認できているのなら、本人の意志に任せておけばいいだろうと言われた。

 ――本当にそれでいいのかしら。

 パソコンの前で首をひねり、腕組みをした。
 チェルナが間違えて渡った島。
 地図を見ると、アーティスト養成プログラムのオプションツアーの行われている島の周辺にはいくつもの小さな島が点在している。きっと綿密に調べると、これらの島の中には私有地や、公にはあまり知られていない指定保護公園が存在するのだろう。それらが、登録された私有ボートだけが中に入れる島なのだとしたら、住人の中に知合いでもいなければ永遠に入ることはできない。なんだか理不尽な気もするけれど、そもそも陸地にある家々だって同じようなものだ。誰かに買い取られて囲いをつけられ、鍵を掛けられた一画としての家はそれぞれが海に浮かぶ島と同じ。住人以外、約束もせずに侵入することはできない。つまり、チェルナが渡ったと考えられる島は、そこに「島」があるとわかっていても、こちらから中に入ることは許されないのだ。

 ――なんだかチェルナさんが羨ましい。

 月尾チェルナの、それほど長くない髪を後ろできゅっと結んだだけの、飾り気のない姿を思い浮かべる。美人ではないけれど、どことなく小動物系のかわいらしさがある。

 ――そういえば、イタチか。

 電話で母親が話したイタチの姿を想像してみる。隣家とこちら側を行ったり来たりしているらしい。運がいいのか悪いのかわからないが、通常なら入れないはずのミヤデ島にすんなり渡ることのできたチェルナのことが、まるでベランダを易々と往来する野生の生き物のように思えた。柔らかい身体をうまくくねらせて穴を潜り抜けてしまう。

 ――ミヤデ島の日記、書いておいてもらってもいいかも。

 意外としたたかそうなチェルナの姿を想像しているうちに思い付き、早速チェルナにメッセージを入れた。

《私は帰宅しました。そちらの島の様子、撮影が許されている範囲で撮影したり、スケッチを描いたり、記録を取っておいたりしたらどうかしら。制作の役にも立つし、最後の展示会で作品の産まれた道程として紹介できるかもしれない。》

 それから改めて美術館論の原稿に取り掛かる。美術館の教育的役割について書く。時間的にも空間的にも限界があるがゆえに画一的な指導を強いられる学校の美術教育をどう補填するか。その役割を、どのように美術館が担っていくのか。いろんなアートがあり得る。まずはそのことを子供たちにも知ってもらいたい。
 パソコンに文字を打ちながら、時々スマホに目をやりチェルナからの返信を待ったが音沙汰はない。無言のままだった。

 ――忙しいのかしら。

 アユラ自身がメッセージを入れてからまだ三十分も経っていない。本当なら制作をしているチェルナがビジネスマンのごとく即座に返信などできないことはわかっている。それなのに、素早い返信を期待してしまう。

 ――私、チェルナさんのことが気になっているのかな。

 諦めてスマホを横に置く。チェルナとはそれほど深い話をしたこともないし、何度も会ったわけでもない。だからチェルナ自身に魅かれているわけではないだろう。
 しばらく目を閉じて、アユラ自身の気持ちを探った。
 おそらく、彼女の鳥の嘴の作品や、まだ見ぬミヤデ島に魅かれている。
「いずれにしても間違いなく彼女はアーティストとして逸材に違いない」
 そう呟いて、再び原稿に向かった。

 原稿を書き終えた頃にも、チェルナからは返信がなかった。ひょっとしたら電源が切れているのかもしれない。
 アユラはデスク周りを片付けた後、夕食の為に外に出た。内科医院の広告が貼ってある電柱の上に雀がいて、辺りに響き渡る声で鳴いている。一羽だけであの声が出るとはすごいものだと思いながら横断歩道を渡った。暮れかかる空の一部が残照で橙色に光っている。
 頻繁に出入りしている定食屋に入ると、旅行客と思われる若い女性たちがはしゃいでいた。テーブル周りにスーツケースやリュックをはべらして、やったー、とうとう来たねー、などと言っている。近頃はこんな店が珍しくなってしまったのか。「こんな」と言うと店主に失礼だが、アユラにとっては、ずっと昔からそこに在り続ける気の張らない定食屋だった。「ごく普通の」と形容しても店主から叱られないたりしない。

 ――それが、今や珍しいのか。

 スターバックスやマクドナルドが珍しかった時代はとっくに去り、むしろ町の風景にスタバとマックがあれば、その普通さに安らぎを覚えるようになって、逆に、かつては当たり前だった個人店が珍しいものとされる時代になったのだ。
「いらっしゃい」
 それでも店主は相変わらずの調子で、厨房から声を掛けてくれる。心からありがたいと思える。
「日替わりで。それと麦酒」
 内容も確かめずに言う。日替わりの内容を確かめるまでもなく、なんだって美味しいことはわかっている。
「あいよ」
 威勢のいい声がして、それだけでも原稿書きの疲れが吹っ飛んだ。旅の女性たちはメニューを睨んで迷いつつ、ああだこうだとはしゃいでいた。
 ひとまずお水とおしぼりと麦酒を持って来た店主が、
「近頃は旅行客が増えてね」
 眉尻を下げる。嬉しいのか、困っているのか。
「おいしいことがばれちゃったの?」
 アユラはおしぼりの袋を指先で破った。
「いやあ、旅行サイトが取材に来てね、大袈裟な記事が載ったものだから。そんなことぐらいで大したことはないと思っていたら、続々と」
 囁く声で言う。
「ありがたい? それとも――」
「ありがたいっすよ。続々となんて言っても、地元の常連を押しのけるほどでもないから。そもそも今までの常連の半分はチェーンの牛丼屋に向かったから、近頃では空きはけっこうあったんでね。アユラさんはよく来てくれるけど」
 ステンレス製の盆をお腹に抱きしめてぼやいた。そうするうちに若い女性たちの注文が決まったらしく、店主は威勢よく返事をしてアユラの席から離れていった。
 よく冷えた麦酒を一口飲み、スマホの中身を確かめたが、やはりチェルナからの返信はなかった。直ちに返答を期待してはいけないけれど、あまりに遅いと気になってしまう。本部からの指示ではそれほど心配する必要もないはずなのに、何度も確かめてしまう。
 グラスの半分になるまで麦酒を飲んだ。いろいろと考えることがありすぎて、鋭敏になっている神経を和らげたかった。すると、携帯電話が鳴り、着信画面を見ると大家だった。なんだろう。出ると、
「偶然ですね」
 と言う。
「何がですか?」
「後ろの窓、見て」
 そう言われて、背中側にある窓を振り返ると、大家がにっこりと笑って手を振っている。
「やだ」
「やだって、言われても。ストーカーじゃないですよ。通りがかっただけですから」
「これからどこへ?」
「牛丼でも食いに行くかと思って出てきたところ」
 硝子越しに顔を見ながら携帯で話す。
「この定食屋も美味しいですよ」
「ご一緒していいでしょうか」
 外の風に吹かれたように目を細めて笑っている。
「どうぞ」
 アユラが言うと、さっそく入り口側に回り込んで、店の中に入ってきた。
「この店は何が美味しいんですか」
 椅子に座りながらメニューを手に取る。
「なんだって美味しいですよ。私は日替わりを注文した」
 店主がお水とお絞りを持ってきたので、「日替わりってなんだっけ?」と聞いてみる。
「今日はチキンカツ」
「だそうですよ」
 アユラが言うと、
「じゃあ、僕もそれで」
 大家は速攻で決めた。「あ、麦酒も。僕はジョッキで」
「決めるの速いね」
「だって、チキンカツは普段のメニューに入ってないから」
 メニューをパタンと閉じる。
「もう見たの?」
「はい。そもそも牛丼食いに行こうと思って出てきたわけで、だからここでも鼻っから肉にしようと思ってるから、肉メニューの場所しか見ないでしょ。レギュラーメニューでのチキンは唐揚げと照り焼きしかないと確認済み」
 アユラは「凄いわね」と驚いて見せ、麦酒を一口飲んだ。
「だけど、アユラさんは確認もしないで日替わりと注文したのだったら、ここは常連ですね」
 大家の所にも麦酒ジョッキが届けられ、軽く乾杯と言ってから飲み始めた。
「相変わらず推理が細かいのね」
「ミステリー小説ファンですから」
 上唇に着いた泡をおしぼりで拭き取って、得意げに眼を輝かせた。
「正直に言うと、ミステリー小説なんて変な事件の話ばっかり書かれているからくだらないと思ってきたけど、推理を鍛えるためには有効かもしれないわ」
 アユラが言うと、大家はふふんと笑い、
「有効かと思って読んだら、推理なんて鍛えられませんよ」
 もっと得意気な表情をした。「おもしろいと思って夢中になるからいいんです」
「そんなに好きなら、書いてみたらいいのに」
 そう言うと、大家は気のせいか顔を赤らめた気がした。麦酒のせいだろうか。「ひょっとして、もう書いてるの?」
「さあ、どうだか」
 肩をすくめて、言いたくないのか、それ以上は口をつぐんでしまう。
「それより、明日、例のトウジョウマキオの黒いオーバーコートが届くのよ。母が早速送ったって」
「もう早? 僕のメニュー決めと同じくらいの速さ」
 大家は麦酒のジョッキをテーブルにどんと置いた。
「母は仕事が早いのよ。話は長いんだけどね」
「コート、見てみたいなあ」
「もちろん、いいですよ。明日、うちにいらっしゃる? うちにと言っても、大家さんから借りている部屋だけど」
「そうしたいところだけど、一人暮らしの女性の部屋に、男一人で訪問するわけにはいきません。確か、マンションに集会室があったはずだから、そこで見せてください。適当な時間に電話してくれたらお伺いします。メールだと気付かないことも多いから、電話してもらえるとありがたいです」
 日替わり定食が二人分テーブルに届けられた。揚げたてのチキンカツには自家製のケチャップが掛かっていて、千切りキャベツとパセリが添えられている。シジミ汁とご飯、きんぴらごぼうの小鉢。
「これはサービス」
 店主が小声で言って、鰹の煮付けを二人の前に置いてくれた。「二人で突っついて」冷かすような目つきをしながらにっこりと笑い、そそと去って行く。
「マスターはなんか勘違いしてない?」
 アユラが大家に言うと、
「僕はそれでも構わないですけど」
 大家はまた、一陣の風に吹かれたかのように眼を細めて笑った。

2 トウジョウマキオの黒いコート

 トウジョウマキオの黒いコートは午前の便で届いた。アユラは母親がついでに箱に入れてくれたお菓子や果物を取り出した後、クリーニング店のビニール袋に包まれているコートを手にした。ずっしりと重い。まるで経過した時間に比例しているかのようだ。このコートを借りて以来、返す機会を得ることもなく忘却の彼方に押しやられていたのだ。ビニール袋から少し取り出して、トウジョウマキオとの思い出がそれほど多くないことに気付く。フラノの生地の柔らかな手触りも意外だった。もっとゴワゴワしたものだったような気がする。

 ――トウジョウさんったら大学生なのに、こんないい生地のコートを着ていたのか。

 袋からすっかり出してしまうと、未だに光沢さえある表面を何度も撫でた後、肩に羽織ってみた。やはり重い。トウジョウマキオの匂いがするだろうかと思ったが、十年も実家のクローゼットに入れたままになっていたせいで、実家の匂いしかしなかった。そのせいで、本当にこれは彼のコートだろうかと一瞬疑いもしたけれど、羽織って鏡の前に立った時、間違いなくトウジョウのものだと思った。彼がこのコートを着ていたのを何度か見たことがある。細いテーラードの襟に目立たないボタン。当時流行していたオーバーサイズは大柄のトウジョウでさえゆったりと着ていたが、アユラが羽織ると自身が子供になったかのように見える。
 脱いで、裏地を見ると、母親が言っていた通り背中の部分に華やかな刺繍がある。襟や身ごろに縫い付けられていたはずのブランドを表すタグは切り取った後があり、オーダーメイドではなく既製品であることがわかるものの、一体どこの商品なのかはもはやわからなかった。背中の刺繍は鳳凰と牡丹で、時代劇に登場する華やかなタトゥに見えなくもない。
 アユラはコートをハンガーに掛けて吊るし、さっそく大家に電話を入れた。数回の呼び出し音で直ぐに電話口に出て、
「待っていましたよ」
 朗らかな声で言う。コートが届いたことを話し、正午にマンションの集会室で会うことを決めた。

 集会所に現れた大家はコートを見るなり、
「いいコートですね」
 表面を気持ちよさそうに撫でた。
「そうなのよ。学生の私には気付かなかった。私なんか安物のダウンしか持っていなかったし」
「僕なんか今でもそうですよ」
 そう言えば、今日もグレーのスウェットを着ている。
「グレー好きなんですか?」
 昨日はパーカーで、今日はスウェットだから着替えていることになるが、色は同じだ。
「好きというより、いちいち色を考えなくていいから。白は汚れやすいし、黒は威圧的に見えるから苦手。それで最初は茶色とグレーで悩んだけれど、ロッキーがトレーニングをする時にグレーを着ていたから、それでグレーに決めた」
「ロッキーのファン?」
「特にそうでもないけど、人生はトレーニングの連続だから。僕は火星と土星が六ハウスに入っているからね」
 どこか不敵な笑顔を浮かべる。
「なんだ、星占いのファンか」
「信じているわけじゃない。あらゆることの言い訳に使っているだけ。たとえば、アユラさんは何座?」
「射手座」
「僕は牡羊座。だったら火の星座同士だから気が合うね、とか。もしアユラさんが蟹座だと言ったら、火と水だから互いに違う世界を観ることができるよ、とか言ってしまう」
 前歯で下唇を噛んで人懐っこそうにアユラを見た。
「なんだっていいんじゃん」
 呆れたふりをしながらも、意外にフレンドリーな大家に付き合いやすさを感じ始めていた。
「ところで、この刺繍だけど――」
 大家が本題に入った。
「表の地味さに比較して、やたらと派手でしょう?」
「学生服の裏側にこういうの入れるのが昔ワルの間で流行ったね」
「そうだっけ」
「このコート自体は品のいい上等のカシミアだから、タグは取ってあっても一流ブランドのものだろうとわかるけど、だとしたら、この刺繍が初めから入っていたわけではないだろうなあ。表と裏でイメージが違い過ぎる。裏地を外してリメイクしたのかも。うまくできていて、リメイクの跡もわからないけど」
 大家は裏地と表地を縫い合わせた辺りに目を近付けて眺めていた。「どこの刺繍のものかを調べてもいいのかも」
「トウジョウさんが手紙に書いたことが本当なら、これを捨ててほしいと言っていることになるけど、わざと思い出させたようなものね。それも大家さんが引越した時にちょうど手紙を送り付けてくるなんて意図的なものを感じる。学生時代には唐突に居なくなるし、今はこうして急に手紙を送ってくるし、なんなんだろう。彼、きっと死んでいないのだと思う」
「僕もそんな気がする。トウジョウマキオという人はまだどこかで生きている。きっと事情があって、今回、死んだことにしたんだ」
 大家はアユラの眼をまっすぐに見つめた。
「それより、コートの写真を撮らせてもらってもいい?」
 大家はリュックからカメラを取り出した。
「もちろん。コートをそのまま持って帰ってもらってもいいくらいだけど」
 アユラは本気だった。トウジョウマキオの指示通りに捨ててしまいたい気分でさえある。
「ほんとに?」
 大家はカメラを一旦リュックに仕舞った。
「ほんとよ。まだ捨てるつもりはないけれど、あの狭いワンルームにこれを置いたままにしておくのは嫌だし。あ、狭いなんて言ってごめんなさい」
「いいんですよ、本当のことだから。なんだったら、広い方のお部屋をお貸ししてもいいのだけど、今のところ広い方には空きがないし、このままあれに入っておいてくれたら助かります」
 大家の言葉はリズム感がよく、なにもかもが愉快そうだ。
「コートは後で実家に送り返してもいいけど、クローゼットに入ったままになっていると考えるとそれも怖い気がするから」
 アユラの方は本件に関して、全く愉快な気分にはなれない。
「じゃあ、むしろ僕はアユラさんからありがたがられてこれを持ち帰りましょうか」
 コートを両手で軽く持ち上げた。
「そうしてちょうだい。でも何かわかったことがあったら、連絡してね」
「もちろん」
 大家は目を輝かせた。
「全てがわかるまでは、小説に書かないでね」
 いたずらっぽく言うと、
「どうして知ってるの?」
 大家はほんのりと頬を赤らめた。「僕がミステリー小説を書いていること」
「やっぱりそうだったか」
 にんまりとする。
「なんだ、騙したな」
 大家の顔はもっと赤くなった。
「ごめん。だますつもりはなかったけど、昨日定食屋でミステリー小説のことを話した時、顔を赤らめたから。たぶん、ミステリー作家を目指しているんだろうなと思って」
「ああ、しまった。わざわざ自分から言っちゃった」
 両肘をテーブルに着いて頭を抱えている。
「そんな大袈裟な恰好をしなくても」
 アユラがそのしぐさを見て率直に言うと、
「大袈裟とはなんですか!」
 がばっと顔を上げてふくれっ面を見せた。少し眼が血走ってさえいる。ミステリー作家を目指していることに何か特別な事情でもあるのだろうか。これではまるでトラウマを指摘された人の様相ではないか。
 あまりにも反応が過剰なので、素直に謝るどころかあまりのおかしさに吹き出してしまった。そのうち、つられて大家も笑い出し、
「とにかく、コートはお借りして、刺繍の出どころなどを探します。それから、トウジョウマキオが住んでいた住所か、グーグルでもいいから地図がわかれば教えてください。メール入れてくれたら助かります」
 笑い過ぎて咳き込みながら言った。
 アユラは了解し、来週にでも、また例の定食屋で一緒にご飯を食べようと誘った。相手は自分の借りている部屋の大家なのに、なんだかかわいらしく思えてくる。それにしても、どうして若いのに大家なんかしているのだろう。生前贈与か何かで親からもらったのだろうかと考えたけれど口にはしなかった。あまりにずけずけ言い過ぎて嫌われるのもよくない。狭いながらに小ぎれいで、立地条件のいい部屋が気に入ってもいる。

 大家が帰った後、アユラは自室に戻り、かつてトウジョウマキオが住んでいたアパートをグーグルマップで探した。アユラ自身が住んで居たアパートのすぐ近くだから簡単に見つかるだろうと思ったが、意外と思い出せなかった。自身が住んで居たアパートですらなかなか見つからない。正確な住所も思い出せない。卒業して以来一度も訪れたことはなく、住所なども振り返ってみたこともなかった。

 ――こうなったら一度実際に行ってみるしかないのかな。

 よく行っていたスーパーマーケットや居酒屋の位置も思い出せない。卒業してからこの部屋に辿り着くまでに何度も引越しをしてきたし、頻繁に外国に旅に出ては一か月くらいは戻らない生活をしてきたので、頭の中にある地図が膨大になりすぎたのだ。

 ――私の人生、一体どこへ向かっているんだろう。

 パソコン上のグーグルマップと格闘しながらも、アユラ自身の定位置となる場所はどこなのかと考えてみる。もちろん実家の住所を忘れることはないが、実家であったとしても、アユラには既に客としての居場所以外のものはない。今住んで居るこのアパートもいずれは出て行くことになるだろう。

 ――なんで、こんな人生になっちゃったのかなあ。

 デスクに置いていたスマホを掴んでソファベッドに移動し、ごろりと横になった。もちろん、あちこちを旅する人生を心の底では望んでいた気がする。一か所に留まって、過去も未来もおよそ知り尽くした狭い人間関係の中で一生を終えたいと考えたことはなかった。見たことのない美術、食べたことのない食べ物、聞いたことのない歌、意味のわからない言葉。ありとあらゆる未知に魅かれていたい。それらをひとつひとつ確かめながら歩いていたかった。

 ――だけどなあ。

 はああ、と声に出してまで溜息をつき、何気なくスマホを見るとチェルナからの返信が入っていた。作品の写真も添付してある。

 ――お、やっと気付いてくれたか。

《こちらは順調です。親切にしていただいています。作品も作り始めました。》
《それならよかった。時々連絡くださいね。》

 すぐに応答してみた。

《わかりました。そうします。》

 今度は直ちに返信がある。

 やり取りはそれだけで終わり、アユラはほっとして身体を起こして伸びをし、トウジョウマキオのコートの件でなんとなく重くなっていた気分を振り払った。チェルナさんが無事なら、とにかく心配事のひとつはなくなった。
 起き上がったついでに実家の母親に電話を入れ、例のイタチの件はどうなったかのかしらと聞いた。結局、隣家のご主人が捕まえて処分をすると言い始めたところ、イタチの方が察知したのか居なくなってしまったという。
「少し寂しいけど、掴まって処分されるのはかわいそうだし、逃げてくれて助かった。河原の向こうには雑草林があるから、そこで巣を作ると思う」
 明るい声で言う。
「そもそも、どうして来たんだろうね。隣家とのブロック塀の間に穴まで掘って」
「全くわからない。うちでは小鳥も飼わないから、それを狙ったわけでもないしね」
 いずれにしても一件落着でよかったと電話を切り、アユラは少し複雑な気分になった。

 ――私も子供の頃、実家に迷い込んでいたイタチみたい。

 奇妙な考えが頭に浮かぶ。長い人生において十代なんて短いものだった。その後半で家を出て、後は一人で切り開いて生きてきた。世界は雑草林のように危険もたくさんあるけれど、選ばなければ食い扶持も無限に近いほどある。

 ――実家に居ても私には食い扶持はないもんなあ。

 友人の中には家業を継ぐことに不満がある人も多かったが、アユラにしてみれば、とりあえずはそれで生活できる保証があるのならいいじゃないかと思えた。正直、羨ましかった。親のコネを使って就職できる人たちのことも羨ましいどころか、憎らしくさえ思えた。仕事とはなんといっても、この先食べていけるかの切実な問題に対する答なのだから。
 力仕事もできない女一人、こんな時代にどうやって生きていけばいいかと常に不安だった。今でもそうだ。もはや結婚すればどうにかなる時代でもない。家系のおかげで得な立場にいられる人にとっては、そんなものは重荷なだけで大したことのない特権に思えるかもしれないが、だだっ広い世界に一人でひょろりと立つアユラにしてみれば、歯ぎしりをしたくなるほどの悔しさを持たずにはいられなかった。
「ああ、でも!」
 もう一度、スマホを明るくしてからチェルナの創り始めた新しい嘴の写真を見て、心を奮い立たせた。
「これ、めっちゃいいじゃん」
 じっくりと眺める。ルサンチマンにやられている場合じゃない。

