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前略草々 デザインと絵画

 ガブリエル-シャネル展に行ってみた。シャネルスーツの人がいっぱいいるだろうなと思っていたがそうでもなかった。ただしお洒落で気楽な服装の人も居るが、ファッションに興味のありそうな人しかいなかった。とはいえ、実際、もしもシャネルが現代に生きていたら、シャネルスーツを考案するわけではないだろうから、シャネルスーツを着ていく必要はない。当たり前か。
 私は安物好きを公言していて、シャネルスーツは持っていないし、シャネルバッグも持っていない。香水だけは持っていてココ・シャネル。普段に使うことはないが、ボトルが素晴らしくて、贅沢なインテリアとして気に入っている。ちなみに香水はburyかクリスチャン・ディオールのピンクの瓶を使う。この国の街で許される香りとはこの辺りではないか。夜の街ならイブサンローランも試してみたいが、欲しいと思っていたらコロナがやってきてそのままになった。
 前略草々のわりに前置きが長くなった。
 シャネルの展示はいろいろと目を覚まさせてくれる。いかに私はジャラジャラ着け過ぎているか、いかにゴテゴテ色を使いすぎているか、いかに身体にフィットさせ過ぎているか、いかにダボダボし過ぎているか、逆にシンプルを目指して素っ気なくなり過ぎているか。さっと会場を通り抜けるだけでも、バシッと目を覚まさせてくれるだろう。シャネルの気迫はそれほどまでに完璧なフォルムや色使いに表れているのである。
 さて、どうやったらこんなシャネルのようなクリエーションができるかの答とも思えるシャネルの言葉が展示されていたので感激した。それは「最終的に削っていく、引いていく、決して加えてはいけない」ということだが、この最終的段階に至る前にシャネルが何をするかというと驚く。凡人なら「いいと思うことを洗い出して、ザックリとやってみる」のではないか。シャネルは全く違うのだ。これには本当にゾッとする事が書いてあった。開催中なのでこれ以上は書けないが、名言集でも探せば出てくるのではないか。もちろん、会場に行ってみることをおすすめする。

 ところで、Twitterを見ていたら平倉圭さんのボナール≪プロヴァンス風景≫に関するエッセイに遭遇したので、どう感じられたかなと思い拝読。というのも、私も近代美術館であれを見て、これは素晴らしい絵画だなあと思った記憶があるからだ。二回見た。
 二回とも、この絵画はいい、この部屋に来てくれてありがとう、いやあ嬉しいなあと、繰り返し芸のない感激をしていたのだが、平倉圭さんのエッセイを拝読して、なるほどこのように鑑賞するのかと感じ入った。絵画の意味がわかった気がする。
 それで、反省してもう少し私は何を感じてあれをいい絵だと心の中で一人太鼓判を捺したのかについて、じっくりと考えてみたくなり、本日二回目の前略草々を書き始めたのだが、平倉圭さんのエッセイに書かれた考察の軌跡を読んでみた後、私の感動はなんだったかと振り返っても、うまく説明できない。やはり、あの絵画に対する感動は、あの美術館の一室への顕れとしか思えない。ある日、突如として、あの生暖かい風景がこんにちはと登場したことの悦びとしか言いようがない。山道ドライブをしている途中で、突然里山風の景色が車窓に現れた時のような、ハッとする絵画である。
 確かに、言われてみれば、あらゆる時間が作り込まれているのだろう。実際、里山や森のような場所には、そもそも夜も朝も昼も同時にある。一瞥の写実とも言えるのかもしれないが、鑑賞者は各々、思い込みの常識があるので、絵画は一瞥の写実に近づくほど幻想的に思えたりするものなのかもしれない。

草々

(米田素子)

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