解読 ボウヤ書店の使命 ㉜-8
朗読譜『カラスの羽根、あるいは雀の羽根、ヒヨドリの羽根』のつづき。
《《マルチスピーシーズのはじまりに》 文 米田 素子
老女と呼んでいいものかどうか。
その女性は葡萄色のワンピースを着ていた。生地は麻。袖とスカート部分には多すぎるほどのギャザーが寄せられていて、身体が大きく膨らんで見える。顔は面長でほっそりとし、腕も骨の形がわかるほどの痩せ気味。髪は黒く染めた短めのボブで、前髪は瞼の上できっちりと切り揃えている。
「ウルタは何が食べたい?」
女性はメニューを見ながら、老人性のしわがれた声で言った。
しかし、ウルタと呼ばれたはずのものは存在せず、彼女は一人でテーブルに座っている。
「サーモンとクリームチーズのサンドイッチ、チキンとほうれん草のキッシュ、鴨肉のポワレオレンジソース…」
メニューを一番上から順番に読み上げ始めた。
そばを通り過ぎた蝶ネクタイのギャルソンが私の方を見て、小さくウインクをし、人差し指を唇に当てる。
――シーッ。かまわないで。
なるほど。この女性はきっと、あの世とこの世と半分ずつに住んでいる。彼女のウルタはきっと、あの世にいて、二人はこのレストランでデートしているのだ。
私はホタテ貝のバターソテーとクレソンのサラダを注文し、先に届いたシャンパンを飲みつつ、買ったばかりの画集のページをめくることにした。
「じゃあ、ウルタは半熟卵とクラッカー、私は牛頬肉の赤ワイン煮」
女性がギャルソンに告げ、まずは注文せずとも届けられた赤ワインとホットミルクを交互に飲み始めた。どうやら彼女は、彼女でもあり、ウルタでもあるらしい。
「あの頃はよかったわよねえ」
ウルタに話しかけているようだった。
「どうして今は、こんな風になっちゃたのかしら」
「もしもあの頃に戻れるのなら、戻りたいかって言われると、それはどうかしらねえ」
「今は今で、こんなにおいしい――」
ホットミルクを飲んだ。きっと、今はウルタだ。
「だけど、やっぱりあの頃はよかった」
赤ワインを飲む。ああ、これは、彼女だ。
「ぜんぜん、今の方が--」
ホットミルク。
「だけど、自由がないわよ」
赤ワイン。
そのうちに半熟卵や牛頬肉が届けられ、それも交互に食べながら、今がいいとか、前の方がいいとか、一人でぶつぶつ言っている。
やがて、食べ終え、お腹がいっぱいと言って、ワンピースのウエスト部分のギャザーを掌でくるくると撫で始めた。
――おや? なんだ、あれは。
女性がそうやってウエストの辺りを撫でていると、徐々にお腹の部分が風船のように膨らみ始め、今度はびゅうと前に伸びをするように大きくなって、むごむごと動いた。
「おとなしくしなさい、ウルタ」
――まさか、あそこに、ウルタが?
「ギャルソン」
女性は大きな声で呼び、手早くテーブルで会計を済ませたらしく、すっと立ち上がった。
それから私の方をちらっと見た。
真っ赤に塗った口紅は食事をしたせいで唇の横にはみ出している。口をすぼめて鼻の穴を膨らませ、目を細めて笑顔らしきものを作った。しわしわの皮膚がよれて、目がきらりと青く光る。そして、それから――。
「あ、猫」
女性は徐々に葡萄色の猫になり、一声、にゃあと鳴いて、テーブルの椅子からぴょんと飛び降り、空いたままのドアから走り出て行った。
気付くとギャルソンが私の横に立っていて、
「近頃は、コロナでドアを開けていなくちゃいけないでしょう? あちらの世界からのお客様も多くて」
ステンレスの盆を胸に抱きながら、溜息をひとつ零し、やれやれといった風にドアの向こうを見送っていた。
彼女とウルタの居たテーブルには、近くの海岸で見かけるビーチグラスがいくつか置いてあった。
ああ、あれで、勘定を済ませたのか。
(了)》
制作2020年8月11日
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