見出し画像

小説2 キャラメルの箱

〖本編 全編掲載〗 

 本編文字数 約20000字
 ジャンル  朗読譜 純文学
 制作開始  2012年
 
目次

1.あらすじ
2.プロローグ
3.第一章 りんごおばちゃんの涙
4.第二章 とうさんのこと
5.第三章 りんごおばちゃんと男たち
6.第四章 りんごおばちゃんの結婚
7.あとがき


《あらすじ》
 語り手である僕(ゆうちゃん)が十歳くらいの頃を回想する。
 ゆうちゃんにはりんごおばちゃんと呼ばれている伯母がいる。りんごおばちゃんはゆうちゃんと母の住んでいる家に月に一回やって来ては、「あいつ」に関する愚痴を言って大泣きするのだった。
 ある日、りんごおばちゃんがいつも通り大泣きしている時、ゆうちゃんは「それはりんごおばちゃんも悪いのだとみんなが言っている」と口走ってしまい、りんごおばちゃんの機嫌を損ねてしまうのだった。
 翌日、りんごおばちゃんの父親であるじいちゃんに呼び出され、ゆうちゃんは叱られるのかと思ったが、今はいない父のことや、りんごおばちゃんの子供時代の秘密を聞かさる。そして、「子供のうちは言いたいことを言っていいよ」と言われるのだった。
 りんごおばちゃんの住んでいる家には頻繁に派手な男が出入りするのだが、ある日、華奢な一人の男が来て……。


 ―プロローグー

  りんごおばちゃんの家の前には、
  シモクレンの木が一本あった。
  りんごおばちゃんが生まれた朝に
  じいちゃんが植えたらしい。
  モクレンの花のように
  しとやかに育ってほしいとの願いを込めて。

  最初はハクモクレンを植えたいと思った。
  枝の濃い紫が白い花びらにほんのりと透ける。
  だけど、
  ハクモクレンは大きくなりすぎる、
  こんな路地には不向きだと言われ、
  シモクレンにした。
    —―これなら路地植えにぴったり。
      大きくなったとしても
      せいぜい三メートルくらいにしかならないだろう。

  少なくともモクレンを
  願い通りに植えたのはよかったが、
  りんごおばちゃんは赤ん坊の時から太って丸く、
  じいちゃんのイメージする
  「しとやか」からは程遠かった。

  本当の名前は「りんご」ではなく、
  シモクレンから頂き、
  ひらがなで「れん」。

  最初に誰かが
  「れんこちゃん、れんこちゃん」と呼び、
  丸々とした林檎のような雰囲気と重なって
  いつの間にか「りんごちゃん」となった。
  
  そうして、
  じいちゃんが最初に願った
  ハクモクレンのイメージからは
  どんどんかけ離れていった。
  考えてみれば、
  ハクモクレンは清楚なイメージだが、
  シモクレンは少し果実のようだ。
 
  妖艶さもある。

第一章 りんごおばちゃんの涙

 ――1970年——
  りんごおばちゃんが声を上げて泣いている。
  黒と青紫の化粧が涙に溶かされて、
  頬を伝い流れ落ちている。
  どれほど時間をかけて化粧をしたのだろう。
  次から次へとあふれ出てくる涙に洗われても、
  その涙は透明にはならなかった。
  それは習字の筆を洗うようなものだ。
  いつまでもいつまでも
  墨が流れ出して止まらない。
  完全にきれいになるのは
  あきらめるしかないだろう。
  本来ならば、次に考えるべきは
  どのタイミングで切り上げるのかということ。
  ずっとそれを洗い続けているわけにもいかない。
  しかしそれはなかなか終わらない。

  月に一度はこんな風に泣きわめく。
  僕と母の家に駆け込んできては
  罵声を上げて大泣きした。
  りんごおばちゃんの
  生理現象のようなものだったのかもしれない。
  泣くために家にやってくる時、
  必ず大福餅を大量に買ってくる。
  玄関に現れた瞬間、
  大福餅を入れた袋を手に持っていれば
  それとわかるほどだ。

  そしてこんな風に始まる。

   —―ねえちょっと、聞いてちょうだいよ。

  玄関をがらりと開ける音と声が重なる。

   ――あら、どうされましたか。

  台所仕事の途中で呼び出された母は、
  エプロンで手を拭きながら玄関へと急ぐ。

   ――それがね……。

  りんごおばちゃんは母を見ると
  もう待ちきれない感じで話し始める。

   赤いセーターにベルベットのゆったりしたズボン、
   ベストをはおり、首にスカーフを巻いている。
   いつもだいたいこんな感じ。
   いや、いつもというわけではないだろう。
   だけど僕の記憶の中では大抵こういう服装で、
   濃すぎる化粧と大きくウェーブさせた髪。
   ぽっちゃりと太っていて、
   つんとする香りの香水を着けていた。
   
   ――まあ、お上がりになってくださいな。

  母は大福餅の袋をちらりと見ただろう。
  今月もやはりきたか、と。
  りんごおばちゃんは早々に靴を脱ぎ、
  肉付きのよい身体を揺らして廊下を歩き
  ちゃぶ台の前にどすんと座る。

   ――あそこの大福。いつも同じでごめんなさいね。
   ――あら大福ですか。気を使わないでくださいね。

  りんごおばちゃんはうなずき、
  ゆさゆさと姿勢を正して正座になり、
  巾着袋からハンカチを取り出して
  太ももの上で握りしめ、
  お茶を淹れ始めた母が戻るのを待っている。

  一部始終を観察していた僕は
  そのハンカチを見て思う。

    ――あれが出たからには泣き始める準備だなあ。

  菓子を食べたり、
  絵本を眺めたりしながらも、
  冷静に行く末を見つめていた。
  そんな僕と目が合うと、
  りんごおばちゃんは口角だけを持ち上げて笑う。
  それはいかにも、
  こっちを見るなと言っている。
  大声で泣きわめくわりには覚めている。
  そうしていると、

  ――まあ、どうなさいました?