 ――よっしゃ。

 まずは外に出てお昼ご飯だ。
 窓を開け、外を眺めると空は晴れ渡り、屈託のない雀がたくさん電線に止まって朗らかに鳴いていた。

 翌日の朝、大家から電話が入り、コートの刺繍についてわかったことがあると言う。
「そっちはどうですか。住所とか地図とか、わかりましたか?」
 いつも通り、フェルトを噛んだような柔らかな声だ。
「それが、全然だめ。何もかも忘れてしまったことに気付いたのが昨日の成果よ」
 まだパジャマのままで珈琲を飲んでいるところだった。
「だいたいはそんなものかも」
 大家は慰める調子で言った。「引越しを繰り返すと、いい意味でも過去を忘れていくそうですよ。物理的にさっぱりするためには切り替えるのはいいことなんです。あ、でも、そこには入っておいてくださいね」
「意外と商売っ気があるのね」
「そりゃもちろん」
 なんとなく、あの得意気な表情が思い浮かぶ。
「それはそうと、刺繍の何がわかったの?」
「この刺繍、ミシン縫いのところと手縫いのところがあります。同じような色の糸で縫っているから、全部ミシンだろうと思っていたけど、よく見ると違った」
「ミシンで作った後、手縫いを加えたということ? 深みを持たせるために?」
「まあ手順としてはそう」
「手順としてはって、どういう意味?」
「手順としてはそうだけど、刺繍の出来栄えに深みを持たせるために手縫いを加えたわけではない」
 穏やかながら、はっきりと言い切る。
「じゃあ、なんのため?」
 アユラは背筋を伸ばした。
「手縫いのところだけを描き出してみると、あるものが浮かび上がってきます」
 驚いた。
「一体、なに?」
「たぶん数字」
 心なしかぶっきらぼうにそう言った。
「なんの数字?」
「まだわかりません。もし可能であれば、裏地をほどいて、裏地の裏側を調べてみたいと思う」
「そんなに複雑なものなの?」 
 アユラは直ぐにでもなんの数字かを知りたかった。
「複雑ですね。どうですか。一緒に調べてみませんか。僕が一人でほどいても、なんだか勝手に縫い付けたみたいになっても嫌だし」
「そんな風に疑ったりしないけど――」
「でも僕はミステリー小説好きだから、きちんと実証するためには手続きを省きたくない」
 電話の向こうでにんまりとしていそうだ。
「いいわ。じゃあ、とりあえず、手始めに今夜定食屋でご飯でもどうかしら。コートも持って来てもらったら」
 アユラが言うと、一も二もなくそうしたいと言う。
 定食屋が店を開ける五時半ぴったりにと約束をして電話を切った。

 二人とも五時半ピッタリに定食屋の前に着いた。
「律儀なのね」
 アユラが言うと、
「そちらこそ」
 大家がパーカーのポケットに手を突っ込んだまま笑う。リュックを背負っているから、その中にコートが入っているのだろう。
 店の中に入ると、いつも通り「いらっしゃい」と威勢のいい声が響いた。アユラはお気に入りのテーブルを選んで座る。窓を背にしていて、入り口とテレビが見える場所。前回、外を歩いていた大家から声を掛けられた席でもある。
「日替わりと麦酒」
「僕も」
 二人とも迷わず言った。
「一応、確かめなくていいの?」
 アユラは少し心配になった。
「この前食べて美味しいのはわかったし、いっそ確かめない方が楽しそう。子供の頃の家のご飯みたいに、何が出てくるかわからない。アタリだ、とか、ちょっとハズレた、とか」
 大家は片側の席にどっかりと置いたリュックの上に手を乗せ、「それよりこいつ、どうします」リュックに向かって指さした。
「ここで中身を広げるわけにはいかないわよね」
「また、集会室に行きますか」
「予約してないけど」
「大丈夫。僕、大家だし、管理人さんと仲がよくて、しばらくはちょっとしたプロジェクトがあると言ってみたら、少しの間だけなら誰も居なければ使っていいって鍵を預かっておいた」
 パーカーのポケットから鍵を取り出してちらりと見せる。
「へえ、有能なのね」
 お世辞ではなかった。これまでの人生で出会った人間の多くは、必ず遅刻したり、いちいち「予約しておいてね」「これがどうなっているか調べてね」と言わなければ何もできない人がほとんどだった。
「こんなことぐらいで有能だなんて言われたら、むしろ心外」
 大家が口を尖らせていると、麦酒とサービスの煮物が届いた。店主は何も言わず、にっこり笑って二人の顔を意味深に見比べた後、厨房に戻っていった。
 日替わり定食は「鰈の素揚げ、とろみ野菜のあんかけ定食」で、大家は、「こんなに珍しいものが日替わりで食べられるのか」としきりに喜び、あまり会話もせず、あっという間に食べてしまった。
 
 集会室に着くと、大家はさっそくリュックからトウジョウマキオの黒いオーバーコートを取り出し、会議机の上に裏地が見えるように広げて置いた。
「何度見ても派手な刺繍だなあ」
 目を近付けて、指先で刺繍に触れている。
「こんなのが刺繍してあるのに、どうして私は気付かなかったんだろう。電話口で母に言われても、そんなのは記憶にないなあと思ったし、届いてからこうやって見ても、全く覚えがない」
「それはおかしいね。ねえ、ここにボタンがある!」
 大家が指すところを見ると、袖と身ごろの間にいくつかの小さな貝ボタンがあった。
「なんだろう」
 アユラも触れてみる。
「これ、ひょっとして、内側にライナーがくっついていたのでは?」
「ライナーって?」
「温かさを調節するためのもの。薄い生地で作られていて、本体にくっつけたり取り外したりできる」
「ああ、そういうの、そう言えばあるね。でも、当時はそういうのはあまりなかったと思うけど」
 アユラの記憶にはなかったが、刺繍に気付かなかったのはひょっとしてライナーが覆っていたからかもしれない。
「そのライナー、どこに行ったのかな」
「わからないわ。大学を卒業して引越す前にクリーニングに出して、そのビニールに入ったまま実家に送ったから」
「お母さんからこれが届いた時、クリーニングのタグがくっついていた? ほら、クリーニングから戻ってきた時、必ず付いているでしょ」
 大家に言われて、
「そう言えば、ついてなかった。お母さん、わざわざ取ったのかな。そんなことしないと思うけど」
「おかしいよね。何もしないまま送り返してくれたのだったら、クリーニング屋のタグは付いているはずだ」
 二人とも同じ感じで首を傾げ、腕組みをした。
「このコート、アユラさんが実家のクローゼットに入れている間に、誰かが着たんじゃないかな。お父さんとか」
 大家は腕組みをした右手の人差し指を立てた。
「父も母も小柄なの。弟だけは例外的に背が高いけど、私の部屋のクローゼットを勝手に開けて古いコートを着るようなやつじゃないわよ。大学に進学して家を出てからほとんど帰っても来ないらしいし」
「親戚のおじさんとかは?」
「そういう人が出入りするようなお屋敷じゃないの。核家族でひっそりと暮らしているのだから」
「だけど、ライナーは取り外されている。それは間違いないね」
 その言葉を否定することはできなかった。
「ところで、刺繍だったわね、ミシン縫いの中に手縫いが入っている」
 アユラは刺繍の表面にそっと触れてみた。細い絹糸の重なりが指の腹を撫でる。
「同じ色の絹糸でも二本取りになっている場所があって、少し乱れのあるアウトラインステッチになっている。そこが手縫い」
「大家さん、刺繍詳しいの?」
「家庭科で勉強しただけです」
 アユラにはミシン縫いと手縫いのアウトラインステッチの見分けは付かなかった。
「そして一か所、玉止めをした糸が外側に放置されている。だいたいは裏側に玉止めを隠して見えないようにしてある。家庭科で教わったでしょ?」
 大家もそっと刺繍に触れた。「ほら、ここ、玉止めが表側にある」
 言われたところに目を近付けると、確かに見えたままになっていた。
「他の玉止めは?」
「内側にある。つまり、たまたまひとつだけは外側に見えているけれど、裏地への刺繍をやり終えた後、裏地と本体を縫い合わせたことになる。くっついたままで手縫いの刺繍をやれないことはないけれど、玉止めが後ろ側にあるということは、先に刺繍をやり終えていたことになる。きゅっと引っ張って後ろ側に丸止めを出す方法もあるらしいけど、目の粗いコットンでないと無理。これはシルクかテトロンだから、そういうことはできない」
 指先で裏地をつまみ擦り合わせている。
「手縫いの部分は数字じゃないかって言ってたけど、それはどういうこと?」
「気になってなぞってみたんだ。ほら、ここ見て」
 大家は鳳凰の羽根の下にある植物の花びらをなぞった。「この花びらの一つは二本取りの手縫いになっているけれど、ずっとなぞっていくと8という数字が出てくる。やってみて」
 アユラは言われた通りに指を滑らしてみる。
「ああ、ほんとだ」
「他にも、この石を立体的にするためのステッチの中にも同じようにあるけれど、それは5になっている」
 再び、そこもなぞってみる。
「確かに」
「今、アユラさんに教えた場所は分かりやすいけれど、他にも二本取りの手縫い刺繍の場所はいくつもあって、全部は調べていないけれど、数字になっている気がする。それで、一度裏地と表地を外して確認したいと言ったんです」
「いいわよ。やってみましょう」
 反対する理由はなかった。そもそも捨ててしまうつもりでいるのだから。
「じゃあ、コートを解体する前に、細かく撮影しておきますね」
 大家はリュックからカメラを取り出した。
「スマホじゃなく?」
「もちろん。正確に撮影しておかなければいけないから。一眼レフじゃないけど、なかなか高性能なんだ」
 にっこりと微笑み、まずは広げたままで撮影し、その後は、ひっくり返したり、袖だけや襟だけにフォーカスしたりしながら、細かく撮影していった。すっかり撮ってしまうと、
「後でプリントアウトしてお渡しします。それから、僕の方でコートを解体します。アユラさんはお母さんに聞くか、それとも実家に帰るかして、ライナーがどこに行ったか調べておいてくれますか」
 と、丁寧にコートを畳んだ。
 アユラは了解し、強くうなずきつつも、大家の言った「コートの解体」の言葉に少なからず動揺した。すっかり忘れていたオーバーコートだが、本当にそれでいいのだろうか。
「解体しても、必要ならプロに頼んで改めて縫い直してもらいます。勝手に捨てたりしないから心配しないで」
 こちらの心境を察知したかのように、大家はにっこりとほほ笑んだ。

(七章 了)

八章 現在の地図に存在する過去の時間

1 オーバーコートから抜け落ちたもの

「解体してしまったけれど、本当によかったのでしょうか」
 大家は資料を一枚手に取って眺めながら言う。
 アユラは集会所に備え付けられたホワイトボードの上に、大家が解体したコートの写真を貼り付けていった。
「いいのよ。どうせ捨てるつもりだったのだから。トウジョウさんの手紙にもそうしてくれと書いてあったのだし」
 ホワイトボードはコートの写真でいっぱいになる。袖、襟、身ごろ、マチ。写真の上に赤や青のマグネットを置いていくと、まるで地図上に描かれた黒い大地とその上に張り巡らされた駅のように見えた、
「だとしても、解体しながら思ったのは、これはかなり腕のいい職人の仕事だということ」
 大家は写真をしみじみと眺めた。
「トウジョウさんはアパレル業界でもハイクラスと言われているブランドの人たちと親しかったから」
「ブランドを思わせるタグはどこにもなかったけど」
 ホワイトボード上の写真を見つめたまま、大家は残念そうに眉尻を下げた。
「試作品じゃないかな。あるいは、トウドウさんが職人に頼んでオーダーメイドで作って貰ったものとか」
 アユラは最後のマグネットをトンと置いた。
「なるほどねえ」
 大家は何度も頷いてから、「これが刺繍の玉止めを検証したものです」資料の束の中から数枚だけ引き抜いて、アユラに渡す。
 モノクロで撮影した裏地の写真に、蛍光マジックで線が引いてある。
「やっぱり全て数字でした。0と6と9以外。赤い糸で作られた玉止めを繋ぐと1、橙色は2、黄色は3、緑は4、青は5、白は7、金は8」
「これって、チャクラじゃないかしら。今ネット上で流行っているチャクラの色と数字に対応してる」
「なんですか、それ」
「ヨガブームで一般にも知られるようになったもの。簡単に言うと身体のツボの親玉みたいなもの。よく知られているものとしては七つあり、色と対応している。たとえば第一チャクラは背骨の一番下にあり、それが開く時には幻覚として赤い色が見える、とか」
 アユラはネットで知った情報をそのまま伝えた。実際、それくらいしか知らない。
「なんか、怪しそうだし、危なそう」
 大家は大袈裟に口をへの字に曲げた。
「今や当たり前みたいに語られるけど、一昔前はチャクラと口にしただけでも怪しいやつ認定されそうな概念だったそうよ。でも、ネット情報だけから推測すると、こんなのは大したことはない。たぶん、ほとんどの人は関係ないから危なくもない」
「どういう意味?」
「ネットの情報に煽られて『私は第一チャクラが開いたのだ』と妄想する人はいそうだけど、本来はそんな簡単なものじゃないんじゃないかなって。実際には山奥で修行して虎に食われそうにでもならなくては開かないようなものらしい。修行マニアの友人から聞いた話だけど」
 アユラが言うと、大家は「ふうん」と言って下唇を前に突き出した。
「それにしても、大家さんって、表情豊かね」
「そうですか?」
 目を丸くする。
「ほら、目を丸くした。なんだか漫画見たい」
「失礼だな」
 大家は目を細くして横目で睨む。
 それを見て「ほら、やっぱり」と言いたかったが我慢したものの、大笑いしてしまった。
「それはいいとして、刺繍の玉止めの意味がチャクラとかいうものだとすると、0と6と9はないの?」
 大家は真面目な顔つきを作った。
 アユラはそれを見ても笑いそうになったが咳払いをして抑制し、
「あるわよ」
 強い語調で自身のモードを切り替えた。
「何色?」
「6はいわゆる第三の眼と呼ばれているもので紫。0と9はだいたい同じで足裏と言われていることが多いけど、色はアースカラー」
「紫とアースカラーか」
 大家はリュックからビニール袋に入ったコートの刺繍部分を取り出した。「他のパーツは重かったから置いて来たけど、刺繍の部分だけは検証することもあるだろうと考えて持って来た」
「さすが。有能ね」
 アユラはお世辞ではなく感嘆する。大家は両眉を上に上げて得意そうに笑う。やっぱり漫画みたいと言いそうになったが、ここでもセーブした。
 刺繍の裏側部分はカラフルな蜘蛛の巣のように見える。玉止めは罠に掛かった虫だ。大家はさらにリュックからルーペを取り出すと念入りに見つめ始めた。
「ああ、ありますねえ」
 眺めながら言う。
「何が?」
「アースカラーの玉止めです」
 表に返して「あ、こちらにも玉止め。縫い目はなく玉止めだけ。確かに0だ。そうか、これが最初は単なる失敗に見えていたんだ。この前、表に玉止めを出してしまっている部分があると言っていたでしょう。でもそれで手縫いした部分が混ざっていることに気付いたのだけど」まじまじと眺めている。
「紫の刺繍は?」
「それは――」
 ルーペを移動させながらゆっくりと探し始めた。
「ないね」
 大家は顔を上げ、まっすぐにアユラを見た。
「じゃあ、逆にメッセージとして、6がないことを伝えている?」
「まあ、そうかな。9も、だけど」
 大家はアユラに生地とルーペを渡し、「一応、探してみて」と言った。
 生地の隅から隅までなめるように探したが、紫の糸による刺繍は見当たらなかった。
「いつの間にか取り外されているライナーの方にあるのではないかな」
 大家が言う。
「探した方がいいわね。実家に戻って自分でクローゼットをごそごそするしかないかな。それにしても、クリーニングしてから実家に送っているのに、タグが外されているのだから、やっぱり誰かが着たか、あるいは着ようとしたことは事実よね。確認してくる」
 実家まで戻るのは少し面倒だと思ったが、こんなに謎が重なっているのに放置するわけにもいかないと思った。

2 アユラの実家

 久しぶりに降り立った故郷の駅は十年前とほとんど変わらず、匂いまで昔のままだった。地元の常連だけで成り立っている蕎麦屋とその隣の手芸屋。子供の頃には電車に乗る前に必ず狸そばを啜ったし、フェルト手芸が流行ると道具を買うために手芸屋に立ち寄ったものだった。当時でも店主はかなりの高齢だったから、今ではその次の代が経営しているのだろう。
 アユラは見つからないように店の前をそっと通り過ぎ、バス停へと急いだ。もしも知っている人が店から出てきて声を掛けられたら、あれからどうしていたのだとか、親孝行しなさいと説教されて最低でも二十分は足止めを食らう。
 とにかく見つからないように、深めの帽子をかぶって厚底の眼鏡を掛けた姿でバス停に立っていると、それほど待つこともなくバスが到来した。ほっとして乗り込むと、ベンチ席に同級生と思われる人が座っていた。

 ――知らないふりをしよう。

 顔を見ないようにして、一番後ろの座席に座った。ここなら誰からも見えないはず。アユラは意味もなくこそこそしている自身に気付いて、どうしてこんな風なのかと恥ずかしく思った。

 ――でも、故郷に居る間はずっとこうだった。

 久しぶりに帰って来たことが気まずいから身を縮めているのではなく、アユラはこの町にいる間中ずっとそうだった。特に優秀だったわけでもないが、かといって、それほど落ちこぼれていたわけでもない。成績はまあまあだったし、運動会での徒競走は一番とまではいかなくても二番か三番で、転びさえしなければ、無事に終わってよかったねと笑顔で迎えてもらえる程度の存在感はあった。いつでもにこにこしていたような気もするし、取り立てて目立とうと考えもしなかったけれど、学校にも近所にも友人や知り合いは居て、夏祭りがあると言えば誘われたし、一緒に初詣に行く友人もいた。だけど、どういうわけか、自身の心の奥底では何か隠し事でもあるかのように、意味もなく見つからないように暮らしていた記憶がある。

 ――見つからないようにというか、捕まらないように、だったのかも。

 どうしてそんなに逃げ出したかったのだろう。両親に虐待されていたこともないし、弟と仲が悪かったわけでもない。全てが良好で、これといった悩みもなかった。畑や田んぼもあれば、穏やかな住宅街もある故郷。十年経ってもそれほど変化もない町並みは、見方によってはヨーロッパ郊外にある田園都市のようでもある。退屈だったから逃げ出したかったのだと思いたいところだが、アユラ自身に悩みはなくても、町に住んでいる人々は次から次へと噂話やちょっとした難題を見つけ出して皆で取り組もうとするので、日常に退屈さはなかった。むしろ、住民ひとりずつとの付き合いが深くなるので、結果的に完全にいい人と思える人間は少なく、どの人も均等にひと癖あるかのようだった。だからこそ、アユラ自身の平凡さが自分ではむしろ特殊に感じらた。

 ――非凡さって、才能とかじゃないのよね。

 車窓を見ると、中年女性が犬を連れて散歩している。あの人だって平凡そうに見えて、話を聞いてみれば複雑な過去や心の癖を持っていて、ひとたび捕まればどこまでも追いかけてきそうな執着力で、話を聞いてくれと言うだろう。

 ――お母さんがよくいろんな人の話を聞いてあげていたからかも。

 突然玄関先に訪れた近所の人を居間に招き入れて、お茶まで淹れて話を聞いていた母親の顔を思い出す。退屈しのぎにはなるのかもしれないけれど、その度にやりかけの編み物が中断されてなかなか前に進まなかった。マフラーひとつを仕上げるためにどれだけ多くの時間が掛かったことか。
 長閑そうに見える故郷の景色を見ながら、早くもマンションに帰りたくなっている自分に気付かないではいられなかった。

 実家に着くと鍵が開いたままになっていて、アユラは「ただいま」と声を掛けてから中に入った。
「意外と早く着いたのね。さっき電話を貰って驚いちゃった」
 編み物の手を止めて母親が立ち上がる。
「玄関に鍵を掛けないのは不用心じゃない?」
「さっきまで閉めておいたのよ。帰ってくる時間を見計らって開けておいただけ」
 お茶を入れる準備をしている。
「そう言えば、そうだったね」
 アユラは荷物を床にどさっと置き、子供の頃のことを思い出した。父が帰宅する時間になると玄関先の明かりを点けて、それまで閉めていた鍵も開ける。母親の言う事には、仕事で疲れて帰ってきた時に、家の明かりが灯っていて、鞄から鍵をもぞもぞと探し出す手間を掛けなくても家に入って来られるようにしておくことが家を預かる者の勤めなのだった。確かに、この辺りの家庭ではだいたいそんな風になっていた。夕方になると家々の玄関先の明かりが灯り、通勤バッグを持った男たちは鍵など使わないでがらりと扉を開ける。子供の頃には不思議とも思わなかったその風習が、今となっては珍しい文化のように感じられる。都会のマンションでは自分で操作できる玄関先の明かりなどそもそもないことの方が多いし、あったとしても使う人は少ない。家に戻ったら必ず自分で鍵を開けて中に入り、すぐさま鍵を閉めるのが当たり前なのだ。
「あれ以来、イタチは来ない?」
「そうね、すっかり、来なくなった」
 母親は湯気の立つ湯呑を居間のテーブルに置いた。アユラは駅で買ったお菓子を鞄から取り出し、「これ食べようよ」と包装紙を自分で破った。
「久しぶりに実家に帰って来るのにお土産なんか買わなくていいのに」
 そう言いつつ、破いた包装紙を見て「あら、美味しそう」と嬉しそうな顔をした。笑った顔に深い皺が刻まれて、やっぱり十年も会わなければ年を取るものだわと思う。服装や部屋の状態、編み物をしている姿などは全く同じだから、むしろ変化した老いの様相だけは際立って感じられた。経年変化についてはお互い様なのだろうけれど。
「お父さんは?」
「友人たちと神社巡りの旅ですよ」
「好きだね、まだやってるの?」
 故郷の風景は何から何まで変わらないが、そんなことまで同じなのかと呆れてしまった。
「そう、まだやってるの」
 仕方なさそうに笑う。「月に半分も家にはいないわよ」
「お母さんも一緒に行けばいいのに。他の人は妻を連れてきたりしないの?」
「連れてくる人もいるらしいわよ。だからお前も来るかって聞かれたこともあるけど、私はいいって断ったらそれっきり」
 少し不服そうにお茶を啜っている。
「今度は一緒に行ってみようかなって言ってみたら」
 アユラもお茶に口を付けた。熱くて渋い緑茶が心地よく喉を通っていった。
「一人で来る女性もいるらしいし、お父さん、その方と仲良くしているかもしれないから、うざったい妻が顔を出す必要もないかなと思って」
「お母さん、未だに良妻賢母しているの?」
 呆れてしまった。情けないと思ったが、アユラ自身も賢母をあてにしているのだし、十年ぶりに会って説教なんかしたくない。その人がいいと思った生き方をすればいいだけだ。
「ところで、あなたはどうして帰って来たの。嬉しいけど、急だし驚いた。結婚でもするの?」
「それを言うと思った」
 今度はこちらが説教されそうだと思って身を縮める。この年代の人々って、どうしてケッコンケッコンって言うんだろう。「そうじゃなくて、この前送って貰ったコート。あんな面倒な事を頼んだのに直ぐに送ってもらってありがとう。ただ、開けてみると、気になることがあって」
「何?」
「あれはクリーニングして袋に入ったまま送って、ここのクローゼットに仕舞っておいたのだけど、今見るとクリーニングのタグが切ってあって、しかも、調べていたら中に入っていたライナーがなくなっていることに気付いた。先に言っておくけど、ライナーなんかなくても別に構わないのよ。どうせ捨てるつもりだったのだから。ただちょっと調べていることがあって、ライナーがクローゼットのどこかに迷い込んでないかなと思って、それで調べに帰ってきた」
 アユラは母親が要らない罪悪感を感じるのではないかと心配になった。
 しかし、言い終わると、
「なあんだ、そんなこと」
 母親はむしろがっかりしたかのように肩を落として横を見た。
「そんなことって、理由、知ってるの? ライナーが取り外されている理由」
「いいえ。知らない」
「じゃあ、なんで?」
 アユラはきょとんとした。
「まあ、いいわよ。でも、十年も帰ってこなかった娘が意味深にも帰郷したかと思ったら、そんなことかと思って」
 どうやら、本気で「結婚」を期待していたのだろう。甚だしい世代間ギャップ。あるいは地域差? おそらく自分の子供が結婚をして子供を産み、自分自身が孫に囲まれることが彼女自身の幸せなのだ。あるいはステイタス。他者から見た時の見栄え。
「そんなことって、でも、いろいろと事情があるのよ」
 反発した気分はぐっと抑えて、言い訳モードにする。
「好きなように部屋を調べてみて。あなたが出て行った時のままにしてあるから。私は夕飯の材料を買ってくる」
 そう言って、立ち上がり、財布を鞄に入れると外に出て行ってしまった。

