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前略草々 安全と無難の哲学 4

 ほとんど書くべきことは書いた。ここまでを短くまとめておこう。
 《安全は持続性の危機回避であり、無難は一過性の危機回避だ。危機回避という点が共通しているために混同されやすく、安全を求めて無難を選択してしまうことがある。しかし無難の連続選択は結果として安全から遠のき、危険を招く。》

 安全は無難であることと似ているが、実際には無難と思って漫然と継続していることが危険につながるので、無難と思って漫然と続けてしまっていることを止めてみることが安全創造のための行動となる。
 安全は何もしなくて安全ということはなく、先述のような無難選択の停止によって創造されるものなのだ。チャレンジしないことを「安全志向」と言って批判されることもあるが、厳密に言うとそれは「無難志向」であり、安全志向であるならば実際には日々革新的でなければならない。

 ここで、安全と無難の概念について守備範囲の大小から観察しておきたいと思う。安全とは持続性のものであり、無難とは一過性のものだとは先に述べた。これは時間的な枠の大きさが前者は大きく、後者は小さいと言えるだろう。言い換えれば、持続性のある安全といえども、もっと長いスパンで考えると一過性のものに過ぎない無難な策だと言える。パラドックスとなってしまうが、安全と思ってとる方策が危険を招くこともある。そのいい例となる出来事があったので書いておこう。
 私は家で書き物の仕事をしているが、その時にはだいたいデニムのスカートを履いている。それを洗濯する日もあるので、その日は青いコットンのスカートを履くことが多い。ところが、なんとなく、以前買って履かなくなっていた麻の赤いスカートが目に入った。もう色としては好まないが、涼しそうだな、室内だからこれを履くかと思ってそれを履いた。ベランダの掃除をしたりヒヨドリと空を眺めたりする時にもそのままでいた。翌日、とあるSNSで神社の催し物の記事があり、そこではベランダに似た風景と赤いスカートを履いた巫女さんが写真に写っていた。
 ――なんだこれ、私みたいじゃないか!
 わけもなく気持ち悪くなった。もちろん、巫女さんのせいではない。なんとなく、そのシンクロが私にとって気持ち悪かったのだ。いたずらか?とまで思ってしまったくらいである。対策として、私はすぐにその赤い麻のスカートを裁ちばさみで切り刻んで、精神的に事なきを得た。言っておくが、私はどちらかと言えば仏教徒だけれど、全く神社が嫌いなわけではない。
 これを安全と無難の哲学で考えてみると、日々無難と思ってデニムのスカートか青いコットンのスカートを履いていたが、たまたま赤い麻のスカートを選択した。これは現象としては無難を排除した安全策のようである。しかし、奇妙なシンクロ現象が私の気分を害させることになる。安全策を講じることそのものが無難な選択と化していて、気分的被害を受けてしまったのだ。つまり無難を排除するという安全策そのものが、長いスパンから見ると一過性の無難な策になっていたのだ。
 しかし、無難な安全策のチョイスの危険性すら気付かせてくれた点においては、この赤いスカートが巫女さんとシンクロした違和感のある出来事はひとつの啓示として、私を危険から守ってくれたのではある。
 ひとつには先ほど書いたように、漫然とした無難排除の安全策もひとつの無難策になることの啓示。
 そしてもうひとつは、私は決して巫女さんになりたくないのに、巫女さんにさせられそうになることに関する啓示である。自分の意見として物書きをしたとしても、「女性は考えない、単なる巫女である」との思考をする人々からすると、「あれは自分で考えて書いているわけではない、憑依されているだけだ」と思いたいわけであり、その視野に入ると巫女さんになっている私がいることになる。それは私の望むところではない。
 そう考えると、無難の選択を外して赤い麻のスカートを履いたことが、やはり危機回避となって安全策だったと考えられなくもない。女性は単なる巫女だと考えるエリアは私にとっては不愉快な場所だと明確にわかったからである。もちろん神社がすべてそうであるとは言っていない。形式ではなく中身の思考の問題である。

 今日はここまで。
 できれば、時間的枠組みにおける守備範囲の大小の後に、組織と個人の枠組みにおける守備範囲の大小についても考察したい。
 いずれにしても、思いも寄らない嫌がらせや、思想の押し付けがあるものだから、自分の感覚に正直に生きることは大事である。

草々

(米田素子)

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