  湯呑を二つ乗せたお盆を持って母が現れる。

    ――どうなさいましただなんて、
      だいたいわかっているくせに。

  りんごおばちゃんは湯呑を受け取り。

  ――それが実はね、聞いてくださいよ。

  これで完全にスタート。
  「あいつ」に関するひどい話が
  次から次へと飛び出して止まらない。
  途中で母が目だけを動かしてこちらを見始める。
  あらゆる手段をとって、
  僕を仏壇の間に追いやろうとする。
  口汚い言葉を聞かせるのが嫌だったのだろう。
  内容は明確には覚えていないが、
  子供の前でする話ではなかったのかもしれない。
  僕は母の合図があれば
  しぶしぶ仏間に行くしかなかった。
  実際、りんごおばちゃんの話は
  いつでもほとんど同じで、
  聞くほどのこともなかったのだ。
  「あいつ」に金を持ち逃げされたか
  二股を掛けられたか
  結婚すると言ったのにいなくなったか。
  半分は本当で、
  半分は作り話のようだ。
  もちろんそれらの話を
  本当らしいとか作り話だとか、
  子供の僕がはっきりと理解していたわけではない。
  周りにいた大人たちがそんな風に
  本当らしいとか作り話だとかの感想を
  陰で述べ合っているのをなんとなく耳にしていたのだ。

  りんごおばちゃんが
  半狂乱になって泣き叫んだ日には、
  近所中にその声が響き渡ったのだろう。
  夜には大人たちが集まり、
  だらだらと酒などを飲んでは、

  ――あれはいったいどこまで本当かな。
   「あいつ」とやらは色男なんだろうけど
   たぶん、りんごちゃんもいけないのだろうね。

  などと話した。
  つまり、僕は、
  寝転がっても座布団一枚に収まるほどの
  小さな赤ん坊の頃から、

  ――たぶん、りんごちゃんもいけないのだろうね。

  を、月に一回は聞いていたことになる。
  これはひとつの英才教育だ。

    ――つまりはりんごおばちゃんがいけないんだ。

  言葉の意味をよく噛み砕いて考える前に、
  僕はしっかりとそれを覚えた。

  ――ひどいやつだよ、あいつは。

  その日も、りんごおばちゃんは半時間ほど
  同じことを言い続けていた。
  僕が十歳になったばかりの頃だ。
  何度も繰り返して鼻水をすすり、
  鼻紙の束から一枚取り乱暴にかみとった。
  墨のような涙がタラタラと落ちている。
  それを今度はハンカチでふき取り、

  ――あいつのことは一生うらんでやる。

  何度も聞いたような決意表明もした。

    ――いつものやつだな。

  僕は部屋の柱にもたれ、
  かっぱえびせんをぽりぽりと食べながら
  見慣れた光景をぼんやり眺めていた。
  母はきちんと正座をしている。
  ちょうどちゃぶ台を挟んで、
  りんごおばちゃんと向かい合える位置だ。
  顔はりんごおばちゃんの方を向いているが、
  黒目だけは時々僕の方を見る。
  繰り返し「あいつ」を罵倒する言葉に相槌を打ち、
  湯呑にお茶を足したり、
  鼻紙を手渡したりしていた。
  その合間にこちらを見て、
  顎先で隣の部屋を何度も指し示している。
  あっちに行きなさいの合図だ。

  ところがその日の僕は、
  母の合図を無視してかっぱえびせんを食べ続けた。
  すると母は、今度は眉間に皺を寄せ、
  猫でも追いやるように
  手の甲でしっしっとまでやった。
  それまでの僕なら、
  お菓子の袋を持ったまま立ち上がり、
  言われるがままに仏壇の間へと行ったものだ。
  しかし、
  その日の僕はそうはしなかった。
  どうしてだろう、仏間に行かなかった。

  ――そうだ、僕は猫ではない。
  ――断じて僕は、猫ではない。

  行かない代わりに
  かっぱえびせんを食べるのをやめ、
  おばちゃんの顔をまっすぐに見つめ、
  決然とした態度でこう言った。

  ――りんごおばちゃん。それは、
    おばちゃんの方も悪いんだよ。
    だって、みんなそう言ってたよ。
    みんなというのは魚屋の……

  ここまで言い掛けた時、

  ――ああっ。

  母が僕の声を遮るように大声を上げ、
  慌てたようにこちらにふり向いた。

  正座したままいきなり体ごと振り返ったので、
  畳がこすれる鈍い音がした。

    —―わっ、なんだ?

  僕は座ったまま、
  ほんの少しのけぞり姿勢。
  母はぐいと起き上がって仁王立ち。
  握り拳を振り上げ、
  わなわなと震えながら何かを言おうと口を開いた。

    ――まずいかも。

  やっとそこで、
  僕はどうやら失敗したらしいと気付いた。
  空気が凍り付いて、
  ひやっとばかりに大きく目を見開いた。
  りんごおばちゃんは一瞬泣き止んだ。
  泣き止んだかと思うと、
  わぁーと子供みたいに大声を上げて泣き、
  手にしていたハンカチを大きく広げて顔に当てた。
  ぽってりと太った背中が、
  ひとつ泣き声を上げるたびに
  大きく盛り上がっては揺れた。
  ひとしきりそうしたかと思うと、
  そばに置いてあった巾着袋を持って立ち上がり、
  怒ったようにわざと音を立てて歩き、
  玄関の方へ行った。
  靴を乱暴に履く後姿が見える。
  戸を乱暴にガラリと開け放ち、
  閉めることもせずそのまま出て行ってしまった。
  だけど案外冷静な部分もある。
  自分の巾着袋以外に、
  おみやげに持って来た大福餅の袋を
  ちゃっかり忘れずに持って行ったのだから。

  りんごおばちゃんが帰って行くのを
  握りこぶしを振り上げたまま、
  あっけにとられたて見送っていた母が、
  改めてこちらに振り返る。
  目を大きく開いて唇を噛んでいた。
  そこで、
  ぐいと振り上げていた握りこぶしを
  さらに高くした。

    ――しまった!

  叩かれるのかと思い、
  かっぱえびせんの袋で素早く頭を隠したが
  叩かれはしなかった。
  でも、叩かれる前に頭を隠した勢いで
  袋からかっぱえびせんが飛び出した。
  それは、ざざあと降り注いで、
  僕の顔やら肩やらを
  あっという間に塩まみれにした。
  つまり、考えようによっては
  叩かれるよりもみじめな状態になったと言える。
  やらかしてしまったみじめな僕を
  そびえ立つ母が見下ろしている。

  一瞬の静寂。

  怒りと妙なおかしさの入り混じった表情。
  笑い出したいのか。
  それとも怒り出したいのか。
  それらが母の中で行ったり来たりしている。
  母の目の前にいるのは
  もう十歳になった僕だ。(猫ではない!)
  母は結局笑いはせず、
  そのまま表情の力が抜けて、
  振り上げた手もゆっくり、
  たらりと下に落とされたのだった。

  ――助かったのか?