 湯呑に残っていたお茶をぐいと飲み終え、アユラは二階にある自室に向かった。階段は相変わらずきしんだ音を立てていたが、壁に手すりが備え付けられていた。
 母親の言う通り、部屋はアユラが最後にこの家を出た時のままになっていた。別に喧嘩をして出て行ったわけではない。最初は大学生活に向かうために家を出て、就職をした後、何かの用事で十年前に一度だけ戻り、それ以来帰っていないだけだ。

 ――十年前、私はどうして家に戻ってきたのだったか。

 理由は思い出せない。布団は畳まれた状態でベッドに乗せてある。もちろん、これは十年前に出て行った状態のままではないだろう。あの母親のことだから、ベランダで布団を干したりシーツを洗ったりして、今日、アユラが帰って来るからというので、改めてベッドに置いたのだ。しかし、出て行った時とそっくり。あの日、何もしないで出ていくのが申し訳ないので、いつもであればやらないようなマナーとして、ベッドの上の布団を畳んでから家を出たのだ。

 ――もう帰りませんのメッセージに見えたかな。

 ベッドの上で一塊になっている布団はどこか寂し気だった。
 壁の片側に備え付けられているクローゼットの扉を開けると、バーにはクリーニングに出してビニール袋に入れたままになっている衣類がたくさん掛かっていた。ずっと昔は袋に入れたままにはしなかったが、通気性のある袋が開発されてからは埃避けの為にそのまま仕舞っておけるようになったのだ。

 ――あ、制服。

 高校生の時のジャケットとスカートがクリーニングしてそのまま保管してある。捨てればいいのにと思った。今さら寄付しようにも、卒業した高校はきっとデザインを変更しているだろうし、全く使い道はない。それでもビニール袋を押し上げて金色のボタンに触れると、毎日自転車で通った日の事を少し思い出した。雨の日はレインコートを着て道路を走る。その横を大型トラックが猛スピードで通り過ぎる。今考えれば案外危険な命がけの通学だった。制服の袖口は擦り切れ、机に向かって鉛筆を走らせて勉強したことが証明されている。

 ――我ながら人に歴史ありとはこのことね。

 振り切るようにビニール袋を下まで押し下げ、他に仕舞われた古いコートやジャンパースカートをひとつずつ確認していった。全ての衣類にはクリーニング後のビニール袋が掛けてあり、クローゼットの下には高校の鞄やリュック、麦わら帽子、スカーフやマフラーの入った箱類が置いてあるだけで、あのコートのライナーが中途半端に置いてある様子はどこにもなかった。
 そうしていると、買い物から戻ってきた母親が二階に上がってきて、
「どう? 見つかりそう?」
 いぶかし気な表情をしてマノの横に立った。
「ないわ。これだけきちんと整理してあるんだから、探さなくてもわかる」
「ビニールの中も全部見た?」
「途中まで見ただけ。あのコート、クリーニングしてビニールに入ったまま送ったはずだけど、この前頼んで送って貰った時、タグも外されていたし、ビニール袋にも入っていなかった。送る時、外したってことはないでしょ?」
「いいえ。あの状態でここにあったのよ。確かに変だなと思った。私はクローゼットに入れる時には必ずこのビニール袋に入れるから。防虫効果があるのよ。ほら、このジャンパースカート見て」
 母親はハンガーに掛けられたものを引っ張り出した。「これは、大学卒業した後、アユラがクリーニングに出さずに送り返してきたものだけど、きちんとクリーニングに出して、特殊な防虫効果のある袋に入れてから仕舞ったのよ。そう言えば、どんな衣類だってこちらでクリーニングに出させようとしてるのかしらねっていうくらい、そのままで送ってきていたのに、あのコートは確かに、珍しくクリーニングに出したものを送ってきたのだったわね」
「あれは、ある人から借りたものだったから。直ぐに下宿先のクリーニングに出したのよ。きちんと返そうとしてね。でも貸してくれた人と連絡が取れなくなったから預かったままになっていたの。引越しの時に悪いけど実家に置かせてもらおうと思って」
「その時、ライナーはあった?」
 母親は疑わしそうに目を動かしてアユラを見つめる。
「どうかしら。確認しなかった。ライナーが付いているとも思っていなかったから」
 アユラが言うと、母親は、はあ、とため息を着いて腕組みをした。
「もしかして、そのクリーニング屋で紛失したんじゃない?」
「そんなことある?」
「可能性として」
 几帳面な性格の母親としては、この家でライナーがなくなっているとは思えないのかもしれない。
「でも、じゃあ、どうして、送ってくれた時、クリーニングのタグもビニール袋もなかったの? 外していないって、さっきお母さん、言ったよね」
「言いましたよ。送ろうとした時にはあの状態だったのよ。でも、確かに、変だわね」
「お父さんとか、ジュンが袋を開けたとか?」
「お父さんは滅多に二階に上がる事なんてないし、ジュンはあなた以上に音沙汰なしよ。年に一回くらい電話をくれる程度」
「お母さん、よく我慢できるね」
 アユラは自身の親不孝を棚に上げて呆れてしまった。
「そんなものよ。私だって、家を出たら親に連絡なんてほとんどしなかったんだから。そんなの普通」
 目を細めて笑う。
 いずれにしても、ライナーがどこに消えたかの謎は解けなかった。

 アユラは実家に一泊し、もう少しゆっくりしていけばいいのにと言う母親を振り切って自宅のマンションに戻ることにした。ほとんど家にいないという父親や弟にコートのライナーについて問い合わせる必要もなさそうだ。彼らはきっと無関係だろう。もしもわかったことがあれば連絡してねと頼み、家を出る時、一瞬、母親は寂しそうにも見えたが、おそらくアユラが帰った後は近所の人々が入れ替わり訪れては、悩み相談を口実にしてそれなりに活気のある時間を過ごすのだろう。少し皺は増えていたものの、きびきびと夕飯の支度をしたり、後片付けをしたりする母親の様子はまだまだ若々しく見えた。

 ――むしろ、負けちゃいられないなあ。

 旅行鞄を持って歩きながら、背筋の伸びる気がした。

3 母ちゃんの味

 マンションに戻ってきたのは夕方過ぎのことで、直ぐに全ての窓を開放した。どんなに短い間でも一度外に出て戻ってくれば部屋の中の物が生気を失って見える。空気を入れ替えて生気を取り戻さなくては。
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲み、一息ついたところで大家にメッセージを入れた。
《残念ながら実家にライナーはありませんでした。》
《お帰りなさい。そして、お疲れ様。久し振りの実家は楽しかったですか。》
《まあまあ。母も前よりかは年を取っているようには見えたけど、でも元気そうだった。》
《よかったです。コートの事に関して新しい情報は何もなかったってことですね。》
《そう。唯一、母がライナーは私が出したクリーニング屋で無くした可能性もあるかもと言ったことかな。》
《お母さんって、直観鋭いんですか?》
《まあ。そうね、そういうところもあるかも。》
《じゃあ、そのクリーニング屋に行ってみるというのもあるかも。》
《どこだったかな。覚えてるかしら。》
《行ってみさえすれば思い出すかもしれない。ドライブがてらに車出してもいいですよ。》
《ほんとに?》
 意外な申し出に感動して立ち上がりそうになった。
《僕だって、気になりますから。僕の所に、あの手紙が届いたのだから。》
《それは、そうね。面倒なことに巻き込んでしまってごめんなさい。》
《アユラさんに巻き込まれたなんて思っていませんよ。僕も関係しているのかもしれないから。》
 親切さに涙が出そうになる。
《そう言えば、夕飯一緒にどう?》
《いいですね。今日はちょっと違うところに行きますか。僕の行きつけのお店を紹介します。》
 アユラは一も二もなく承諾し、一時間後にマンションの下でと約束をした。

 大家の行きつけの店はアユラのマンションから歩いて十分程度のごく近い場所にあった。間口は狭く奥に長い洋食屋で、誰かの紹介でもなければなかなか入ってみようと思わない。路上に置かれた看板でさえも一昔前の古さがもはやレトロな新規さを醸し出すほど年季が入っている。天井からつるされたランプには色褪せたレース編みが掛けられている。
「いらっしゃい」
 カウンター奥のマスターが二人の立っている方に顔を向けた。
「お久しぶりです」
 大家はアユラにテーブル席に座るように勧め、自身は立ったままでマスターのいるカウンターに近付いた。
「彼女?」
 六十代と思われるマスターの顔は艶やかに日焼けして、短く切った髪やほどよく伸ばした髭には白髪が混じっている。淡い色調で控えめなアロハシャツの袖を筋肉質の腕がはち切れんほどに膨らましていた。
「いや、まだです」
 大家はアユラの方を向いてはにかんだように笑った。
「まだってことは、これから?」
 マスターの表情が緩み、冷かし半分の笑顔を見せる。
「先の事を言うと鬼が笑いますよ。そんな顔をしてね」
 大家はマスターの顔にゆるく指を指して、「僕はいつものチキンカツで。アユラさんは、ゆっくりメニューを見てから決めてください」カウンター脇に重ねてあったメニューを一つ取って渡した。
「何がおいしいの?」
「全部」
 大家は水を入れたグラスとお絞りを自分で盆に乗せてテーブル席に運び、そのまま席に座った。「でも、あえて言うなら――」顔を突き出してメニューを見て、「これかな」パエリアを指していた。
「パエリア。珍しいね」
「でも時間がかかるから、それにするなら来る前に注文しておいた方がよかったかも。まあ、なんでも好きなものにして」
 結局、アユラはオーソドックスにハンバーグを選んだ。ハンバーグはカジュアルな食べ物だけれど、作り方にはいろいろとバリエーションもあるし手間も掛かる。玉ねぎを炒めるのが面倒なので「炒め玉葱」を買ってきて使う人もいるし、肉の種類も合い挽きを使うかビーフを単体で使うかによってまるで違う食べ物のようになる。特にソースはどこまで自分で作るかが人によって分かれるところで、老舗の洋食屋となればデミグラスソースを一から自分でも作るだろうけれど、普通は市販のものをアレンジして作る。アユラは市販アレンジバージョンのソースにも興味があった。缶詰のデミグラスに醤油を入れるのか、バターやトマトソースを入れるのかによって味わいは変わる。
「今度はパエリアを予約してからきましょう。嫌いじゃなければ」
「パエリア大好きよ。そもそも嫌いな食べ物ってないのよ。ゲテモノ以外はなんでも好き」
 グラスの水を飲んで、湯気の立つお絞りで手を拭いた。
「それにしても、トウジョウマキオはどうして僕に手紙を送ってきたんだろうね。コートを捨てるようにと言いたいのなら、アユラさんに直接送ればいいのに」
「それはそうね、そこからして謎よね」
「これが届いている時にはもう死んでいるなんて、変な書き方をして」
「ところで、実家では他になにか変わったことなかった? たとえば、あのコートを仕舞っておいた場所がリニューアルされていたとか」
「なあんにも。布団の置き方まで十年前と同じだった。まあ、両親が年を取ったから転倒防止のために、階段に手すりが付けられていたことくらいかな、新しくなったことは」
「へえ、手すりか。それ、いつ頃付けたの?」
「聞いてない」
「そこ聞かなくちゃ」
 大家が眉を下げて顔を歪め、大袈裟に残念そうな顔をした。相変わらず漫画調の表情だ。
「そう?」
 笑いそうになるのをこらえて冷静に言う。
「まあ、いいか。後で聞いてみて。いつ、どういう経緯で、誰の勧めで、誰に頼んでそれを付けたのか」
「それ大事?」
「わからないけど、ちょっとした変化や違和感が事件の重要な鍵になっていることは多いのです。ミステリー小説ばかり読んでいるから、こんな風に何にでも疑い深くなってしまったのかもしれないけど」
 目を細めてグラスの水を飲んだ。
 テーブルに届いたサラダにはオーロラソースが掛かっていて、カップに入ったコンソメスープには賽の目にカットした野菜とベーコンが具に入っていた。オーロラソースはマヨネーズとケチャップを混ぜ合わせただけのものだろうし、コンソメスープは業務用のストックを使ったものだろう。でも、ここではそれが嬉しい。大家のひそひそ声の話によると、マスターが一人で何もかもやっているらしく、ある程度手軽な方法で上手に作るのが信条らしい。口に出して言わないまでも、アユラにしてみれば、それが家庭を思わせる味であり、長く故郷を離れている者からすれば、その手軽さゆえの味に懐かしさが上乗せされるのだ。
 その後、鉄板上で音を立てながら届けられたメインのハンバーグは小判型で、香りから想像すると、市販のデミグラスソースに焦がしバターと赤ワインが加えられたもの。インゲンとポテトフライが添えてある。ソースが跳ねる音がするほど熱々だ。大家のチキンカツは揚げたてで、さっくりと黄金色に輝くパン粉の上にトマトソースが掛かっている。そして湯気の立つライス。細かく切った青いかっぱ漬けが添えられている。
「うわあ、ご馳走だ」
 アユラはテーブルの上を眺めて思わずつぶやいた。
「でしょ。どちらも夕飯の四番バッターってところか」
 既にナイフとフォークを持っている。
「愛を感じる」
「そうなんだ」
 もう口の中に一口分のカツを放り込んでいる。
 アユラも負けじと一口分にハンバーグを切って口に入れる。
「おいしい」
「めちゃくちゃ旨いんだ」
「早く教えてくれたらいいのに」
「アユラさん行きつけの定食屋もよかったですよ」
 大家がそう言うと、マスターがカウンターから、
「どこの定食屋?」
 と話しかけてきた。
「駅前の、梵亭食」
「ああ、あれ。あれは弟」
 マスターが言ったので、二人とも声を揃えて「えーっ」と大きな声を出してしまった。
「だって、ここが洋食ブラフマン。漢字の梵とブラフマンって同じ意味だから」
「なるほど!」
「兄弟そろってお店を出すなんてすごい」
 アユラが言うと、
「それはどうも。どっちも母ちゃんの味を再現しているだけ。弟は和食で、俺は洋食。母ちゃんは両方出来たんだけど、やってみてわかったのはそれは天才過ぎるってことだった。母ちゃんは習ったわけでもないし、テレビの料理番組なんかをちょっと見て作ってた。しかも休まず毎日、朝、昼の弁当、晩ご飯。体力が信じられない。今は姉ちゃんが家を継いだけど、パスタばっかり作っているらしいよ。または買ってきたものを温めるとか」
「お姉さんはお母様の料理を受け継がなかったの?」
「子育てもあるし、そんなことやってられないって。仕事もしているしね。まあ、そりゃあ、無理だ」
 それはそうだと大家もアユラも大きく頷いた。
 美味しいね、すごいねと賑やかな夕食時間を過ごした後、大家とアユラはクリーニング屋を調査する日程を決めた。
「実家の手すりを付けた理由や施工業者や日程のことを聞いておいてください」
 大家は口の周りを紙ナプキンで拭いた。
「そうする。この際、パズルを完成させるかのように、しらみつぶしに謎を解明していくのもおもしろそうだわ」
 アユラも口の周りを丁寧に拭き、最後に届けられた珈琲を口にした。
「わあ、本格的」
 そこまでの料理はご馳走ながらも、「母ちゃんの味」を再現しているだけあって家庭的の範囲ではあったが、珈琲は際立ってプロの味がした。
「よくわかるんだね」
 マスターが食器類を洗いながら言う。
「ライターをしていた頃に、あちこちで教わったのもあります。美味しいものはなんでも美味しいけど、表現として本格的と付け得るものは別格なんですよね」
「珈琲だけは真面目に老舗で修行したの。母ちゃんの味ではなくてね。実際、俺は珈琲屋でよかったんだけど、母ちゃんの味がこの世から消えるのも悲しいから洋食屋に転向して、その時、珈琲も母ちゃんの味でもいいかと思ってマシンを試したけどマシンでは母ちゃんの珈琲の味は出ない。母ちゃんの珈琲を作ろうと思ったらインスタントコーヒーとクリープかブライトが要るんだ。でも、食後にインスタントコーヒーを出す店もなかろうということで、結局自分で淹れることにした。だからトータルで考えるとあり得ないほどの大サービスの値段。下手すりゃ、これくらいの味を出す珈琲屋に行けばケーキと珈琲だけで、ここのセット分の値段するでしょう」
 食器を拭いては棚に仕舞っている。
 アユラはマスターの言葉に大きく頷く。
「これは穴場中の穴場だわ」
 気付いたら店内は満席になっている。
「こっちの方がいいのはわかるけど、弟の方にも行ってやって」
 マスターはいたずらっ子の顔で笑った。
「もちろん、和食も美味しいから」
 大家は伝票を持って立ち上がり、「今日は僕が支払いますよ。アユラさんにはお世話になっていますし」マスターに微笑んで見せた。
「どういうこと?」
「物件のお客さん」
「へえ、彼女にしてもいいの? 法律的に」
「別に構わないでしょう。法律的には」
 軽快なジャズの流れる店は居心地がよかった。

(八章 了)

九章

1 オーバーコートを受け取った現地へ

 かつてのクリーニング屋探しの日は汗ばむほどの陽気だった。ところどろこに白雲が浮かぶ青空で、クリーニング屋探しといった目的がなければ、心底ドライブ気分になれるだろう。大家が約束通り車を出してくれて、ナビに大まかに行先を設定して、早速向かう。
「私の下宿先の住所しかわからないなんて」
 当時の記憶はすっかり消え去っていて、住所でさえも実家に電話をして教えて貰ったのだった。
「大学時代って楽しいし、忙しいし、あっという間だからね」
 お昼前には高速道路を下りて、大学を中心とした町に向かう国道に入った。道路脇にはプラタナスが植えられ、コンビニとガソリンスタンド、カーセンター、リンガーハット、ホームセンターが順番に現れた。歩いている人は誰もいない。
「こんな町だったかなあ」
 ほとんど変化の感じられなかった故郷に反して、何もかもが変わってしまった気がする。
「思い出せない?」
「四年しかいなかったからだと思う」
 町並みに関する記憶がない。
「実家と呼べる故郷は一か所なの?」
 大家は時々ナビを見ながら理知的な運転をした。ブレーキを踏む前にはなだらかに減速するし、急発進もしない。
「大学に行くまではずっと同じ場所に住んでいた。まだ私が赤ん坊の頃に家を買って引越したらしいから、私にしてみれば18年間は同じところで過ごしたの」
「当たり前のようで、それも珍しいのかも。転勤したり、両親が離婚して土地を離れたりする人も多いから」
「そっか」
 アユラ自身は当たり前で平凡だと思ってきたことが、そうでもないと気付かされる。
「これから右折すると、そろそろ、アユラさんの居た辺りの住所になるけど、それでも思い出せないかな。それこそ、よく通った定食屋とか、本屋とか、不動産屋とか」
 プラタナスと街灯の並ぶ車窓の風景を見ていると、自信はない。あんなに多くの人と出会い、学び、サイクリングやドライブをし、パーティをし、徹夜で語り合ったのに記憶がない。青春の濃密な時間だったはずなのに。
「思い出せなさそうよ」
 正直に答えた。
「この町並みのせいかな。おかげ、と言ってもいいのかもしれないけど」
「どこにでもある風景だから?」
「いや、どこにでもあるとは思わないね。でもなんだか、人情が揮発してしまいそうな感じがする。清潔で、まっすぐで、角がきちんと揃っている」
 右に曲がります、とカーナビが言った。
「確かに。実家の風景だって、古い家が取り壊されていたり、新しくイタリア料理屋ができていたりして、けっこう変化はあったようだけど、道という道が入り組んでいて、それは昔通りで記憶に沁みついているし、植物も《植えた》っていうよりは《生えた》って感じだから、町そのものに生き物っぽさがあったかも」
 アユラが言い終わるか終わらないかのタイミングで、大家は道路の路肩に車を停めた。
「だいたい、この辺りらしい。アユラさんが住んでいた下宿の住所。ナビの言う事に従うと」
「えっ、何もないじゃん」
 背の高いビルはなく、公民館らしき建物と、その横にある簡易郵便局があるだけだった。
「もちろんここがピンポイントじゃないですよ。意外とパーキングが見当たらないから、ひとまず駐停車禁止マークのない路肩に停めてみた。よく通った定食屋とかカフェに案内してもらうのを楽しみにしてたけど、これでは無理そうですね」
「コンビニもないね。当時もなかったかな」
 そんなことも思い出せなかった。
「ほんとにこの住所?」
 大家はアユラに疑わしい目を向ける。
「母が昔の手帳を出してきて言うんだから、間違いないわよ。私も住所の地名には記憶がある」
「まずは大学まで行き、その近辺でお昼ご飯を食べましょうか」
 大家の提案に従うことにした。

