『死刑にいたる病』の感想書く
あらすじ
ネタバレについての話
この作品に関して、どこかで「ラストのネタバレ厳禁」という文言を見たような気がするので、ネタバレに関するような表現は極力控えていきたい。
公式サイトにも「映画史に残る驚愕のラスト」と書いてある事だし、よっぽどの自信があるのだろう。
ただどうしても作品の核心部に迫る表現をしてしまうことがあるかもしれない。なのでその「驚愕のラスト」が気になる人は是非劇場へ足を運んで頂きたい。決して観て損をするような作品ではないと最初に述べておく。
はじめに
この作品は櫛木理宇による同名の小説が映像化されたものである。原作については映画鑑賞後に書見した。
率直な感想だが、基本的にはとても面白い作品であった。劇場の予告でこの作品を知って以来公開を心待ちにしていたのだが、その期待をほぼ裏切らない作品であったと言える。
尺としては128分と少々長めであるのだが、そんな長さが一切気にならないくらい夢中にさせられた。気付いたら90分程経過していた時には正直驚いた。ここ最近でこれほど作品にのめり込んだのは久しぶりかもしれない。
原作との相違点
基本的には原作小説を最大限に尊重した映像化だと言える。もちろんいくつかの変更点こそ存在するものの、話の大筋や台詞回しに至るまでの大部分で原作が踏襲されていた。
例えばストーリーに関しても、削ぎ落とされた部分だったり順番が入れ替えられた部分があったりする。しかし原作のテイストを損なうような事はなく、寧ろ映像化にあたって上手く要素が再構成されていると感じた。
原作では推理のための聞き込みが、数が多いわ連続するわで正直冗長であった。それが最低限に絞られ、更に回想の映像を交えて分かりやすく表現することで寧ろ作品にのめり込ませる仕掛けとして機能していたように思う。(聞き込み時における雅也の口調の変化に注目するとなお面白い)
一方で、映画オリジナルの要素も当然ながらいくつか存在する。特に大きな点で言えば、原作では一切実家に寄り付こうとしなかった主人公雅也が、何回も実家に出入りしていたことだろうか。
この話において、雅也と彼の母である衿子との関係というのは一つの重要なポイントである。そんな彼らの会話が電話越しではなく、対面でなされていたことによって、衿子がずっと抱えていた苦悩だとか調査を経ての雅也の変化だとかがより際立っていたように感じる。二人がビールを飲みながら語り合う場面は特に印象深い。
そして変更点の極めつけは、噂の「ラスト」の部分であろう。この部分に関しては後述したい。
榛村大和という人物
この点に関しても触れなければならないだろう。原作において連続殺人鬼である榛村大和は「美男子」と評されていた。
一方で今回の映画でそんな榛村大和を演じたのは阿部サダヲである。決して彼がブサイクである等と言いたい訳では無いが、作中での容姿の評価と比べると異なる部分が多いのは事実だ。
一方で「人の心を掴むのが異常に上手い」「サイコパス」「シリアルキラー」だといった側面に関しては、完璧なまでに再現されていたように思う。特にその目の不気味さについては、最早言うまでもないだろう。
だからこそ配役ミスだ! などと思ったりはしないのだが、もし顔立ちが非常に整った人が演じていたとしたら、またこの作品に対する感想は少し変わったのだろうかと考えたりもした。
ストーリー展開の話
個人的にこの作品、非常に「つかみが上手いな」と感じた。それは自分が、予告編を見た時にグッと心惹かれたのもそうだ。
これは原作小説の功なのだが、「世間で24人を殺した事になっている殺人犯が、その内の1件は自分によるものではないと言っており、未だ隠れている真犯人を暴いてほしいとその殺人犯本人から頼まれる」という導入は非常に面白いものだと感じる。(もしかしたら似たような話がもっと以前にあるのかもしれないが)