  かっぱえびせんをかぶったまま動けなくなっている僕。
  頭の上に乗っていたかっぱえびせんが数本、
  ぱらりぱらりと畳の上に落ちただろう。
  やがて、母の表情の中に
  おかしさの分量が徐々に増したのを見た。
  僕はどうやら助かりそうだと直感した。
  助かったのだ。
  よかった。

  —―よけいなことを言ったらだめ。
  空気の抜けるような声で言った。
  ――それに、かっぱえびせん、もったいない。
    なんてことするの。拾って食べなさい。

  母はプイと僕に背中を見せて、
  ちゃぶ台の湯飲みを片付け始めた。
  その背中が時折震えるように小刻みに揺れている。
  どうやら笑いをこらえているらしい。
  どうして笑うんだろう。
  僕がおかしいからかな。
  それともりんごおばちゃんが?
  母が湯呑を台所で洗う音がする。
  それが終わると居間に戻って来て、
  呆然としている僕の前に立ち、
  きちんと真面目そうな顔を作りこう言った。

  ――なんでもかんでも、本当のことを
    言えばいいわけじゃないのよ。

  唇の隅っこに、
  ほんの少しだけ笑いの残留物が見られる。

  そのとき僕は十歳にして
  こんな風な哲学を得たかもしれない。

    ――なあんだ、やっぱり僕の言ったことは
      本当なんじゃないか。だけど、
      本当のことばっかり言うのが、
      いつでもいいってことじゃないんだなあ。

  とはいえ、
  僕は表向きにはきちんとうなずき、
  畳に落ちたかっぱえびせんを拾ってはかじり、
  拾ってはかじりして、
  自分なりの後始末をつけたのだった。
  こんなことで後始末がつくなら楽勝。

  それから一か月ほどの間、
  りんごおばちゃんが我が家にくることはなかった。
  いつもなら、この大泣き騒ぎとは別に
  週に三日はやってきたものだった。
  それは大抵、
  母と僕が夕飯を食べようとする時間帯で、

  ――あら悪いわねえ。

  と言いつつ、無理やりにでも食卓に参加する。
  現れた時に大福餅さえ持っていなければ、
  いつだってご機嫌だった。
  じいちゃんやばあちゃんの悪口を言う事もあったけれど、
  それほど口汚く言う事はなく、

  ――だけど親だからねえ、
    感謝しなくっちゃねえ。
    こんな嫁にも行かない私を
    叱ったりせず置いてくれるんだから。

  最後にはしんみりと健気を装った。
  母は話半分といった様子で、
  お皿に乗ったコロッケをもう一皿分に切り分けたり、
  お椀に盛った味噌汁を鍋に移し直して
  三つに分け直したりする。
  いつもそれほど余分に作っているわけではなく、 
  二人分の食事が三人分となった。
  そんなこと、ちっとも申し訳ないとは思わないらしく、
  りんごおばちゃんは賑やかに何かをしゃべりながら、
  当たり前のように分けてもらったものを食べて、
  時には平気でご飯のおかわりもした。
  楽しそうなりんごおばちゃんに合わせて、
  母も機嫌が良さそうに見えた。
  だけど、後片付けも手伝わずに帰って行った後は
  極端に機嫌が悪い。
  僕にとってはプラスマイナス0。
  いつもは母と二人だけのしんとした夕食が
  賑やかになるのは嬉しくて、
  コロッケが小さくなったって平気だった。
  母も楽しそうに見えた。
  これでひとつだけプラス。
  でも、りんごおばちゃんが帰った後は、
  母が意味もなく僕を叱る。
  おもちゃを片付けなさいだの
  早く寝る用意をしなさいだの。
  これでひとつだけマイナス。
  母にとってはマイナス三くらいだったのかも。
  昼間は仕事で忙しく
  夜までもりんごおばちゃんに気を使うなんて。
  僕が調子に乗って余計なことを言いやしないかと
  ハラハラしたかもしれない。
  とにかく、
  「かっぱえびせんを撒き散らした日」から一か月くらいは、
  りんごおばちゃんから音沙汰がなく、
  母はそれを、

  ――りんごおばちゃん怒り心頭かしら。

  軽やかな口調で表現した。
  鼻歌でも混じりそうな様子で。

    ――あの時叱られたけど、怒り心頭は僕のおかげ。

  僕はこっそり心の中でそう思う。
  でもまあ、
  母の機嫌がいいのならそれでよかった。
  僕ものんびり遊べるし。
  その時僕は十歳にしてこう思ったかもしれない。

    ――本当のことを言って、やらかしてしまうことは
      結果的によい場合もあるらしい。

第二章 とうさんのこと

  僕が母と住んでいた家は、
  もともとじいちゃんの家。

  じいちゃんの親が芸者さん相手に
  着物の染み抜きの商売をして成功し、
  路地ひとつ分を買い占めたらしい。
  路地は東へ行くとT字路にぶつかり、
  それを左にいくと川がある。
  その河を挟んだ向こう側には花街があり
  じいちゃんの親はそこの元締めと仲良くなった。
  それで仕事を貰い、
  着物の染み抜きを稼業とするようになった。
  そもそもは小さな呉服屋をしていたけれど、
  洋服を着るのが普通になって、
  呉服屋だけでは成り立たなくなったのもある。
  染み抜きを始めたら、
  却って羽振りが良くなった。
  急に成金のように財を手にして、
  商売も拡げていったのだとか。
  だけど、じいちゃんの代になって、
  少しずつ染み抜きの仕事を減らして、
  とうとう止めてしまった。
  その理由のひとつとして、
  じいちゃんの息子である僕の父が
  家を出てしまったことがある。
  僕が生まれてすぐにいなくなったのだが、
  最後に見かけた人の話によると、
  どうやらこの河の近くを
  花街の方に向かって歩いていたらしい。
  だから花街に渡り、
  何かを見失ってしまったのだろうと
  噂されていた。
  もうひとつの理由は、
  じいちゃんは花街を嫌うわけではないが
  華やかな街が性に合わず、
  身の丈以上にお金を貰って贅沢に暮らすのは
  納得がいかないと考えたらしい。
  近くに大学もできたことだし、
  下宿屋と本屋をやれば、
  細々とでもやっていけるだろうと考えた。
  それで少しずつ仕事を入れ替えていったのだ。
  まずは下宿屋、次に本屋というように。
  それはそれでうまくいき、
  土地や家はそのままじいちゃんのものになった。

  つまり、僕の住む家はじいちゃんのものだ。
  だから、じいちゃんは遠慮などせず
  堂々と入って来てもよさそうなものだが、
  りんごおばちゃんとは違って
  そうはしなかった。
  ばあちゃんと一緒でなければ敷居をまたぐこともなく
  玄関の引き戸をがらりと開けては