「大学に関しては記憶が蘇ってきた」
 アユラは大学内にあるドトールでホットドッグにかぶりついた。
「ドトール、その頃からあった?」
 大家もミラノサンドにかぶりつく。
「なかった。大学主催の喫茶しかなかった」
「こっちもいろいろと変わったんだね」
「でも外部の人間が誰でも入って来れるところは昔のままよ」
 通常、大学には門があり、学生証や許可証がないと入ることはできないところが多い。
「下宿先、どうやって見つけたの?」
「最初は学生寮に入り、その後、自分で不動産屋に行って、安い物件を探した」
「たくましいね」
「18か19歳の私がどうしてそんなにたくましかったのか、自分でもわからない。それが今の私にとって一番思い出せないことと言ってもいい」
 アイスコーヒーを思いっきり吸い込んだ。
 きっとあの頃は怖いもの知らず。今でもどちらかと言うと行動的な方だけれど、何をする場合でも安全性を確かめる習慣はある。その慎重さで止めておく方向へと舵を切ることも多く、助かることもあるが、チャンスを逃すこともある。あの頃、まだ十代だった頃のアユラは何も恐れてはいなかった。世の中に悪人がいるだなんて考えたこともなかった。
「なんで、あんなことができたのか」
 アイスコーヒーを最後まで吸い込んでしまうと、急に自身が年を取ってしまったかのように思える。
「僕からすると、今でも充分、いろんなことをガシガシやっていらっしゃるように見えますが」
 大家はオレンジジュースを吸い込みながら、目だけこちらに向ける。
「そお?」
 まだ年老いてなかったか。ちょっと嬉しくも思える。

 学内ドトールを出た後、二人は大学図書館に向かった。文献をあたれば、アユラが住んでいた辺りの経緯がわかるかもしれない。
 見覚えのある堅牢な煉瓦造りの建物。図書館にはよく通ったからか、見覚えはある。
 自動ドアが開いて、やや薄暗い中に入ると、図書館らしく、どこよりもしんと静まった気配が漂っていた。
「学生証、ありますか」
 ワイシャツに紺のジャケットを着た係員が門番となって、銀縁眼鏡の奥から訝し気にこちらを見た。図書館では外部の人間を無防備に通過させないようだ。
「ここの卒業生です」
 アユラは即座に答えたが、証明するものはない。
「学生証をお持ちでない場合、入館許可証を作らなければなりません。お名前、住所、今連絡の取れる携帯電話の番号、職業、そして、ここに来られた目的を用紙にご記入いただきます」
「目的?」
「はい。どのような研究目的で、どのような文献をお探しか」
 無表情で事務的だった。
 受付の隣りでは、リュックを背負った学生が受付の横にある機械に学生証をかざし、バーが開くと当たり前のように速やかに入館している。

 ――私も、かつて、あんな風に、なにもかもが「当たり前」だったな。

 アユラは大学図書館に入館許可証なるものが存在していることすら知らなかった。ここにだけは外部と内部があったのだ。
 二人は係員に従い、容姿に必要事項を記入した。目的に関しても捏造などせず、「記載した住所辺りの十年間の経緯に関する調査」と記す。
 係員は用紙に記入した内容を確認すると、
「またこの目的で――」
 ため息をついて二人を見た。
「また、と言うのは?」
 大家が素早く言う。
「ここ最近、目的欄にこれを書いて入館しようとする人が頻発しています」
「頻発って、何人くらい?」
「数えきれません。でも、住所は様々です。この住所はどうだったかな、調べてみないと確かなことは言えませんが、とにかく、この大学の周囲にある町の住所のものばかりですよ」
 大家とアユラは顔を見合わせた。
「十年間の経緯の内容は同じ?」
 アユラが尋ねると、係員は頷いた。
「どういう経緯か、聞いてみたことはあります?」
「ありますよ。だいたいみなさん同じで、この住所にあった下宿先や店が見当たらないから、どうなったのか調べたい、というものです」
 再び、大家とアユラが顔を見合わせる。
「あなた方も、同じ?」
 係員はズレた銀縁眼鏡を指ですっと押し上げながら、二人の顔を交互に見た。
「同じです」
「残念ながら、そういった地元の経緯に関する資料は、大学の図書館にはないみたいですよ。どの人も、見つからなかったと言って残念そうに帰っていきました。どうされます? あなた方はそれでも入館されます?」
「他に調べる方法は?」
「僕の方としても、あまりにも同じ目的を持つ来館者が増えるので、なんどか町役場などに問い合わせてみました。実際に、来館者たちの言うような経緯があるのかどうか」
 無表情だった顔をしかめて見せる。迷惑なのか、興味があるのか、判別しがたいけれど、機械的な係員としての仮面を脱いだのは確かだった。
「そういう経緯、ありましたか?」
「いいえ。そのようなことは記録されていないのだとか」
「他の人はそれで納得したのでしょうか」
「今僕が話していることは、あなた方が初めてです。今までは、来館者たちのいたずらだと断定して受け流してきました。そして、僕の中で、もしも、次にもう一人、同じような依頼がやってきたら、僕が個人的に調べてみようと決めていたので、お話しました」
 眼鏡を外し、タオル地のハンカチで額から首までを拭った。
「どうしてそんな風に?」
 大家が冷静な口調で言う。
「怖いでしょう。シンプルに」
 眼鏡を掛け直して、二人の顔をまっすぐに見た。「僕は毎日ここに座って、入館許可証作りをしています。ご存知の通り今の時代は人手不足で、こんな大きな図書館でも、僕がたった一人で請け負っています。他にも書籍の整備とか、いろいろと仕事はありますからね。ここを数人でやるわけにはいきません。そして、僕が一人でここを担当していると、頻繁に、同じ類の調査をしたい人が現れるのですよ。しかしこの図書館に文献は一切なく、役場でもそのような事実はないのだと繰り返される。訪問される依頼者にとって問題はひとつですが、僕の所には意味不明な話が何度も何度も投げ込まれるのですから。気がおかしくなりそうです」
 言い終わると唇を一文字に結び、もう辛抱ならない、明確になるまで調べるのだ、といった決意を身体中で表現していた。
「じゃあ、どうします?」
 勢いに気圧されて、アユラは他人事のように聞いてしまった。
「ここに《しばらく不在》の看板を掛けておいて、図書館内にある談話室に行きましょう。よければですが、お二人の状況をお聞かせください。こんなことは初めてですから、他の人と状況が全く同じかどうかはわかりませんが、なんとしても解明したい気分です」
 係員はもはや我慢の限界となり、ルールをはみ出そうとしている。
 なにか、彼の内部でふつふつと煮えたぎっている怒りすら感じ取られた。

2 ピンポイントの地へ

 案内された談話室で、アユラと大家ができるだけ詳しく経緯について話し終えると、図書館員はしばらく黙り込んだ後、
「謎めいていますね」
 と、顎の辺りを、実際には生えていない髭があたかも存在しているかのように、何度も撫でた。
「謎めいているどろこじゃないの。オーバーコートは実在しているのだから」
「下宿先、もう行ってみました?」
「近くまで行ったけど、全く景色が変わってしまっていて」
「ピンポイントまで行っていないんですね」
 図書館員は銀縁眼鏡の中央金具を中指で押し上げて、鋭い眼光を二人に向けた。
 二人は同時に、「はい」と言ってうなずく。
「だったら――」
 図書館員の提案で、三人揃って現地まで行くことになった。図書館員は受付のプレートを《お昼休憩中》に差し替え、事務室から自身の鞄を取り出して肩から斜めに掛け、もはや誰よりもこの問題に強く興味を持って取り組もうとしている人の風情で前を歩き始めた。
「車は講堂裏の空き地に停めていますよ」
 大家が言うと、
「その住所なら歩いても行けるはずです。歩いていけば、思い出すこともあるかもしれませんから」
 振り向きもせず早足で歩き始める。アユラは二人の後を小走りで追いかけた。
 門はないものの、学校の外に出たことは道の具合ではっきりとわかる。学内は煉瓦かコンクリートで舗装され、外に出ると、土のままの未舗装か、通常のアスファルトだ。まるで森の中に出来た獣道のように細く曲がりくねった道へと出る。

 ――これは見覚えがある。

 夕暮れ時に樹木に囲まれた細い土の道を自転車で走ると、コローの絵画の内部に溶け込んだような気がしたものだった。そんな高揚した気分を思い出しはしたが、今では目の前に続く道は単なる不便な田舎道にしか見えない。大学生だったアユラにはきっと、何もかもが輝かしく、美しく、異国の天才が描いた絵画に見えていたに違いない。
 そこからアスファルトの道に出て、県道沿いの歩道を行き、歩行者専用の信号を渡る。
「ああ、こんな感じだったような気はする」
 徐々に思い出の場所に接近している。
「じゃあ、その住所の場自体が無くなっているわけじゃないようですね」
「それは、そうでしょう」
 電柱広告の下部にも、当該住所と番地が印刷されている。
「見覚え、あるんですね」
 図書館員は少し歩みを遅くした。
「なんとなく、ですけど」
 覚えていると断言するには目印となるものが少なすぎた。もっと住宅があったはずだが、道の両端には空き地と、その後建設されたと思われる法律事務所の建物があるだけだった。それも休みなのか、扉はぴっちりと閉じられている。
「こんなに何もないって、あり得ない」
 そう言っては見たものの、じゃあ、かつてこの場所に何があったのか、全く思い出せない。
 やがて、ピンポイントと思われる位置までたどり着いた。住んでいたアパートはなく、直ぐ近くにあったトウジョウマキオのアパートもない。
「ここまで何もかもが無くなっていると、むしろせいせいするわ」
「地震とか水害のようなものがあって、建物が取り壊されてしまったのでしたか」
 大家が図書館員に尋ねた。
「そんな話は聞きませんね」
 三人が確認できたのは、その場所には何もないことだけで、通行人ですら一人も見当たらなかった。
 麦や枯れた雑草の香りがする風が吹き、アユラにとって、それだけはどこか懐かしい。その匂いを嗅げば確信できる。大学時代にこの場所に居たこと、トウジョウマキオのアパートに行って語り合ったことは幻なんかじゃない。

 ――だけど、跡形もない。

 荒れ地と空が広がるだけ。あんなに瑞々しい日々を過ごしたのに。
 殺伐とした風景の前に、アユラはより一層の拠り所のなさを感じて、身体も力を失くして膝から崩れ落ちそうだった。

 図書館に戻った後、図書館員は「《トウジョウマキオ》の貸出記録がないかどうか調査してみましょうか」と言い出した。
「それはありがたいわ」
 アユラと大家は一も二もなく賛成する。
「ここの大学生だとしても、一度も本を借りたことなどない人もいますけど、おそらく最初に貸出カードを作ることは義務付けられているはずだから、名前の記録くらいはあるかもしれません」
 図書館員が事務室の検索システムで調査している間、アユラと大家は図書館に併設されている小さなカフェに入った。簡易テーブルが三つしかなく、客は二人以外には誰もいない。この大学の学生らしきアルバイトが愛想よく応対してくれ、二つ分のコーヒーカップをテーブルに届けてくれた。
 一口飲んだ後、
「この珈琲の味は覚えている気がする」
 アユラは鼻の奥に香りを感じた。
「こんなのどこにでもある味じゃん」
 大家はズズと啜った。
「そうかな。じゃあ、雰囲気かな」
 飲み口が厚めのカップ。豆の粉が底に沈んでいそうな濃さ。あの頃、味なんて考えもせず。とにかく目を覚まそうと飲み込んだ気がする。
 しばらくすると、図書館員もカフェに合流し、同じように珈琲を注文してテーブルに着いた。
「ありましたよ」
 目を輝かせて言う。
「よかった」
 アユラは胸を撫でおろす。トウジョウマキオ恋人でもはないが、あんなに心を打明け合って、場合によっては夜を徹しても話し合った。そのトウジョウマキオの痕跡が、あの黒いオーバーコートだけだったなんて信じたくない。
「でも――」
 アユラの晴れやかな顔を見た図書館員がすまなさそうに口ごもる。
「でも?」
 大家はカップを持ったまま背筋を伸ばした。
「何年も前の人ですよ」
「何年も前って、もちろん私が彼と遭遇したのは10年くらい前のことよ」
 アユラは苦笑いした。「確かに、十年ひと昔って言うけどね」
「そうじゃなくて――」
「そうじゃなくて?」
「もっと、ずっと前の人ですよ」
「ずっと前って?」
 アユラは真面目顔になる。
「百年以上前です。この大学は知られているよりもずっと古くから存続していますから」
「それは、別人では?」
 大家が少し青ざめる。「同姓同名ってこともある」
「そうかもしれません。でも――」
「でも?」
 アユラと大家は顔を見合わせた。
「記載されていた住所が、仰っていた辺りです。昔は電子媒体がなかったから、手書きの貸出カード申請書が残っています。セピア色に褪せたものですが顔写真まで貼ってある。今ここには持ってきませんでしたが、どうします? 向こうでご覧になります?」
 図書館員はずり落ちた眼鏡のフレームを直すこともせず、届けられた珈琲を啜りながら眼球を動かし、二人をかわるがわる見つめた。

3 セピア色の事実

「まさしく、この人だ」
 通された記録保管所の一画でトウジョウマキオの顔写真を見て、アユラは今度こそ倒れ込みそうになり、寸前で大家に支えられた。
 写真はセピアに色褪せている、でも間違いなく、トウジョウマキオだとわかった。後ろで結んだ長髪の中に一筋だけ白髪になった箇所があり、唇の右下にくっきりとした痣がある。
 モノクロ写真ではわからないが、痣は赤紫で、タトゥーかと思うほどくっきりとした花びらの形をしている。髭を生やして隠してもいいんだけどね、とトウジョウが苦笑いしたのを思い出す。

 どうしてそうしないの?/ここだけは髭の伸びるスピードが遅いんだ。なので隠そうとすると、全体にかなりの量になるまで生やさなくてはいけない。/やけど?/さあね、気付いたらこうなってた。/私、そのままでいいと思う。/自分でもそう思う。花びらの形で綺麗だろ?/そう思う。/初対面の人は必ずここに目をやるからね、僕のように物覚えが悪くても、これのお陰で、この人は初対面だったなと識別できるし。/私も見た? 初対面の時。/いや、見なかった。/じゃあ、初対面じゃないのかな。

 あの時、ふふふと笑った。でも、今、こうなってみると、笑えない。

「彼はどんな本を借りてるのかな」
 大家はトウジョウマキオの登録書に目が釘付けだった。
「その記録まではありません。当時は電子媒体での管理ではなかったから。でも、逆に、図書館にある本を全て確認すると、裏表紙に貼ってある貸出カードを入れるポケットに、彼の貸し出し番号が残されているかもしれません。古い書籍の全てから、そのポケットとカードを取り除く作業まではやっていませんから。膨大にありますので」
 図書館員は、こちらがやりたいのならやってもいいと思っているらしい。
「今のところ、それはやめておく。でもいつか、時間に余裕ができたら、彼の貸し出し番号を頼りに、一冊ずつ探してみようかな」
 アユラはまだ状況をうまく呑み込めていない。いずれにしても、今それをする体力も気力もない。
「ところで、この筆跡、どうですか。仰っていた手紙の筆跡と同じですか」
 図書館員はトウジョウマキオの名前や住所を書いた文字を指先でそっとなぞった。
「それは――」
 大家とアユラは目を近付けてじっくりと見る。
「似ているね」
「というか、同じだ」
「真似をしているのかもしれないけれど」
「さすが大家さん、あらゆる可能性を考えている」
 アユラの方は疲労困憊し、もはや何かを考えることができる状況ではなかった。
「近頃、同じような問題を抱えてここに来る人がたくさんいると仰っていたけど、どうしてみんな図書館に来たのかな」
 大家は推理を止めるつもりはないらしい。
「それはそうですね」
 図書館員は眉を寄せた。
「普通は大学の事務室に問い合わせるはず」
「そうだ、私も最初はそうした」
 アユラは大学の事務員から冷酷に、「答えられません」と言われた日のことを思い出した。
「実は僕も大学の事務にこの問題を伝えたことはあります。でも、いたずらか何かの類だろうとして取り合って貰えませんでした。事務の言う通り、別に実害はありませんし」
「実際には大学の方にも問い合わせはあったのかもね」
 大家はアユラの疲れ切った顔を心配そうに見た。
「私が問い合わせた時は、文字通り事務的に拒否の姿勢だったけど、事実として奇妙な問い合わせは多いだろうから、取り合ってくれないのも仕方がないわ。むしろ、トウジョウマキオですか、それならございますって、すぐに情報をくれた方が怖い」
 アユラが言うと
「すみません。僕は軽率にもお伝えしてしまって――」
 図書館員が顔を赤らめたので、「そういう意味じゃなくて、何も詳しい事情を聞くこともなくって意味」と、必死で訂正する。
 それを見ていた大家は得意のお茶目な笑顔で二人を取り無し、
「いずれにしても、どうしてその後、多くの人はこの図書館に調べに来たのかってことですね」
 推理の手を緩めなかった。
「それくらいしか調べようがないから。この辺りの歴史なんて」
 図書館員は銀縁眼鏡をまっすぐに掛け直した。
「この大学って、確か、移転してここに来たんだったね」
 アユラは卒業した大学の成り立ちを思い出した。
「そうです。移転前からの蔵書は引き継いでいますが――、そうか!」
 また無い顎鬚を撫でる仕草を始めた。
「そうかって?」
「このトウジョウマキオの記録は百年ほど前であり、下宿先はさっきの住所の辺りだけど、この年代なら、大学は移転前の場所にあるはすですね」
「そもそも、あの場所で下宿なんかするはずはないってことか」
「誰かの捏造?」
 アユラはふとそんな言葉を思い付く。
「何を捏造?」
「この出来事の全て」
「アユラが大学に通ったことですら?」
「私が大学に通っていたことも、その時の出来事も、全てが誰かの捏造したアトラクションじゃなかったのかしら」
 自身の目が血走っていることを、鏡を見なくても感じられた。自身の過去が誰かによって紡ぎ出された物語のアトラクションだったなんて、思いたくない。でも――。
「あり得なくはないですね」
 図書館員は生えてもいない顎鬚を撫でる仕草をぴたりと止めた。
「でも誰が? なんのために?」
 大家は推理の行き詰まりを感じたらしい。
「理由はわかりません。でも、この大学の周囲にある不可思議な現象を目の当たりにすることは多いですから、アユラさんの言葉もまんざら妄想とは思えない」
 アユラは眩暈がした。信じたくないが、目前の理知的な図書館員ですら、あり得ない事ではないと言い切ったのだ。
「しかも、本件では同じ不可思議な体験を何人もの人が共有している。まずお二人はそれぞれ、一緒に体験したことについては確信が持てるでしょうし、僕はこの図書館に、何人もの人が、自身が住んでいた場所の消失に関して調査したいと申し出て来られたことを実際に体験しているのです」
「同じ問題を訴えた他の人についても調査してみますか」
「個人的にこっそりやれないことはありませんが、図書館員の立場としては守秘義務があるし、越権行為として問題があるかもしれませんね」
 彼はきっと、誰にも内緒でこっそりやるだろう。
 何とも言えない沈黙の後、三人は記録保管所を後にした。

 アユラと大家は図書館員と連絡先を交換し合い、帰路に着いた。
 大家はまだまだ調査をしたがったが、アユラとしてはもう限界だった。こんな心境ではあるが、翌日には美術関係の雑誌に頼まれている取材もある。アーティスト養成ブログラムのオプションツアーの現地に様子を見に行く仕事もある。月尾チェルナのことも気になっていた。
「仕方ありませんね。ミステリー作家志望という、悠長な僕とは違ってアユラさんはお忙しいから」
 帰りの車の中で、大家は残念そうだった。
「なんなら、調査を進めてくださってもいいわよ」
 アユラはもう丸投げしたい気分でもある。
「本当に?」
 輝かしい声だ。大家はハンドルを握りつつ、横目でちらっと助手席のアユラを見る。
「いいですよ。もちろん、調査の進展を報告して頂きたいですけど」
 大家の有能ぶりはもう確認済みだ。
 高速道路に乗ると、西に沈む橙色の夕日が街を照らしているのが見えた。街を大きな川が貫いて、夕光を受け煌めいてる。沈む太陽は一日の終わりを見せているけれど、今日目にする中では、明日に一番近い太陽でもある。
「過去なんてどうでもいいけど、ミステリーはおもしろいから」
 やっと冗談を言える気分になった。
「そうこなくっちゃ」
 大家の横顔は希望に満ちている。アユラはもうへとへとなのに。
「いつかは仮名とか、架空を使ってミステリー小説にしてよ。本当はノンフィクションだけど、フィクションという体で出版しましょう」
「そこまで許可?」
「タダ働きはさせない方針なの」
 映画とまではいかなくても、いずれドキュメンタリータッチの映像にしてもいい。それもキュレーターの仕事だ――。
 
 ――我ながらたくましいな。

 疲れ切った状態で苦笑する。生きていくことに必死。いつだって、仕事の人間でいる。そうすれば、食いはぐれはしないから。
 アユラはそこでやっと安心感を得て、眠気が襲った。
「悪いけど、ちょっと眠る」
 こちらの状況に一日中付き合ってくれて、運転までしてくれる大家に申し訳なく思いつつも、猛烈な眠気には勝てず、目を閉じてシートの背に身体を委ねた。

