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長編小説 コルヌコピア 13

八章 現在の地図に存在する過去の時間

1 オーバーコートから抜け落ちたもの

「解体してしまったけれど、本当によかったのでしょうか」
 大家は資料を一枚手に取って眺めながら言う。
 アユラは集会所に備え付けられたホワイトボードの上に、大家が解体したコートの写真を貼り付けていった。
「いいのよ。どうせ捨てるつもりだったのだから。トウドウさんの手紙にもそうしてくれと書いてあったのだし」
 ホワイトボードはコートの写真でいっぱいになる。袖、襟、身ごろ、マチ。写真の上に赤や青のマグネットを置いていくと、まるで地図上に描かれた黒い大地とその上に張り巡らされた駅のように見えた、
「だとしても、解体しながら思ったのは、これはかなり腕のいい職人の仕事だということ」
 大家は写真をしみじみと眺めた。
「トウジョウさんはアパレル業界でもハイクラスと言われているブランドの人たちと親しかったから」
「ブランドを思わせるタグはどこにもなかったけど」
 ホワイトボード上の写真を見つめたまま、大家は残念そうに眉尻を下げた。
「試作品じゃないかな。あるいは、トウドウさんが職人に頼んでオーダーメイドで作って貰ったものとか」
 アユラは最後のマグネットをトンと置いた。
「なるほどねえ」
 大家は何度も頷いてから、「これが刺繍の玉止めを検証したものです」資料の束の中から数枚だけ引き抜いて、アユラに渡す。
 モノクロで撮影した裏地の写真に、蛍光マジックで線が引いてある。
「やっぱり全て数字でした。0と6と9以外。赤い糸で作られた玉止めを繋ぐと1、橙色は2、黄色は3、緑は4、青は5、白は7、金は8」
「これって、チャクラじゃないかしら。今ネット上で流行っているチャクラの色と数字に対応してる」
「なんですか、それ」
「ヨガブームで一般にも知られるようになったもの。簡単に言うと身体のツボの親玉みたいなもの。よく知られているものとしては七つあり、色と対応している。たとえば第一チャクラは背骨の一番下にあり、それが開く時には幻覚として赤い色が見える、とか」
 アユラはネットで知った情報をそのまま伝えた。実際、それくらいしか知らない。
「なんか、怪しそうだし、危なそう」
 大家は大袈裟に口をへの字に曲げた。
「今や当たり前みたいに語られるけど、一昔前はチャクラと口にしただけでも怪しいやつ認定されそうな概念だったそうよ。でも、ネット情報だけから推測すると、こんなのは大したことはない。たぶん、ほとんどの人は関係ないから危なくもない」
「どういう意味?」
「ネットの情報に煽られて『私は第一チャクラが開いたのだ』と妄想する人はいそうだけど、本来はそんな簡単なものじゃないんじゃないかなって。実際には山奥で修行して虎に食われそうにでもならなくては開かないようなものらしい。修行マニアの友人から聞いた話だけど」
 アユラが言うと、大家は「ふうん」と言って下唇を前に突き出した。
「それにしても、大家さんって、表情豊かね」
「そうですか?」
 目を丸くする。
「ほら、目を丸くした。なんだか漫画見たい」
「失礼だな」
 大家は目を細くして横目で睨む。
 それを見て「ほら、やっぱり」と言いたかったが我慢したものの、大笑いしてしまった。
「それはいいとして、刺繍の玉止めの意味がチャクラとかいうものだとすると、0と6と9はないの?」
 大家は真面目な顔つきを作った。
 アユラはそれを見ても笑いそうになったが咳払いをして抑制し、
「あるわよ」
 強い語調で自身のモードを切り替えた。
「何色?」
「6はいわゆる第三の眼と呼ばれているもので紫。0と9はだいたい同じで足裏と言われていることが多いけど、色はアースカラー」
「紫とアースカラーか」
 大家はリュックからビニール袋に入ったコートの刺繍部分を取り出した。「他のパーツは重かったから置いて来たけど、刺繍の部分だけは検証することもあるだろうと考えて持って来た」
「さすが。有能ね」
 アユラはお世辞ではなく感嘆する。大家は両眉を上に上げて得意そうに笑う。やっぱり漫画みたいと言いそうになったが、ここでもセーブした。
 刺繍の裏側部分はカラフルな蜘蛛の巣のように見える。玉止めは罠に掛かった虫だ。大家はさらにリュックからルーペを取り出すと念入りに見つめ始めた。
「ああ、ありますねえ」
 眺めながら言う。
「何が?」
「アースカラーの玉止めです」
 表に返して「あ、こちらにも玉止め。縫い目はなく玉止めだけ。確かに0だ。そうか、これが最初は単なる失敗に見えていたんだ。この前、表に玉止めを出してしまっている部分があると言っていたでしょう。でもそれで手縫いした部分が混ざっていることに気付いたのだけど」まじまじと眺めている。
「紫の刺繍は?」
「それは――」
 ルーペを移動させながらゆっくりと探し始めた。
「ないね」
 大家は顔を上げ、まっすぐにアユラを見た。
「じゃあ、逆にメッセージとして、6がないことを伝えている?」
「まあ、そうかな。9も、だけど」
 大家はアユラに生地とルーペを渡し、「一応、探してみて」と言った。
 生地の隅から隅までなめるように探したが、紫の糸による刺繍は見当たらなかった。
「いつの間にか取り外されているライナーの方にあるのではないかな」
 大家が言う。
「探した方がいいわね。実家に戻って自分でクローゼットをごそごそするしかないかな。それにしても、クリーニングしてから実家に送っているのに、タグが外されているのだから、やっぱり誰かが着たか、あるいは着ようとしたことは事実よね。確認してくる」
 実家まで戻るのは少し面倒だと思ったが、こんなに謎が重なっているのに放置するわけにもいかないと思った。