  ――おおい、ゆうちゃんよ。

  と呼んだ。
  呼ばれても、僕の方で、
  外に行くのが面倒なときには、

  ――じいちゃんがおいでよ。

  と言ったこともあったが、

  ――そうかい、ならまたあとでいいさ。

  と帰ってしまう。
  母に遠慮をしているのかもしれないし、
  ばあちゃんに言われてそうしていたのかもしれない。

  かっぱえびせんをまき散らした日の翌日にも、
  お昼を少し過ぎた頃、
  じいちゃんは玄関から僕を呼んだ。

  ――おおい、ゆうちゃんよ、ちょっとおいで。

  仏壇の前に座り、
  きんきらきんの仏具をいじって、
  退屈していたところだった。
  呼ばれた僕は
  いつものように本屋の奥でお菓子を貰えるのかと考え、
  そそくさと出て行った。
  しかし、その日はそうはならなかった。
  本屋の前をするっと過ぎて、
  ばあちゃんの喫茶店の方へと向かっている。
  歩く足も止めないままに、
  顔だけちょっと振り向いて

  ――こっちおいで。

  着古した和服の裾を翻しながら、
  さっさと歩いていく。
  ぼろぼろの下駄。
  縞模様の半纏を着たじいちゃんは背筋も伸び、
  今にして思えば、
  年寄りのわりには恰好よかった。
  その日はいつものように手をつなぐでもなく、
  下駄のかぽかぽいう足早なリズムが心地よく
  砂利道の路地を蹴って
  僕のずっと前を行ってしまうのだった。

  ――じいちゃん、待ってよう。

  急いで靴を履き、
  転びそうになりながら走って行くと、
  じいちゃんはもう
  ばあちゃんの喫茶店の扉を開けて待っている。

  ――ほら、入れよ。

  手招きをした。
  だけど、
  ばあちゃんの喫茶店に僕が入ることを許されているのは
  年末だけのことで、
  他の日には絶対に入ってはいけないことになっている。
  子どもがうろうろしてはお客さんに迷惑だとの理由。
  また、世知辛い愚痴のたまり場みたいな空間に
  子どもが入るのはよくないとの理由でもあったらしい。
  ばあちゃんらしい考え方だ。
  だから、
  じいちゃんに入れよと言われても、
  僕は路地の真ん中で立ち止まり、
  入っていいものかどうか迷ったのだった。

  ――ほら、そんなこところに立っていないで、
    こっちおいで。

  正直、

    ――あやしいな。

  そう感じていた。

    ――変だな。いつもと違う。そういえば……

  前日にやらかしたことを思い出して、

    ――ああ、叱られるのかな。

  と考えたかもしれない。
  しかし、どうあれ、逆らうわけにもいかず、
  履きかけの靴を引きずるようにして
  恐る恐る扉の方へと近付いた。

  ――入れ入れ。

  手で示すじいちゃんに従い、
  中へと入っていったのだった。
  誰もいない。
  そうだ、今日は火曜日。
  ばあちゃんの喫茶店は定休日だった。

  年末までにはあと数週間ある。
  客も誰もいない定休日の店内は寒く、
  珈琲や煙草の匂いまでもが冷やされて、
  固形物のように感じられた。
  匂いが身体に貼り付いてくる。
  外の太陽の乾いた明るさとは逆に、
  匂いがじっとりとくっついてくる暗さが
  幼い僕の心にも感じられ、
  不安な気持ちになった。
  じいちゃんは僕のそんな様子を察したのか
  頭をくるくると撫でて

  ――先にストーブを点けておいてやればよかったねえ。

  明るく言い、
  隅に置いてあった石油ストーブを
  部屋の真ん中に持ち出した。
  さっそくカバー部分を倒し、
  ダイヤルを回して芯を出しマッチで火を点けた。
  石油の滲みた芯が燃える匂いがする。
  赤い炎が立ち、辺りが明るくなった。
  それから芯の長さを調節して
  青く燃える位置で止める。
  再びカバー部分を起こしてガチャリとセットした。
  じいちゃんの手際のいい様子が心地よい。
  いくつかの電灯も点けた。
  電灯はステンドグラスに覆われ
  ぼんやりしていたけれど、
  灰皿やカウンターの花瓶などが
  見える程度には明るくなった。
  そもそもこの店に集まる客は
  明るいことを期待していない。
  客はみんな大人なのだ。
  十歳の僕には居心地のいい場所のはずがない。
  それでも年末の明るすぎる雰囲気よりはずっといい。
  年末のあの雰囲気にはお尻がもぞもぞした。
  多くの大人が集合して年越しの酒を交わし、
  じいちゃんもばあちゃんも、
  母やりんごおばちゃんでさえも、
  どこかよそゆきの声色で愛想よくふるまうのだ。
  みんな陽気を演じている。
  それが僕をそわそわさせた。
  それよりはむしろ、
  ほのかに暗い方がましだ。

  ――珈琲飲もうかあ。

  じいちゃんはやかんにお湯を沸かし、
  僕は黙ってストーブの火を見つめた。
  火はまるで生き物のように形を変化させている。
  何事が起きるのかわからない。
  ただ、じいちゃんが僕のためにストーブを点けたり、
  珈琲を淹れたりしてくれる時間の中にいた。
  だんだんとその安心感に包まれていった。

  ――そうだね、音楽もかけよう。

  どうだったかねえ、ここだったかなを繰り返しながら、
  あちこちを探し、
  ステレオのスイッチを見つけ出した。
  珈琲カップを仕舞う棚の横に
  何枚ものレコードが立ててあり、
  そこから一枚だけを取り出し、
  プレーヤーにセットする。
  僕は近付いて、
  レコード盤が回るのを見た。
  じいちゃんが針を端にセットし、
  小さなレバーを引いた。
  ふんわりとレコード針が落ちていく。
  チェロの音だったろう。
  静かに音楽が始まって、
  よどんでいた空気の匂いがすっと溶ける。
  匂いが音の粒子に乗る。
  部屋の中を、
  音がマーブル模様を描いて動き出すようだ。
  レコード盤が十周ほど回り、
  ストーブの火が波打ちながら部屋を暖めて、
  お湯の沸く音がしゅんと鳴り始めたら、
  やがて良い香りが立ち、
  じいちゃんの珈琲は出来上がった。