3 トウジョウマキオ

 図書館員は一枚の紙を二人に差し出した。大きさはB5程度で、左上にセピア色に変化した顔写真が貼り付けてある。紙には必要事項を書き込むための枠組みがあり、その一番上の枠の中に《トウジョウマキオ》と記されていた。
「どうですか。この顔写真、アユラさんの知っているトウジョウマキオですか?」
 図書館員は眼鏡の奥からアユラを見据えた。
 アユラは顔写真に目が釘付けになっていた。別人であることを予想していたのに、トウジョウマキオそのものだったから。
「どうしました?」
 図書館員が覗き込む。
「彼よ。この人だ」
 半ば、茫然としながら答えた。
「意外だなあ」
 大家も別人であるだろうと考えていたらしい。
「生年月日は不記載ね」
 アユラは見落とさなかった。
「調べてみると、他の登録カードでも、生年月日を書いていないものがいくつかあります。任意だったのかな。昔は運勢を知られたくないので、生年月日を他人に教えない人が居たとは聞きます」
 図書館員もすでに、そのことには気付いていたらしい。
「住所は、あの場所ね。部屋番号は書いていないけど」
 かつてアユラも、トウジョウマキオもアパートを借りていた一画だ。
「そのアパートがずっと昔から建っていたわけでもないでしょうね。この登録カードを使っていたのは100年前のことだから」
 図書館員は少し困ったように言う。
「幽霊だったのかしら」
 アユラはその黄ばんだ紙を手に持ち、写真の部分に指で触れた。顔はアユラの知っているトウジョウマキオそのものだった。写真の人も20代後半で、少し髪を長くし、後ろで束ねているのも同じだ。
「だけど、その幽霊から借りたオーバーコートが残存し、その幽霊から手紙が届いたなんて、変だね。どういう存在かはわからないとしても、実在はしたんだよ」
 大家はアユラの持っている紙を覗き込んだ。
「そう思わないと、気が変になりそうよ」
 アユラは頭がくらくらする。
「もしよかったら、この紙の貸出カードの置いてある場所に案内してもらえませんか。どんな風に、これが保管してあったのか知りたい」
 大家は両手を合わせて頭を下げる仕草をした。
「守秘義務がありますけど――」
 図書館員は戸惑うふりをしつつも、すぐに、「いいですよ」と快諾した。
「どうせ、僕にはそれほど重要な仕事はありません。昔とは違って、本を借りる人は受付になど来ない。勝手に自身の貸出カードを機械に差し込み、借りたい本に添付されているバーコードを機械に読み取らせて、証明用のシートが繰り出されてきたら引きちぎって持ち帰る。もしも返却しなかったら、自動的にメールにお知らせが届き、返却してペナルティ期間が過ぎるまでは次の本を借りられない仕組みになっています。外部のお客さんが来るのはこんな時間じゃないし、お二人のミステリーにお付き合いさせてもらえるのなら、むしろ嬉しいです」
 時々二人を振り返ってそう言いつつ、紙の登録カードを置いた部屋に向かう。アユラと大家はいちいちなるほどとうなずきながらその後を着いていった。
 古い書類を保管した部屋は受付の部屋のさらに奥にあり、図書に入れる書籍の選抜に関する覚書や、時々行われる図書館イベントの記録などの膨大な資料が積載されていた。
「昔はなんだって紙ですのでね、保管が大変だったようです。これらをデジタル化してしまえばいいんですが、それほど重要な書類とも思えず、誰もそんなに大変そうな仕事に着手しません」
 かび臭い部屋の中で、埃まみれになった紙の角に触れながら、通路の奥まで進んだ。
「ここです」
 鼠色の引き出しが壁の一角を占拠している。「年代別、あいうえお順に並べてある。古いけれど、ソートの仕組みはしっかりと守られています」
 ところどころ、引き出しを開けて見せた。
 大家はさっそく引き出しを開けて、数枚のカードを取り出した。
「どれもこれも、写真が色褪せている」
「古いからね」
 アユラも同じように、何枚かを取り出して眺めた。
「これは、トウジョウさんのと同じように、生年月日がない」
 いくつか、そのようなパターンのものがあった。
「生年月日がないのに、どうして、年代別に種類分けできたのかな」
 大家は次々と取り出しては紙を眺めた。
「それはそうですね」
 図書館員は、生えていない顎鬚に触れるかのように、顎辺りに触れて首を傾げた。
「写真も、ちょっと違和感がない?」
 アユラは生年月日のないタイプのカードと、あるタイプのカードを見比べた。
「違和感って?」
「生年月日のないタイプの方は、なんとなく、作られたセピアのような気がする」
「どういうこと?」
「今ではデジタル機器を駆使したり。現像時の薬剤の操作によってセピアは作ることができるのよ」
 アユラは二人の顔を順番に見た。
「なるほどね。僕には同じ色に見えるけど」
 大家も見比べている。
「断定してはいないわ。でも、私は美術に関する仕事をしているから、なんとなくそんな気がしただけ。紙の黄ばんだ感じも、なんとなく、熱を当てて作ったように見える。こうして、本当の経年変化と見比べてみると」
 アユラが言うと、大家と図書館員も紙を見比べ、
「確かに」
 と、同時にうなずいた。

 生年月日のないカードと、生年月日のあるカードを数枚ずつ取り出し、倉庫に放置してあったクリアファイルに差し込み、三人は部屋を出た。
「トウジョウマキオは百年以上前の人かと思ったけど、このカードが捏造なのだとしたら、アユラさんとほとんど同じ年齢の人ということになりますね」
 図書館員は廊下を歩きながら断定口調で言う。もう、トウジョウマキオのカードはほぼ捏造のものと考えていいと思っているようだった。
「当たり前に考えると、そうね」
 アユラも同意。
「じゃあ、スパイかなにか?」
 大家は目を輝かせる。
「もしも、大学の記録にトウジョウマキオなる人物がいないのだとしたら、そういうことになるかも」
 アユラはそう言いつつも、そんなことを信じたくない。トウジョウとの時間は大学時代のほんの一部だけを占めている思い出だけれど、生きることについて真剣に話し合ったのは、あの時だけだったのだから。後はコンパだとか、サークル活動だとかに現を抜かし、三年生ともなればもう就職活動と卒論に向けた活動で忙しくなった。
「大学のシステムを見てみましょうか」
 図書館員がひそやかな声で言う。「そういう人、大学生として、居たかどうかを検索する」
「そんなことできる?」
「図書館システムから入れますよ。そんなこと、やっちゃいけないんだけど、僕、得意でね」
 右肩をすくめて微笑む。
「じゃあ、ぜひ」
 大家がすぐさま答えた。
「もうすぐ図書館は閉館の時間だから、その後、事務室でやりましょう。誰も来ない。図書館なんて良心的で眠い場所だと決めつけられているから、誰も疑いもしないんだ」
 ありがたいのか、不満なのかわからない口調だった。
 事務室に戻った頃には、利用者は二人しかいないようだった。それも、図書館システムの画面で確認できる。その利用者も帰ってしまうと、アユラたちの三人だけが図書館に残された。警備員が巡回に来た場合に備えて、図書館員は受付に、システム作業中の札を立てた。
「こうしておけば、入ってこないはず」
 不敵の笑みを浮かべる。
 図書館員がデスクトップコンピュータの前に座り、青い裏画面を表示して天才ピアニスト並みのスピードでキーボードを叩くと、大学の中央システムにはあっという間に侵入できた。
「怖いくらい、簡単ね」
「作業は簡単。暗号をハックするのには時間が掛かるけど、それはもう既にやってありましたから」
「なんのためにそんなことをしていたの?」
「以前、書籍がごっそり盗まれたことがあって、その時間帯の利用者を警察が調べたことがありました。持ち出し禁止の大きめの書籍だったから、通常の出入り口から持ち出すのは困難だろう、おそらく非常口から警備員のふりをして侵入し、貨車に乗せて持って出たんだろうと推理された。でも、防犯カメラのどこにもそんな人間は写っていなかった。じゃあ、やっぱり、通常の出入り口から出入りした人間が犯人だろうということで、その日の入出室記録と貸出記録の提出を求められました。印刷をして提出し、警察が一人ずつ調べたけれど、犯人は出てこなかった。それでお蔵入りとなったのだけど、よく見ると、出入りした利用者の総数と、出入りした利用者の人数が合わなかった。総数の方が一人分少なかった。警察は、誰かが二回出入りしたんだろうと考えたけど、プログラムでは、同じ利用者番号が二回出入りした場合には、そのことがデータに表出されることになっている。総数は利用者番号の個別の数ではなくて、出入りの総数が表示されるはずだから。それで、僕は変だなと思って、その日の利用者番号として出力されたものが、ちゃんと大学に帰属している人かどうかを知りたくなって、暇に任せてハックした」
「で、どうだったの?」
 ミステリー好きの大家は興味深々だった。
「案の定、一人、部外者がいた。調べても、大学の中央システムには存在していない人だった。もちろん、図書館システムにもない。つまり、偽造カードだった。偽造の場合、総数にカウントされない仕組みになっている」
「警察は見落としたの?」
 アユラはあり得ないと思う。
「仕方ないよ。それが偽造カードかどうかなんて、誰もわからないんだ。僕以外の人間には」
「ひょっとして――」
「そう。この図書館システムを作ったのは僕だから。最初はすっかり忘れていたんだけど、カードの番号には予備のように、《使わない番号》を設定しておいたんだ。臨時で使ったりするためにです。大学システムに検索した後で気付いたことですが、その偽造カードはまさにその《使わない番号》が使われていた」
「で、その犯人は見つかったの?」
「さあ。警察がもう調べないと言えば、それで終わり」
 意味深な笑みを浮かべる。「考えてみれば、持ち出し禁止の書籍がその日に盗まれたかどうかなんて、誰が断定できる? ずっと前にもうなかったのかもしれないし、触れない方がいい話題なのかもしれない」
「いわゆるなにかの陰謀論か」
 大家が言うと、
「ええ、まあ」
 にんまりしつつ、指先をキーボードの上で素早く動かしていた。「でも、警察の陰謀なのか何の陰謀なのかわからないし、触れない方がいいものには触れない方がいい」
 やがて、大学システムの画面が堂々と現れて、《トウジョウマキオ》の名前で検索を掛けることになった。「検索中です」の文字が出て、一分ほど待たされた後、「該当するデータはありません」と表示された。
「ほっほお」
 図書館員は腕組みをして画面を見つめた後、さきほど、倉庫から持ち帰った古い登録カードの名前で検索を掛け始めた。
 結果は、どれに関しても「該当するデータはありません」と出た。原則として、古いものは入力されていないのだろう。
「いずれにしても《トウジョウマキオ》は近年存在していた大学生としても、登録されていない。もちろん、別の名前で登録されている可能性はあるけれど、アユラさんの知っている名前の人は、いなかったってことになります」
 図書館員はずり落ちそうになった銀縁眼鏡の中央を人差し指で持ち上げた。

4 盗まれた書籍

「ところで、さっきの盗まれた書籍のことだけど――」
 大家はまだ気になっているようだった。
「なんでしょう」
 図書館員は掛け直した眼鏡の奥から大家の眼を見返した。
「どんな本だったの? できれば、その本が置いてあった書架にも案内してほしいけど」
「書籍の内容は公開されていませんでした。大きさは縦80センチ、横五十センチ、厚さ二十センチの巨大な本で、13冊ありました。そのシリーズがごっそりない。持ち出し禁止の書籍に関しては、内容について記された目録がありますが、その書籍に関してはなぜか見当たりません。僕にしてみたら、そもそもそんなものあったのかなと思うほどでした。だけど、ごっそりと持ち去られた後、書架に空きがある。昔撮影した書架の写真を確認すると、さっき言った大きさの本が置かれているのは写っています」
「タイトルは?」
「背表紙には図柄のような記号が印刷されていました。図書館の中でも、ほとんど誰もが通り過ぎてしまう場所の一番高い棚にありましたから、絶対に誰も見ない。あんな大きな本で、タイトルもよくわからず、棚の最上部にあれば、誰も下ろして閲覧しようとは考えないはずですから」
 図書館員は涼し気に目を細めて大家を見た。
「それ、トウジョウマキオのことと関係ある?」
 アユラは大家が本にこだわっているのが不思議だった。
「たぶん、大有りでしょ」
 そんなこともわからないのかと言いたげに、横目でアユラを見た。
「確かに、大有りな気がしますね」
 図書館員も同意する。
「その本があった場所に連れて行ってもらえます?」
 大家は身を乗り出した。
「かまいませんよ」
 図書館員は快諾した。
 
 館内の明かりは事務室を残してすべて消してあった。
「念のため、懐中電灯で行きますか。閉館しているのに明かりが点いているのもおかしいと思った警備員が来ても説明が面倒だから」
 アユラと大家はうなずき、図書館員の後ろをついて歩いた。
 図書館は二階建てで、エレベータもあるが、時間外のなので階段を上ることにした。防犯カメラに写ると面倒くさいことになる。
 歴史を感じさせる木製の手すりと踏板がアユラを神妙な気分にさせる。かつて自身も通った大学だが、それほど中央図書館には興味がなかった。そのせいか、こんなに立派な階段があったことを覚えてはいない。アユラは美術科に通っている学生だったので、美術関連の書籍が収納されている芸術棟にばかり通っていたのだ。
 雑誌類がディスプレイされていた一階とは異なり、二階にはびっしりと本棚が並んでいる。本棚の側面には分類番号やカテゴリーを現すプレートが貼られていて、その下には丸椅子がひとつずつ置いてある。壁際には書籍を閲覧したり学習したりすることのできるデスクが電車の座席のように並んでいて、いくつかはヘッドホンをつけて映像を見たり音楽を聴いたりすることのできるブースになっていた。
「こんなにいい設備があったとは」
 アユラはため息が出る。
「当時はなかったのですか?」
 図書館員がちらりと振り返る。
「たぶんあった。でも、他のことに夢中で、これを使ってみようとは思わなかった」
 自分でも情けない気がする。
「クラシックなら、映画も音楽も、なんだってあります」
 図書館員は自身の経営する会社を誇らしく思う人のように得意げだった。
「当時は友達作りに必死だったのよ。でも、そんなに必死になって得た友達も、それぞれの道に進んでからはほとんど連絡もしない。もう話が合わないから。そんなことなら、図書館に通って、永遠の友になりそうなクラシック音楽でも聴いておけばよかったのかな」
「でも思い出作りに友達は必要だよ。クラシック音楽よりも思い出の方がいい気がする」
 大家がなだめたが、
「そうかな。だけど私の場合、卒業してからの波乱万丈がひどすぎて、大学時代の記憶なんてほとんどないのよ。実を言うと、覚えていないどころか、風景を見てもそれほど懐かしいとも思わない」
 アユラはきっぱりと言う。あの四年間はなんだったのだろうと思えた。
「ここです」
 図書館員が立ち止まった。二階の一番奥の書架の前だ。

 【分類番号Z0000】【重要 持ち出し禁止】

 さらりと意味深なプレートが貼られている。
「この一番奥」
 歩を進め、壁に最も近い位置の、最上部に光を当てた。
「まだ空けたままになっているのね」
 大型の書籍が13冊ほど入りそうな空間があった。
「書庫に保管してある別の持ち禁本を置きましょうと館長に言ったんだけど、頑として、これはこのままにしておけ、と言うので、こうしています」
「館長はどうしてそんなことを言ったんだろう」
 大家は逃すことなく、そこを掴んだ。
「確かに」
 図書館員も首を傾げた。
「せめてもの抵抗だったのかな」
 大家は推理を始めた。
「何に対する?」
「さあ、何かに対する。陰謀論的な、なにか」
 大家の言葉に、図書館員は、それはそうかもしれないとうなずきつつも、
「さっきも言ったけど、触れない方がいいことには、触れない方がいいですけどね」
 懐中電灯の明かりをあちこちに向けた。「調べてみたら、ここにある持ち禁なんてのは、触れない方がいいことだらけなのかもしれないけれど」
「興味津々ね」
 アユラは大家が本棚を隅から隅まで観察しているのを見て、少しあきれた。「トウジョウマキオのことを調べに来たのよ」
「無関係じゃないと思うけど」
「確かに、無関係ではないでしょうね」
 図書館員も認める。「もしよかったら、館長を紹介しましょうか」
「いいの?」
 しゃがみこんで本の背表紙に目を近付けていた大家は、素早く立ち上がった。
「かまいませんよ。館長は信頼できる人物ですから。すぐにってわけにはいかないけれど。とても頼りになりますよ、きっと。陰謀論とは距離を取っておきたい僕よりは話がわかるかもしれません、僕はまだ若いし、これからの人材だから――」
 図書館員はそこで自嘲気味な笑顔を見せ、「陰謀論に賛同して社会から追い出されたくはないですけど、館長はいいお年で、もう上り詰めた人だから、いろいろ話してくれるかもしれません」自信ありげに胸を張った。
「それは、ぜひとも、紹介して」
 大家は思わず図書館員の手を取り、握りしめていた。

5 館長

 図書館員は「すぐにというわけにはいかないけれど」と言ったが、館長との面会が叶うのにはそれほどの時間は掛からず、アユラと大家が大学の図書館を訪れてから三日後には図書館員から連絡が入り、数日後には二人は再び大学を訪問することとなった。

「最愛の弟子がどうしてもと頼むのでね」
 待ち合わせ場所となった図書館のカフェには、異様に不機嫌そうな男が座っていた。ほとんど丸刈りに近い短髪で、黒いシャツに黒いジャケットを着用している。
 一瞬、アユラと大家は少し離れた位置で立ち止まってしまう。
 
 ――怖い人なのかも。

「えっと、この大学の図書館の館長さんで間違いありませんよね」
 大家が頬を指で搔きながら一歩前に進み出た。
「それ以外に何があるんだ」
 にこりともしないで怒鳴り、組んだ足を苛立たし気に揺らしている。
「ご迷惑だったのでしょうか」
 大家が率直に言うと、館長はしばらく黙って大家の顔を見つめ、
「それ以外に何があるんだ」
 同じ言葉を繰り返して、憎々し気に大家を睨んだ。
「あ、えっと、じゃ、帰ります。別にいいんで――」
 大家が踵を返して後ろを向いたところで、
「迷惑でもいいじゃない」
 今度はアユラが一歩踏み出した。
「は?」
 大家と館長が同時に声を上げた。
「そもそもご迷惑なのは重々承知で来たのよ。でも、そんな感じなのに来てくださったってことは、館長さんも実は本件に関してお話になりたいのではありませんか」
 もう一歩踏み出す。
「ほお」
 館長は少し表情を緩めた。
「アユラさん、あまり無理を言っても――」
 大家が制しかけたところで、
「おっと、カレシ、黙ってて」
 館長は手の甲を上にして何度か振り、あっち行けと言いたげな仕草をした後、「カノジョはいいね。押しの強い女が好みなんだ」
「ちょっと、館長さん、身売りに来たわけじゃないんで――」
 大家が言いかけたところで、今度はアユラが
「それなら運がよかった。お話できますか」
 身を乗り出した。「身売りはできませんが」満面の作り笑いをしてみせる。
「俺は別に物理的なものを欲しがっているわけじゃないんで」
 と、館長は限りなくスケベ男の表情で微笑む。
「大丈夫?」
 大家がアユラの耳元でささやく。
「大丈夫よ。世の中、こんなんばっかりよ」
 アユラは余裕と言いたげに片眉をほんの少し上げて見せた。
「ではさっそく行くか」
 館長が椅子から立ち上がると、アユラはぎょっとした、想像したよりも極度に背が高かった。一瞬、大げさではなく、竹馬にでも乗っているのかと思ったほどだった。ジャケットとセットになっているらしい黒いスラックスを履いた足は細長く、どう見ても、ジャケットとスラックスのサイズは別だろうと推測する。

