前略草々 カラスの守護
鳥達はいつもオペラを上演しているのではないか。
先日、森の入り口にカラスの親子が居て、蜜柑林から取ってきた蜜柑を食べているところを見せてくれたと書いた。木槿が満開だった時だ。後で思い出したのだが、コンポストに入れようとしたオレンジの皮をカラスが素早く持ち去った事があり、たぶんその時の事を「あの皮を雛に食べさせて育てました」と私に知らせていたのだ。というのも、その森の入り口でカラスの親子がくつろいでいることなどほとんどない。私にオレンジのお礼を言おうとして、ちょうど満開になった木槿を利用してそこに居たのだ。どの鳥も律儀で、どうにかして必ずお礼の気持ちを伝えようとする。
カラスがオレンジの皮を持ち去ったのは松濤美術館で奈良国立博物館コレクション展をしていた頃だ。私は如意輪観音菩薩坐像の前で和辻哲郎のように霊感を受けたのを覚えている。
如意輪観音菩薩坐像は左手の人差し指の先にオレンジのようなものをくっつけている。輪宝か? ともかく、カラスからすると私はこのように見えたのかもしれない。オレンジを持ってベランダに現れてコンポストに入れる、鳥を愛している坐像。本来、蜜柑林があるのだから、カラスはベランダからオレンジの皮を持ち去らなくても雛に食べさせる実はたくさんあったはずなのに、私のベランダにあるものを欲しかったのは、何か愛情深そうな様子を見て、子育ての思いに繋ぎたかったのではないか。もちろん私は自分自身を如意輪観音菩薩だと言っているのではない。しかし少なくとも、鳥達から見て餓鬼に見えないように、いつかは如来と見間違われるようにと志高く生きる事は悪いことではないだろう。
それで思い出したのだが、松濤美術館を出た後、珈琲を飲もうとシャルマンに入る時にも、カラスは高いビルの上から私を見て護っていた。とにかくどこに行っても数羽のカラスがビルの上から私を護っていることは知っている。そこに仏教と神道の境目はなく、神道の八咫烏が私を護る。時には如意輪観音菩薩坐像みたいと言いたくて松濤美術館の展示物を記号として使うのだ。
昨日、母に送った朝顔の種から苗が育ち、近頃白い花が咲いたと教えてくれた。白い花の中にピンクの色が微笑んだらしい。私のベランダではまだ咲かないが、カラスの贈り物である木槿も似た色だ。朝顔も木槿もカラスとしての全力の贈り物である。
さて、昨日の今福龍太さんのlectureで学んだ金芝河の事を書くつもりだった。字数がもうないが、少し延長することにして、少なくともふたつ書いておきたい。
ひとつは、"韓国語で面の意味を表す「タル」は同じ音で「災厄」を表す事もあるが、それはなぜかがわかっていない件"についての私の考え。それは「災厄も悪いことを装ったひとつの仮面であり、本来の意味は別にあるから」ではないかということ。
もうひとつは、"金芝河がなぜ『朴槿恵支持発言』をしたのかわからない件"で、詳しい中身を知らないながらも私なりに想像すると、金芝河の二項対立的思考の終焉ではないか。つまり権力と民衆の二項対立で民衆側に立つ視座を持つのではなく、同じように憐れみの視点から見て、その時、弱そうな方を支えた。事実としてどちらが弱かったかはわからないが、金芝河の挑戦として、自身に染み着いた「権力に立ち向かう詩人」のイメージ型を破るために逆張りをしたと考えられる。権力に歯向かえば仲間からの尊敬と支持を得られる事が確定し、それなりに精神として安楽の椅子に座り続ける事ができるが、それが嫌だったのだろう。実際、必ずしも「権力だから悪い、民衆だから美しい」と決まっているわけでもない。金芝河は常にチャレンジの人で、本当に毀誉褒貶はどうでも良かったのだろう。その境地は私としてはよく理解できる。
草々
(米田素子)
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