  じいちゃんがぎこちない手で皿を二つ
  盆に乗せている。
  珈琲の入ったカップを乗せ
  スプーンを添えた。

  ――座れよう。

  促されて、僕はテーブルに着いた。
  皿の上に乗ったカップ。
  テレビや本で見たことはあったが
  実際に見たことがない。
  家で飲むのは湯呑の番茶ばかり。
  この店であっても
  年末に大人たちから手渡されるジュースは
  いつも瓶のままだった。
  だから、皿に乗ったカップを見ると
  大人に対するように
  丁寧にもてなされていることを感じた。
  隣には砂糖壺と大きなミルクピッチャーがある。

  ――好きなだけお砂糖とミルクを入れていいよお。

  手本を示すかのように、
  まずは砂糖を三杯、ミルクをたっぷり入れて
  スプーンで掻き回す。
  僕はそれを見て同じようにまねをした。
  味見をし、
  じいちゃんの顔をうかがうように見てから
  さらにその倍の量の砂糖とミルクを足した。
  苦かったのだ。
  じいちゃんはうなずき、
  たくさん入れていいんだよとばかりに微笑んだ。
  一口飲んでみる。
  甘いが、やはり苦い。

  ――おいしいか。

  じいちゃんは満面の笑みで僕を見る。

  ――うん、おいしい。
  ――ほんとか?
  ――うん。

  じいちゃんは威勢よく笑い、

  ――いいんだよ、ほんとのこと言えよお。

  砂糖壺とミルクピッチャーを僕の方に近付けた。
  それから、ずずずと珈琲をすすり、
  旨そうに溜息をついた後、
  灰皿を近寄せた。
  袂に手を入れ煙草を探すしぐさをして、
  見つからなかったのかあきらめて、
  またカップに手をやった。
  それからまたすぐに灰皿に手をやったり、
  袂に手を入れたり、せわしなかった。

    ――どうしたというのだろう。

  すると、

  ――ゆうちゃんのお父さんはねえ、
    ほんとうにどこへ行ってしまったのだろうねえ。

  唐突に父のことを言った。
  そんなことは初めてだ。
  せわしなくしていたのは、これを言い出すことに
  ためらいがあったのだろうか。
  言い終えると、
  やっと椅子の背もたれに深々と身を委ねて、
  いつものじいちゃんらしい落ち着きを感じられた。

  ――ゆうちゃんよ、
    りんごおばちゃんはねえ、
    昔から変わった子だったんだよ。

  穏やかな声で話を続けた。

  ――りんごおばちゃんはね、
    小学生の頃、
    あまり学校にも行かなかったんだ。
    行ったふりをしては
    どこかの知らない人の家に上がり込んでいた。
    一日中、その家の年寄りと話をしてねえ、
    上がり込んで誰もいなければ、
    その家の押し入れの中に入ったまま
    眠り込んだりしたんだよ。
    じいちゃんもばあちゃんも
    その頃は仕事の染み抜きに忙しくてね
    りんごおばちゃんの
    そういった行いに気付くことができなかった。
    ちょうどゆうちゃんのお父さんが七歳くらいで
    りんごおばちゃんが十二歳くらいだった頃かなあ。
    やっぱり学校には行かず隣の村の畑に行って、
    春には苺を摘んだり、
    夏には西瓜を盗ったりしていたんだ。
    そういうことがいけないことだっていうのは
    ゆうちゃんにもわかるよね。
  ――うん。

  僕は素直にうなづいた。

  ――だけど、そのことはさっきも話した通り、
    じいちゃんもばあちゃんも知らなくてね
    学校に行っているものだと思い込んでいた。
    おかしいだろう。
    りんごおばちゃんの学校の先生たちも
    何も言わなかった。知らなかったんだ。
    おかしいだろう。
    今では考えられないことだけど、
    戦争が終わったばっかりだったしね、
    そういうこともあったんだね。
    ところがね、
    みんなは知らなかったが、
    実はゆうちゃんのお父さんは知っていたらしい。
    知っていたというか、
    りんごおばちゃんがね、話していたんだよ。
    ゆうちゃんのお父さんは
    無理矢理に知らされていたんだな。
    知らされてはいたが、
    黙ってなさいと言われて、
    ずっと黙っていた。
    他にもいろいろな秘密を
    聞かされていたんだと思うよ。
  ――たとえばどんなこと?

  幼い僕は他の秘密について知りたかった。

  ――いや、それはねえ、
    今でもじいちゃんとばあちゃんにも
    わからないんだけど

  ごまかした。
  そうだ。
  じいちゃんはごまかした。

  僕が少し大人になってから母の口から聞いたのは、
  りんごおばちゃんはまだ若い頃に
  少し年上の農家の青年と納屋に隠れて
  色恋沙汰を起こしたこと。
  色恋沙汰を起こしただけではなく
  青年から少しお金も貰っていたらしく
  さらには、
  その青年に許嫁がいたので大問題。
  大人になった僕は驚かなかった。
  りんごおばちゃんならやりそうだ。
  だけど、じいちゃんだって、
  まさか幼い僕にはそんなことを話さなかったし
  もちろん僕の方でも想像はつかなかった。

  ――とにかく、ゆうちゃんのお父さんは
    りんごおばちゃんからいろいろな秘密を聞かされて、
    それでもじっと黙っていたんだよ。
    りんごおばちゃんに『言わないで』と
    念を押されていたせいでもあるだろうけど、
    両親が悲しむだろうと思って、
    お父さんは決して秘密について話さなかった。
    それとも、りんごおばちゃんに
    駄菓子でも買ってもらっていたのかな。
    そういう、大人になってみれば
    仕方がないようなことでも
    小さな子供には秘密は重かっただろうよ。
    重荷を背負ったまんま、
    優しくて静かな大人になってしまった。
    ゆうちゃんのお父さんはね。

  ストーブの火がゆらゆらと燃えている。
  レコードのチェロは人が歌うように
  情感をこめている。
  へんだな、そのとき、ふと父がいるような気がした。
  写真でしか見たことのない父の気配がした。
  じいちゃんの声だが、
  聞いたことのない父の声が話しているようだ。
  じいちゃんは遠くの壁を見て、
  珈琲を啜っている。

  ――ゆうちゃんにはこういう話、難しいかあ。

  声を出さずに首だけ横に振った。
  もちろん、十歳の僕に全ては理解できなかった。
  だけど、父が苦しかったことや、
  そのことを
  知らないままだったことを悔いている
  じいちゃんの気持ちが、
  音や匂いの粒子に混ざり込んで、
  僕の胸に染み入るように感じられた。
  結局、りんごおばちゃんの様々な行いは
  父が言わなくとも周囲の人たちにばれて、
  じいちゃんやばあちゃんの知るところとなったのだが
  さんざん叱られた腹いせに
  りんごおばちゃんは、
  父には秘密を教えていたのに
  父が隠していたことを話してしまった。
  つまり共犯者だと言いたかったのだ。
  悪魔のような腹いせだ。
  それでも父が叱られることはなかったのだが、
  充分にしょんぼりとして、
  その日は夕飯も食べなかったのだとか。