 二人は図書館受付の奥にある関係者以外立ち入り禁止となっている部屋に通された。横を通り過ぎる時、受付カウンターには先日の図書館員が暇そうに座っていたが、こちらには一度も目を向けなかった。
 奥まった位置にある部屋には、書類や灰皿、古新聞などが雑然と置いてある中、埋没するかのように砂ぼこりのたまった黒い皮のソファが置いてあり、
「掃除はしていないが、気にしないで座ってくれ」
 館長に言われ、二人は腰を下ろした。
「さっき、弟子が不愛想なのはすまない。表向きには陰謀論に関わるなと言ってあるものでね」
 館長も座るなり、台の上にあった灰皿を引き寄せ、胸ポケットから取り出した紙煙草をくわえて火をつけた。
「カレシも吸う?」
 大家に箱を差し出す。
「いいえ、吸いません」
 慌てて否定すると、
「えっと、カノジョは?」
 アユラの方にも向ける。
「私も吸いません」
 アユラは即答する。
「つまんねえ奴らだな」
 館長は顔を歪めた後、思いっきり煙を吸い込み、遠慮もせずに二人に向かって吐き出した。埃だらけで靄がかかって見える部屋の中に、さらに灰色のざらついた粒子が広がる。
 二人が黙っていると、
「大学の図書館の館長らしくないなって、思ってんだろ?」
 二人の顔を見比べる。
「いえ、そんな――」
 大家は否定しようとしたが、同時に
「まあ、そうですね」
 アユラが正直に言葉をかぶせた。
「正直でいいな」
 館長はまたさっきと同じように嬉しそうな表情を見せた。
「どういう経緯で、ここの館長に?」
「学長と知り合いでね。こう見えても俺は博識だから、スカウトされたのさ。図書館の館長なんて眠い仕事だと思っているかもしれないが、ここにある書籍の全てについて把握していなくてはいけない。町の図書館とは違って、学問という意味ではツワモノぞろいのやってくる大学って場所で、図書館長をするなんてのは、誰にでもできることではないんだ」
 急にまともな人の口調となる。そもそもコワモテはなんらかの防衛なんだろう。
「お弟子さんは?」
「あいつはシステム屋。俺は古本屋も経営してるから、そこではあらゆる分野に関するツワモノを揃えている。あいつのようなシステム屋以外に、歴史や最新科学に詳しいやつとか、金持ちの道楽家を見つけてくる担当、クレンジング担当などなど。ここに来た時はまだ紙ベースの貸出カードで驚かされたよ。弟子を呼んできて全部デジタルシステムに変えてやった。格安で儲けはなかったが、そうしないと俺の仕事が大変になるのでね。昔とは違って小型のシステムで簡単にやれるから」
「本がお好きなんですか」
 大家が言うと、
「嫌いだとこういう仕事はやらないでしょ」
 冷たく言い放つ。
「でも、それだけじゃなさそうですね」
 アユラが気を利かせた。
「それだけじゃないって?」
「たぶん、研究者でいらっしゃるのでは?」
 アユラは笑みを浮かべつつ、やや上目遣いで館長を見た。
「カノジョ、なかなかやるな。そのつもりはなかったが、言われてみると、そんな気がしてきた」
 まんざらでもない顔をする。
「アユラさん、やるなあ」
 大家はすっかり感心してしまったようだった。
「お二人の状況については弟子から聞いたよ」
 館長は吸いかけの煙草を灰皿で捻り消した。「トウジョウマキオとやらから手紙が届いたり、残されたコートを調べたりしてるんだろ? それがきっかけとなって、カノジョが大学時代に住んでいた辺りに来てみたが、その辺りはごっそり変わってしまっていた」
「その通りです」
 二人はうなずく。
「で、トウジョウマキオは百年前の人間として紙ベースの登録者カードに残っていた。が、どうやらそれは捏造のものらしい、とそういうことだね」
 館長の言葉に、またうなずく。
「普通に考えれば、トウジョウマキオはなんらかの工作員で、この大学の中に大学生のふりをして侵入していた、ってことだろうね」
 館長は消したばかりの煙草を手に取って、もう一度吸いたそうに眺めて見せたが、そのまま、また灰皿に戻した。
「普通に考えればって、そんなことが、普通なのでしょうか」
 アユラが言うと、
「それ以外に何があるの?」
 ソファの背もたれにどっかりと背中を預けて、頬をひくつかせて笑顔を作っている。
「いや、まあ、でも、じゃあ、あの紙ベースの登録者カードの中で、生年月日のないものや、写真のセピア色がなんだか作られたものに見えるものは、全部、そういった、工作員のものだということでしょうか」
「まあ、そうだろうね」
「どうして図書館に、わざわざ痕跡を残すようなことをしたのかしら」
 アユラはトウジョウマキオがなんらかの工作員だったとは、とても思えない。確かにハイクラスなデザイナーたちとの付き合いがあるようだったが、ごく普通のモラトリアムを抱えた大学生だった。
「まあ、普通のいたずらじゃないかな」
「いたずら?!」
 アユラと大家は同じ言葉を発した。
「そのくらいのことはやるよ。でもまあ、そういういたずらをするんだったら、政治的な工作員じゃなくて、異次元系じゃないか」
「異次元系?!」
 また声を合わせてしまう。
「お芝居やってるわけじゃないんだから、何度もハモるのは勘弁しろよ」
 館長は露骨に不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
「すみません」
 またハモってしまった。
 館長はちぇっと舌打ちをした後、異次元からこの次元に乗り込んできて、なんらかの調査をする奴らが存在することにはなんの不思議もないし、頻繁にそういう事象は発見されているのだと説明した。
「それほどの悪さはしない代わりに、それほど強い証拠も残さない。だから、そういうこともあるかもなといった程度の認識で、ほとんどの人は放置している」
「トウジョウさんがそれだったってこと? じゃあ、隣のアパートに住んでいた美女は?」
「美女? それは初耳だな」
 身を乗り出した館長に、トウジョウマキオが大学を辞めていなくなった後、隣に住んでいた美女が真っ青になってアユラに行き先を問い詰めたことを話した。
「ふうん。そいつも異次元人か。名前は?」
「さあ、知りません」
「聞いとけよ」
「そうですね」
 アユラは自分でも自身の大雑把さにあきれてしまう。
「三人で話したことは?」
「ありません。ただ、トウジョウさんが女性の住んでいる部屋に入って行ったり、その女性がトウジョウさんの部屋に入って行くのを見たことがあります。だから私、恋人同士なのかなって」
「その二人が話しているのを見たことは?」
「あるつもりだったけど、どうかな。想像の中ではある気がするけれど、実際にははっきりと見たわけじゃないかも」
「ん? じゃあ、それ、同一人物だってことは?」
「それはないです。顔だけじゃなくて、背丈も全く違いますから」
 アユラはそこはきっぱりと言える。その美女はアユラよりも小柄の女性だった。比較して、トウジョウマキオは異様に大柄だ。
「わからんぞ」
 館長はにやにやし始めた。
「いえ、絶対に別人です。本当に大きさも違うし――」
「いやいや、異次元人の場合、メタモルフォーゼも簡単だからな」
「なんですかそれ」
 大家がメタモルフォーゼに反応した。
「姿がいろいろ変わるのだよ」
「ひょっとして宇宙人ですか」
「そういう定義はよくわからないのだが、どうも、メタモルフォーゼを繰り返して、複数の存在を生きているタイプの異次元人の話は時々聞く。もちろんそれも、明確な証拠を捕まえることはできないから、そういうのと遭遇したと主張する人の話を集めるしかないけどね」
「そうと決まったわけじゃないわ」
 アユラはムッとしたのを隠さなかった。
「それもそうだ。ところで、そのトウジョウマキオとやらが住んでいた辺りのことだけど、弟子から聞いてからいろいろと記録を調べてみた。聞くところによると、何人もの訪問客が、同じ場所のことを、どうしてあの辺りはすっかり変わってしまったのかと尋ねるらしいね」
「お弟子さんの話ではそうです。私にしてみても、何も残ってないなと思えました」
 アユラが言うと、館長は、ふうんとひとつ息を吐き出し、そわそわと目を動かしたり、頭をごしごしと掻いたりし始めた。
「あのお、記録を調べると、どうだったんでしょうか」
「言いにくいが、そもそも記録がない」
 館長はとうとう、一度は消した煙草に火を点けた。
「住民台帳とかにもですか?」
「いや、それは調べていないが、あまり個人が調べても、役所がスムーズに教えてくれそうもないしね。とはいえ、俺はこの辺りの土地についてはしらみつぶしに記録を取ったり、受け継いだりしているつもりでいたからね、正直、驚いたよ。なんで見落としていたのかなって」
「記録がないって、どういう意味でしょう」
 大家は煙草の煙をまともに浴びて、咳き込んだ。
「僕が来た時には、あの辺りはすでにあんな感じだった。お二人が弟子と一緒に見た通り、法律事務所かなにかがある以外には何もなかった。なので、すっかりノーマークだったし、記録写真をパラっと見た時も、なんとも思わなかった。だけど、アユラさんが居た頃の記録を探してみると、なんとまあ、今と同じ写真が載っかってた。つまり、最近できたはずの法律事務所が堂々と当時の写真に写っていたんだな。そんなわけあるかいってことよ。その記録は図書館の一般には閲覧されない資料の中にある。なんで閲覧禁止かと言うと、一般人が写っていたりするからね」
「なんだか嫌な気分」
 アユラはそれまで館長に見せていた押しの強い元気な女の状態を維持できないでいた。
「まあ、そうだろうね。なんとなく、そこまでくれば意図的なものを感じるから」
 館長はなだめるように言い、煙草の煙を横に向けてそっと吐き出した。
「アユラさん、大学時代の思い出はそれほどないって言うし、そこにも隠された秘密がありそうだな」
 ミステリー好きの大家といえども、目前でアユラがすっかり気落ちしているのを見ると、それほど嬉しそうにはできないのか、わざとらしく悲しそうな顔をして見せていた。
「手がかりはコートを出したクリーニング屋だな。それも今はあの場所にはないらしいけど、移転したのであれば、移転先で話を聞けるかもしれない。アユラさんが卒業した後で移転開業した店を探して、話を聞いてみたらどうかな」
 館長が提案した。「なんなら、探すのに俺のデータを使わせてやってもいいよ」
「ほんとに?」
 今度はハモらなかった。嬉々として見せたのは大家だけだ。
「その代わり、二人に手伝ってもらいたいことがある。弟子から聞いたと思うが、あの盗まれた書籍のことだ」
「僕たちに何かできることが?」
「ある。でも、ここでは言えない。どうだ、俺の店に移動して、そこで調べ物をしようじゃないか」
 館長は二人の返事を待たず、もう短くなった煙草の火を消し、立ち上がっていた。

6 館長の店

 館長の店は大学から車で三十分ほどのところにあった。アユラは古本屋と言うからこじんまりとした一軒家を想像していたが、着いてみると七階建てのビルだった。周辺にはカラオケルームやチェーンの居酒屋、コンビニ、ゲームセンターがある。
「派手ですね」
 大家も予想外だったらしく、ネオンの煌めいた看板を見上げた。
「まあね。俺の店は古本屋と言っても、完全に娯楽系のレア本ばっかりだから」
「大学の図書館長に選出された人の店とは思えません」
 アユラは一階の窓ガラスに、グラビアアイドルの写真が何枚も貼ってあるのを見て顔をしかめた。
「だろう? 俺もそう思う」
 館長は真面目顔だった。「あれは頼まれたから、やっているだけ」
「学長に見込まれるほどの博識でいらっしゃるんでしょう?」
 大家はグラビアアイドルよりは、ショーケースに並んでいるアニメのフィギュアの方に興味を示していた。
「戦隊シリーズとか、いろいろあるよ。買っていってね」
 館長は大家の二の腕を握った。大家は、「こわっ」と言って身をのけぞった。
 館長はひひひと怪しげな調子で笑い、指を動かして、来いとの仕草をしながら店に入っていった。
 三人でエレベータに乗り、最上階へ行く。
 扉が開くと、今度は下の店舗とはまるで雰囲気の異なる、ぴしりとした書斎が現れた。向かい合う壁二つ分が本棚で、一面は硝子窓、その硝子窓に向き合うようにマフォガニー製のデスクが置いてあった。デスクの上にはノートパソコンがひとつと、ボールペンが一本、メモ用紙の束がひとつあるだけだった。
「いやあ、知的ですね」
 一歩踏み入れるなり、大家は晴れ渡る笑顔を見せた。
「カレシはこういう感じ好き?」
「好きも何も、チョー憧れます」
 おだてているわけではなさそうだった。
「これなら、大学図書館の館長を頼まれてもおかしくはないだろう?」
 館長は手のひらをこすり合わせて、にやついていた。
「まさに、ふさわしい書斎です」
 大家はまだ本気で感動している。
「お世辞でも嬉しいよ」
 館長は素直な調子になり、部屋の真ん中にある応接セットに座るようにと促した後、どこかに電話をした。二人が座ってしばらくすると、社員らしき若者がお茶を運んできた。書店の店員をしているらしく、ユニフォームのエプロンを掛けている。
「さてと、まずやることは、カノジョが大学時代に利用していたクリーニング店がどこに移転したのかを調べることだ」
 館長はデスクの引き出しの鍵を開け、中に仕舞っていたノートパソコンを取り出して応接セットのテーブルの上に置き、「これにはいろいろとデータが入っている。いわゆる、タウンページみたいなものだ」二人の目を交互に見た。
「公のものですか」
「いや、独自制作」
「何に使うんですか、そんなもの」
 大家はやや古い型式のパソコンを珍しいものでも見るようだった。
「そんなものとはなんだよ。でも、そう言いたくなる気持ちはわかるよ。でも、俺はね、本屋と大学図書館の館長をしているだけじゃないんだ」
 大きな手のひらで頬をさすり、また、二人の目を交互に見据えた。
「何、やってるんですか」
 アユラは少し怖くなった。
「そんなに怯えた目をしなくても大丈夫だよ。曲がりなりにも大学図書館の館長を任されているんだぞ。カノジョが想像しているような悪い奴じゃないよ」
 情けなさそうに眉を八の字にする。
 アユラは、「それもそうですね」と思い直す。
「実はね、君たちが持ち込んだ相談事がまるで俺の問題ともヒットしている。調査中のことだ」
「ええっ、まさか、探偵とか、公安とか、マル秘調査室とか――」
 ミステリー好きの大家は目を丸くした。
「そういう肩書は一切ない。しかし、大学内における異次元人の出現について調査中だ。言うなよ」
 館長はぎろりと睨む。「俺は怖い種類の人間ではないが、もしも君たちがこれを俺の許しもなく口外した場合、俺は責任を取れない。こういう類の話は、軽く考えた奴はだいたいひどい目に遭っている。俺が遭わせるんじゃないぞ。何者かが遭わせる。いいか、ナニモノカ、がだ」
 アユラも大家も黙ったまま硬直し、しばらく返事ができなかった。でも、もう聞いてしまったのだし、後戻りはできない。
「とにかく、すぐに、そのクリーニング店を特定しろ。そして、今日中に、そのクリーニング店に行って、当時のことが何かわからないか調査するぞ」
「そんなに簡単に特定できるかしら」
 アユラは自信がなかった。
「カノジョが卒業後に《移転》した店となれば、けっこう絞られてくるはず。《移転》の場合は、《移転》と表記してある」
「なるほど」
 二人は、また同時に言ってしまい、館長はまた、ちぇっと顔をしかめた。
 十五分後――。
「七件ありました」
「早いな」
「データがきちんと整理してあったから《移転》でソートを掛ければすぐでしたよ。パソコンを立ち上げる方に時間が掛かったくらいです」
「すまんな。古い型式をそのまま使っているのでね。まあ、君たちの仕事が早いのはわかった。じゃあ、その七件にひとつずつ電話をして、どこから移転したのかを聞くことだな。カノジョの居た地域の近くを言えば、そこが当たり。地図を用意して、横に置いて電話をするように」
 アユラは館長のきめ細やかな指示に感動した。

 クリーニング店への電話は全てアユラがすることになった。相手からしてみたら、ちょっと奇妙な電話は警戒しやすいものだから、溌剌とした調子の女性がいいだろうと館長が言ったのだ。
 決まり文句として、「昔クリーニングに出したものがあり、探し物をしているのだが、もちろん、こちらのミスなので訴えるなどするものではない」と告げること。これも館長の指示だった。安心してもらってから、どの地域から移転したのかを尋ねるように順序を間違えない。
 まずは、大学の西にあるチェーンのクリーニング店に当たってみる。
 若い女性が出て、バイトなのでよく知らないと言った後、奥に居ると思われる店長と話す声がして、「新しくできた高速道路の脇にあったものを、こちらに移転したそうです」と答えた。アユラが横に置いた地図で確認しながら詳細を聞いたところ、現在は高速道路の入り口になっている場所だと特定できた。それは、かつてアユラの利用していたクリーニング店ではない。
 次に、大学の東にある店。
 今度は若い男性が出て、同じようにバイトなのでわからないと言った後、「そう言えば、高速道路が新しくできる時に移転したと聞いています」と答えた。責任者らしき人物は不在だったので、明確な位置は特定できなかった。 
 その後、三件はほとんど同じことが繰り返された。どの店も高速道路の建設と共にどちらかと言えば大学寄りに移転している。そのうちの二件はやはりバイトらしく若者の応対だったが、一件は店長自身が電話口に出て、七年前に道路の件で立ち退きを求められ、チェーンに加入している場合は店の方針に従って移転したが、個人店はほとんど閉店してしまったのだと言った。
「おたくは個人店ですか」
 アユラの問いに、店長は「そうだ」と言う。
「閉店しなかったんですね」
「うちは主に工業用ユニフォームのクリーニングを専門にしているからね。海岸沿いのコンビナートからどっさりと作業着が届く。特殊な薬を使った仕事だから簡単に始める店はなく、辞められると困ると言われて継続したよ。だから、一般の人の衣類はほとんど扱わない」
 電話口の声はどこか自信に満ち溢れている。
「ほとんどってことは、扱う場合もあるってことですね」
「まあ、そうだけど、心当たりある?」
 そう聞かれて、アユラは慌てて否定した。アユラが利用していたのは、普通のクリーニング店だったはず。
 次に六件目。
 これは店が休みらしく、電話に出なかった。
 七件目。
 男性が出て、声が若かったのでひょっとしてバイトかと思ったが、店主だと言う。
 アユラはお決まりの文言を言った後、
「移転前のお店があった場所はどこだったか、教えていただけますか」
 と聞くと、
「それか」
 と言う。
「それかって?」
「その問い合わせ、時々あるんだ」
 と言う。
「時々って、どの程度でしょうか」
「月に一回くらいは、ある」
「ご迷惑なのでしょうか」
「まあ、迷惑っちゃ迷惑かもしれんが、うちはそれはどうでもいい。うちはもともと駅前ビルのテナントとして入っていたからね、そのビルが改築される時にテナントはやめて、大学のそばに引越した。なので、あ、そうですか、で終わる」
 あっさりと言う。
「そうですか。だったら――」
「みんな、だったらいいですって切るんだけど、仲間のクリーニング屋が困っていてね。同じ電話が何度も掛かってきて、移転前の地区を言うと、どうして移転したんですか、そこはもう何もかも無くなっているんですよと、みんながああだこうだ責め立てるそうだよ。それで、実際に利用している客だけに電話番号を教えて、ホームページとかに掲載している電話には出ないことにしているらしい。こんなことを暴露するのもなんだけど、やめてやってほしい気はするからね」
 店主は善なる思いから打ち明けたらしい。
 その電話を切った後、アユラは書斎にいる二人に
「特定できました」
 にんまりとして見せた。
「一件は不在だったのでは?」
 デスクで仕事中の館長がパソコンから顔を上げた。
「その不在のクリーニング店こそが、探している店みたいです。六件目の人が、迷惑がっているからやめてやれと私に忠告してくれました」
「そんな情報漏らして、やめるわけないわな」
 ひひひと嬉しそうに笑う。
「そんなにアクドイ感じじゃなくても――」
 アユラもフフフと笑う。「ま、やめるわけないですよね」
「アユラさん、意外だなあ」
 大家が敬意なのか軽蔑なのかわからない目でアユラを見る。
「とにかく、行ってみるか、現地に。住所はわかっていることだしな」
 館長はパソコンを閉じ、立ち上がった。「えっと、住所はどこだ?」
「それは――」
「おお、意外と近いやつだな。歩いても行ける」
 館長は住所を見ながら微笑んだ。
「ひょっとして利用していたりします?」
「俺は使ってない。というか、そういうのは弟子が全部やるから、俺はどこを使っているのか知らないと言った方が正確か。つまり、使っている可能性もなくはない」
「お弟子さん、なんでもやるんですね」
 大家はぎろりと睨む。
「だって、ここのユニフォームも出すから、その担当者が一緒にやってくれてるだけ」
 少しは恥じ入ったのか、頬をほんのりと染めた。
「とかなんとか言って、雑用をやらせてばかり――」
 大家が突っ込みを入れようとすると
「そんなことはどうでもいいわ」
 アユラが決然と遮った。「行きましょう」
 再び、最初に館長に見初めてもらった押しの強い女になり、「行くわよ」とばかりに腕を振り上げた。

7 クリーニング店

 三人は外に出てすぐに近くのラーメン屋で昼食を済ませてから、目的のクリーニング店へと向かった。
「大学の近くにこんな繁華街があったなんて知らなかった」
 アユラは年季を感じるアーケードを見上げた。アーケードを支えているパイプのところどころに季節はずれの桜の飾りが残されている。
「大学生はほとんどこっちには来ないね。というか、大学生たちはあの学生たちのために整備された一画でずっと暮らしている」
 館長は両手をポケットに入れ、斜め上を見て背筋を伸ばしながら歩いた。
「おもしろそうな商店街なのに」
 大家は仏具屋の方に顔を向けて、名残惜しそうにしている。
「仏具好きなの? 仏教徒?」
 館長が物珍しそうに大家を見る。
「仏教徒ってことはないです。両親の法事とかでお世話になる程度ですから。でも、仏具って現代アートっぽくて好きです。仏教なのに質素でもなんでもない。キンキラのたくさん付いた派手なものなんて、これなんだろうって、惹かれます」
「おもしろいこと言うね。俺の店で働かないか」
 早足で歩きつつも、抜け目なくスカウトをする。
 大家は「いやあ――」と語尾を伸ばして言葉を探しているふりをした後、「やめておきます」きっぱりと言った。
「なんで?」
「弟子ってことになりそうですから。身の周りのことまでやらされそう」
「さっくりと本音を言う奴は信用に値する」
 館長は背筋を伸ばしたままにやりとし、何度か軽くうなずいて見せた。
 アユラは二人の歩幅に着いていくのに精一杯で、半分小走りになっていた。
 右折してアーケードを離れた後、澄んだ水の流れる用水路の横にある歩道を進み、さらになんどか右折と左折を繰り返すと、小綺麗な店構えの前に出た。
「これだな」
「やたらとおしゃれですね」
 壁は白い漆喰、屋根は青い瓦、玄関先にはテラコッタの鉢がいくつかあり、赤紫のとんがった花びらを持つ花や、白い小花があふれるように咲く植物が植えられていた。庇を支える柱に木製の看板が掛けられている。
「こんな感じじゃなかったけど」
「移転時に、心機一転したのかな」
 白いペンキを塗られた木枠のある硝子扉を開けると、ドアベルが心地よく鳴り響き、奥から「いらっしゃいませ」と若い女性の声がした。
 カウンターに現れたのは二十代と思われるショートヘアの女性だった。
「お引き取りですか」
 三人が衣類を持っていないのを見ると、女性は少し顔をこわばらせた。通常、三人でクリーニング店に手ぶらでやってくる客はいないだろう。
「ちょっとお伺いしたいことがありまして」
 アユラが言う。「あの、店長さんでいらっしゃいますか」
 意外だったが、女性は「そうです」と言った。
「実は、私、ここが移転する前によくお世話になっていて、あ、いや、なにかいちゃもんを付けにきたわけではありません。ただ、ちょっと、お伺いしたいことが――」
 言いかけると、
「また、それですか。移転前のことを聞きたいんでしょう?」
 女性は露骨に嫌な顔をした。「でも、直接来られた方は初めてです」
「図々しくてすみません。あの、移転前の店長さんは、どうされてます?」
 アユラはライター仕込みの押しの強さをここでも発揮した。取材する時には怪しまれないための明るさは必要だが、聞きたいことを聞き出すためには終始控えめにしていては仕事が成り立たない。
「母は亡くなりました」
「あなたはあの方のお嬢様だったのですね。いつ、亡くなられたのですか」
「それ、言わなくちゃいけません?」
 顔を横に向ける。
「いえ、言いたくなかったら、仰らなくてもかまいません。でも、実は昔、コートをクリーニングしてもらったことがありまして――」
 少しこちらの事情を言いかけると、
「不具合でも?」
 ぶっきらぼうに返してくる。
「いいえ。そのコートの内側の――」
 ある程度はこちらの情報を小出しにすることは技術だ。こちらの具体的な情報を出すと、相手は心を許すこともある。
 まさに、そのアユラのふるまいが功を奏した。
「もしかして、それ、黒いオーバーコートですか」
 女性は少し顔を明るくした。
「そうです。ご存知ですか?」
「知っているも何も、母が亡くなる前に、そのことを言い残しましたよ。亡くなる直前にそんなことを言うかなと思いました。それ、そんなに大事なことなのかって」
「どう仰ったの?」
 館長がしびれを切らしたかのように言葉を発した。
「まず、あのオーバーコートを取り扱ってから、奇妙なことが起きるようになったそうです」
 また迷惑そうな顔をする。
「それは、お化け的なこと?」
「そうじゃなくて、あ、いや、そういうことかな、うーん。――」
 言いあぐねている。
 館長は腕組みをし、人差し指をせっかちに動かしながら、
「変わった客が来るようになった、とか?」
 答えをひとつ提案した。
「あ、そんな感じ、かな」
 顔を明るくする。
「変わったって、怖い感じの人とか、そういう意味?」
 大家が心配そうに言う。
「そういうんじゃなくて、なにか、んっと、レイテキな感じのする客って言っていました」
「レイテキ? レイテキって、幽霊の霊?」
「そうなのかなあ。私、そういうの疎くて、母のそういうあの世的なところ大っ嫌いだったからよくわからないんだけど、母としては幽霊じゃないみたいで、単にレイテキだそうでした」
 身内の恥を語る人がするように、諦めの含んだ笑顔を見せた。
「そのレイテキな人たちはどういう衣類をクリーニングに出されたのでしょうか」
「それは――」
 言いにくそうにした後、「社会的な建前のようなものって言ってた。ごめんなさい。母って、そういう人だったの。よくわからないことを言う人間って、百人に一人くらいは居るでしょう? それが自分の母親だったと考えてみてちょうだい。いろいろと大変だったの」ため息をついて小首を傾げる。
 女性は若いのに、老女のような空気をまとってもいた。
「そういうお母様の性格も、私の出した黒いオーバーコートから始まったのかしら。あるいは、そもそもそういう方で、そこにコートがやって来て、助長された?」
「後者です。そもそもそういう方で、それによって助長された」
 女性は少しは母親のことが懐かしいのか、遠い目をした後、くすくす笑い出した。
「でも、どうして亡くなる前にそんなことを仰ったのかしら」
「さっき、そのコートの内側の――って、仰りかけたでしょう? それです。そのコートの内側が、実はこちらに残ってしまっていて――」
「え? お店に?」
「はい。申し訳ございません。ライナーの部分です。気温に合わせて付けたり外したりする部分。それを返し忘れていたそうです。気付いた時にはお客様は卒業して引越してしまわれたから返しようがなく、でも、取りに来られるかもしれないと思って、倉庫に置いたままにしているからって。ほんとに、最期の瞬間にそれを。なんで最期にそれ?って、私も思いましたけど、レイテキといった変なことを言うわりには、仕事に関しては律儀な母でしたから」
 初めて目にわずかな涙を潤ませた。

