長編小説 コルヌコピア 3
零章 その鳥を見た者
――鳥がいる。
うつむいていた月尾チェルナが顔を上げ、何を思うでもなく庭を見ると、木の枝に止まっていた。
鳩よりも少し小さい。
地球と同じマーブル模様の羽根を持つ。
実際にそこに居るのかどうかわからない。
夢なのかもしれない。
しかし夢にしては、逆立つ羽毛が風に揺れる様が克明だった。
青と白と黒が海と雲と大地の如く生々しく混じり合い、柔らかく空気を含んでは浮き沈みする。光の加減で羽毛の一本一本に細い影が生まれて輪郭を濃くする。背中側の羽根の表面は油が乗ってぬめりと光っている。
――なに、あの鳥。
チェルナは全身を硬直させた。まだ八歳だった。
――おばあちゃん。
声を出そうとしたが、出ない。
怖いのでもなく嬉しいのでもなく、どうやっても鳥から目が離せなくなり息が詰まりそうになる。
それまで横を向いていた鳥はチェルナの視線に気付いたらしく、小首を傾げるようにしてから、ちょんと跳ねて止まり直し、まっすぐにチェルナの方を向いた。鳥は目と目が離れているせいか、こちらを見ているのにも関わらず目線が合わず、窓硝子越しに居るチェルナに関心を寄せつつも、そのもっと後ろにいる存在をおっとりと眺めているようだった。
その一瞬、チェルナは自分が鳥の淡い憧憬の中にいると錯覚した。
鳥は私に憧れている。
私の心に入りたがっている。
つい、鳥と同じ角度に首を傾げてしまう。
そのままじっと見ていると、嘴の色が青からゆっくりと緑色に変化し始めた。
やがて、時折おばあちゃんと出掛けるファンシーショップにある貝殻色のペンケースと同じ色に光り、微妙な身体の動きに合わせて桃色とオレンジ色の艶が現れる。
そのうち、地の緑は淡いエメラルドグリーンへと徐々に変わり、もはや半透明に思えるほどになると、嘴の内側の模様が浮き立つ毛細血管の如く透け始めた。
――何あれ?
嘴に見たことのない文字が浮かび上がる。
最近習い始めたアルファベットに似ているけれど、違う。
波線と棒、丸で描かれた黒い記号は少しずつ濃くなり、まるで嘴は薄くひび割れていきそうに見えた。
――怖い。
そこで初めて恐怖を覚えた。
「おばあちゃん」
やっと声が出た。
「おばあちゃん、来て。早く、来て。変な鳥がいる」
恐怖のあまり大声を出したせいか、枝に止まっていた鳥は大きな羽音を立てて飛び去っていった。
「チェルナ。どうしたの」
キッチンに居た祖母が慌ててエプロンで手を拭きつつ部屋に駆け込んで来たが、もう鳥の存在はなかった。
「見たのよ、変な鳥。青と白と黒の羽根をふくらまし、嘴がネオンみたいに光って、それで――」
祖母は息せき切って説明しようとしているチェルナの横に立ち、
「落ち着いて」
肩を撫でた。
「見たのよ、見たのよ」
庭を指さしながら足踏みをして興奮するチェルナに向かって、
「わかっているよ、見たんだね。わかった、わかった」
祖母はチェルナの肩から背中までを優しく擦りながら、穏やかに微笑みかけた。
「おばあちゃんも子供の頃に見たことがある。チェルナも見てしまったんだね。そうか。大丈夫だよ。だけど、あれを見てしまったら――」
――見てしまったら?
月尾チェルナの記憶はそこで止まっていた。
あれを見てしまったらどうなると祖母は言ったのだろう。
チェルナは少し大きくなってから、何度も祖母の言葉を思い出そうと努力したが、だめだった。急に幕が切れた映画のように、その先だけが空白だ。
――あれを見てしまったらどうなると言ったんだっけ。
気になり始めた頃には、もう祖母はいなかった。
全部夢だったのかもしれない。
チェルナはそう考えることにして、いつしか記憶ごと封印してしまった。
(零章 了)
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