2 アユラの実家

 久しぶりに降り立った故郷の駅は十年前とほとんど変わらず、匂いまで昔のままだった。地元の常連だけで成り立っている蕎麦屋とその隣の手芸屋。子供の頃には電車に乗る前に必ず狸そばを啜ったし、フェルト手芸が流行ると道具を買うために手芸屋に立ち寄ったものだった。当時でも店主はかなりの高齢だったから、今ではその次の代が経営しているのだろう。
 アユラは見つからないように店の前をそっと通り過ぎ、バス停へと急いだ。もしも知っている人が店から出てきて声を掛けられたら、あれからどうしていたのだとか、親孝行しなさいと説教されて最低でも二十分は足止めを食らう。
 とにかく見つからないように、深めの帽子をかぶって厚底の眼鏡を掛けた姿でバス停に立っていると、それほど待つこともなくバスが到来した。ほっとして乗り込むと、ベンチ席に同級生と思われる人が座っていた。

 ――知らないふりをしよう。

 顔を見ないようにして、一番後ろの座席に座った。ここなら誰からも見えないはず。アユラは意味もなくこそこそしている自身に気付いて、どうしてこんな風なのかと恥ずかしく思った。

 ――でも、故郷に居る間はずっとこうだった。

 久しぶりに帰って来たことが気まずいから身を縮めているのではなく、アユラはこの町にいる間中ずっとそうだった。特に優秀だったわけでもないが、かといって、それほど落ちこぼれていたわけでもない。成績はまあまあだったし、運動会での徒競走は一番とまではいかなくても二番か三番で、転びさえしなければ、無事に終わってよかったねと笑顔で迎えてもらえる程度の存在感はあった。いつでもにこにこしていたような気もするし、取り立てて目立とうと考えもしなかったけれど、学校にも近所にも友人や知り合いは居て、夏祭りがあると言えば誘われたし、一緒に初詣に行く友人もいた。だけど、どういうわけか、自身の心の奥底では何か隠し事でもあるかのように、意味もなく見つからないように暮らしていた記憶がある。

