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シン・ウルトラマン

※この文章には『シン・ウルトラマン』のネタバレが信じられない勢いで存在します。まだ映画を観ていない人は今すぐ映画館に駆け込んでください。まだ間に合います。
※この文章は結構長いです。でも最後まで読んでくれると嬉しいです。

はじめに

さて今日観た映画の感想を書こう、そう思ったのだが何を書けばいいのかがさっぱり分からない。
いつもなら割とスラスラと感想を書くことができるのだが、一体どうした事だろうか。色々な気持ちがごちゃまぜになっていて、何をどう表現すれば良いのか、全く分からない。
だがそれでもこの『シン・ウルトラマン』という作品に触れた思い出を、気持ちを忘れないようにここに記していきたい。

詳しくは後述するがこの『シン・ウルトラマン』という作品は、自分の中の「ウルトラマンの事が大好きなオタク心」を非常に強く揺さぶってくる作品であった。
それと同時に「ウルトラマンに詳しくない人がこれを観たらどう感じるんだろう?」という疑問も湧いてくる作品でもある。

シン・ゴジラとかいうやべーやつ

この作品の話をする上でどうしても引き合いに出さないといけないのが『シン・ゴジラ』という作品だろう。
少し話は逸れるが、3ヶ月ほど前に公開されて(悪い意味で)話題になった『大怪獣のあとしまつ』という作品があった。
『シン・ゴジラ』を想起させるような題材や予告の割に、内容は想像を絶するつまらなさだった。ただそれは観る側が、過度に『シン・ゴジラ』を期待してしまったせいである。そもそも『あとしまつ』と『シン・ゴジラ』は比べるような作品ではない。それこそ月とスッポンである。比べてしまった我々の落ち度だ。

だがこの『シン・ウルトラマン』を観るにあたって『シン・ゴジラ』を思い浮かべてしまうのは自然なことであるし、むしろ比較されて然るべきと考える。
そんな『シン・ゴジラ』だが、それまでゴジラを全く観たことが無い人にも自信を持って勧めることができる作品であった。
当時それまでゴジラに触れてこなかった人に「全然大丈夫!楽しめるよ!」と勧めた記憶があるし、実際とても多くの人が『シン・ゴジラ』という作品に熱中していた。
あの時の世間の熱狂と熱量は今でも忘れない。明らかに異常な出来事であった。

一方で『シン・ウルトラマン』はどうだろうか。今のところ自分は「この作品をウルトラマンに触れてこなかった人にオススメできるか?」という問いに対する明確な答を持ち合わせていない。
少なくとも、『シン・ゴジラ』程に世間を揺るがすような作品ではない。悲しいが、これだけは確実に言える。

それは何故か? 結論から言うと『シン・ゴジラ』はゴジラでは無かったが、『シン・ウルトラマン』はウルトラマンだったからだ。

『シン・ゴジラ』に対して「アニメだ!」とか「エヴァじゃん!」だとかいう感想は多く見られたが、「これぞ我々の求めていたゴジラだ!」という声はあまり見なかった記憶がある。(それは絶賛するレビューであってもだ)
むしろ「ゴジラ」の認識を塗り替えてしまったのが『シン・ゴジラ』である。

もちろんゴジラは登場するし、放射性物質が原因で生まれたという設定は共通である。ただそれでも『シン・ゴジラ』は全く新しいゴジラであった。
加えて言うなら、『シン・ゴジラ』という作品にとってゴジラはそこまで重要な存在ではない。ゴジラはただの舞台装置でしかない。ゴジラである必然性すら無い。
これでは歴戦のゴジラオタク達自慢の知識も活かすことができない。だって今までのゴジラでは無いのだから。

結局のところ、ゴジラに関して詳しかろうが全くの無知であろうが、『シン・ゴジラ』という作品を鑑賞した際に得られる体験というものはそこまで変わらなかったように思う。(寧ろ震災経験等の方が効いてくる)

一方で今回の『シン・ウルトラマン』は、ウルトラマンそのものだ。
むしろウルトラマンでしかない。
どうあがいてもウルトラマンだ。
最初から最後までウルトラマンなのである。

ウルトラというコンテンツ

そもそもの話としてウルトラシリーズというのは、大人社会においてはとても閉鎖的なコンテンツである。例えどんな傑作のウルトラ作品が生まれたとしても、じゃあそれに触れてみようとなる新規の大人は相当少ない。(自分の子供がハマったというパターンは除く)
それはウルトラマンが子供向け番組であるから仕方のない事であるし、寧ろいい歳をしながらウルトラマンに対して真剣にキャッキャ言っている大人の方が異端だ。

それは今まで作られた劇場版のシリーズもそうで、基本的には「TV版を好きな人が楽しめるように作られた」映画ばかりだ。2013年以降のニュージェネ作品に関しては特にその傾向が強い。
「普段は見ないけど、劇場でなんか面白そうなウルトラマンの映画がやってるから入ってみよっか」なんて事は滅多に起こりえなかったはずだ。

そんな中でこの『シン・ウルトラマン』である。この作品は明確に一般層もターゲットにされている。というかそういう層にウケないと興行的に成り立たないであろう。(幸いな事にこの作品は、公開数日にして歴代ウルトラ映画の中でトップの興行収入を叩き出した。一般層を取り込む、という作戦は無事成功したようで何より)

だがウルトラオタクは、一般人の反応というものを想像する機会があまりにも少ない。それもそうだ、普通の大人は真面目にウルトラマンを観ない

これがそれこそ『シン・ゴジラ』のような作品であれば世間の反応も予想できた。だが今回世間に向かって放り投げられたのは、コテコテの凝縮されたウルトラマンである。そんなの予想できる訳がない、それどころか世間が引いてしまわないか戦々恐々としているくらいだ。(オタク目線的には、酷く内輪向けの作品に感じる)
少し変な例えになるが、世間に向かって自分のお気に入りのパンツを見せびらかしている状態に近い。いや本当に。
恥ずかしいし皆がどんな反応するか分からないし、でも自分のお気に入りを他の人も好きになってくれたら嬉しいな。そんな感じ。

