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長編小説 コルヌコピア 14

九章

1 オーバーコートを受け取った現地へ

 かつてのクリーニング屋探しの日は汗ばむほどの陽気だった。ところどろこに白雲が浮かぶ青空で、クリーニング屋探しといった目的がなければ、心底ドライブ気分になれるだろう。大家が約束通り車を出してくれて、ナビに大まかに行先を設定して、早速向かう。
「私の下宿先の住所しかわからないなんて」
 当時の記憶はすっかり消え去っていて、住所でさえも実家に電話をして教えて貰ったのだった。
「大学時代って楽しいし、忙しいし、あっという間だからね」
 お昼前には高速道路を下りて、大学を中心とした町に向かう国道に入った。道路脇にはプラタナスが植えられ、コンビニとガソリンスタンド、カーセンター、リンガーハット、ホームセンターが順番に現れた。歩いている人は誰もいない。
「こんな町だったかなあ」
 ほとんど変化の感じられなかった故郷に反して、何もかもが変わってしまった気がする。
「思い出せない?」
「四年しかいなかったからだと思う」
 町並みに関する記憶がない。
「実家と呼べる故郷は一か所なの?」
 大家は時々ナビを見ながら理知的な運転をした。ブレーキを踏む前にはなだらかに減速するし、急発進もしない。
「大学に行くまではずっと同じ場所に住んでいた。まだ私が赤ん坊の頃に家を買って引越したらしいから、私にしてみれば18年間は同じところで過ごしたの」
「当たり前のようで、それも珍しいのかも。転勤したり、両親が離婚して土地を離れたりする人も多いから」
「そっか」
 アユラ自身は当たり前で平凡だと思ってきたことが、そうでもないと気付かされる。
「これから右折すると、そろそろ、アユラさんの居た辺りの住所になるけど、それでも思い出せないかな。それこそ、よく通った定食屋とか、本屋とか、不動産屋とか」
 プラタナスと街灯の並ぶ車窓の風景を見ていると、自信はない。あんなに多くの人と出会い、学び、サイクリングやドライブをし、パーティをし、徹夜で語り合ったのに記憶がない。青春の濃密な時間だったはずなのに。
「思い出せなさそうよ」
 正直に答えた。
「この町並みのせいかな。おかげ、と言ってもいいのかもしれないけど」
「どこにでもある風景だから?」
「いや、どこにでもあるとは思わないね。でもなんだか、人情が揮発してしまいそうな感じがする。清潔で、まっすぐで、角がきちんと揃っている」
 右に曲がります、とカーナビが言った。
「確かに。実家の風景だって、古い家が取り壊されていたり、新しくイタリア料理屋ができていたりして、けっこう変化はあったようだけど、道という道が入り組んでいて、それは昔通りで記憶に沁みついているし、植物も《植えた》っていうよりは《生えた》って感じだから、町そのものに生き物っぽさがあったかも」
 アユラが言い終わるか終わらないかのタイミングで、大家は道路の路肩に車を停めた。
「だいたい、この辺りらしい。アユラさんが住んでいた下宿の住所。ナビの言う事に従うと」
「えっ、何もないじゃん」
 背の高いビルはなく、公民館らしき建物と、その横にある簡易郵便局があるだけだった。
「もちろんここがピンポイントじゃないですよ。意外とパーキングが見当たらないから、ひとまず駐停車禁止マークのない路肩に停めてみた。よく通った定食屋とかカフェに案内してもらうのを楽しみにしてたけど、これでは無理そうですね」
「コンビニもないね。当時もなかったかな」
 そんなことも思い出せなかった。
「ほんとにこの住所?」
 大家はアユラに疑わしい目を向ける。
「母が昔の手帳を出してきて言うんだから、間違いないわよ。私も住所の地名には記憶がある」
「まずは大学まで行き、その近辺でお昼ご飯を食べましょうか」
 大家の提案に従うことにした。

「大学に関しては記憶が蘇ってきた」
 アユラは大学内にあるドトールでホットドッグにかぶりついた。
「ドトール、その頃からあった?」
 大家もミラノサンドにかぶりつく。
「なかった。大学主催の喫茶しかなかった」
「こっちもいろいろと変わったんだね」
「でも外部の人間が誰でも入って来れるところは昔のままよ」
 通常、大学には門があり、学生証や許可証がないと入ることはできないところが多い。
「下宿先、どうやって見つけたの?」
「最初は学生寮に入り、その後、自分で不動産屋に行って、安い物件を探した」
「たくましいね」
「18か19歳の私がどうしてそんなにたくましかったのか、自分でもわからない。それが今の私にとって一番思い出せないことと言ってもいい」
 アイスコーヒーを思いっきり吸い込んだ。
 きっとあの頃は怖いもの知らず。今でもどちらかと言うと行動的な方だけれど、何をする場合でも安全性を確かめる習慣はある。その慎重さで止めておく方向へと舵を切ることも多く、助かることもあるが、チャンスを逃すこともある。あの頃、まだ十代だった頃のアユラは何も恐れてはいなかった。世の中に悪人がいるだなんて考えたこともなかった。
「なんで、あんなことができたのか」
 アイスコーヒーを最後まで吸い込んでしまうと、急に自身が年を取ってしまったかのように思える。
「僕からすると、今でも充分、いろんなことをガシガシやっていらっしゃるように見えますが」
 大家はオレンジジュースを吸い込みながら、目だけこちらに向ける。
「そお?」
 まだ年老いてなかったか。ちょっと嬉しくも思える。