 ――見つからないようにというか、捕まらないように、だったのかも。

 どうしてそんなに逃げ出したかったのだろう。両親に虐待されていたこともないし、弟と仲が悪かったわけでもない。全てが良好で、これといった悩みもなかった。畑や田んぼもあれば、穏やかな住宅街もある故郷。十年経ってもそれほど変化もない町並みは、見方によってはヨーロッパ郊外にある田園都市のようでもある。退屈だったから逃げ出したかったのだと思いたいところだが、アユラ自身に悩みはなくても、町に住んでいる人々は次から次へと噂話やちょっとした難題を見つけ出して皆で取り組もうとするので、日常に退屈さはなかった。むしろ、住民ひとりずつとの付き合いが深くなるので、結果的に完全にいい人と思える人間は少なく、どの人も均等にひと癖あるかのようだった。だからこそ、アユラ自身の平凡さが自分ではむしろ特殊に感じらた。

 ――非凡さって、才能とかじゃないのよね。

 車窓を見ると、中年女性が犬を連れて散歩している。あの人だって平凡そうに見えて、話を聞いてみれば複雑な過去や心の癖を持っていて、ひとたび捕まればどこまでも追いかけてきそうな執着力で、話を聞いてくれと言うだろう。

 ――お母さんがよくいろんな人の話を聞いてあげていたからかも。

 突然玄関先に訪れた近所の人を居間に招き入れて、お茶まで淹れて話を聞いていた母親の顔を思い出す。退屈しのぎにはなるのかもしれないけれど、その度にやりかけの編み物が中断されてなかなか前に進まなかった。マフラーひとつを仕上げるためにどれだけ多くの時間が掛かったことか。
 長閑そうに見える故郷の景色を見ながら、早くもマンションに帰りたくなっている自分に気付かないではいられなかった。