良くなかった点

さて本題。『シン・ウルトラマン』はどういう作品だったか。まずはマイナスだった点から触れていきたい。

まず1つ。どうしてもストーリー構成に難があったように感じる。
ざっくりと本作は「30分×4」という構成になっている。ネロンガとガボラの怪獣編、ザラブ編、メフィラス編、ゼットン編の4つだ。そしてそれらが、悪い意味で個々として完結してしまっている。
元々1話完結の話をベースにしているから仕方のない事である気もするが、どうしても1本の映画作品というマクロな目線で見た時に違和感が残ってしまう。どちらかというと総集編や短編集を見せられている感覚の方が強い。

そう感じてしまうのにはウルトラマンという作品の性質が強く関わってくる。普通の人は「ウルトラマンが怪獣を倒して飛び去る」というシーンを見ると、どうしても心の中で一区切りつけてしまうだろう。だってウルトラマンが飛び去るのはいつも物語が終わる時なのだから

思い返してみると、平成以降のウルトラ映画作品で「怪獣倒しました!じゃあ空に飛び立ちます!シュワッチ!」となる場面は本当に少ない気がする。途中で敗北するだとか、もしくはそもそも飛び立つ必要がない(ずっとウルトラマン形態で話が進む)物が多い。
そんな中で何度も空に飛び去った今回の『シン・ウルトラマン』。だからこそ短編集という感覚が強くなったのかなと思う。(飛び去るシーンはカッコいいんだけどね)

もう一つ、描写不足も否めない。というかこの点は特に致命的だと思う。人間側(というか禍特対)がウルトラマンを好きになる過程は最低限描かれていたもの、肝心要の「ウルトラマンが人間を好きになる」描写はほぼと言っていい程無い。これは個人的にはかなり致命的なのではと思っている。(と思ってたけど、そんな事もないかも、後述)

以上のこともあって、この『シン・ウルトラマン』はTVシリーズにおいてこそ本領が発揮された作品だろうと思う。1クールとは言わないまでも、30分×6本くらいの番組であれば良かったのではないだろうか。
だが実際そんなのは大人の事情で無理だろう、仕方ない。

そしてもう一つはCGの違和感である。映像技術が格段に進歩している現在にも関わらず、悪い意味で「CG感の強い」場面が少なくなかったように思う。

なんといってもウルトラマンの質感が最たる部分だ。特に最初に登場した際の、全身銀色の形態でそれが顕著だ。正直な所生き物というよりは金属、すなわち無機物という印象の方が強かったくらいである。「銀色の巨人」という言葉を具現化するにはああするしか無かったのかもしれないが、もう少しどうにかならなかったのかなぁ。

加えて動きの面にも違和感がある。凄く悪く言うと、MMDのような動きとでも言おうか。光線を撃ったり飛んだりする場面はいいのだが、肉弾戦の一部でそういった「生を感じない」動きが見られる。

実はウルトラシリーズにおいて、ウルトラマンや怪獣が完全にCGで描かれる機会というのはそう多くない
もちろんウルトラの歴史の中で、ウルトラマンをCGで描こうという試み自体は何度かされてきた。しかしそのCGは結局の所淘汰されてしまう。(一方で巨大怪獣をフルCGで表現、というのは継続的に採用されている)
平成初期の作品で採用されていたCGによるバンクは、不評だったのか番組中盤に差し掛かる頃には実写に置き換えられてしまっていた。その後も何度かウルトラマンがCGで描かれる場面はあったが結局は定着せず、近年の作品ではほぼ存在しない。(タイガOPやウルトラマングルーブくらいか?)
そのくらい「ウルトラマンをフルCGで描く」事に対するハードルは高いものであるのだ。(それは製作側にとっても、観る側にとってもだ)

そんな中で今回の『シン・ウルトラマン』はウルトラマンがフルCGで描かれた訳だが、それはその高いハードルを超えられるものであっただろうか? 個人的には否だと思う。怪獣側でCGの恩恵を感じる部分は割とあったのが、ウルトラに関しては「CGで表現されてて良かった! 実写じゃなくて良かった! 現代技術バンザイ!」と感じる場面はそこまで多くなかった。
ただこれは普段自分が実写のウルトラを見慣れているからで、逆にそうでない人にとってはもしかするとそこまで違和感は無いのかもしれない。

ここで擁護、というか補足をしておく。ビジュアルワークスに掲載されていた庵野秀明の手記によると、コロナ禍での制作状況の遅延や技術的な問題、加えて庵野氏自身の多忙もあって手が回りきらず、「かなり厳しいカット」も存在するとのこと。なので恐らく、庵野秀明が思い描いていたCGというのはもっとレベルの高いものであったのではないかと思われる。(あと単純に予算も足りてなさそう)

まとめると、全体的に「雑だな」と感じる場面が少なくないのは確かである。だがこの作品にはその雑さを吹き飛ばしてしまう程のパワーがあると思う

ウルトラマンとは違う?

言うまでもなく『シン・ウルトラマン』は、1966年放送の『ウルトラマン』をベースにした作品である。
ではこの2作品は全く同じ物なのか? 『ウルトラマン』を詳しく知っていれば『シン・ウルトラマン』は驚きのない退屈な作品であろうか?
自分はそうではないと思う。(というか新作に自分が見たことある描写があったら手を叩いて喜ぶのがオタクなのではないだろうか?)

