タカラヅカ日記④溢れる包容力〜珠城りょう
《エリザベート》を初めて視聴したのは丁度1ヶ月程前のことでした。その前は『ベルばら』・『ロミジュリ』と龍真咲さんがトップだった頃の作品で愛希れいか…ちゃぴちゃんを目的に選んで見てました。まさちゃぴの初々しいお披露目公演を拝見して、やはりエリザベートのシシィを観たい!と思い切ってBlu-rayを購入したのです。
『エリザベート』と言う歴史ある演目に対して予備知識を全く持たないまま…東宝版の愛希れいかバージョンが販売されて無かったから宝塚版を見てみるかな?ぐらいの気軽さで見始めました。時代背景さえ何世紀?いつ頃だっけ?と云う感じで幾らかは有名な劇中歌を聴いた事がある程度でした。
圧巻のプロローグは蘇った死者の大合唱に気圧されている間に時間を遡ったエリザベートが息を吹き返して登場。一気に登場人物が押し寄せるような場面で設定も知らないわたしには「何だコレ?」と一体どんな舞台が始まるのかと引き込まれてました。
弾ける様な15歳のオテンバ少女が大好きなパパと歌う場面は年頃相応の可愛さがとても微笑ましくその後、彼女に待受ける未来との対比が現れていました。姉ヘレネのお見合い自慢の為に呼ばれた親戚たちをよそに弟たちと木に繋げたロープを綱渡りしようとして落下…生死を彷徨い黄泉の帝王トートの元へ黒天使たちに連れて来られます。まさに死の接吻を受けるその時に、ハッと息を吹き返した様に「わたしを帰して」と死にたくない!と訴えるのです。【死】を司る世界で眩いばかりの生気に満ちたシシィの姿に心奪われ…「生きているお前の愛が欲しい」と想うトート。シシィの生命を返してあげて去ろうとするその姿に「誰だか分からないけれど、わたしを助けてくれた…」と語り掛けます。大人たちは幻覚を見ているのだ…神様が助けてくれたのだと言って横にさせます。生きている人間には見えるハズの無い姿が見えたシシィを背に立ち去るのでした。エリザベートとトートの物語の始まりです。
姉のヘレネと皇帝フランツとのお見合いの為にバート·イシュルへと出掛けます。いつもの動き易いワンピースでは無くロングドレスを着せられて不満気なシシィはコッソリ抜け出すパパを庇ってあげます。…と思ったらフランツと猟をしていました(笑)お見合いは母親同士のお喋りばかりでタイクツ。転がされたリンゴを取りに走るシシィの姿が何とも可愛くて笑ってしまいました。今夜のダンスの相手に誘いなさいと促されたフランツが選んだのは姉ではなく妹のエリザベートでした。これこそがハプスブルグ家の滅亡へのプロローグだと不敵に笑うトート。皇帝は自分の為に非ず…己を殺して国家の為に生きる自分を支えて共に生きて欲しいとプレゼントの首飾りを着けてあげながら告げるのですが、その言葉の重さの意味と首飾りの重みに掛けて受けとるシシィでしたが彼女が思ってる以上の重責が未来に待ち受けているのでした。時間を掛けて2人で歩んで行こう…とまだ23歳の皇帝フランツと15歳のエリザベート夏の事です。約半年間のお妃教育の後翌年4月に皇后として嫁ぐことになります。18歳で即位した若い皇帝は厳格な帝王教育を受けて皇太后ゾフィーの助言は絶対であり、それは私生活に於いても変わる事なくまだ16歳にもならないあどけない少女には護ってくれると思っていた存在のハズなのに…と絶望感を抱えたとしてもおかしな事では無いでしょう。シシィの絶望感に反応する様に現れるトートに力強く立ち向かう決心をして再び撥ね退けます。
皇后として…女性として(妻として)…ひととして…の岐路に彼女が立つ度に姿を現すトートはエリザベートの心の鏡であるとしか思えません。