 実家に着くと鍵が開いたままになっていて、アユラは「ただいま」と声を掛けてから中に入った。
「意外と早く着いたのね。さっき電話を貰って驚いちゃった」
 編み物の手を止めて母親が立ち上がる。
「玄関に鍵を掛けないのは不用心じゃない?」
「さっきまで閉めておいたのよ。帰ってくる時間を見計らって開けておいただけ」
 お茶を入れる準備をしている。
「そう言えば、そうだったね」
 アユラは荷物を床にどさっと置き、子供の頃のことを思い出した。父が帰宅する時間になると玄関先の明かりを点けて、それまで閉めていた鍵も開ける。母親の言う事には、仕事で疲れて帰ってきた時に、家の明かりが灯っていて、鞄から鍵をもぞもぞと探し出す手間を掛けなくても家に入って来られるようにしておくことが家を預かる者の勤めなのだった。確かに、この辺りの家庭ではだいたいそんな風になっていた。夕方になると家々の玄関先の明かりが灯り、通勤バッグを持った男たちは鍵など使わないでがらりと扉を開ける。子供の頃には不思議とも思わなかったその風習が、今となっては珍しい文化のように感じられる。都会のマンションでは自分で操作できる玄関先の明かりなどそもそもないことの方が多いし、あったとしても使う人は少ない。家に戻ったら必ず自分で鍵を開けて中に入り、すぐさま鍵を閉めるのが当たり前なのだ。
「あれ以来、イタチは来ない?」
「そうね、すっかり、来なくなった」
 母親は湯気の立つ湯呑を居間のテーブルに置いた。アユラは駅で買ったお菓子を鞄から取り出し、「これ食べようよ」と包装紙を自分で破った。
「久しぶりに実家に帰って来るのにお土産なんか買わなくていいのに」
 そう言いつつ、破いた包装紙を見て「あら、美味しそう」と嬉しそうな顔をした。笑った顔に深い皺が刻まれて、やっぱり十年も会わなければ年を取るものだわと思う。服装や部屋の状態、編み物をしている姿などは全く同じだから、むしろ変化した老いの様相だけは際立って感じられた。経年変化についてはお互い様なのだろうけれど。
「お父さんは?」
「友人たちと神社巡りの旅ですよ」
「好きだね、まだやってるの?」
 故郷の風景は何から何まで変わらないが、そんなことまで同じなのかと呆れてしまった。
「そう、まだやってるの」
 仕方なさそうに笑う。「月に半分も家にはいないわよ」
「お母さんも一緒に行けばいいのに。他の人は妻を連れてきたりしないの?」
「連れてくる人もいるらしいわよ。だからお前も来るかって聞かれたこともあるけど、私はいいって断ったらそれっきり」
 少し不服そうにお茶を啜っている。
「今度は一緒に行ってみようかなって言ってみたら」
 アユラもお茶に口を付けた。熱くて渋い緑茶が心地よく喉を通っていった。
「一人で来る女性もいるらしいし、お父さん、その方と仲良くしているかもしれないから、うざったい妻が顔を出す必要もないかなと思って」
「お母さん、未だに良妻賢母しているの?」
 呆れてしまった。情けないと思ったが、アユラ自身も賢母をあてにしているのだし、十年ぶりに会って説教なんかしたくない。その人がいいと思った生き方をすればいいだけだ。
「ところで、あなたはどうして帰って来たの。嬉しいけど、急だし驚いた。結婚でもするの?」
「それを言うと思った」
 今度はこちらが説教されそうだと思って身を縮める。この年代の人々って、どうしてケッコンケッコンって言うんだろう。「そうじゃなくて、この前送って貰ったコート。あんな面倒な事を頼んだのに直ぐに送ってもらってありがとう。ただ、開けてみると、気になることがあって」
「何?」
「あれはクリーニングして袋に入ったまま送って、ここのクローゼットに仕舞っておいたのだけど、今見るとクリーニングのタグが切ってあって、しかも、調べていたら中に入っていたライナーがなくなっていることに気付いた。先に言っておくけど、ライナーなんかなくても別に構わないのよ。どうせ捨てるつもりだったのだから。ただちょっと調べていることがあって、ライナーがクローゼットのどこかに迷い込んでないかなと思って、それで調べに帰ってきた」
 アユラは母親が要らない罪悪感を感じるのではないかと心配になった。
 しかし、言い終わると、
「なあんだ、そんなこと」
 母親はむしろがっかりしたかのように肩を落として横を見た。
「そんなことって、理由、知ってるの? ライナーが取り外されている理由」
「いいえ。知らない」
「じゃあ、なんで?」
 アユラはきょとんとした。
「まあ、いいわよ。でも、十年も帰ってこなかった娘が意味深にも帰郷したかと思ったら、そんなことかと思って」
 どうやら、本気で「結婚」を期待していたのだろう。甚だしい世代間ギャップ。あるいは地域差? おそらく自分の子供が結婚をして子供を産み、自分自身が孫に囲まれることが彼女自身の幸せなのだ。あるいはステイタス。他者から見た時の見栄え。
「そんなことって、でも、いろいろと事情があるのよ」
 反発した気分はぐっと抑えて、言い訳モードにする。
「好きなように部屋を調べてみて。あなたが出て行った時のままにしてあるから。私は夕飯の材料を買ってくる」
 そう言って、立ち上がり、財布を鞄に入れると外に出て行ってしまった。

 湯呑に残っていたお茶をぐいと飲み終え、アユラは二階にある自室に向かった。階段は相変わらずきしんだ音を立てていたが、壁に手すりが備え付けられていた。
 母親の言う通り、部屋はアユラが最後にこの家を出た時のままになっていた。別に喧嘩をして出て行ったわけではない。最初は大学生活に向かうために家を出て、就職をした後、何かの用事で十年前に一度だけ戻り、それ以来帰っていないだけだ。

 ――十年前、私はどうして家に戻ってきたのだったか。

 理由は思い出せない。布団は畳まれた状態でベッドに乗せてある。もちろん、これは十年前に出て行った状態のままではないだろう。あの母親のことだから、ベランダで布団を干したりシーツを洗ったりして、今日、アユラが帰って来るからというので、改めてベッドに置いたのだ。しかし、出て行った時とそっくり。あの日、何もしないで出ていくのが申し訳ないので、いつもであればやらないようなマナーとして、ベッドの上の布団を畳んでから家を出たのだ。