ネロンガ・ガボラに関しては導入という側面が強いから置いておくとして、特にザラブ、メフィラスに関しては基本的なストーリーラインは『ウルトラマン』のそれとほぼ同じである。
例えば多くの人が(色んな意味で)度肝を抜かれたであろう巨大長澤まさみ。あれも『ウルトラマン』で女性隊員が巨大化された事を知っている人からすれば予定調和でしかない。(にしてもあの扇情的は描写はいかがなものかと思うが)
戦闘シーンに関してもそうで、例えばVSザラブ戦。ウルトラマンがにせウルトラマンにチョップして手を痛めるだとか、飛び上がったにせウルトラマンにスペシウム光線を撃って叩き落とすだとか、そういった流れも実は原作を踏襲しているのである。

そういった表面上の情報に関して言えば確かに似通っている部分は多い。だがそれだけだ。見た目は似ていても味は違う。

そして極めつけはゼットン戦。確かに「ゾーフィ(ゾフィー)が登場する」「ゼットンが現れる」「ウルトラマンが敗北する」という要素だけ見れば原作と全く同じである。だが実際に鑑賞した人なら分かるだろう、「何もかもが別物」であった。

以上のこともあって『シン・ウルトラマン』を『ウルトラマン』のただの焼き直しじゃんと言ってしまうのは、余りにも浅はかであるように感じる。

ではここから、『シン・ウルトラマン』という作品を改めて振り返っていきたい。

OP

恐らく多くの人が唐突に『シン・ゴジラ』のロゴが出てきたことで驚き戸惑ったと思う。何を隠そう自分もビックリした。それと同時に心をガッツリと掴まれた

ここで説明しなければいけない事がある。実は『ウルトラマン』の前番組として『ウルトラQ』という物が存在した。この『ウルトラQ』という番組の人気は凄まじく、視聴率は常に30%台を叩き出した程だ。
この2022年までウルトラシリーズは継続されているが、それも全てこの『ウルトラQ』という番組があったからこそなのである。

そんな『ウルトラQ』の系譜を受け継いだ『ウルトラマン』では、OPの冒頭部分でウルトラQのロゴを突き破ってウルトラマンのロゴが出てくるという演出が取られた。

ウルトラマンのOP

それを知っていれば、『シン・ゴジラ』のロゴを突き破って『シン・ウルトラマン』のロゴが登場する、という演出にはもうニヤニヤが止まらない

とここで、じゃあ『シン・ゴジラ』と『シン・ウルトラマン』は続き物なのかという疑問が湧いてくるだろう。庵野秀明によれば「そうかもしれない」との事。(同じ顔がいくつか登場するけど、まあ特撮なんてそういうもんだよ)

そしてタイトルロゴが終わり、唐突に展開される情報のラッシュ。
「ゴメス」「マンモスフラワー」「ペギラ」「ラルゲユウス」「カイゲル」「パゴス」という6体もの怪獣がすでにこの日本に現れていた事が明かされる。
その怪獣達との死闘の中で禍特対が設立され、しっかりと成果も上げていたようだ。(冒頭の字幕ラッシュに関してはパンフレットに掲載されている)

この部分の演出は、そっくりそのまま『シン・ゴジラ』を想起させるような作りになっていた。ここで「やっぱりシンゴジみたいなテイストなんだな、よしよし」と思ってしまった人も少なくないだろう。実際は全く違った訳だが

ここで重要になってくるのが、冒頭で登場した6体全てが『ウルトラQ』に登場した怪獣であるという事だ。
皆さんは思わなかっただろうか? 「禍特対が活躍した、とか言っている割にネロンガに対してもガボラに対してもほぼ無力だったじゃないか」と。
それもそのはず。これら両者には『ウルトラQ』産と『ウルトラマン』産であるという大きな違いが存在するのだ。

『ウルトラQ』という番組には当然ながらウルトラマンは存在しない。なので当然、登場した怪獣は基本的に人類自身の手で対処されている(怪獣同士の争いもあったが)。
一方で『ウルトラマン』に登場する怪獣の多くは精鋭部隊である科特隊の手にも負えず、殆どがウルトラマンの手によって倒されている。(とはいえ科特隊が倒した怪獣の数というのは歴代でも相当多い方なのだが)
つまり最初の6体とネロンガ以降の怪獣では、明確なパワー差が存在するのだ。

もう一つ付け加えるなら、「ゴメス」「マンモスフラワー(ジュラン)」「ペギラ」あたりは、人類による環境破壊が原因で目覚めた怪獣であった。メフィラスが言っていた「禍威獣は人類が目覚めさせた」というセリフもあながちウソではないのだろう。

ネロンガ編

そして登場する巨大不明生物第7号「ネロンガ」。この世界におけるウルトラマンの初陣でもある。ここでは禍特対の仕事っぷりやそれぞれの人となり、そしてウルトラマンの圧倒的な強さが描かれた。

その強さの一つが、数十万キロワットもの電撃をウルトラマンが胸で受け止めていた事だろう。
実は初代ウルトラマンは「胸を張ることで多くの攻撃を受け止めることが出来る」という謎の特徴を持っている。ウルトラ界隈ではこれを「大胸筋バリアー」と呼び、平成に作られた作品でもこの大胸筋バリアーが描かれることもあった。それくらい初代ウルトラマンを代表する特徴のひとつなのだ。
この大胸筋バリアーはガボラ戦でも活かされる事になる。

大胸筋バリアー(ウルトラマンメビウスより)

もう一つ重要な事は、ウルトラマンの顔が「Aタイプモチーフ」だった事だ。
実はウルトラマンにはAタイプ、Bタイプ、Cタイプという3種類の顔が存在する。
恐らくウルトラマンを知らない人はナンノコッチャだろう。だが逆にウルトラファンの中ではとても有名な話である。「この3タイプが見分けられるようになってやっと一人前」という風潮もあるくらいだ。(本当か?)

https://plaza.rakuten.co.jp/zascojp/diary/201207040000/ より

ざっくり言うと、『ウルトラマン』全39話の内、序盤でAタイプ、中盤でBタイプ、終盤でCタイプが使用されていた。要するに「地球にやってきた頃のウルトラマンの顔はAタイプ」という事だ。
この知識があれば「銀色の巨人の顔がAタイプモチーフだ」という事に気付いた瞬間にニヤニヤしてしまうのが分かるだろうか? 今作には本当にそういう仕掛けが多い。本当にいやらしい!