劇中でルキーニは狂言回しとして存在しますが…トートこそがエリザベートの人生にとってのストーリー・テラーそのものの様に感じるのです。時に革命家に耳打ちし…時に不満の溜まった市民たちに囁やきルキーニの様な狂鬼に駆られたサイコパスの心に潜み…孤独と闘う皇太子に寄り添う様に近付いて行く…人間の心の弱さに付け込み不敵に笑うトートなのに、エリザベートにとっては彼女が立ち直るキッカケを与える様に寄り添っています。パパの様に自由に生きたいと願った少女のまま大人になったエリザベートにとって名門ハプスブルグ家の一国の皇帝で在ろうと夫であるフランツとして存在するのです。だからこそ子どもの事であれ、あの様に強い態度で居られたのではないでしょうか?鏡の間の神々しいばかりのエリザベートの品格の愛希れいかが本当に眩しく感じました。見ようによっては立場を考えればただのワガママに映ってしまうのが独立した考えを持った近代的な女性として凛とした美しさを讃えていました。
エリザベートにとってのトートとは自由の象徴だったのかもしれません。彼女が自由になる為に憧れたもの…。時に不安を打ち消し絶望から立ち直るかと思えば疑心暗鬼を増幅させる存在。死にたくないと言う生への執着ではなく自由に(想うままに)生きたいと言う願いを叶えてくれる存在だったのかも…。そんな風に思わせるのが物語の全編に存在する珠城りょうのトートではないでしょうか。ラストでルキーニの刃を受け入れるエリザベートへ掛ける声が『もう自由になって良いんだよ』と語り掛けているように感じるのです。自由奔放にワガママに生きて来た様に思えるエリザベートですが…彼女なりに一生懸命生きて来た事に、そろそろ終止符を打ちたいと願った彼女の為に現れたトートだったのではないでしょうか…
彼女はホンの少し生まれてくる時代が早過ぎたのかもしれません。詳しい史実は知りませんが…とても現代的な感性の持ち主だったのではないでしょうか?生まれ育った環境のままに大人になる事が許されなかった血筋を持ったが故の生涯でした。
【愛】も【恋】にも焦がれない程に無邪気な少女の目の前に突然現れた現実の王子様は従兄の皇帝陛下。恋に恋する間もなく押し寄せる現実に押し潰されそうになりながら抗い自分らしく生きようとしたエリザベートとトートの物語は見る者の観点で幾様にも変化すると思います。
この1ヶ月の間に幾つかのエリザベートを配信やDVDで視聴しました。わたしにとってはBESTと言える2018年の月組に出逢ってからのスタートでしたのでなかなか難しかったのですが…どの組のどのバージョンも素晴らしく、同じ作品で在りながらこんなに違うものなんだ!と演出ひとつ取っても演者の解釈や個性に併せて世界感が変化するものだと宝塚の素晴しさを実感した作品だったと思います。
個人的には珠城りょうさんのトートの世界感が大好きです。作品全体を包み込む様な包容力がその声音に現れていて【死】と言う存在で在りながら生涯エリザベートに寄り添い守って来た。ロミオとジュリエットで『死』を経験した彼女だから出来た『トート』だったのではないのかと感じています。新人公演でロミオを経験した事で『死』との対峙の仕方が違う見え方をしたと語っていましたから…(ロミジュリ新人公演Blu-ray収録)
トートと云う役柄はどれが正解と言えるものは無いのだと思います。だからこそ演者の力量や感性で色んな個性を放つのだと思います。女性が演じる男役ならではの繊細なトートが宝塚版の魅力なのだと思います。個人的にはルキーニの狂鬼をどんな風に演じるのか見てみたかったなぁ…と言う願いもありますが(笑)苦悩するフランツも見たいし(笑)卒業されてからファンになったので見る事も叶いませんが、まだ未見の作品がまだまだたくさん在りますので楽しみに出逢って行きたいと思っています。買い集めたパンフレットや雑誌もまだパラパラとめくっただけで熟読出来ていませんので少しづつ追い掛けて行きます。これから拡がる新しい女優人生を見守りながら…
人生初のファンクラブに入会したご贔屓さんをチョット?語ってみました(笑)
宝塚で3番目に好きになったけど…今では一番大好きな、ヅカオタに引き摺り込まれた人です(◍•ᴗ•◍)
拙い文章への共感やサポートありがとうございますm(_ _)m