  ――りんごおばちゃんとゆうちゃんのお父さんは
    まるで正反対の性格でね。

  じいちゃんはそう言って、
  着物の袂から煙草を取り出した。
  煙草は入っていたのだ。
  それを見て僕は慌てて珈琲カップを持った。
  そして珈琲カップを持ったまま、
  じいちゃんが煙草に火を点け
  ゆっくりと吸うまでの様子を黙って見つめ、
  心地よく煙を吐き出す頃合いを見て、
  一口飲んだ。
  煙と珈琲。
  僕もじいちゃんも
  何か取り返しのつかないものを抱え、
  曖昧さを受け入れている。
  そのことを共有したかった。

  —―だから、ゆうちゃんよ、
    大人になるまではなんでも言えよ。
    大人になったらな、言えない事もある。
    たっくさん出てくるからよ、
    大人になるまでは、
    正直に自分の気持ち話せばいいからよ。

  そう言って僕の手の甲を愛しそうに撫でた。

  ――りんごは変わった子だから、
    いろいろやらかすけど、
    あんまり気にしなくていいってねえ、
    ゆうちゃんのおかあさんにも
    言っておいてくれよなあ。

  それだけだった。
  かっぱえびせんをぶちまけたことを
  叱られはしなかった。
  煙草を吸い始めてからは
  いつも通りの無口で静かなじいちゃんだった。
  僕の方でもあまり話をすることはなかった。
  結局半分も珈琲を残し、

  ――さあ、帰ろう。

  じいちゃんに言われて立ち上がり、
  出入り口の扉のそばまで行って柱にもたれた。
  そして、
  じいちゃんが珈琲カップやレコード、
  やかんなどをひとつひとつ元に戻していくのを
  ぼんやりと見ていた。
  音楽も盛大に盛り上がり始めた頃合いだったが、
  あっけなく針はふんわりと上に持ち上がった。
  ストーブの火も消えた。
  店はもう一度定休日の状態に戻った。
  匂いが次第に固形化していった。
  これで元通りだ。
  全てが静止している。
  扉を開けて二人で外に出た。
  冬の乾いた光が地面に落ちていた。
  眩しい。
  太陽が西に傾いたのか、
  斜めから路地に日差しを長く伸ばしている。
  雀たちがチュンチュンと
  菓子のかけらをついばんでいた。

第三章 りんごおばちゃんと男たち

  家の前に車が二台ほど通る路地があった。
  路地の真向かいがじいちゃん宅、
  そこから西にじいちゃんの本屋、
  ばあちゃんの喫茶店と続き、
  最後にりんごおばちゃんの家。

  りんごおばちゃんの家には頻繁に
  男の人たちが出入りしていた。
  かつての稼業の名残で、
  りんごおばちゃんは和服を縫う仕事をしていたから、
  その仲介でもしている男たちだったか。
  りんごおばちゃんが留守の時に路地で遊んでいると
  どこに行ったかを聞かれることもあった。
  ことづけを頼まれたりもする。
  胸の広く開いた黒いシャツと白いラッパズボン。
  たまには派手な花柄のシャツの人もいる。
  金の長いペンダントを着けていることも。
  幼い僕はこの男たちこそがりんごおばちゃんの
  月一回の怒号の原因だろうと考えていた。
  なんとなく悪っぽい感じなので、
  そうに違いないと思っていた。
  でも男たちは一見派手なだけで、
  りんごおばちゃんよりもかなり年下のようだったし、
  りんごおばちゃんのあたたかさに惹かれて
  周りをうろついているだけにも見えた。
  だったら泣くほどのことなんてあるのか?
  それに、これが他の大人たちの言う「恋人」と
  いえるのかもわからない。
  じいちゃんが植えたシモクレンの横にある
  縁台に並んで座り、
  手を握ったり、男の方に頭を置いたりして
  じゃれあっていたのは事実だ。
  時には一本の煙草を交代で吸ったりもする。
  一本吸い終わったらまた新しい一本に火を点け、
  再びかわるがわる吸う。
  こんなことをしていたのだから、
  今考えれば、
  そこそこ深い関係だったのだろう。
  それが恋人でなかったとしても——。
  そういう縁台の様子をぼんやりと見ていると、
  りんごおばちゃんは手招きをして、

  ――こっちおいでよ。

  と言った。
  僕の方も慣れたもので、
  派手な男にも怖気づいたりせず近付いた。
  近付くと、
  りんごおばちゃんのつけている香水と
  煙草の匂いが混じり合い、
  その周辺だけは、空気が熟れた果実のように
  重く感じられた。
  りんごおばちゃんの化粧も一段と濃い。
  りんごおばちゃんは腰をずらして縁台の真ん中を空け、
  ぼんやりと立っている僕に微笑みかけて座らせた。
  座ると、腕で僕の頭と肩をぐいと抱え込んだ。
  不自然に斜めに傾いてしまう。
  肉付きのよい胸に沈み込むようになったまま、
  苦しそうに深呼吸をして
  香水の匂いを吸い込んだ。

  ――ねえ、こういう感じもいいわよねえ。

  りんごおばちゃんは僕の頭を撫でたりしながら、
  座っている男を流し目で見る。
  大福餅を持って家に駆け込んでくる時の表情とは
  まるで違う。
  細めた目が奥の方から黒く光るようだ。

  ――ね、子供がいるのってこういう感じよね。

  夫婦の間に子供が座っている様子を想定して
  男に尋ねてみたのだろう。

    ――どうこたえるかな。

  隣に座っている派手な男の表情を僕はこっそり伺う。
  僕がちらりと横目で見て、
  たまたまその男と目が合った場合、
  たいていは向こうが慌てて目をそらした。
  そして決まって、

  ――そうかなあ。

  どちらとも言えない返事をするのだった。
  煙草を持っていた時には
  せわしなく灰を路地に落としたりもしただろう。

  そのとき僕は十歳にしてこう思ったかもしれない。

    ――男と女が一本の煙草を交代で吸うほど仲良しであることと、
      そんな二人の間に少年が座ることの間には
      大きな違いがあるらしい。

  男がそうかなあと浮かない返事をすると、
  りんごおばちゃんは興ざめしたように
  大げさに溜息をついて僕を離した。
  羽織っているベストのポケットから小銭を取り出し、
  僕の手に握らせて、