そして最も大事な出来事は「ウルトラマンと神永新二が一つになった」という事だろう。
ちなみに『ウルトラマン』の方では、「ウルトラマンが誤ってハヤタ・シンと激突して瀕死に追いやってしまい、ハヤタと命を共有する事で彼を救う」という展開だった。
一方で今回はどうだっただろうか? 今回はウルトラマン自身も言っていた通り「他人の為に自分の命を投げ出す」という自分の価値観では理解できない行動を取った神永の事をよく知るために一体化したという側面が強い。
『ウルトラマン』では贖罪のための、『シン・ウルトラマン』では好奇心が原因での一体化と言える。

『ウルトラマン』以降の昭和ウルトラ作品では、「自分の危険も顧みずに他人を助けようとした結果命を落としてしまう」という主人公の行動に感銘を受けたウルトラ戦士が一体化することで一命を取り止める、という展開がよく使われた。
『シン・ウルトラマン』での融合は、現象だけを見るとそれと全く同じである。だがウルトラマン側の行動原理は、全く異なる事に注意したい。

神永新二という男

この映画では残念なことに、描写が足りていない部分が非常に多い。その一つが「ウルトラマンと融合する前の神永新二がどんな人間だったか」というものだ。それが直接的に描写されているのは、ネロンガが出現してからウルトラマンが飛来するまでのほんの5分程度の間のみである。
そこから読み取れるのは「現場に人が取り残されていたら、考える間もなく自分で助けに行こうとする」「周りに自衛隊隊員という救助に適任な人材がたくさん居るにも関わらず、班長の田村は神永のそんな行動を容認している(つまりは恐らく、同じような前例が何度もあった)」
というくらいだろうか。本当に情報が少ない

スペシウム光線

ネロンガ戦に話を戻そう。予告編で穴があくほど何度も見た「山をぶち抜くスペシウム光線」が披露されたのはこのネロンガ戦だった。
スペシウム光線。当然我々ウルトラ好きは何度も見てきた必殺技だし、そうでなくても「スペシウム光線」という名前と、その構えくらいなら多くの人が知っているだろう。
スペシウム光線は「国民的必殺技」と言っても過言ではない。

そっと右手を上げるウルトラマン。集中していくエネルギー。困惑する禍特対の面々。叩きつけられる左手。発射される圧倒的破壊力のスペシウム光線。
あまりにもカッコよすぎないか?
起源にして、頂点。スペシウム光線は美しい。

スペシウム光線

予告編でのスペシウム光線と、当時のスペシウム光線を並べてみた。こうしてみると、1966年のスペシウム光線の完成度がいかに高いかという事を改めて実感させられる。
余談だが、予告編で披露されたスペシウム光線(上画像の左側)は背景などからも分かる通りネロンガ戦での物である。だが冷静に思い出してみて欲しい。ネロンガと戦ったウルトラマンは「全身銀色で、顔はAタイプ」であった。つまり予告編の映像は「劇場で我々を驚かせるためだけにわざわざ撮影された映像」ということになる。なんていやらしい!

さて先程も言った通り、スペシウム光線のポーズというのは多くの人が知っている。だが「ウルトラオタク」が構えるスペシウム光線と一般人の取るスペシウム光線のポーズは、多くの場合明確な違いが存在する。それは大きく2つ。
まず1つは「左手の反り」だ。もう一度写真を見て欲しい。左手が上向きに反っているのが分かるだろうか? これこそが「古谷敏が演じるウルトラマンのスペシウム光線」を象徴づける物である。この「反り」がセクシーであればあるほど美しいスペシウム光線となる。(個人的な意見)
『シン・ウルトラマン』でのスペシウム光線においても、左手が反っているのが分かるだろう。そういうことだ。

ちなみに古谷敏は『ウルトラマン』にてウルトラマンを演じ続けた人物で、今回の『シン・ウルトラマン』にもモーションアクター等で参加している。

古谷敏の構えるスペシウム光線

そしてもう一つは「前傾姿勢」。もう一度初代ウルトラマンのスペシウム光線を見て欲しい。前傾姿勢があまりにも美しすぎる
この前傾姿勢は特に『帰ってきたウルトラマン』、すなわち「ウルトラマンジャック」の放つスペシウム光線との大きな差別化点でもある(ジャックのスペシウム光線は背筋がピンと伸びている)。
ちなみに『シン・ウルトラマン』でのスペシウム光線を横から見ると下の画像のようになる。そういうことだ。

横からのアングル

その必殺のスペシウム光線でネロンガを倒し、空へと飛び立つウルトラマン。これも我々が見てきた普通の光景だ。だが禍特対の面々は驚く
それも当然だ。こんなバカデカい、しかも特に推進機構等も搭載していなさそうなただの巨人が空を飛ぶなんて事は常識的にありえない
だが冷静に巨人を追跡するように指示する田村。だがその追跡も虚しくウルトラマンはどこかへと消えてしまった。
この辺りのある程度リアル寄りな描写も『シン・ウルトラマン』の魅力の一つだろう。ちなみに『ウルトラマンX』の第1話でも似たような描写があった。田口清隆ってすげーや。