「少しお待ちになってください」
 クリーニング店の女性は奥に入って行き、十分ほどすると、ハンガーにかけてある状態のものを抱えて戻ってきた。経年変化で黄ばみ始めたビニール袋に包まれている。
「確認していただけますか」
 ビニール袋を外し、中から黒いベストのようなものを取り出した。
「どう?」
 館長が二人の顔を見る。「これがそのライナー?」
 アユラと大家は「どうかな」と言い、ボタンの付いた前身頃や、背中側を見た。
「私がクリーニングを依頼したオーバーコートは、実はある人から借りたもので、このライナーが付いていたかどうか覚えていないんです」
 アユラは正直に告げた。
「じゃあどうして、無いとおわかりに?」
「ライナーらしきものが付いていたボタンだけが本体にあったものだから、きっと誰かがライナーを外して持ち出しのに違いないって思いました。まさか、ここにあるとは思っていなかったし、この大きさであればおそらく間違いないけれど、本体を持って来なかったから断定はできないです」
 アユラが残念そうに言うと、
「いいえ、断定できます」
 店主の女性がきっぱりと言う。
「なんで?」
 館長が低音の声を響かせる。
「そんなに大きなコート、お預かりしたことはないって母が言っていたし、大きなコートなのに小柄な女性が持ってきたから謎だったって、その最期の時に申しておりましたから」
「こちらのお店では自前でクリーニングされるのですか? それとも、大きな工場にお出しになる?」
「今はもう契約している工場に出していますが、昔は両親が自分たちでやっていました。大きなスチームアイロンでもくもくと湯気を立てながら、父が次々にシャツにアイロンを掛けるのを見るのが好きでした。もちろん店舗ではなく、自宅に仕事場がありました」
 懐かしそうに眼を細める。
「今、お父様は?」
「母よりも二十年くらい前に亡くなりました。母よりもずいぶん年上でしたから」
「それにしても、そんなにきっちりしたお母さんが、どうしてライナーを返し忘れたのかな」
 館長は不思議そうに首を傾け、短髪の頭を手のひらで撫でまわした。
「仰る通り。それは私にも謎。それにしても、みなさんはこのライナーがここにあるとは知らずに来られたそうですけど、そもそもなんの御用でしたっけ?」
 店主は壁の時計を見た。
「お仕事の邪魔をしていますね」
 アユラは申し訳ないと思った。
「この時間帯は暇なので、そんなことはないですけど、まだ要件をお伺いしていないなと思って」
「そうそう」
 館長が人差し指でカウンターをこつこつと叩いた。「移転前の場所のことをお聞きしたくてね」
「そうだった」
 女店主は苦笑いする。「その件で、いろんな人から頻繁に電話が掛かってきて困っていました。今はその電話番号の機器は使わないことにしているの」
「移転前に店があった辺りだけど、ほとんど何も無くなってしまったのはご存知かな。どうしてあんなことになっちゃったのか」
「どうしてかしらね。亡くなる前に母が言っていたのは、そのオーバーコートをお預かりしてお洗濯した後から、さきほども言った通り、レイテキな人が頻繁に現れるようになったし、それ以外にも、辺りでは何かいろんなものが出ると噂されるようになったと聞いています。そのことと、そのオーバーコートを結び付けて考えているのは、母の勝手な妄想だと思いますが、いずれにしても、ある時からいろんな人が来たり出たりするようになり、それと共に、以前にそこにあった物質的なものは一掃されたとか。それに伴って、店舗を移転したの。お客さんが来ないのでは、商売が成り立たないからって」
「いろんな人って誰なんだろう。それにしても物質的なものが一掃されたってのは奇妙な言い方だね」
 大家もカウンターに身を乗り出す。「ブッシツテキなものって、そう仰ったの?」
「はい。そう言いました。それって確かに、奇妙だと思います。母はしょっちゅう、そういう言い方をしていたから、私は真剣に聞いていなかった。でも、実際に、あの辺りに行ってみた時、ああ、お母さんの言う通り、物質的なものは何もないって、そう思いました」
「アユラさんは、オーバーコートをこちらのお店に出した時点から、卒業するまでの間、あの場所に住んでいたのでしょう?」
 大家がコートのライナーに触れながらぽつりと言う。
「そうなんだけど、その時から、お母様が仰るように物質的なものがなくなっていったかどうかは思い出せない。バイトと就職活動と、論文制作でてんやわんやだったから。アパートって、寝るだけの部屋だったし」
「ほんとうに何も覚えてないんだね」
 大家はライナーの表面を撫でる手を止めて、残念そうな目をアユラに向けた。
「仕方ないさ。人間、そんなもんさ」
 館長が助け舟を出す。「お母さんは、あの辺りの写真を撮ったり、日記を残したりしていないの? 近所の八百屋さんとか、電気屋さんなどの連絡先を置いていたりしない?」
「今は一つも残っていません。日記は書いていなかったし、連絡先を書いたメモはいくつかあったけれど、亡くなった後、処分してしまいました。そもそも綺麗好きで、形見らしいものは何もなかったの。本当に何も。あるとしたら――」
 女店主は言葉を詰まらせた。
「ひょっとして、あるとしたら――、このライナーだけ?」
 アユラは察した。
 女店主は少し迷ったが、「実はそうです」と打ち明けた。
「立つ鳥跡を濁さずのようね」
「本当にそうです。クリーニング屋だからって、まるで、自身の肉体や生きた跡さえも消し去ったみたい。そして、こうして、最期の忘れ物も、持ち主が取りに来られた」
 寂しいのか、それとも、さっぱりするのかわからない、どこか軽快な調子で言う。
「そういえば、法律事務所が一軒、あの場所に出来ているの知ってた?」
 館長がしんみりしそうな空気を打ち破る。
「見たことはあります。でも、開いているところは見たことがありません。ほとんどあの辺りには行かないし」
「そうですか」
 館長は何度か頷き、アユラと大家の目を見た。「そろそろ帰ろう」
 二人がうなずくと、女店主はライナーを入れるための手提げ袋を出してくれた。
「お返しするのを忘れていて、本当に申し訳ありませんでした」
 最後に、深々とお辞儀をする。
「そんな、やめてください」
 アユラは慌てたが、名残惜しいのか、女店主はなかなか顔を上げなかった。
 三人もそろって頭を下げ、挨拶をして、店の外に出た。
 そろそろ西日が傾き、ここに来た頃にはなかった長い影が路上に伸びていた。

***

「なんだろうな、あの一画は」
 館長は早足で元来た道を歩いた。
「本当に、十円禿のように、あの一画だけ、物質的なものがなくなってしまったようですね。法律事務所はあるようですが。なんだか、このコートの内側であるライナーだけが残存物質みたいです」
 大家が持っているライナーの袋を持ち上げる。
 やがて、アーケードのある商店街を抜け、館長の本屋に戻ってきた。二人は館長の勧めで再び書斎に招かれ、艶やかな応接テーブルの上にコートのライナーを置いた。
「戦利品と言ってもよさそう」
「まさかこれが、あるとはね」
 アユラと大家はしみじみ眺める。
「ボタン外して、内側とか、確認してみたらどう?」
 館長が提案する。
「もし、あのコートのライナーじゃなかったら困るけど」
「絶対そうだって、店主が言ってたんだからさ」
 再び、館長が促す。
 アユラは従い、おそるおそるボタンを外した。
「内ポケットがある」
 前身頃の胸の両内側に薄いとも布で作られたポケットがあり、ひとつずつ指を差し込んでみた。
 すると、アユラの指先に、何かが触れた。
「あ、何か、ある」
「なに?」
「あるけど、取り出せない。どうやら、縫い付けてあるみたい」
「ほお、それは何か、怪しいな」
 館長が身を乗り出した。
 ライナーを裏返しにし、さらに、内ポケットの中の部分を無理やりながら外に返してみると、青い、三センチ角の正方形の布が縫い付けられていた。それは四方が縫い付けられた袋状のもので、中には硬い板のようなものが差し込まれているようだった。
「なんだそりゃ」
 館長も人差し指で触れる。「記憶媒体かな」
「ただのブランドを示すプレートかもしれません」
 大家もそっと触れる。
「切ってみますか」
 アユラは二人を交互に見る。
「いいのなら」
 館長はぜひともそうして欲しそうだ。
「切ろうよ。コートの本体だって、解体しているところなのだから」
 大家がスマホを取り出し、まずは全体像を撮影したり、ポケットにどのようにして差し込まれているかがわかるように何枚か撮影したりした後、本屋の三階にある文房具売り場からひとつ小さなカッターナイフを持ち出してきて、まずは青い正方形とライナー本体を切り離した。
「カレシ、器用だな」
 館長は作業の一部始終に感服している。
 青い正方形は二枚の布を重ねて、手で縫い合わせてあった。その縫い目を、カッターナイフの先でひとつずつ切り離していくと、内側から、透明なプラスティック状の板が出てきた。
「なんだこりゃ」
 大家が面そのものには触れないように、端っこを指でそっと挟むように持ち、光に当ててみた。
「ところどころに、穴がありますね」
「星座か?」
「どうかなあ。そんなにはっきりした形ではなく、本当にランダムな感じで、小さな穴があります」
 今度は館長が同じようにして眺める。
「確かに、何か、意味深な穴だな」
 アユラも見て、
「本体のチャクラの図と呼応しているのかしら。あの刺繍、どこかの地図みたいに見えたけど、あれと何か関係ある?」
 大家の顔をうかがった。
「どうかなあ」
「これと、あの一画の物質的なものが無くなっていることは、なんだかリンクしていそうに思うが」
 館長がアユラの横から覗き込んだ時、
「あっ」
 アユラが声を上げた。「思い出しそう」
 眉間に皺をよせたまま、痛みを感じる人のように、強く目を閉じた。

「トウジョウマキオと初めて会った日のことを思い出した」
 アユラは目を開けた。
「新入生歓迎会でしょう? それもクラスや学部を超えた大きなパーティだったから、トウジョウマキオが本当にここの大学生かどうかはわからないってことだった」
「その通り。その時のこと、すっかり忘れていたんだけど、今、思い出した」
 アユラはソファにきちんと座り直し、大家と館長もそれを見て、背筋を伸ばして座った。
「その時も雪が降った。4月も半ばなのに、急に冷えて、積もるほど降ったのよ。私は寒がりの癖に薄着好きで、もうスプリングコートしか持っていなかった。その新入生歓迎会の会場は大学の宿泊施設に付属している接待用の大広間だったから、異様に寒かったの。4月に入ると、気温に関係なく大型のストーブは止められてしまって、実行委員である先輩方が用意した電気ストーブしかなかった。コンセントの数も限られているから、頑張ってたこ足配線したとしても会場は寒かった。それで、スプリングコートを着たまま震えていたところに、トウジョウマキオが黒いオーバーコートを着て近づいてきた。それで、『寒そうだね、このコートを貸してあげようか。僕はもうひとつ持っているから』って言ったのよ。それが出会いだった」
 アユラが思い出しつつ話すと、
「なんだか典型的な王子様との遭遇だね」
 館長が右頬を引きつらせて笑う。
「あまりに典型的だと忘れるものなのかな。すっかり忘れていた。今の今まで忘れていたのよ。そんなことってある?」
 アユラ自身も信じられない思いがした。
「で、借りたの?」
 大家が話の続きを求めた。
「もちろん借りた。借りるしかないほど寒かったの。だけど、今思えば、コートを二つ持って出歩いているって変よね」
 アユラの言葉に二人は「そうだな」とうなずいた。
「どういった手順だったかはわからないけど、私は黒いオーバーコートを借りて羽織り、いつの間にかトウジョウマキオはグレーのフード付きコートを着ていた。ダッフルコートだったかもしれない」
「いくら大柄の人間でも、あの大きなコートを着た上で、グレーのフード付きダッフルコートを持ち歩くのは大変だと思う。だけどアパレル関係者なんだったら、何か別の目的で、そういうこともあったかもしれない」
 大家が短く感想をはさんだ。
 アユラは小さくうなずき、話を続けた。
「とにかく私はあのコートを着た状態で、ひとまず電気ストーブの近くにあるテーブルを陣取り、トウジョウマキオが持ってきてくれる温かい飲み物と食べ物を口にした。そんなに凍えそうだったのかしら。前方の壇上には世話役たちがマイクを持って新入生を歓迎する祝いの言葉を述べたり、ビンゴゲームのためのカードを配り始めたりしていた。だけど、しばらくすると、トウジョウマキオが『こんなのつまらないから帰ろう』って言ったの。『せっかくの歓迎会だし、これでお友達ができるかもしれないから』って、断ろうとしたら、トウジョウは『ここで友達なんかできない、後でこういった催し物はいくつもあるし、今日は雪のせいで参加者が少ないから、主催者のために無理してお付き合いする必要はない』などと言って、とにかく食事さえ終わったら二人で外に出た。まだ雪はけっこう降っていて、足場の悪い中、アパートまで送ってもらったの。今思えばおかしな偶然だけど、トウジョウマキオは私のアパートのすぐそばに住んでいることがわかり、『コートはそのまま着て帰って、思い付いた時に僕のアパートに持ってきてくれる? 僕はもしも寒い場合にはこのグレーのコートを着て過ごすから』と言った」
「まるで異次元人的だな」
 館長がまた右頬だけで微笑む。
「異次元人がどういうものか知らないけど、ごく普通の人間に思えたわよ」
 アユラは館長を少し睨む。
「で、コートはいつ返したの?」
「それがね、アパートに着いてみると、コートの裾に泥が跳ねていることに気付いた。雪だったから歩くたびに裾が汚れていたのよ。トウジョウマキオは異様に大柄で、私は小柄。だから私、外から見た場合、やたらと大きなコートを引きずっている人だったのよ。実際、引きずってたのかも」
「ほっほお。わかったぞ」
 館長が身を乗り出した。
「何がですか」
 大家は淡泊な調子だ。
「クリーニングに出したんだろ?」
 にやにやしている。
「その通りです。館長、よくわかりますね。私、その時に、さっき訪問したクリーニング店にオーバーコートを出しているのよ。すっかり忘れていたけど。だから、私、あのコートは二回もあの店に出していることになる」
「ということは、ライナーが忘れられたのは、ひょっとしたら初回の時かもしれないってことか」
「その可能性も、なくはない。確実なのは、クリーニング店のお母さんが『あのコートが届けられてから、徐々に物質的なものがなくなっていった』と言った始まりの時点は、一回目のことに違いないってこと。律儀な人だったって言ってたから、きっとそうよ」
「じゃあ、アユラさん、大学時代に、どうしてそのことに気付かなかったの?」
「そうね、どうしてかしら」
 アユラは思い出せない。さきほどから始まった頭痛が止まなかった。

大家はテーブルに置いたライナーを取り、表面や内側を調べ始めた。
「ポケットの内側だけじゃなくて、他の場所にも何かが縫い付けられていないかな」
「これも全部解体してみたら、何かが出てくるのかも」
 アユラはこめかみ辺りを指で押しながら言い、それを見た館長が本屋にいる従業員に電話を入れて、熱いお茶を届けるように頼んだ。
「このプラスティックのプレートが発端だろうな」
 館長はそっと指で挟んで持ち上げる。
「発端って?」
「カノジョの頭痛。そして、記憶の再現」
「そんな小さなものに、そんな力が?」
 アユラはこれまでに感じたことのない頭痛が、こんな小さなプラスティックプレートによって引き起こされているとは思えなかった。
「パソコンの記憶媒体だって、本当に小さなもので大量に保存するだろう?」
 館長はそのプラスティックプレートを持ってデスクに行き、メモ用紙の上に乗せて丁寧に包んだ後、本棚に飾ってあった銅製の箱の中に入れて蓋をした。
「少し頭痛がマシになったかも」
 アユラは頭部の緊張が和らいでいくのを認めた。
「だろう?」
 館長は手柄を立てたとばかりに得意げに言い、銅製の箱を持ってソファに戻った。
「どう? こうやって箱に入れた状態で近付いても、また頭痛がきそう?」
「どうかしら」
 体中の神経を尖らせて、痛みがくるかと身構えたが、もう襲ってはこなかった。「大丈夫みたい」
 本屋の従業員が届けてくれた温かいお茶を飲み、ほっと一息つく。
「おそらくはパソコンの記憶媒体と同じ仕組みで、なにか、アユラさんの記憶をこのプラスティックプレートの方に移し替えてあるんじゃないかな」
 館長は真面目顔だった。「表に出ている科学技術では不可能だったとしても、そして、まだ発表されていない試作中のものだとしても、ある程度は正確に作動している可能性はある」
「私の記憶? じゃあ、トウジョウマキオが私の記憶を抜き取ろうとしてそれを仕込んだってこと?」
「まあそうだろうな。持ち去ろうとしたかどうかはわからないがね。カレシや俺はこのプラスティックプレートには全く反応せず、カノジョにだけ頭痛が押し寄せた。ということは、カノジョ専用プレートってことになる」
「何かの実験?」
「まあそうだろうな」
 館長は顔をしかめる。
「なんで私がターゲットに?」
「推測でしかないけれど、例の一画のアパートに部屋を借りたからじゃないか。つまり、トウジョウマキオの鎮座している部屋に近かったから。そして、そのアパートに住んでいる連中のうち、もっとも素直そうで、もっとも普通な感じの人だった、とか」
「私って、普通?」
 アユラは意外だった。
「一見ね。気を悪くしたら謝るけど、姿かたちや、性格、雰囲気がこの時代のもっともニュートラルな感じだな」
 館長は正直に言った。「ね、カレシもそう思うだろ?」
 アユラは大家の顔を見た。

 ――そうでもないと言ってほしい。
 ――そんなに普通じゃないと言ってほしい。

「まあ、そうですね」
 期待に反し、大家はそう言った。
「ちょっと、ひどいんじゃない?」
 声を張り上げ、アユラはソファから立ち上がった。
「ごめん」
 大家は困惑して顔を赤くし、「ありふれていると言いたいわけじゃないよ」なんとかなだめようとする言葉を発した。
「じゃあ、どういう意味よ」
「どういうって、ねじ曲がったところのない、つまり、屈折した性格ではなく、素直で、それでいて、純粋すぎて時代に着いていけない感じでもなく、うまく生きているかのように見えるって、ことじゃないかな。フレンドリーで近寄りがたさもなく、姿かたちも中肉中背――」
「もういいわよ」
 アユラは、ふんと鼻を鳴らしてソファに座り直した。
「というか、カノジョ、そんなに怒るとは思わなかった」
 館長は湯呑に入ったお茶を音を立てて啜った。
「ですね」
 大家も同じように、湯呑のお茶を飲む。
「これだから、男たちって、困ったちゃんなのよ」
 アユラが言うと、
「あ、男性差別。モラハラ」
 館長がこっちも尻尾を掴んだとばかりに指摘する。
 アユラはふんと横を向いたまま口を利かず、全く反応しなかった。
「あのプラスティックプレートのことですが、頭痛を感じないような状態で、記憶を再生させるってできるのでしょうか」
 大家が話を切り替えて、館長に聞く。
「難しいかもしれんな。耐えられる程度の短時間ずつ、少しずつ再生するしかないのでは」
「ちょっと、人のこと古いパソコンみたいに言わないでよ」
 アユラはすっかり喧嘩腰だった。
「今、こうやって銅製の箱に入れている状態だと頭痛はないでしょう?」
 館長が慰めるように言う。
「ないわ」
「この状態で、何か、思い出せない?」
 そう言われて、アユラはようやく喧嘩腰を終わらせることにし、「そうね」と、脳の中を意識の針でなぞるように何かを思い出せないかと考えた。
「さっきほど鮮明ではないけど、ちょっとした出来事を思い出した」
「なに?」
 館長と大家が耳をそばだてる。
「その新入生歓迎会のあった広間、火事で取り壊しになったの。歓迎会の時のたこ足配線が原因だったはず。死者が出たり、重傷者が出たりはしなかったから、新聞やテレビで報道されることはなかったけど、後でこっそり見に行ったら、けっこう被害が大きいなって思った。床も壁も真っ黒。噂では歓迎会の主催者たちがこっぴどく叱られたそうよ。それ以降、大々的な新入生歓迎会が禁止されたんじゃなかったかしら。広間もなくなり会議室かなにかになった。それで、トウジョウマキオが『ほらね、あの歓迎会の時、すぐに帰っておいてよかったでしょう? 嫌な予感がしたんだ』って嬉しそうに言ったのよ。そうそう、『だけど、たこ足配線くらいで、あそこまで大きな火事にはならないんだ』と言ったはず。じゃあどうしてそうなったのかと思ったけど、それについては話さなかった」
 アユラはおぼろげながら、大学の広間の焼け焦げた状態を思い出した。
「それも、物質的なものがなくなったことのひとつかな」
 大家がポツンと言う。
「確かにな」
 館長も神妙な顔つきをしてうなずいた。