実際その1件は他の犯行と比べると不自然な点も多い事もあって、殺人犯の言葉にも信憑性が増してくる。そんな中主人公の調査によって見えてくる様々な真実。そりゃ夢中になる。実際、中盤くらいまでの勢いは凄まじい。
雅也の自室の壁一面に被害者の顔写真が貼られるという、ある種ハッタリですらある演出も良かったと思う。視覚的にも物語に吸引させられた。
映像面の話
この作品は映像での表現に惹かれる部分が多い。それは特に、榛村大和と筧井雅也が二人で話す留置所の面会室のシーンでそう感じさせられた。
場所としては非常に狭い空間であり、中央のアクリル板を挟んで二人が向かい合って喋るのみである。そんな非常に限定的な状況で、あそこまで映像的に色々な表現ができるというのは正直非常に驚かされた。
特に印象的だったのが「向かい合っての会話の場面において、中央のアクリル板に一方の顔を反射させることで擬似的に2人の表情を映す」という手法である。こういった反射を用いた表現というのは、それこそ色々な作品で見られるものだが、この作品では特にそれが印象的に使われていたように思う。
この話はかなり自分の考察が入ってしまうのだが、画面上での榛村大和と雅也の顔の距離が、そっくりそのまま雅也の抱く大和への心理的な距離感を表していたように思う。
中盤辺りで、雅也の顔と榛村の顔の反射が明確に重なるシーンがあった。この部分は特に分かりやすい表現だ。
この作品の本質的なテーマの一つは「雅也が榛村の影響を受けて変質していく」点である。このアクリル板の反射を使った表現は、そんなこの作品のテーマを可視化したものと言えるかもしれない。
実際中盤付近は二人の顔は割と重なる瞬間が多かったし、序盤と終盤は逆に顔が離れ気味だったように感じる。この作品を観る時は「二人の顔の物理的な距離」を意識してみると面白いかもしれない。
また、時折現実と空想の境目が曖昧になる表現もいくつかあった。その表現も、なんともさりげなくヌルっと差し込まれるせいで、観ている側としても非常にドキッとさせられてしまう。それこそ榛村大和に心を鷲掴みにされたかのように。
単純に撮ってしまえばすぐに飽きてしまうシチュエーションで、ここまで心を動かしてくるのは純粋に凄いなと感じた。
音響面での話
同じく面会室での話なのだが、恐らく「アクリル板越しに話している」という表現の為か、声にエコーがかかっていた。正直会話が聞き取りにくい側面もあり、その演出が映像作品として正しいものなのかと問われると少々考え込んでしまう。
ただそのエコーのせいで「あたかも自分も榛村大和に懐柔されている」かのような気分を味わう羽目になったのは事実だ。彼の声が脳内に直接響いてくるような感覚になる。もしかしたらこの感覚こそが、雅也が榛村から受けていた影響、病そのものなのかもしれない。
衝撃のラスト
極力そうならないように心がけるが、ここからもう少しネタバレ成分が増えてしまうかも。
話の大筋に関しては映画も原作も同様であり、話のオチ自体も大体同じと言ってしまって良い。だがその表現に関して言えば全くの別物だ。
率直に言ってしまうと、映画のラストに関しては個人的にそこまで納得のいく物ではなかった。少なくとも「映画史に残る驚愕のラスト」と堂々と書いてしまえる程の物ではない。
寧ろ「驚愕のラスト」と言いたいが為にこのシーンが撮られたようにすら感じて、個人的には正直冷めてしまった。目的と手段が逆になっているように思える。
このラストに関わった登場人物は、勿論原作にも登場するキャラである。元々物語の本筋にはそこまで関わっていなかったキャラなのだが、映画ではよりそれが顕著になっていた(雅也の心理描写がほぼほぼカットされてしまった影響で、雅也とその人物の関わりがより希薄になってしまっている)。
正直な話、この作中で数少ない「物語から浮いてしまっている」人物である。(唯一と言ってしまってもいい)
正直な所、観ている途中で「このキャラが登場するシーンなんか邪魔だなぁ」と感じる部分があったのが事実だ。そんな中でこのラストである。なんというかゴリ押しにも感じてしまった。