ガボラ編

禍特対

謎の巨人出現を受けて浅見弘子が禍特対へとやってくる。
ここでようやく禍特対の面々の紹介がなされるのだが、神永新二の様子だけ明らかにおかしい。一人だけ机に本の山を築き上げ、現在進行系で「広辞苑」を「読んで」いる

そしてどこか噛み合わない浅見と神永の会話。この時点でウルトラマンという外星人の人格が神永の身体に宿っている事がハッキリと分かる。
ただ神永が元々ウルトラマンだったのか、それともネロンガ戦でウルトラマンが宿ったのかがこの時点で不明瞭なのには、やはり描写不足を感じてしまう。

「地球の事を何も知らないウルトラマンが、地球人の事を理解するために広辞苑を含めた色々な本を読む」という描写は実に面白い。このシーンからだけでもウルトラマンの勤勉でバカ真面目そうな感じが伝わってくる。更に画的なインパクトもある。こういうアニメ的な描写を実写でやってしまうのは流石といったところか。

しかし神永がトンチンカンな事を言っていても、机に本を山積みにしていても、会話がどこか噛み合わなかったとしても、そんなに禍特対の面々が気にしていなかったのはどういう事なんだ。元々の神永新二はどんだけ変人だったんだよ

ガボラ

そして登場するガボラ。ガボラのドリルドリルしたデザインは実に素晴らしい。実際にどうかはさておき、あのフォルムなら容易く地中を移動できそうだと思わせる、そんな説得力のあるデザインだ。これこそCGならではである。

ちなみに劇中で「パゴス、ネロンガ、ガボラの首から下がほぼ同じ」という話があった。これは実際に当時それらの怪獣が、胴体部分は共通頭部だけ手を加えられて登場していたことに由来する。
ちなみにその胴体の大元は、東宝が製作した『フランケンシュタイン対地底怪獣』に登場する「バラゴン」という怪獣。実は当時、東宝が作った着ぐるみが円谷に貸し出される、ということはよくある事であった。
例えば『シン・ウルトラマン』に登場した巨大不明生物第1号のゴメス。このゴメスが『ウルトラQ』に登場した時の着ぐるみはなんと「ゴジラ」を改造したものである。
なのでそれのオマージュもあってか『シン・ウルトラマン』のゴメスと『シン・ゴジラ』のゴジラはどことなく似ている。ちなみに庵野秀明によれば「最初から3DCGモデルを流用しようと考えていた」らしい。

さてこのガボラ戦だが、5人体勢になっての禍特対の初陣と言える。初めての現場でも焦ることなく的確に仕事をこなす浅見、「ガボラ」という謎の命名を素直に受け入れる外星人神永。うーん順応性が高い。
そんな禍特対がガボラに対して使用したのは「地中貫通爆弾MOPⅡ」である。これは『シン・ゴジラ』にてゴジラに対して使われた物と同じ。(『シン・ゴジラ』ではMOPⅡを使用した結果ゴジラを怒らせてしまい、内閣総辞職ビームが放たれる事となってしまった)

そういえば自分の友人のオタク(強)が言っていたのだが、ネロンガ戦でGPS誘導弾が発射される映像、それはどうやら完全に『シン・ゴジラ』からの流用らしい。よく気付くなぁ。

例のポーズ

さてそんなMOPⅡだがガボラには全く効果が無く、核廃棄施設への接近を許してしまう。そんな中、一人姿を消しウルトラマンへと変身する神永。
ここも『シン・ウルトラマン』のリアリティ要素が現れている。
基本的にウルトラ作品では、主人公変身後にウルトラマンは「怪獣の前」に都合よく出現する。つまりワープしているのだ。
だがこの『シン・ウルトラマン』ではそこがどんな場所であろうと、神永新二がベーターカプセルを起動したその地点にウルトラマンが出現する。例えそれが建物の中であってもだ。

当然離れた場所で変身してしまったから、ウルトラマンはガボラの所まで飛んでいかないと行けない。その飛行時に描かれたのが「当時と全く同じあの」ポーズである。これは実際に画像を見てもらったほうが早いだろう。

左:『シン・ウルトラマン』 右:『ウルトラマン』

右の画像は当時の「ウルトラマンが飛び立つ」映像なのだが、実はこれは人形で、これを画面上方向に動かすことで飛行が実現されていた。ちなみに「空から着陸する」時はこのポーズのまま上から下に降りてくる
恐らくウルトラを知らない人は、「なんかウルトラマンが空から降りてくる姿が不自然じゃない?」と思っただろう。だがそれは憎らしいまでの原作再現なのだ。いやらしいなぁ!

着地するウルトラマン(友情出演:メフィラス星人)

余談だが、特報映像でこのウルトラマンが飛び立つカットが公開された時それだけでウルトラオタク達は沸いていた。「おいおいやりやがったぞ!」と。これは本当の話。

だが単なる原作再現で終わらないのがこの『シン・ウルトラマン』。なんとその人形のポーズのまま高速回転しだし、その勢いでガボラを勢い良く蹴りつけたのだ。これはCGならではの表現と言える。

これも余談なのだが、ウルトラマンはよく回る。しかも大体の場合は回ればなんとかなる。回れば敵に大ダメージを与えることが出来るし、回れば敵の攻撃を弾くことができる。このキックは、そんなウルトラ伝統芸能に則った一発と言うこともできるだろう。
伝統芸能と言えば、「プロレス技」もそうで、ウルトラ戦士はプロレス技を使うことが多い。そして本作でもウルトラマンは綺麗なジャイアントスイングを披露してくれた。個人的にとても嬉しかったポイントである。

肝心のガボラ戦だが、ウルトラマンはスペシウム光線を放つことも無く、ただひたすらガボラの攻撃を受け止め続けた。その後殴りでガボラを仕留め、更には怪獣の死体を宇宙へと運び去ってみせた。