 ――もう帰りませんのメッセージに見えたかな。

 ベッドの上で一塊になっている布団はどこか寂し気だった。
 壁の片側に備え付けられているクローゼットの扉を開けると、バーにはクリーニングに出してビニール袋に入れたままになっている衣類がたくさん掛かっていた。ずっと昔は袋に入れたままにはしなかったが、通気性のある袋が開発されてからは埃避けの為にそのまま仕舞っておけるようになったのだ。

 ――あ、制服。

 高校生の時のジャケットとスカートがクリーニングしてそのまま保管してある。捨てればいいのにと思った。今さら寄付しようにも、卒業した高校はきっとデザインを変更しているだろうし、全く使い道はない。それでもビニール袋を押し上げて金色のボタンに触れると、毎日自転車で通った日の事を少し思い出した。雨の日はレインコートを着て道路を走る。その横を大型トラックが猛スピードで通り過ぎる。今考えれば案外危険な命がけの通学だった。制服の袖口は擦り切れ、机に向かって鉛筆を走らせて勉強したことが証明されている。

 ――我ながら人に歴史ありとはこのことね。

 振り切るようにビニール袋を下まで押し下げ、他に仕舞われた古いコートやジャンパースカートをひとつずつ確認していった。全ての衣類にはクリーニング後のビニール袋が掛けてあり、クローゼットの下には高校の鞄やリュック、麦わら帽子、スカーフやマフラーの入った箱類が置いてあるだけで、あのコートのライナーが中途半端に置いてある様子はどこにもなかった。
 そうしていると、買い物から戻ってきた母親が二階に上がってきて、
「どう? 見つかりそう?」
 いぶかし気な表情をしてマノの横に立った。
「ないわ。これだけきちんと整理してあるんだから、探さなくてもわかる」
「ビニールの中も全部見た?」
「途中まで見ただけ。あのコート、クリーニングしてビニールに入ったまま送ったはずだけど、この前頼んで送って貰った時、タグも外されていたし、ビニール袋にも入っていなかった。送る時、外したってことはないでしょ?」
「いいえ。あの状態でここにあったのよ。確かに変だなと思った。私はクローゼットに入れる時には必ずこのビニール袋に入れるから。防虫効果があるのよ。ほら、このジャンパースカート見て」
 母親はハンガーに掛けられたものを引っ張り出した。「これは、大学卒業した後、アユラがクリーニングに出さずに送り返してきたものだけど、きちんとクリーニングに出して、特殊な防虫効果のある袋に入れてから仕舞ったのよ。そう言えば、どんな衣類だってこちらでクリーニングに出させようとしてるのかしらねっていうくらい、そのままで送ってきていたのに、あのコートは確かに、珍しくクリーニングに出したものを送ってきたのだったわね」
「あれは、ある人から借りたものだったから。直ぐに下宿先のクリーニングに出したのよ。きちんと返そうとしてね。でも貸してくれた人と連絡が取れなくなったから預かったままになっていたの。引越しの時に悪いけど実家に置かせてもらおうと思って」
「その時、ライナーはあった?」
 母親は疑わしそうに目を動かしてアユラを見つめる。
「どうかしら。確認しなかった。ライナーが付いているとも思っていなかったから」
 アユラが言うと、母親は、はあ、とため息を着いて腕組みをした。
「もしかして、そのクリーニング屋で紛失したんじゃない?」
「そんなことある?」
「可能性として」
 几帳面な性格の母親としては、この家でライナーがなくなっているとは思えないのかもしれない。
「でも、じゃあ、どうして、送ってくれた時、クリーニングのタグもビニール袋もなかったの? 外していないって、さっきお母さん、言ったよね」
「言いましたよ。送ろうとした時にはあの状態だったのよ。でも、確かに、変だわね」
「お父さんとか、ジュンが袋を開けたとか?」
「お父さんは滅多に二階に上がる事なんてないし、ジュンはあなた以上に音沙汰なしよ。年に一回くらい電話をくれる程度」
「お母さん、よく我慢できるね」
 アユラは自身の親不孝を棚に上げて呆れてしまった。
「そんなものよ。私だって、家を出たら親に連絡なんてほとんどしなかったんだから。そんなの普通」
 目を細めて笑う。
 いずれにしても、ライナーがどこに消えたかの謎は解けなかった。