  ――さ、キャラメルでも買って食べなさいよ。

  僕の手のひらを温めるように包み込み、
  ぎゅっと握った後、
  さっと男の方に腰を寄せて近寄り、
  僕とは目を合わせないようにするので
  長居は無用と察するまでもなく
  はじき出されるようにして立ち上がり

  ――ありがとう、りんごおばちゃん。

  わざと爽やかにつくろってから、
  家の中に駆け込んで押し入れに隠してある
  クッキーの空き缶を取り出した。
  これが僕の貯金箱。
  その中にもらった小銭を放り込んだ。

  ――よっしゃあっ。

  小さく言う。
  空き缶の中が少し潤う。
  僕が縁台に座る二人にそっと近づくことは、
  これが狙いでもあった。
  最後に小銭をくれることを期待して。
  すでに空き缶の中には
  茶色や白の小銭が半分くらいは入っていた。
  銀色のものはほとんどなかったのだから、
  大した金額ではない。
  でも、ともかく僕の大切な宝物ではあった。
  小銭をりんごおばちゃんからもらう以外には、
  ばあちゃんからお手伝いの
  御駄賃として貰ったこともあったし。
  路地で拾ったこともあった。
  小銭を手にしたら空き缶に放り込み、
  放り込んでは蓋を閉めて
  耳元でじゃらじゃらと鳴らしたりもした。
  派手な男とりんごおばちゃんの姿を思い浮かべる。

    —―海賊たちから奪った宝物だ

  なんてね。
  少年の心は自由に想像する。
  時々寝そべって中身を全部畳の上に出し、
  種類ごとに分けて計算したりすることもあった。
  だいたいは十円。
  他には五円に一円。
  それらを同じ種類ずつ積み上げていく。
  掛け算を覚える前には、
  十、二十、三十、……と足していく。
  母にひどく叱られて泣いた時には、
  その空き缶を抱きしめながら、 

    ――いつかこのお金を持って家を出るんだ。

  などと考えたりもした。
  台風や大雨の日など、
  びゅうびゅうと音がして
  戸板がうるさい音を立てる日には
  胸の上に置いて眠った。
  僕と母の二人しかいないこの小さな家が、
  激しい風に吹き飛ばされるのではないかと不安な時、
  胸の上にある缶の固さと重さが安心だった。
  いや、悪天候のときだけではなく、
  理由もなく何か寂しい思いをした日には
  枕の横に置いて眠った。
  もちろんたまには裏の駄菓子屋に行って、
  缶の中から出したお金で本当にキャラメルを買った。
  黄色い箱に入ったミルクキャラメルを買ってくると、
  寝そべってキャラメルをひとつ口に入れ、
  奥歯で噛みながら
  クッキーの空き缶をうっとりと眺める。
  口の中で柔らかく溶けるこの甘味は
  自分でつかみ取ったものなのだと思えた。
  自分で集めたお金を使って、
  駄菓子屋で手に入れたもの。
  誰にも文句は言わせない。
  これは僕の甘み。
  喉の奥まで染み渡る甘さ。
  おいしいなあ。
  大人たちから充分なお菓子を
  与えられていなかったわけではないけれど、
  この自分で買ったキャラメルの、
  有無を言わせぬ甘みが
  当時の僕には嬉しかったのだ。
  ほんのちょっとだけ自立。自分の世界。

  だから、僕にとっては、
  いつのまにかいなくなった父よりも、
  りんごおばちゃんの方がずっといい人に思えた。
  実際そうだろう。
  思い出だけでは一粒のキャラメルも買えない。

  シモクレンがいつもより
  元気に咲いた年があった。
  僕がかっぱえびせんを撒き散らした日の
  翌年だったか。
  ある日、石蹴りをして遊んでいると、
  りんごおばちゃんの縁台に
  朱色の絣で縫った小さな座布団が
  乗せられていることに気付いた。
  二枚ある。
  りんごおばちゃんが縫ったのだろうか。
  石蹴りに夢中になっている僕が
  ふと近寄ってみるほどの鮮やかな朱色。
  よく見ると
  イニシャルらしき刺繍までしてあった。
  刺繍の文字は藍色。
  季節は年が明けて
  ふた月ほど経ったくらいだっただろう。
  少しずつ春めき
  陽光が日に日に強くなりつつある頃で、
  その年のシモクレンはもう咲き始めていた。
  樹木の背丈は軒下の空間すら狭そうに
  すくすくと育っていた。
  シモクレンはその枝と花の影を
  朱い座布団の上に映している。
  穏やかな風でその影が揺れている。
  座布団に映るそれを上から眺めていると
  ふと座ってみようかという気持ちになったが、
  ズボンの尻を見ると泥だらけで、
  掃ってみたが汚れはとれない。
  僕はあきらめ、
  我に返って座布団のことは忘れ、
  すぐに石蹴りに戻った。
  石蹴りに夢中になっていると、
  いつの間にかりんごおばちゃんと見知らぬ男が
  先ほどの縁台の座布団に座っている。
  石蹴りの番が終わると、
  僕は二人の方を見た。
  男はいつものように派手な装いでもなく、
  りんごおばちゃんより年下のようでもなかった。
  少し痩せている。
  襟のついた白いワイシャツを着た人だった。
  また石蹴りの番。
  二人には背を向けて石を蹴る。
  線の向こうにある友達の石に当てる。
  外れて、みんなが残念と冷やかす。
  照れながら石を拾い、
  戻ろうとして縁台を見る。
  りんごおばちゃんがいない。
  男だけが縁台に取り残されている。
  どうしたのだろう。

  しばらくすると、
  りんごおばちゃんが家の中から
  湯呑を二つ乗せたお盆を持ってきた。
  今までにそういう姿を見たことがない。
  盆を二人の間に置き、
  座布団の上に腰を下ろしてから、
  湯呑のひとつを男に手渡している。
  僕が珍しそうに眺めていると、
  りんごおばちゃんはいつものように
  こちらにおいでの仕草をして手招いた。

  ――さ、これでキャラメルでも買って食べなさい。

  りんごおばちゃんと男の人の間には
  湯呑の乗ったお盆がある。
  当然、僕がそこに座ることはできなかった。
  両手を出して小銭をもらったが、
  いつものようには握らせてくれなかった。
  仕方なく自分で指を閉じ、