個人的にこの戦闘に『シン・ウルトラマン』の真髄が詰まっていると考えている。それは「ウルトラマンが怪獣を倒すためではなく、地球と人間を守るために戦っている」ということがとてもよく伝わってくるからだ。
核廃棄施設の前に立ちはだかり、後ろを一瞥するウルトラマン。ガボラの光線を受け止めながら禍特対の方を一瞬見るウルトラマン。ガボラの死体を持ち上げて浅見らと「アイコンタクト」を取るウルトラマン。
そんな描写からウルトラマンが地球と人間を守ろうと思っていることがヒシヒシと伝わってくる。
そして何より「怪獣を倒すため」ではなく「人間を守るため」に戦うウルトラマンの姿が自分は大好きなのだ。

ウルトラマンは何を思うのか

ここで「ウルトラマンの表情」の話をしたい。
ウルトラマンに表情があるのか? と思う人も多いだろう、それも当然だ。そもそも表情なんてものはないし、今作では「シュワッ!」のような分かりやすい掛け声も一切存在しない。だがそれでも自分は、ウルトラマンから感情が伝わってくると感じる。

皆は感じなかっただろうか? ガボラの光線を受け止めるウルトラマンに優しさを。ザラブと戦うウルトラマンに怒りを。メフィラスと戦うウルトラマンに必死さを。ゼットンに挑むウルトラマンに覚悟を。
逆にネロンガ戦のウルトラマンは無表情だった。
思い込みかも知れないが、自分はウルトラマンからそんな数多の表情を感じ取った。

「ウルトラマン」のデザインをしたのは成田亨という人物である。彼は「能面のように単純化された様式でありながら、見る角度や陰影によって様々な表情を表す。」というコンセプトを持ってデザインをしたそうだ。

成田亨の話をしてちょうどいいので、「カラータイマー」に関する話もここでしておきたい。ウルトラマンの象徴の一つであるのが「カラータイマー」だが、今回の『シン・ウルトラマン』にはそれが存在しない。
元々成田亨がデザインしたウルトラマンにはカラータイマーが存在せず、円谷プロ側が製作の都合で後から勝手に付け足した物である。
成田がこのカラータイマーを非常に嫌っていた、というのは有名な話だ。
だからこそ今回の『シン・ウルトラマン』では、成田亨の描きたかった本来のウルトラマンに近づけたい、ということでカラータイマーがオミットされている。(「覗き穴」についても同じ)
もっと正確に言うと、庵野秀明が今回目指したウルトラマンは、1983年に成田亨が描いた「真実と正義と美の化身」という油彩画のものだが。

税込605,000円で販売されている「真実と正義と美の化身」の複製絵画

ガボラ戦に話を戻そう。ここでのウルトラマンの数々の行動により、少なくとも禍特対の面々は彼の事を信用する事になる。これがザラブ戦で大きく響いてくる。
このガボラ戦、「禍特対がウルトラマンを信用した」という事を表現するには十分すぎる演出がなされていたと思う。

ザラブ編

ザラブ

さてここからは対禍威獣ではなく、対外星人が主となる。ガボラ戦以降姿を消してしまった神永。そんな禍特対の元へ、突然の停電と共にザラブが姿を現す。
この停電というのは『ウルトラマン』にて、科特隊の元へザラブ星人が翻訳のための「携帯用電子頭脳」を持ってきた際に、その出力が強すぎて科特隊の電子頭脳を壊してしまった事のオマージュである。(当時は壊しっぱなしだったので、直してくれた分シン・ザラブの方が幾分か優しいと言える)

このザラブ編は特に『ウルトラマン』の第18話「遊星から来た兄弟」のストーリーをそのままなぞっていると言える。だがそんな中でも、要所要所を現代風にアレンジしたこのザラブ編の完成度は非常に高い

まず神永とザラブが車内で口論するシーン。ここでの緊張感やひりつきと言ったらたまらないものがある。ウルトラマンが「ウルトラマンとして」明確に自分の意志を述べる初めてのシーンという意味でも実に興味深い。

そしてなんといっても素晴らしいのが、ザラブの造形だろう。真正面から見た時こそ我々が知っているザラブ星人だが、実は体が前面のみのペラペラ構造なのだ(正確には身体の大部分が透明なだけだが)。
それに初めて気付いたときは本当に驚いたし、関心もした。これこそCGでしかできない表現だと。仮に実写でやるとしたら操演になるだろうが、ペラペラで軽いし難がありすぎる。
冷静に考えると生物としてはあり得ないデザインなのだが、「この広い宇宙、そんな外星人がいてもおかしくないよな」と思わせるような謎の説得力がある。
しかし、ここまで文字通り「裏表のはっきりした」ビジュアルというのもそうそう無いだろう。加えて言うなら、このペラペラのままウルトラマンと取っ組み合いをしているのがまた凄い。CGバンザイ!