 アユラは実家に一泊し、もう少しゆっくりしていけばいいのにと言う母親を振り切って自宅のマンションに戻ることにした。ほとんど家にいないという父親や弟にコートのライナーについて問い合わせる必要もなさそうだ。彼らはきっと無関係だろう。もしもわかったことがあれば連絡してねと頼み、家を出る時、一瞬、母親は寂しそうにも見えたが、おそらくアユラが帰った後は近所の人々が入れ替わり訪れては、悩み相談を口実にしてそれなりに活気のある時間を過ごすのだろう。少し皺は増えていたものの、きびきびと夕飯の支度をしたり、後片付けをしたりする母親の様子はまだまだ若々しく見えた。

 ――むしろ、負けちゃいられないなあ。

 旅行鞄を持って歩きながら、背筋の伸びる気がした。

3 母ちゃんの味

 マンションに戻ってきたのは夕方過ぎのことで、直ぐに全ての窓を開放した。どんなに短い間でも一度外に出て戻ってくれば部屋の中の物が生気を失って見える。空気を入れ替えて生気を取り戻さなくては。
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲み、一息ついたところで大家にメッセージを入れた。
《残念ながら実家にライナーはありませんでした。》
《お帰りなさい。そして、お疲れ様。久し振りの実家は楽しかったですか。》
《まあまあ。母も前よりかは年を取っているようには見えたけど、でも元気そうだった。》
《よかったです。コートの事に関して新しい情報は何もなかったってことですね。》
《そう。唯一、母がライナーは私が出したクリーニング屋で無くした可能性もあるかもと言ったことかな。》
《お母さんって、直観鋭いんですか?》
《まあ。そうね、そういうところもあるかも。》
《じゃあ、そのクリーニング屋に行ってみるというのもあるかも。》
《どこだったかな。覚えてるかしら。》
《行ってみさえすれば思い出すかもしれない。ドライブがてらに車出してもいいですよ。》
《ほんとに?》
 意外な申し出に感動して立ち上がりそうになった。
《僕だって、気になりますから。僕の所に、あの手紙が届いたのだから。》
《それは、そうね。面倒なことに巻き込んでしまってごめんなさい。》
《アユラさんに巻き込まれたなんて思っていませんよ。僕も関係しているのかもしれないから。》
 親切さに涙が出そうになる。
《そう言えば、夕飯一緒にどう?》
《いいですね。今日はちょっと違うところに行きますか。僕の行きつけのお店を紹介します。》
 アユラは一も二もなく承諾し、一時間後にマンションの下でと約束をした。

