マヌエラ ー真夜中の妄想ー
男の言葉を信じた訳じゃ無かった…
甘い囁きが欲しかったのでも無い。
ただ…あの時あの場所から抜け出すキッカケが欲しかっただけ。「上海へ行こう!」まるで魔法の言葉の様に反応してしまった。息が詰まりそうな場所にウンザリしていた心が後先も考えずに鞄1つで飛び出して来てしまった。
別に愛していた訳じゃなかったから捨てられたとか見捨てられたなんて感情は湧かなかった。寧ろ居なくなってくれてホッとしたかもしれない。
衝動的に来てしまったから住む場所や働く所を見付けたりするのがチョット大変だったけどね…
男に頼って生きるのは嫌だけど、生きる為に男たちを利用するのは抵抗は無い。女で在ることを武器に生きて行くのと男に媚びる事は違う!男たちにプライドまでは売り渡さない。
わたしはダンサーだから踊りを武器に生き残ってみせる。異国の地であろうと自分らしく立ってみせる!
ブルーバードで働き始めて暫く経った頃には幾つも飛び交う外国語に耳が慣れてカタコトの言葉での意思疎通が出来る様になった。勉強だと思うと苦労するが生きる為だとなれば何とかなるものだと身を持って知った。
その男が店に現れた途端にピリピリとした空気に包まれた。にこやかに微笑む姿とは正反対の引裂くような雰囲気はどこか背筋が寒くなるモノを感じさせた。近寄ってはイケないと頭の何処かで警鐘が鳴った気がした。関わりにならない方が好いと目線を外す。
ピアノに目配せを送り、曲を変えさせて気ままに踊りだした。するといつの間に来ていたのか…妙子が苦手な客がほろ酔い加減に近付いて来ようとしていた。運悪く逃げ道が無いような場所に立っていた自分に舌打ちしたい気分だった。いつもなら助け舟を出してくれるリューバは離れたテーブルに就いていた。適当にあしらうのも面倒だったので仕方なく少しだけ相手をしなければイケないのかと観念し掛かったその時…氷の様な微笑みの男が遮る様に現れた。
「・・・・」早口の言葉だったので聞き取れずに居ると手を取り軽やかにその場から連れ出してくれた。一瞬何なのか分からずにいたけれど…どうやら傍目にも分かるぐらい嫌そうな顔をしていたのか?助けてくれたみたいだった。
「謝謝。あの…ありがとうございます。」実際にはまだその苦手な客に絡まれていたのでは無かったけれど…好意だと思って謝意を伝えた。
「プロならあんな顔をしちゃ駄目だな。」
そう言って笑う姿は最初のイメージは?わたしの勘違いだったのかしら?
「あら?そんな風に見えました?可笑しいわね?」
とシラを切ってみせた。
「嫌な客から助けたお礼に一曲付き合って…」
そう言うと妙子の腰に手を廻し無理矢理チークを踊り出した。気を効かせたピアノ弾きがスローな曲に滑らかに転調させるとフロアは踊る男女であっという間に一杯になっていった。その隙間を縫う様にソッとガーデンに抜け出す。
「多すぎて窮屈だ。」
妙子は笑って履いていた靴を脱いで踊りだした。
「今夜は盛況ですもの…みんなが踊りたがってる」
夜空の月を見上げて笑いながら両手を空に翳す様にしながら舞う。
「あんまり月が綺麗だからかしら?部屋の中で踊るなんて勿体ない!」
クルクルと自由に動く妙子の手首を掴むとグイと引き寄せられた。あっと言う間にソッと合わせてきた唇は妙にヒンヤリとしていた。
思わず反射的に手を挙げようしたら男は笑いながら後ろに飛んで逃げた。
「もう!何するのよ!ダンスの相手以外はお断りよ!」
「ただの挨拶だ…ご機嫌そうだったからね。」と悪怯れもせず言い返す。
子どもじゃあるまいし…と思ったけれど戸惑いを隠せなかった。
「殴られる前に今夜は退散しよう」妙子の手の甲にキスをして高らかに笑いながら、そのまま店の外へ消えて行った。
あっ!お会計…支配人に怒られちゃう!そう気付いて追い掛けたけれど姿は見えなかった。
叱られるのを覚悟して支配人に報告に行くと
「杜月笙さまなら大丈夫。」
わたしはまだ見た事の無い人だったけれど…そんな感じなのね?