神永、そしてウルトラマン

そんなザラブは、神永を無事に連れ去ることに成功する。変身者を誘拐したのは原作と同じ展開。誘拐した後に身体検査をして、ベーターカプセルを持っていない事を確認するのも同じ。だがその経緯は異なる。
原作では「忘れてしまって」ベーターカプセルを持っていなかったのだが、今回の『シン・ウルトラマン』では浅見を信じてあらかじめ託していた為未所持だったのだ。
ウルトラマンの先を見通す頭の回転の良さに敬服すると共に、浅見に託したのが「バディとして信用していた」という単純な理由だからというのにはグッと来るものがある。この「バディ」は2人が初対面だった時に浅見が発した言葉だが、ウルトラマンがその「バディ=相棒」という言葉をしっかりと受け止め、それを信じて行動していたのだ。人間の立場としてこんなに嬉しいことがあるだろうか。
ところで「お前を信じている」という臭いセリフを真顔で平然と言っちゃう神永は実に罪深い男だと思う。そりゃ浅見も心揺さぶられちゃうよ。

この場面で浅見は神永にこう尋ねた。
「あなたは外星人なの? それとも人間なの?」と。
これは原作でメフィラス星人が発した言葉のオマージュである。
『ウルトラマン』にて、メフィラス星人とハヤタ・シン(ウルトラマンの変身者)の間でこんな会話がなされた。
「貴様は宇宙人なのか? 人間なのか?」
両方さ。貴様のような宇宙の掟を破る奴と戦う為に生まれてきたのだ

一方で神永はこう答えた。
両方だ。敢えて狭間に居ることで見える物もある

初代ウルトラマンは戦って倒す事が主軸となっているが、今作ではそれ以上に「何かを見極めようとしている」事が分かるワンシーンだ。

ザラブ編では、神永=ウルトラマンに対する禍特対の信頼が表れたのも良い点だった。
正直な所、こんなに早いタイミングで正体バレをするというのは完全に予想外だった。あるとしても最終決戦直前くらいだろうなと思っていたので本当に面食らった。YouTubeに投稿された盗撮動画でバレる、というのはなんとも現代臭くて笑ってしまうが。
実は『ウルトラマン』だと「ハヤタ・シン=ウルトラマン」という正体がバレることは無かったので、この部分は割と大きな変更点である。
だがそんな正体が判明してしまっても、禍特対は神永の事を信頼していたし、寧ろその信頼がより増したようにも見えた。もしかするとそれは、今まで一緒に戦ってきた禍特対の仲間としての神永に対する信頼と、ガボラ戦で身を挺して地球を守ってくれたウルトラマンに対する信頼が合わさった結果なのかもしれない。

この作品のエモい点の一つが、「禍特対の面々が神永の事を、神永と呼び続けた」事である。それはもちろん禍特対の皆がウルトラマンの事を、禍特対の仲間だと認識しているからこそだ。これは歴代のウルトラシリーズでも度々見られる鉄板の演出なのだが、改めて『シン・ウルトラマン』でやられて感動してしまった。
ザラブ戦で田村がウルトラマンを見上げてこう言う。「頼むぞ、神永」と。
もしこれが「頼むぞ、ウルトラマン」というセリフだったら、その言葉の重みはだいぶ変わってくると感じないだろうか?

ウルトラマンの正体バレで一番衝撃を受けていたのが滝明久だった。ご存知の通り彼は、自分の信じていた価値観と現実のギャップに絶望してしまうこととなるのだが、一番衝撃が大きかったのはこの場面なんだろうなと思う。
訳わからん巨大不明生物が放射性物質を吐いたり電撃を放ったり、はたまた謎の銀色の巨人が光波熱線を放ったり空を高速で飛行するのはまだ許せたのかもしれない。
だがそのウルトラマンが自分と同じ人間だった、というのはどうしても受け入れられなかったのだろう。

カッコよすぎるウルトラマン

さて肝心のザラブ戦だが、ここでの神永の変身はとてつもなくカッコいいものだった。神永の足元からウルトラマンの巨大な拳が現れ、神永を包み込む。そして廃ビルを突き破って現れるウルトラマン。

こんなカッコいい変身があるか? ない。絶対ない。

この変身のカッコよさを後押しするのがまずその状況だ。
現在、(どう考えてもザラブが化けた)偽物のウルトラマンが街を破壊しているのだが、禍特対の4人を除いた世界中の人々がそれを本物だと信じてしまっている。なんならザラブ主導の元「ウルトラマン抹殺計画」なんてものすら実行されようとしてるくらいだ。
だが禍特対の面々に暴れているのが偽物だと証明する手段はなく、田村の言う通り「今は待つしかない」状態だったのだ。
そんな中でようやく、ようやく現れたウルトラマンである。「やっと来てくれた!」そんな思いで胸がいっぱいになる。「見たかお前ら! 暴れてたのは偽物なんだよ! 本物のウルトラマンがそんな事するわけ無いだろ!」とあの世界で叫んで周りたいくらいである。

そしてこれらを更に後押しするのがそのBGMだ。ウルトラマンに変身した時にかかる曲、そのタイトルは『遊星から来た兄弟 勝利 (M5)』。(Amazon music等でも聞くことができる)

これぞ「ウルトラマンと言えば」の曲である。この曲を聞くとどうしても「ウルトラマンが来てくれた!」という感動が胸を駆け巡っていく。

ビジュアルのカッコよさ。その舞台設定。胸の高鳴るBGM。
これらが相まってザラブ戦での変身は、本当にカッコいいものに仕上がっている。正直な話をするなら、100回くらいこのシーンをリピートしたい。それくらいカッコいい。
更に言うなら、夜の市街戦というのがそのカッコよさをより引き立たてている。夜の煌めく街に立つ銀色の巨人。カッコよくない訳がない。

言いたいことはまだまだある。実は個人的にこの場面で一番印象的だったのは、禍特対の面々がウルトラマンを見上げるシーンである。
田村、滝、船縁の3人が「後は頼んだぞ」という表情で彼を見上げ、浅見も何か思いを込めた表情でウルトラマンの事を見上げていた。
見上げながら何かを言うわけでもない、だが彼らがウルトラマンの事を信じて託している様子がハッキリと伝わってくる
その思いがひどく胸を打ってきた。涙が溢れてきた。