 大家の行きつけの店はアユラのマンションから歩いて十分程度のごく近い場所にあった。間口は狭く奥に長い洋食屋で、誰かの紹介でもなければなかなか入ってみようと思わない。路上に置かれた看板でさえも一昔前の古さがもはやレトロな新規さを醸し出すほど年季が入っている。天井からつるされたランプには色褪せたレース編みが掛けられている。
「いらっしゃい」
 カウンター奥のマスターが二人の立っている方に顔を向けた。
「お久しぶりです」
 大家はアユラにテーブル席に座るように勧め、自身は立ったままでマスターのいるカウンターに近付いた。
「彼女?」
 六十代と思われるマスターの顔は艶やかに日焼けして、短く切った髪やほどよく伸ばした髭には白髪が混じっている。淡い色調で控えめなアロハシャツの袖を筋肉質の腕がはち切れんほどに膨らましていた。
「いや、まだです」
 大家はアユラの方を向いてはにかんだように笑った。
「まだってことは、これから?」
 マスターの表情が緩み、冷かし半分の笑顔を見せる。
「先の事を言うと鬼が笑いますよ。そんな顔をしてね」
 大家はマスターの顔にゆるく指を指して、「僕はいつものチキンカツで。アユラさんは、ゆっくりメニューを見てから決めてください」カウンター脇に重ねてあったメニューを一つ取って渡した。
「何がおいしいの?」
「全部」
 大家は水を入れたグラスとお絞りを自分で盆に乗せてテーブル席に運び、そのまま席に座った。「でも、あえて言うなら――」顔を突き出してメニューを見て、「これかな」パエリアを指していた。
「パエリア。珍しいね」
「でも時間がかかるから、それにするなら来る前に注文しておいた方がよかったかも。まあ、なんでも好きなものにして」
 結局、アユラはオーソドックスにハンバーグを選んだ。ハンバーグはカジュアルな食べ物だけれど、作り方にはいろいろとバリエーションもあるし手間も掛かる。玉ねぎを炒めるのが面倒なので「炒め玉葱」を買ってきて使う人もいるし、肉の種類も合い挽きを使うかビーフを単体で使うかによってまるで違う食べ物のようになる。特にソースはどこまで自分で作るかが人によって分かれるところで、老舗の洋食屋となればデミグラスソースを一から自分でも作るだろうけれど、普通は市販のものをアレンジして作る。アユラは市販アレンジバージョンのソースにも興味があった。缶詰のデミグラスに醤油を入れるのか、バターやトマトソースを入れるのかによって味わいは変わる。
「今度はパエリアを予約してからきましょう。嫌いじゃなければ」
「パエリア大好きよ。そもそも嫌いな食べ物ってないのよ。ゲテモノ以外はなんでも好き」
 グラスの水を飲んで、湯気の立つお絞りで手を拭いた。
「それにしても、トウジョウマキオはどうして僕に手紙を送ってきたんだろうね。コートを捨てるようにと言いたいのなら、アユラさんに直接送ればいいのに」
「それはそうね、そこからして謎よね」
「これが届いている時にはもう死んでいるなんて、変な書き方をして」
「ところで、実家では他になにか変わったことなかった? たとえば、あのコートを仕舞っておいた場所がリニューアルされていたとか」
「なあんにも。布団の置き方まで十年前と同じだった。まあ、両親が年を取ったから転倒防止のために、階段に手すりが付けられていたことくらいかな、新しくなったことは」
「へえ、手すりか。それ、いつ頃付けたの?」
「聞いてない」
「そこ聞かなくちゃ」
 大家が眉を下げて顔を歪め、大袈裟に残念そうな顔をした。相変わらず漫画調の表情だ。
「そう?」
 笑いそうになるのをこらえて冷静に言う。
「まあ、いいか。後で聞いてみて。いつ、どういう経緯で、誰の勧めで、誰に頼んでそれを付けたのか」
「それ大事?」
「わからないけど、ちょっとした変化や違和感が事件の重要な鍵になっていることは多いのです。ミステリー小説ばかり読んでいるから、こんな風に何にでも疑い深くなってしまったのかもしれないけど」
 目を細めてグラスの水を飲んだ。
 テーブルに届いたサラダにはオーロラソースが掛かっていて、カップに入ったコンソメスープには賽の目にカットした野菜とベーコンが具に入っていた。オーロラソースはマヨネーズとケチャップを混ぜ合わせただけのものだろうし、コンソメスープは業務用のストックを使ったものだろう。でも、ここではそれが嬉しい。大家のひそひそ声の話によると、マスターが一人で何もかもやっているらしく、ある程度手軽な方法で上手に作るのが信条らしい。口に出して言わないまでも、アユラにしてみれば、それが家庭を思わせる味であり、長く故郷を離れている者からすれば、その手軽さゆえの味に懐かしさが上乗せされるのだ。