  ――ありがとう、りんごおばちゃん

  小さな声で言って、
  とぼとぼと歩いて家の中に入り、
  クッキーの空き缶を出してそれを放り込んだ。
  どういう訳か、
  ねらい通りとガッツポーズをする気分には
  なれなかった。
  それよりも、
  朱い座布団と湯呑のことを
  ぼんやりと思い浮かべた。
  いつもより早く咲き始めたシモクレン。
  シモクレンの揺れる影。
  白いワイシャツを着た男。
  そういう今見た光景に打たれるようにして、
  しばらく座っていたが、

  ――ゆうちゃんのばんだよお

  友達の声がして我に返り、
  僕は石蹴りをするために外へと駆け出していった。
  見ると、
  りんごおばちゃんと男は
  もう縁台にはいなかった。
  二人で家の中に入ったのだろうか。
  湯呑が乗ったお盆だけが縁台に
  ぽつんと取り残されていた。

第四章 りんごおばちゃんの結婚

  同じ年の夏頃、
  りんごおばちゃんはその男と結婚をした。
  結婚したといっても、
  結納を交わしたり
  派手な結婚式を挙げたりすることもなく
  ただシモクレンの下に身内だけが集まって、
  万歳万歳というだけの
  小さな祝いをしただけだった。
  後で聞くと、
  長い間、あまり大きな声では言えない恋、
  つまり奥さんのいる人と恋をして、
  やっと先方が折れてひっそりと、
  二人の生活を始めることになったらしい。
  ということは、
  あの頻繁に訪れていた
  派手な男たちはなんだったんだろう。
  一本の煙草まで一緒に吸って、
  今にして思えば深い仲だっただろうに、
  りんごおばちゃんにしてみたら、
  憂さ晴らしをしていただけだったのかもしれない。
  つまり月に一回我が家に来て、
  化粧混じりの涙を流して訴えていたのは、
  ぞろぞろと周りをうろつく
  派手な男たちのことではなくて、
  たった一人の恋人に対する
  行き場のない思いをぶちまけていたのだろう。
  これでやっと、
  「りんごおばちゃん」ではなく「れん」となり、
  そっとお嫁さんになったのだ。
  シモクレンの下での祝宴の日に
  僕はクッキーの空き缶からお金を取り出して
  家の裏にある駄菓子屋でキャラメルをひと箱買い、

  ――お祝い。

  と言って渡した。
  りんごおばちゃんは祝いの日だからと
  近所の美容室でいつもよりもさらに濃い化粧をして
  見たことのない白いワンピースを着ていた。
  夏だったから半袖で、
  ぽっちゃりと太った腕が
  窮屈そうに袖口から伸びていた。
  僕がキャラメルの箱を両手で差し出すと、
  その濃いお化粧がぐずぐずと崩れて落ちることも気にせず
  オイオイと泣き出した。

  ――ありがとうね、いつも、ありがとうね。

  そう言って、
  一度はキャラメルの箱を受け取ったが、

  ――だけどわるいよ、もったいないよ。

  こちらに返そうとする。

  ――おばちゃんがくれたお金で買ったんじゃないか。
  ――なにをいうんだよお。

  さらに泣き、キャラメルに巻いてあった封を破って開け、
  中身のキャラメルは全部僕の両手に握らせた。
  いつものように温かい手のひらで僕の手を包み、
  確認するようにぎゅっと握りしめた。
  零れ落ちそうだ。

  ――中身はゆうちゃんが食べなよね。
    おばちゃんはこれでいいから。

  キャラメルの箱を僕に見せた。

  ――箱でいいの?

  零れ落ちそうなので
  手のひらを開くこともできない。

  ――そうだよ。箱でいいんだよ。
  ――キャラメル嫌いなの?
  ――そうじゃないよ。箱が好きなんだよ。

  りんごおばちゃんは大事そうに
  そのキャラメルの箱をボストンバッグの中に入れた。

  ――ずっと大事にとっておくね。

  夏の日差しが僕たちを隠すことなく照らし、
  何もかもがさらけ出されていくようだった。
  ジージーと蝉の声がした。

  ――元気でやりなさいよ。
  ――しっかりな。

  じいちゃんやばあちゃんがかわるがわる何かを言い、
  りんごおばちゃんが母に

  ――よろしくお願いします。

  丁寧に頭を下げた後、 
  おばちゃんは男の運転する車の助手席に乗り込んだ。
  窓を開け、
  泣きながら手を振り、
  いつまでもやめないものだから仕方なく、
  結婚相手の男は済まなそうに
  ゆっくり、ゆっくりと車を発進させた。
  僕たちは、車がT字路を左に曲がり、
  橋を越えてずっとずっと遠くに行くまで見送り、
  見送ってもまだしばらく、
  行ってしまった方を見つめて佇んでいた。
  去った後のひどく静かな夕暮れの感じを
  僕は今でも思い出せる。
  両手の中のキャラメルがじっとりと
  夏の太陽で溶けかけていた。

(了)


《あとがき》
 第一作目の『駅名のない町』を書き、その一回目の推敲が終わった頃に書き始めたのがこの作品です。
 この『キャラメルの箱』も『駅名のない町』と同様に、まだ書き慣れていないので書き回しにかなり悩みました。ストーリーも登場人物も設定せず、ただ脳内に映像だけがある。そんな状態で、映画の状況を文字起こしでもするかのように書き進めたのです。
 今でも、その書き方を貫いているのですが、骨子のない状態で制作するのは行きつ戻りつがあり、時間が掛かります。今では、長丁場になることを想定して、いくつかの作品を同時並行で制作するようにしていますが、当時は、ひとつの作品だけに掛かりっきりで進めていました。拙いけれども、振り返って読んでみると、そうやって時間を掛けた分、作品にぽってりとした時間の重みが含まれているようです。

 最初は小説として仕上げていましたが、のちに、小説とは何かを勉強したり考えたりした結果、この作品は小説というよりは「噺」ではないかと思えてきました。それで、読み上げることを想定し、私の造語ジャンルである《朗読譜》として仕上げました。実際に、耳で聞いてわかる言葉に開いてあり、読んだ時にも滑らかな音楽のように感じられるのではないでしょうか。

 ところで、プロローグはあるのに、エピローグがない。なので、新たにエピローグを書き加えようかと思いましたが、作品の雰囲気を壊すように思えたので止めました。
 ならば、プロローグを零章にしようかとも考えましたが、あれはやはり零章ではなく、プロローグだと思える。
 何かそこが抜けてしまっていて、かっちりとはまっていないのが、むしろこの作品に合うとも思える。箱の中身であるキャラメルだけを握らされたゆうちゃんの、困惑を再現しているようです。
(二0二四年十月十八日)
 

#キャラメルの箱
#朗読譜
#ボウヤ書店

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?