 学内ドトールを出た後、二人は大学図書館に向かった。文献をあたれば、アユラが住んでいた辺りの経緯がわかるかもしれない。
 見覚えのある堅牢な煉瓦造りの建物。図書館にはよく通ったからか、見覚えはある。
 自動ドアが開いて、やや薄暗い中に入ると、図書館らしく、どこよりもしんと静まった気配が漂っていた。
「学生証、ありますか」
 ワイシャツに紺のジャケットを着た係員が門番となって、銀縁眼鏡の奥から訝し気にこちらを見た。図書館では外部の人間を無防備に通過させないようだ。
「ここの卒業生です」
 アユラは即座に答えたが、証明するものはない。
「学生証をお持ちでない場合、入館許可証を作らなければなりません。お名前、住所、今連絡の取れる携帯電話の番号、職業、そして、ここに来られた目的を用紙にご記入いただきます」
「目的?」
「はい。どのような研究目的で、どのような文献をお探しか」
 無表情で事務的だった。
 受付の隣りでは、リュックを背負った学生が受付の横にある機械に学生証をかざし、バーが開くと当たり前のように速やかに入館している。

 ――私も、かつて、あんな風に、なにもかもが「当たり前」だったな。

 アユラは大学図書館に入館許可証なるものが存在していることすら知らなかった。ここにだけは外部と内部があったのだ。
 二人は係員に従い、容姿に必要事項を記入した。目的に関しても捏造などせず、「記載した住所辺りの十年間の経緯に関する調査」と記す。
 係員は用紙に記入した内容を確認すると、
「またこの目的で――」
 ため息をついて二人を見た。
「また、と言うのは?」
 大家が素早く言う。
「ここ最近、目的欄にこれを書いて入館しようとする人が頻発しています」
「頻発って、何人くらい?」
「数えきれません。でも、住所は様々です。この住所はどうだったかな、調べてみないと確かなことは言えませんが、とにかく、この大学の周囲にある町の住所のものばかりですよ」
 大家とアユラは顔を見合わせた。
「十年間の経緯の内容は同じ?」
 アユラが尋ねると、係員は頷いた。
「どういう経緯か、聞いてみたことはあります?」
「ありますよ。だいたいみなさん同じで、この住所にあった下宿先や店が見当たらないから、どうなったのか調べたい、というものです」
 再び、大家とアユラが顔を見合わせる。
「あなた方も、同じ?」
 係員はズレた銀縁眼鏡を指ですっと押し上げながら、二人の顔を交互に見た。
「同じです」
「残念ながら、そういった地元の経緯に関する資料は、大学の図書館にはないみたいですよ。どの人も、見つからなかったと言って残念そうに帰っていきました。どうされます? あなた方はそれでも入館されます?」
「他に調べる方法は?」
「僕の方としても、あまりにも同じ目的を持つ来館者が増えるので、なんどか町役場などに問い合わせてみました。実際に、来館者たちの言うような経緯があるのかどうか」
 無表情だった顔をしかめて見せる。迷惑なのか、興味があるのか、判別しがたいけれど、機械的な係員としての仮面を脱いだのは確かだった。
「そういう経緯、ありましたか?」
「いいえ。そのようなことは記録されていないのだとか」
「他の人はそれで納得したのでしょうか」
「今僕が話していることは、あなた方が初めてです。今までは、来館者たちのいたずらだと断定して受け流してきました。そして、僕の中で、もしも、次にもう一人、同じような依頼がやってきたら、僕が個人的に調べてみようと決めていたので、お話しました」
 眼鏡を外し、タオル地のハンカチで額から首までを拭った。
「どうしてそんな風に?」
 大家が冷静な口調で言う。
「怖いでしょう。シンプルに」
 眼鏡を掛け直して、二人の顔をまっすぐに見た。「僕は毎日ここに座って、入館許可証作りをしています。ご存知の通り今の時代は人手不足で、こんな大きな図書館でも、僕がたった一人で請け負っています。他にも書籍の整備とか、いろいろと仕事はありますからね。ここを数人でやるわけにはいきません。そして、僕が一人でここを担当していると、頻繁に、同じ類の調査をしたい人が現れるのですよ。しかしこの図書館に文献は一切なく、役場でもそのような事実はないのだと繰り返される。訪問される依頼者にとって問題はひとつですが、僕の所には意味不明な話が何度も何度も投げ込まれるのですから。気がおかしくなりそうです」
 言い終わると唇を一文字に結び、もう辛抱ならない、明確になるまで調べるのだ、といった決意を身体中で表現していた。
「じゃあ、どうします?」
 勢いに気圧されて、アユラは他人事のように聞いてしまった。
「ここに《しばらく不在》の看板を掛けておいて、図書館内にある談話室に行きましょう。よければですが、お二人の状況をお聞かせください。こんなことは初めてですから、他の人と状況が全く同じかどうかはわかりませんが、なんとしても解明したい気分です」
 係員はもはや我慢の限界となり、ルールをはみ出そうとしている。
 なにか、彼の内部でふつふつと煮えたぎっている怒りすら感じ取られた。

つづく。

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