 発見されたプラスティックプレートはアユラが持ち帰り、まずは一人で記憶を探り出してメモを取ることになった。
「どんな記憶が飛び出してくるかわからないからね」
 館長が銅製の箱ごとアユラに渡した。
「個人情報とか、プライバシーとかですね」
 大家はコートのライナーも再びビニール袋に仕舞った。
「大した記憶はないと思うけど、館長が言った通り、やっぱりひとりで、ゆっくりと思い出してみたい」
 アユラも納得した。
「その作業が終わったら、あの物質的なものが消えてしまった地域の秘密がわかるかもしれない。俺の予想では、そのトウジョウマキオは間違いなく異次元人であり、あの地域に意図的に関わった。どういう理由かはわからないが、カノジョのことも最初から知っていて、ターゲットにしようと待ち構えていたんだ」
 館長はソファにもたれ込み、アユラの反応を待つかのようにじっと見つめた。
「そんな風に思いたくないけど、その可能性も否定しないわ」
 アユラは館長を睨み返した。
「いいね、カノジョは。やっぱり」
 館長は身を乗り出して、口角を上げる。喜んでいるのか、それともアユラの蛮勇を軽蔑しているのかわからない笑顔に見えた。
「ところで、館長の研究を手伝う約束はどうしたらいいのですか」
 大家が二人のひりひりした空気に割り込む。
「ああ、それ」
 館長は顔の表情を緩めた。「要するに異次元人についての研究だから、カノジョがプラスティックプレートに書き込まれた記憶を呼び出すことも手伝ってくれることのひとつになる」
「それ以外には?」
「弟子から大学の図書館にあった持ち出し禁止の書籍が盗難された件について聞いたと思うが、その件でちょっと確認してほしいものがある」
 館長は声のトーンを低くした。
「僕たちが、ですか」
「疑われたりしてないですよね」
 大家とアユラは顔を見合わせる。
「大丈夫、そんなことはない」
「じゃあ、なんですか」
「監視カメラに写っているものを見てほしい。持ち出し禁止の本が置いてある棚の辺りを映しているものだ。もちろん、盗難があった日の前後のものはもう調べて、警察にも提出した。悲しいほど、何も写っていなかった。大学だから研究者もいるだろうに、持ち出し禁止エリアには誰一人として入ってきていない」
 館長は顔を歪める。
「何も写っていない映像の何を確認するのですか。オーブが写っているだろう、精霊のいたずらだ、とか仰るのですか」
 大家が肩をすくめる。
「そんなわけないだろ」
「じゃあ、なにを?」
「ほとんどあの棚周辺には人が入らないが、時々は入り込んで、持ち出し禁止の大きな書籍を閲覧しようとする人間もゼロではない。で、これまでに、そういう希少なものが撮れた時、大学には黙って複写しておいたんだな。本当はプライバシーがあるから消さなくちゃいけないんだが、なんだか、気になる人間がいたんだよ」
「気になるって?」
「人間だが、なんとなく人間ばなれしている」
 頬をさすり始めた。
「人間ばなれって、言い方が変なんじゃない?」
「それが異次元人だと仰るのですか?」
「断定したわけではない。でも、ここ数日で、そうだったのかもしれないと思い始めている。とにかく、その映像を見てほしい。先に言ってしまうと、そいつは、その盗まれた持ち出し禁止の書籍ばかりを閲覧している」
「だから犯人だと?」
「そうは言っていない。犯行があったと思われる期間には誰も写ってはいないのだから」
 アユラと大家は「なるほどね」と言い、お役に立てるのならと、見ることに決めた。
「また、言いにくいことを先に言っておくが、その人物は、カノジョのIDで大学の図書館に侵入している可能性がある」
 館長の言葉に
「ええっ!」
 アユラと大家は大声を上げてしまった。
「内田アユラさんでしょ?」
 館長は初めてアユラを名前で呼んだ。
「はい。そうですが――」
「もう卒業して長く経つのに、入出館記録にあなたの名前がある。そしてそれは、その持ち出し禁止エリアの書籍を眺めている人間が監視カメラで撮影された日に限って、だ」
「どういうこと?」
「さあ、わからない。たぶん偽造したんだろう」
「その写っている人って、私に似てるの?」
「いいえ。全く。背の高い男性だから、全く違う」
「ということは、ひょっとして――」
 アユラは心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「そう。そのトウジョウマキオじゃないかと思う。先日、弟子と紙ベースの登録カードを確認したでしょう。その中に百年前の人物として、トウジョウマキオのカードがあり、セピア色に褪せた証明写真が貼ってあるのをアユラさんも見たはず。俺も、弟子からその話を聞いて、トウジョウマキオの写真を見た。驚いたよ。俺がひそかに複写している監視カメラの映像の奴にそっくりだったから」
 一瞬、アユラは言葉が出なかった。
「トウジョウさん、なんでそんなことを?」
「異次元人としての、何か、仕事のためかな」
 しばらく沈黙が続き、アユラが
「いいですよ、見てみます」
 と返答した。少し怖いが、見なければずっともやもやする。
 館長は本棚の下にあるキャビネットに小さな鍵を差し込んで扉を開け、中から映写機とフィルムを取り出した。
「パソコンを使うと複写していることがすぐにばれるからね。古式懐かしい八ミリフィルムで保存してるのさ」
 硝子窓のカーテンを閉め、そこにスクリーンを下ろし、準備した映写機のスタートボタンを押すと、部屋の明かりを消した。一筋の光の中に埃が舞うのが見え、フィルムの回転する音と共に、スクリーンに映像が映し出された。
 映像の中で、本棚と壁の間に一人の男が入ってきた。スウェットとGパン姿だ。少しも迷わずに、その盗難された書籍の場所まで来て、顔を上げ、手を伸ばす。
「あ、トウジョウさん」
 アユラは叫んだ。
「間違いないわ。これ、トウジョウさんよ」
 映像の中の男は書籍を本棚から抜き取り、通路から外に出て行った。

8 オーバーコート

 オーバーコートのライナーから発見されたプラスティックプレートには、ランダムに小さな点が打たれている。
「点字のようにも見えますね」
 大家は銅製の箱を持ち上げて中を凝視した。
「結局、あれから何一つ記憶は出てこないの」
 プラスティックプレートが発見された日から、もう一週間が過ぎていた。
「このプレートとアユラさんの記憶とは何も関係なかったのではないでしょうか」
「じゃあ、どうして、あの時、すっかり忘れていたことを思い出したのかな」
「ライナーを見て、なんとなく、記憶が刺激されただけなのかも」
 大家は箱をカフェのテーブルに置き直し、カフェオレを口にした。
「それにしても、このランダムな点字はなんだろう」
 アユラは大胆にプラスティックプレートの表面を指先で撫でた。
「ところで今日アユラさんを呼び出したのは、館長から連絡があってね、あのクリーニング店の女性がもう一度会いたいと言っていると伝えたくて」
 大家が館長との連絡窓口を担当してくれている。
「どうして?」
「そのライナーと同じものがクリーニングに出されたらしいよ」
「ライナーだけ?」
「いや。コートを洗いに出してきた人がいたらしく、それにライナーが付いていて、そっくりだったから驚いたのだとか」
「ライナーだけなら、似たようなものがありそうだけど」
「だから、本体の方を確認してほしいんだって。でも、明日の午後にはクリーニング工場の人が持って行ってしまうから、今日の夜か、明日の午前中に見に来てほしいのだとか」
「急な話ね」
 明日は朝からアーティスト養成プログラムの講習生と打ち合わせが入っていた。
「忙しいんだったら、僕が一人で行ってこようか」
「そうしてもらえたら助かるけど、でも、やっぱり、自分で見た方がいいような気もする」
 アユラにとってはハードスケジュールとなるけれど、助手席で眠っていればいいと言われて決意し、二人はその日の夜に改めてクリーニング店を訪ねることになった。

 到着した時、クリーニング店はちょうど閉店の時間で、店主の女性が看板を建物の中に仕舞おうとしているところだった。
「わざわざすみません」
 店主は頭を下げ、「館長さんもいらっしゃっています」と、二人を中に入れてくれた。
 二人はカウンターの横にある簡易扉を潜り抜け、小上がりから畳の敷いてある居間に入った。
「よお、来たか」
 館長は上から下まで黒づくめの服を着て、座布団の上に胡坐をかいていた。
「よく、この人を家に上げましたね」
 アユラは店主に耳打ちする。小さな声で言ったつもりが、地獄耳らしい館長に聞かれてしまい、
「なんだ、どういう意味だ」
 顎をしゃくりあげた。
「だって、黒づくめだから」
 正直に言う。「なんとなく怖そうなデザインだし」
「これしかないんだよ。悪いか」
 腕組みをして、胡坐をかいたまま貧乏ゆすりを始めた。
「それより、さっそく、コートを見せて頂きましょう」
 大家は勧められた座布団に座りつつも、テンポよく仕事を進めたい様子を見せた。アユラにもそれはありがたい。つい忘れそうになるが、明日の朝も早いのだ。
 店主は「これです」と言って、店の奥からコートを持ち出してきた。
「すごく重いコート。ブランドのタグも、クリーニング方法を表す表示もありません」
「うわあ、これ、まさに、そうじゃない?」
 アユラは大家の顔を見た。
「そうですね。全く、一緒ですね」
「そちらのブランドは?」
「こっちもなかったの。以前私がこちらに洗いに出したものにもタグはなく、クリーニング方法を表す表示もありませんでした。これ、どんな人が持ってきたのかわかりますか」
「残念ながらわかりません。ちょうど、バイトの子が店先に居た時にお客さまが持って来られて、会員カードを持っていたから機械的に処理したみたいで、どんな人だったかと聞いても、思い出せないって。カード№からシステム上の個人情報を調べたのだけど、ヤマダタロウという名前と電話番号しかなく、一応、電話番号に掛けてみたのだけど、出られませんでした」
「防犯カメラは?」
「セキュリティ会社に言わないと私たちが勝手に見ることができない仕組みになっていて、まだ、そちらには連絡はしていません。実際、強盗などの問題があったわけではないから、閲覧事由に記載することは何もないですし、見せてもらえるかどうかもわかりません」
 店主は残念そうに眉を寄せ、小さく首を右に傾げた。
「その客、いつ頃これを取りに来るかな」
 館長は、客が仕上がったコートを取りに来た時に、どんな人が所有者なのかを見れるようにカメラを設置しようと提案した。
「明日、さっそく俺が設置するよ」
「でも、そのお客様、これを取りに来なかったりして」
 店主はもっと深く首を傾げ、さらに困ったような表情をした。
「そんなことはないだろう。これは立派なコートだから」
「でも、どんなコートであれ、取りに来られないことはありますよ」
「ひょっとして、これ、取りに来ない気がするの?」
 館長の言葉に、店主は少し迷った様子を見せながらも、しばらくして、大きくうなずいた。
「だって、全く、汚れていないでしょう。新品同様。だから、洗いに出す必要なんてないのに、出しに来られたということは――」
 言葉を詰まらせた。
「もしかしたら、私たちが先日ここに来たのを知っていて、それで、そのオーバーコートをメッセージとして持ってきた、とか」
 アユラが店主の言葉の続きを言った。あり得ないだろうと思って言ったのだが、店主は「そんな気がする」とうなずく。
「わかった。じゃあ、俺が、その防犯カメラのセキュリティ会社と交渉してやる。それで、すぐに映像を確認しよう。今日、どんなやつがそれを持ってきたのか、もう、見よう。今すぐに、見よう」
 館長はさらに貧乏ゆすりを激しくした。
「そんなことできるかしら」
 店主は三人の顔をおそるおそる見る。
「できる。とにかく、連絡先、持ってきて」
 館長が言い、店主がセキュリティ会社の連絡先の入ったパンフレットを持ってくると、館長はそれを持って店の方に移動し、店の電話を使って交渉を始めた。
 その間に、アユラは店主の許しを得てからコートの本体からライナーを外し、この前と同じように、隅々まで点検することにした。
「これにも、プラスティックプレートが入っているかな」
「本体も調べるか」
 大家も手伝う。
「このコートには刺繍はあまりないけど、少し、あるみたいね」
 アユラは目を凝らす。
「どれどれ? 小さいね」
「なんだろう」
 二人はやはり店主の許しを得て、コートの隅々まで撮影をさせてもらった。
 そうしていると、
「よし、見れる」
 館長が居間に戻ってきて、「システムのアクセスコードを俺のスマホに送ってもらった。本体を制御しているパソコンを立ち上げてくれたら、すぐにでも見れるよ」親指を立てて見せた。
「いやに簡単ね」
 アユラは簡単すぎると怪しむ癖がある。
「俺がいろいろとSF的なことを調査しているのは、その筋ではよく知られているのでね、怪しい生き物が映っているかもしれないと言えば、見せてくれることが多い」
 他の三人は、へえ、と口を揃えて言い、初めて深い尊敬のまなざしを館長に向けた。

 店主が店先にあるパソコンを立ち上げて、セキュリティーシステムの画面から館長がパスワードを送信すると、防犯カメラの映像ファイルが表示された。
「まずは俺一人で見ることにする。ひょっとしたら、とんでもない化け物が写っているかもしれないから」
 館長は有無を言わさず、他の三人を居間に押し返し、一人で作業を始めた。
 まもなく、館長が「うわあ、ほお」と声を上げるのが聞こえてきた。
「大丈夫ですか。やっぱり、化け物ですか」
 大家が店先の館長を覗く。
「いやあ、驚いたな」
 館長は目を見開き、食い入るように画面を見つめている。
「もういいじゃないですか。僕たちにも見せてください」
「たぶんびっくりしてひっくり返るんじゃないか」
 もったいぶっている。
「何が写っているんです? 幽霊? あるいは何も写っていない透明人間? それとも、たとえばアユラさんそっくりの誰か、とか?」
 穏和な大家でさえ苛立ちを露わにした。
「わかった。該当箇所が始まるところに巻き戻しておくから、みんな来てくれ」
 館長の声に、残りの三人がパソコンの前に集まった。
「いいか、驚くなよ」
 そういって、館長が画面上の再生記号をクリックすると、映像がスタートした。

 カメラはちょうど、バイトの青年の頭のてっぺんから向こうが映る位置にあり、青年が伝票整理をしている姿が映し出された。カウベルの音と共に扉が開き、外から背の高い男性が大きな袋を持って入ってきた。

「あ、トウジョウさん」
 アユラが声を上げた。
「そうだろうな。まあ、最後まで、見ていて」
 館長がアユラをちらりと見る。

 映像の中にトウジョウマキオと思われる男が映し出されると、バイトの青年が伝票から顔を上げ「いらっしゃいませ」と言って、トウジョウマキオの顔を見た。
 問題はその瞬間からだった。
 バイトの青年はトウジョウマキオを見たまま動きを止めた。壁時計の秒針もストップしている。

「ひやっ」
 アユラと店主が同時に小さく叫び、後から、大家も、「うわあ」と囁くように声を出した。

 トウジョウマキオは青年の居るカウンターの中に侵入し、自身の財布から一枚のカードを出してレジ横のシステムのスリットに通した後、レジのオーバーコート、ライナー別の項目を押し、クレジットカードを使って支払いを済ませた。レシートや引取票がレジから出力されると、それを千切り取って自身のポケットに入れた。それからカウンタ―の上にコートを広げて置き、ふうとひとつため息をついた後、防犯カメラの方を見て、にっこりと笑った。

「なんだ、こりゃ」
 それまで冷静を保っているかに見えた大家が声を発した。
「まあ見てて」
 館長も顔を紅潮させて画面に見入っている。

 トウジョウマキオはカメラ目線のまま、唇の辺りを撫でたり、鼻の下を指でこすったりした後、唐突に「アユラさん」とカメラに向かって呼びかけた。 

「やだ」
 アユラは手のひらを口元に当てる。涙がじわりと滲む。怖いのか、懐かしいのかわからない気分だ。

 画面の中のトウジョウマキオは話始めた。
「アユラさん、お久しぶり。覚えているかな。僕だよ、トウジョウマキオ。あのコートは捨ててほしいと手紙に書いたのに、捨てなかったんだね。あれは捨てて、もしもデザインが気に入っていたのだったら、この新しいコートを取りに来て。同じデザインだから。驚かしてごめんね。僕はあの頃、大学の図書館にある本を探していたんだ。アユラさんのIDを使ったりして、ごめん」
 そこまで言うと、もう一度カメラに向かってにっこりと微笑み、それからひとつ大きな咳払いをすると、それまで静止していたバイトの青年が何事もなかったかのように動き始めた。トウジョウマキオは「じゃあ、よろしく」と言い、バイトの青年は「お預かりします」と言って、トウジョウマキオは店の外に出た。壁時計の秒針も動き始めた。

 館長はそこで映像をストップした。
「どういうこと?」
 アユラは涙をこらえているのか、目を真っ赤にしている。
「こんなのは、俺でさえも初めて見た。だけど、まだ先がある。見て」
 そういって、再び映像を開始した。

 扉は閉ざされたが、扉横にある窓硝子から、外を歩き始めたトウジョウマキオが映った。次の瞬間、トウジョウマキオが消えた。

「やだ」
 アユラは口を押さえる。「どういうこと?」
「わからん。今見たところでは、映像を切ってつないだようにも思えない」
 館長はそこで映像を一時停止させた。
「トウジョウさん、私たちがここに来ることも知っていたってことよね」
「それはそうですね」
 大家も青ざめていた。
「何者?」
「もしかして、あれが母の言う、レイテキなものってことかしら」
 店主もあまりの驚きに身体を固くしていた。
「そのようだな。そして、そのトウジョウマキオとやらがどうしてアユラさんに近付いたのかもわかった。図書館の書籍を探していたんだ。俺の探しているあの失われた持ち出し禁止の書籍群を、だ。図書館のIDが使いたかったんだろう」
「人間ではないでしょうね」
 大家がぽつりと言う。
「そりゃ、違うだろうな。人間とはなにかの定義にもよるだろうけど」
「どうして、私がターゲットに? 前にも聞いたけど、やっぱり、普通だから?」
「さあ、それだけでもない気がするけど」
 大家は今度はアユラの気持ちを逆撫でしないように慎重に答えた。
「じゃあ、あのプラスティックプレートはなに?」
「なんだろうね。だけど、アユラさんが大学時代のことを覚えていないのは、もしかしたら、さっきのバイトの人みたいになっていたんじゃないかな」
 館長がアユラの方を見た。
「バイトの人みたいって?」
「ほとんど、時間が止まっていた。そして、時々、さっきの映像のように、必要な仕事は全部トウジョウマキオが代行して終わらせていた。だからきっと、アユラさんには何も記憶がないんだ」
「そんな――」
 アユラは何かを思い出して否定しようとしたが、否定しようとすればするほど、当時の記憶がほとんどないことが明白になっていく。
「俺が探している大学に出入りする異次元人だな、トウジョウってやつは。本まで持って行きやがって」
 館長は悔しそうだ。
「どうして、例の、あの辺りは物質的なものがなくなっていったのかしら」
「あいつが、何もかも異次元に持って行ったんじゃないか。持ち出し禁止の本を持って行ったように」
「そんなこと、できるかしら」
 アユラにはとても信じられない。
「何人もいればそれくらいできるだろう。異次元人と言ったって、トウジョウ一人じゃないに違いない」
「アユラさん、とりあえず、問題は解決したね」
 大家がぽつりと言う。「トウジョウマキオは異次元人であり、僕の住所も、引っ越しの日も、アユラさんの居場所も、全部知っているんだ。だから、コートを送り付けてきた」
「確かに答えはわかった。でも、なんのために、トウジョウさんはそんな手紙を送ってきたのかしら。私にしたら、もうコートのことなんてどうでもよかったのに。忘れていたのよ」
 アユラは新たな問題を得ていた。
 館長はため息をつき、一時停止していた映像の再生記号を何気なくクリックし、その続きを見始めた。
「うわっ。まだあった」
 館長の叫び声を聞いて、他の三人も再び画面に目をやった。

 一度、消えたかのように見えたトウジョウマキオが再び窓硝子に映り、扉が再び開いた。
「いらっしゃいませ」
 コートを畳もうとしていたバイトの青年が顔を上げた。
 トウジョウマキオは店の中に入り、また、青年の顔を見た。さきほどと同じように青年は、コートを片手に持ったままで静止してしまった。
 トウジョウマキオはカウンターの前に立ち、再び、防犯カメラの方を見上げ、こちらに向かってにっこりと微笑んだ。
「そうだったね」
 言い放ち、頭を掻いたり、天井を見たり、青年が静止したまま持っているコートをそっと手から外したりした後、
「なんで手紙を送り付けたか、だね」
 映像の中のトウジョウマキオはこちらをまっすぐに見据えて言う。
「図書館長が言った通り、僕は図書館の中に保管されている、とある書籍を探していた。それで、大学生のアユラさんを利用した。ごめん。他の人が言うようにアユラさんが普通だったからじゃないよ。大学の新入生歓迎会で寒そうにしているアユラさんを見て、決めた。僕はあの時、寒そうにしている人を探していた。他の人はみんな、厚手のコートを着ていたじゃないか。だから、迷うことなくアユラさんにした。アユラさんは薄手のスプリングコートしか着ていなかったからね。そして、今回、コートを捨ててほしいと書いた手紙を大家さんに出したのは、そうした方が、アユラさんが真面目にこのことを考えてくれると思ったから。大家さんは律儀そうだし、謎を作り込んでおいた方が、ちゃんとコートのことを改めて考えてくれるんじゃないかと思った。ライナーがどこかで行方不明になっていたことは僕もわかっていた。あまりに深い場所で行方不明になったから、僕の能力でもっても長い間探索できなかったのだけれど。実はライナーの方が大事だった。アユラさんたちが取り外したプラスティックプレート、あれが大事なんだ。あれには、アユラさんが必要なものの情報が全て入っている。僕がアユラさんの大学時代を乗っ取ってしまったお詫びとして、作成しました」
 そう言うと、トウジョウマキオはカメラの前で背筋をピンと伸ばした後、深々とお辞儀をし、ひとつ咳払いをしてバイトの青年を目覚めさせると、何も言わずに外に出た。トウジョウマキオは、もう、窓硝子にさえ映ることはなかった。

 アユラと、残りの三人はしばらく黙り込んだまま、パソコンの前に立ち尽くした。
「どうする? 映像、残しておく?」
 館長がアユラの顔を見る。「そのままセキュリティ会社に返すと、何もなかったかのように消去されるけど」
 アユラは即答できなかった。大家や店主の顔を見て、天井や壁をぐるりと逡巡するかのように眺めた後、
「残すのはやめておく」
 きっぱりと言った。
「消してしまったら、もう本当にトウジョウマキオの顔は見れないけど、いいの?」
「うん。いい」
 短く言う。
「私、誰にも言いません」
 店主がぽそりと言ったが、誰にも言わないから録画しておいた方がいいと言いたいのか、それとも、この全てを胸のうちの納めておくと言いたいのかわからなかった。
「消してしまって。もちろん、館長の方で資料として残しておきたいのならそうしてください。でも、私はもういい。あのプラスティックプレートがあれば十分。あの中に、私に必要なものは全て入っていると、トウジョウさんが言ったのだから」
 アユラは決然として言った。
 館長はしばらく惜しそうにしたが、最後には、じゃあ、俺も録画保存するのはやめようと言った。
 その時、アユラは突然、
「そうだった!」
 と、高い声を上げた。
「何、急に」
 大家が声に驚いて身をぴくりとさせた。
「私、明日、朝、早いのよ」
「そうだったね」
 大家も思い出したようだ。「早く帰らなくちゃ」
 アユラも大家も壁時計を見た。
 秒針は止まっていない。
「そろそろ行きます。どうも、お二人にはお世話になりました」
 大家はアユラに代わって館長と店主にお礼を言い、まだ興奮冷めやらぬアユラの肩にそっと触れた後、二人で頭をペコリと下げた。
 館長と店主も小さくうなずき、「また会おう」と言って、扉の外までアユラと大家を見送った。
 外に出ると、もうすっかり夜は更けて、空には星が煌めいていた。
 アユラは駐車場に向かいながら空を見上げて、あの星のどれかがトウジョウマキオなのかと思うと、自然に涙があふれてきた。
「ほんとに私の大学時代を、トウジョウさんが奪ったのかな」
 そうではなく、むしろトウジョウマキオのことしかなかったのかもしれないと思えてくる。
「好きだったの?」
 大家が恐る恐る聞く。
「そうじゃないと思ってたけど、そうかも」
 アユラが星を見ながら言うと、大家もなにか辛そうに空を仰いだ。
「星が綺麗ですね」
 喉の奥から絞り出すように言う。
 アユラもうなずく。悲しいわけでもなく、涙がとめどなくあふれ出した。
 それ以上言葉もなく、二人は路地の隅で立ち止まり、しばらく黙って星を見上げた。

「そうだ、私、明日、朝早いんだった」
 アユラは我に返り、苦心して大家にいつもの元気な笑顔を見せた。
 汚れるのも気にせず、頬を濡らした涙をシャツの袖で豪快に拭いてしまった。
 
(九章 了)

(二部 了)

#連載長編小説
#コルヌコピア

 

いいなと思ったら応援しよう!