客も退けてホールのボーイを手伝いながらいつもの様に取り留めもないお喋りが始まる。その日のお客の悪口を笑いながら話して憂さ晴らしして翌日もまた頑張るぞ~と云う毎日が繰り返されている。一歩外に出ればいつ背中から手が伸びて来るか分からない恐怖と戦わなければならない日常の中でのホッとする時間だ。身に覚えの無い罪状で拘束されたり殺されてしまう世界の恐怖は多国籍な国の持つ独特な雰囲気だけでは無いだろう。さっきまで居た隣人が数分後にはもう居ない世の中なのだ。
「杜月笙が来てたみたいだけど…直ぐに帰ってたね?」思い出したみたいに不意に誰かが話した。
「機嫌さえ好ければ上客なんだけど…ヤッパリ慣れないわ」「外見に騙されるちゃうと、トンデモナイからね!」途端にヒソヒソ話しになってしまう。従業員しかいない場所でこんな真夜中に誰が聴いていると言うのか?
「何をしている人なの?中国人のお金持ちみたいだけれど…」
「妙子はまだ会った事がなかったんだね?」「青幇の首領で上海の影の市長って言われてるのよ」「裏社会の怖い人だから怒らせない様に気を付けてね!」
何処かで誰かが聞き耳を立てているとでも言う様に小声で囁いた。
ハッキリとは口に出さないけれど…所謂マフィアらしい事は理解出来た。とりあえず、口には気を付けよう…と胸に刻んだ。気に入られようとは思わないけれど、敢えて怒らせて殺されたくは無いから…。
店の裏に在る小屋の様な建物でほぼみんなが寝起きしていた。バンスをしている身なのでお金に余裕が無く寝る場所が在るだけでも有り難いと思わなければイケないのかも知れないけれど…絶対その分まで引かれているに違いない。通りで人知れず生命を終える人たちに比べれば働いて寝る場所があるだけで幸せなのだと…下を見て満足出来るハズも無いがいつかは抜け出してやると上だけは見続けていたいと思ってる。今より下にだけは成らない!現在が一番最低で絶対負けない!と思えなければ異国の地で踏ん張ることは出来ないのだから。何にせよ…自分自身にだけは妥協しないと決めたのだから!
そんな事を考えてたら目が冴えてしまったので、ストールを手に夜風に吹かれてこようと外へ出た。
通りにさえ出なければ危なく無いだろうと切り株に腰掛けて夜空を見上げた。
眠らない街、上海は一見静かな夜だが宵闇に紛れた悪党どもが街の何処かで息づいているに違いない。見えていない闇の方が余っ程多いはずだ。
何処からか風に乗って血の匂いが漂って来て、咄嗟に身を硬くした。こんな場所でも安全では無いんだ…音を立てない様に立ち上がろうとして男が飛び出して来て悲鳴を上げそうになった。
月明かりに輝らされて出て来たのは見たこともない中国人だった。クセのある中国語で何かを喋ったけれど妙子には聞き取れ無かった。
遠くから人の気配がして慌てて暗闇に逃げて行った。
怪しげな男たちが現れて「ブルーバードの女か、男を見掛け無かったか?」と問われたが無言で頭を横に振った。チッと舌打ちして男が逃げたのとは違う方向へ追い掛けて行ったので(助かります様に…)と内心祈って部屋へ戻った。関係無い男ながら気になって余計に眠れなくなってしまい明け方近くにやっとウトウトと眠りについた。
遅く起きたせいで朝食抜きになってしまった。
食欲も余り無かったので散歩にでも行ってみるか…と歩きだした時に視界の隅に何かが写って視線を移すと、昨夜の中国人だったモノが隠されもせずに石ころの様に転がっていた。
慌てて店に戻り片付けて頂戴と下働きのボーイに頼んだ。こんな景色も初めてでは無いけれど、一方的ではあっても話し掛けられた相手だと思うと嫌なものである。日本だと川面に浮かんでいる事はあっても、流石に道端に転がってはいない。見慣れたくは無い景色だ。