ぶっちゃけた話、「衝撃のラスト」という言葉と、そこに至るまでの作劇の不自然さから考えると「逆に予想すらできるラスト」である。
終わり方に関してだけ言えば小説版の方が不気味で怖かった。
序盤中盤とかなり楽しんでいた割に、観終わった後の満足感が思ったより低かったのはこのラストが原因なのは言うまでもない。
当然映像や演出としての不気味さ自体はかなりあるのだが、物語全体で見た時にそのシーンの必然性というものが余りにも低いように思える。それこそ「ビックリさせる」為だけに作られたシーンのよう。
全体的に構成が丁寧だっただけに、余計に悪い意味で目についてしまう。
そもそもの話で言えば、この作品のオチ自体がどちらかというと弱い方である。先にもいった「つかみの強さ」と比べると、どうしてもその結末にはパワー不足を感じてしまう。(もっと言うなら、考えれば考えるほどジワジワと恐怖が襲ってくるのでパワーが無いわけではないし、作品全体のテーマを考えるならいい落とし所だと思う。ただどうしても、そこまでに受けた衝撃と比べてしまうと力不足かなと)
そんな中で一本の映画としてある程度インパクトを持たせた終わり方にしよう、という試みをするのは納得できる部分ではある。
ただ本当に、悪い意味で唐突すぎた。せめて一つくらいは伏線のようなものを張っておいて欲しかったというのが本音である。(伏線があったら衝撃でもなんでもねーじゃん、と言われたらおしまいだが)
岡田健史
主人公である筧井雅也を演じた岡田健史について。
なんとも不思議な話なのだが、劇中で彼の顔がいくつもあるように感じた。というのも、シーンによって彼の顔があまりにも違うように見えてしまうからだ。正直、全て同じ人物が演じているのか? と疑ってしまったくらいである。個人的に5つくらいの顔があるように思えた。
それが演技によるものなのか、演出によるものなのか、はたまた偶然なのかは分からない。だが、彼が見せるいくつもの顔に取り込まれてしまった部分も少なくない……かもしれない。
加えて言うなら、雅也の母親である衿子を演じた中山美穂も名演だった。彼女の詳しい人となりというのは原作を読まないと完全には理解できないのだが、そんな複雑な事情を抱える彼女を見事に演じていた。彼女の動作があまりにもリアル過ぎて、ちょっと気分が沈んだくらいだ。
まとめ
全体的に構成が丁寧であり、演出も相まって非常に没入できる作品であった。小説の映像化作品としてはかなりの完成度だったと思う。映画単品でも面白いし、小説も合わせて読むことで背景をより深く知ることができる。(各人の行動原理の描写が省かれている部分はどうしても少なくないので、そういう意味でも原作を読むとより楽しめる)
だからこそ終わり方の作りの甘さに、個人的には非常にガッカリしてしまった。本当に勿体ないと思う。決して悪いラストではないのだが、全体的なバランスを考えるとどうしても納得がいかない部分はある。(ただラストに感心する人も見受けられたので、個人差はあると思うが。ただ映画史に残る~は流石に誇張し過ぎ)
だが時間を忘れるほど面白いのは確かだし、映像面でも目を見張る部分が多い事もあって非常に有意義な作品であった。
人に勧めるかと言われるとどうだろう、少々難しいラインかもしれない。(多少のグロ表現もあるしね)
一つだけ文句を言うなら、榛村大和の母親の爪に関して尋ねた部分は完全に蛇足であったと思う。映画では母親に関する描写はほぼほぼオミットされている。そんな中で急に母親の爪の話をされても正直混乱する(というか混乱した)。確かにこの作品のキーワードの一つは「爪」であり、大和が爪に固執した理由へのアンサーとして必要なセリフなのかもしれないが。
(原作を読んで、大和と母親の関係性を理解して初めて納得できるセリフだと思う)
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