 その後、鉄板上で音を立てながら届けられたメインのハンバーグは小判型で、香りから想像すると、市販のデミグラスソースに焦がしバターと赤ワインが加えられたもの。インゲンとポテトフライが添えてある。ソースが跳ねる音がするほど熱々だ。大家のチキンカツは揚げたてで、さっくりと黄金色に輝くパン粉の上にトマトソースが掛かっている。そして湯気の立つライス。細かく切った青いかっぱ漬けが添えられている。
「うわあ、ご馳走だ」
 アユラはテーブルの上を眺めて思わずつぶやいた。
「でしょ。どちらも夕飯の四番バッターってところか」
 既にナイフとフォークを持っている。
「愛を感じる」
「そうなんだ」
 もう口の中に一口分のカツを放り込んでいる。
 アユラも負けじと一口分にハンバーグを切って口に入れる。
「おいしい」
「めちゃくちゃ旨いんだ」
「早く教えてくれたらいいのに」
「アユラさん行きつけの定食屋もよかったですよ」
 大家がそう言うと、マスターがカウンターから、
「どこの定食屋?」
 と話しかけてきた。
「駅前の、梵亭食」
「ああ、あれ。あれは弟」
 マスターが言ったので、二人とも声を揃えて「えーっ」と大きな声を出してしまった。
「だって、ここが洋食ブラフマン。漢字の梵とブラフマンって同じ意味だから」
「なるほど!」
「兄弟そろってお店を出すなんてすごい」
 アユラが言うと、
「それはどうも。どっちも母ちゃんの味を再現しているだけ。弟は和食で、俺は洋食。母ちゃんは両方出来たんだけど、やってみてわかったのはそれは天才過ぎるってことだった。母ちゃんは習ったわけでもないし、テレビの料理番組なんかをちょっと見て作ってた。しかも休まず毎日、朝、昼の弁当、晩ご飯。体力が信じられない。今は姉ちゃんが家を継いだけど、パスタばっかり作っているらしいよ。または買ってきたものを温めるとか」
「お姉さんはお母様の料理を受け継がなかったの?」
「子育てもあるし、そんなことやってられないって。仕事もしているしね。まあ、そりゃあ、無理だ」
 それはそうだと大家もアユラも大きく頷いた。
 美味しいね、すごいねと賑やかな夕食時間を過ごした後、大家とアユラはクリーニング屋を調査する日程を決めた。
「実家の手すりを付けた理由や施工業者や日程のことを聞いておいてください」
 大家は口の周りを紙ナプキンで拭いた。
「そうする。この際、パズルを完成させるかのように、しらみつぶしに謎を解明していくのもおもしろそうだわ」
 アユラも口の周りを丁寧に拭き、最後に届けられた珈琲を口にした。
「わあ、本格的」
 そこまでの料理はご馳走ながらも、「母ちゃんの味」を再現しているだけあって家庭的の範囲ではあったが、珈琲は際立ってプロの味がした。
「よくわかるんだね」
 マスターが食器類を洗いながら言う。
「ライターをしていた頃に、あちこちで教わったのもあります。美味しいものはなんでも美味しいけど、表現として本格的と付け得るものは別格なんですよね」
「珈琲だけは真面目に老舗で修行したの。母ちゃんの味ではなくてね。実際、俺は珈琲屋でよかったんだけど、母ちゃんの味がこの世から消えるのも悲しいから洋食屋に転向して、その時、珈琲も母ちゃんの味でもいいかと思ってマシンを試したけどマシンでは母ちゃんの珈琲の味は出ない。母ちゃんの珈琲を作ろうと思ったらインスタントコーヒーとクリープかブライトが要るんだ。でも、食後にインスタントコーヒーを出す店もなかろうということで、結局自分で淹れることにした。だからトータルで考えるとあり得ないほどの大サービスの値段。下手すりゃ、これくらいの味を出す珈琲屋に行けばケーキと珈琲だけで、ここのセット分の値段するでしょう」
 食器を拭いては棚に仕舞っている。
 アユラはマスターの言葉に大きく頷く。
「これは穴場中の穴場だわ」
 気付いたら店内は満席になっている。
「こっちの方がいいのはわかるけど、弟の方にも行ってやって」
 マスターはいたずらっ子の顔で笑った。
「もちろん、和食も美味しいから」
 大家は伝票を持って立ち上がり、「今日は僕が支払いますよ。アユラさんにはお世話になっていますし」マスターに微笑んで見せた。
「どういうこと?」
「物件のお客さん」
「へえ、彼女にしてもいいの? 法律的に」
「別に構わないでしょう。法律的には」
 軽快なジャズの流れる店は居心地がよかった。

(八章 了)

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