いつもと変わらぬ毎日を過ごしている内に思い出す事もなくなっていた。
支配人のとびきり媚びた声が聴こえて来て…金離れの良い上客がやって来たのが分かった。
余り客に就く事の無い妙子にとっては別に気にもならなかった。店中の女に気前よくチップを弾んでくれない限り関係無いからだ。
「妙子~♪」意外にも弾んだ声が自分の名前を呼び驚いて振り返った。そこにはニッコリと微笑んだ杜月笙が立っていた。自らを指差し「わたし?」と言う様に首を傾げる。彼の黒い噂は数日のウチに知るところとなり怖い人の意味を理解していた。
「わたしはダンスの相手はするけれどテーブルには就かないのよ?」と少し遠慮がちに言った。
支配人が飛んで来て「妙子!なんて事言うの!」と割って入って来た。
「わたしが誰か分かって言ってるのなら大した女だ!」と大笑いした。店の雰囲気が不穏になったのを感じて「余り言葉が分からなくてお喋りが得意じゃないのよ…わたしが就いても楽しくなんか無いから止めた方が良いわ。」チョット気を遣って言い訳してみた。
「十分楽しいよ。つまらなかったらチップを貰え無いだけさ!」フフンと鼻先で笑ってみせる。
「分かったわ、今日だけよ?試してみれば良いわ…時間の無駄なのに…」
「さぁ、お出で」とばかりに腰を抱き寄せテーブルに向かった。奥詰まりの余り周りから見えない席に移動させられた。
影の様に静かに付いてくる用心棒が目立たない様にらしかった。何気なく用心棒の顔を見て息をのんだ。あの夜に追い掛けて来た男たちの1人だったからだ。男は気付いているのか、いないのか?無表情だった。匿ったりした訳では無いから気にする必要も無いのだが…途端にフラッシュバックしてしまった。
「妙子?」と声を掛けられて慌てて微笑む。
「こんな席に就いた事が無いから緊張しちゃって…」
「大丈夫、気にしないで何かお話ししてみよう。」
何故上海に来てブルーバードみたいな店で働いてるのか?身の上話から始まった。詳細は端折り簡単に話してみせた。こうして話していると怖い裏の顔なんて想像が付かないぐらい優しかった。自分の事を気に入ったから優しいのか?機嫌が好いだけなのか解らなかった。とりあえず怒らせない様に気を遣いながら会話をする事は出来たらしく帰る前にダンスを踊り、胸元にチップを差し込んで来た。
自分はそんな女じゃ無い!と腹を立てようとしてニヤニヤする表情にワザと怒らせようとしてるのだと気付いた。妙子の何が気に入ったのかは分からないけれど…飽きるまでは相手をしても良いかな?と思い返し杜月笙の暇つぶしに付き合う事にした。一緒に居れば嫌な客の相手もしなくて良いし…チップも貰えるし…と情婦になるのはイヤだけどお遊びに付き合うぐらいなら構わないと考えることにした。いささかスリルの有る相手だが、巻き込まれ無い限りスリルも嫌いじゃないから…。
それに杜月笙は紳士だった。実業家という面を持ち併せているからかも知れないけれど…優しい姿を見せるから女にもモテるのだろう。敵に廻したく無い相手である。店の給料はほとんどがバンスの返済に充てられるから臨時収入は助かるコトも確かだ。
この恐ろしい街で生き残る為の盾になるかも知れないから手放す理由も無いというものだ。
この街だけで終わるツモリなんて無いんだから!
返すモノを返し次に進むんだ!
戦争の無い国なんて在るのか分からないけれど…陣地取りの様な男たちが勝手に始めた戦争になんか絶対に負けるモノか!ダンスを自由に踊れる国へ行くんだ!男に支配されるのも従わせられるのもお断り!
媚びらずに自由に踊れる場所で踊ってみせる…きっと!生きるのも…立ち続けるのも…踊るのも自分の意思で決める、誰にも決めさせやしない。
その為に此処まで来たのだから…