先にも述べた通り、チョップをして痛がる、飛び立つザラブにスペシウム光線を撃つなどオマージュも多いザラブ戦。
しかし、綺麗な夜の市街地を背景にして自由に飛び回るウルトラマン達の美しさや、ザラブの放つ念力の綺麗さ、ウルトラマンの放つスペシウム光線の迫力など、何倍にも何十倍にも魅力を増した戦闘シーンだったと思う。
「ウルトラマン」という作品の枠で考えるならば、対ザラブ時の映像が一番完成度が高かったように自分は思う。(こういう戦闘をもっと見たかった、という気持ちはよく分かる)

あまりにもカッコいいスペシウム光線

余談

この作品は112分の尺だが、このザラブ編を終えた所でちょうど時間的に折り返しとなる。この『シン・ウルトラマン』に詰め込み過ぎのきらいがあるのは言うまでもないと思う。仮に映画という体裁を維持するのであれば、個人的にはザラブ編までを90分、それ以降を90分の前後編にするのが尺的にはちょうど良かったのかなと感じる。(やっぱり大人の事情で無理なんだろうけど)

ザラブ編で神永と浅見、ウルトラマンと禍特対の関係に一区切りもついていて、物語を終えるにはちょうど良い。そして後編を「浅見が見つからない……!」で始めたら、つかみとしても良かったのかなと。

メフィラス編

さて多くの波紋を呼んだであろうメフィラス編。浅見が巨大化した点については既に触れたのでここでは割愛。てかこの話題を深掘りしたくない

このメフィラス編が凄いのは、浅見を巨大化させた事を「でっかい長澤まさみを撮りたかった」という一発ネタで終わらせなかったことだ。ここから「地球人にベーターシステムを作用させると、光線が撃てないだけのウルトラマンという生物兵器に仕立て上げることができる」という物語の主題に発展していく。
スペシウム光線が撃てないならそんなに強くないんじゃない? と思うかもしれない。だが実際の所ウルトラマンは、局地制圧用の戦略兵器であったガボラをたったのパンチ1発で倒している。実に驚異的な力だ。

生物兵器の重要性

恐らくこの「地球人が兵器として重要」という点に関してピンと来ていない人も多いと思うので、出来る限りの考察をしていきたい。

そもそも『シン・ウルトラマン』の世界では、メフィラスも言っていた通り「他星への干渉は生物の利用に限る」という星間協定があるようだ。
庵野秀明のプロットを参照すると「太古の恒星間侵略戦争で自らを滅亡の危機に追い込んでしまった反省から、他天体への武力制圧は最も進化と管理が困難な生物兵器に限る」という裏事情があるらしい。(この設定がどこまで反映されているかは不明だが)
例えるなら、どんな状況でもポケモンを戦わせることでその勝敗を決してしまうポケモン世界のようなものだろうか。(あの世界ではどんな悪い奴らでも、子供である主人公にポケモン勝負で負けただけで退散していく。武力行使すれば良いじゃん、と思う状況でもだ)

そんな状況で求められるのは強くて扱いやすく、十分な数を用意することができる生物兵器だろう。
そこでこの地球である。地球人とベーターシステムを組み合わせることで、ウルトラマン級の強さを誇る生物兵器を作り上げることができるのだ。しかも平時は小型だから持ち運びも便利。加えて数十億というとんでもない数が存在するし、なんならどんどん増えていく有様である。

でも他の星にもそういう生命体が存在するのでは? と思うかもしれないが、どうやらそうでは無いようだ。これも庵野秀明のプロットからだが、深読みすると「ウルトラマンと近い性質を持つから」地球人にベーターシステムを使うことができる様子。だからこそゾーフィも危機感を感じたのだと思われる。

ザラブもメフィラスも巨大化してたじゃないか、という話に関して。これもデザインワークスの設定メモを参照すると、ザラブに関してはベーターシステムの前身である「アルファシステム」を利用して巨大化していたそう。(あくまで初期設定)
一方でメフィラスはしっかりとベーターシステムを使用していた。

恐らくだが、ザラブもメフィラスも非常に数の限られた存在なのでは無いだろうか。ザラブはともかく、少なくともメフィラスにはベーターシステムが使えることが分かっているのだから、メフィラスを生物兵器にすればいいように思える。だがそうしないという事はそれなりの理由があるのだろう。となると、やはり数が少ないと考えるのが一番筋が通る気がする。恐らく数百や数千程度、もしかすると地球にやってきたのが宇宙で唯一のメフィラスかもしれない。

ウルトラマンF

「巨大女性隊員の兵器利用」となると、小林泰三の小説『ウルトラマンF』の話をしないといけないだろうか。先程も言った通り『ウルトラマン』にてフジ隊員は巨大化したが、その兵器運用までもを描いたのがこの小説だ。

『ウルトラマン』で巨大化したフジ隊員が、本編終了後の世界線で再び巨大化、かつ圧倒的な戦闘力を見せる。そんな彼女をウルトラマンの代わりとして軍事利用しようとしたら……という話。

庵野秀明が『ウルトラマンF』を読んでいたかは定かではないが、『シン・ウルトラマン』と合わせるとより楽しむことができる小説である。(『ウルトラマン』だけでなく『メビウス』や『ネクサス』辺りの設定も登場する作品ではあるが)

山本耕史

メフィラス編でどうしても触れなければいけないのは、やはり山本耕史の名演だ。なんと表現したら正解なのかは分からないが、「実際にメフィラスが人間に化けたらああなるのだろう」としか言うことができない。それくらいにメフィラスだった。寧ろメフィラスそのものと言っていい。メフィラスでしかない。いや多分アレ本物のメフィラスだわ。

このメフィラス編というのは、一本の映画の中で見ると「谷」の部分であると思う。画的に激しいかと言われればそうでもなく、かと言って分かりやすい重大な何かが起きているわけでもない。あるのは公園や居酒屋で談笑しているおっさん二人の光景だ。
そんな中だるみしかねない状況を救ったのが山本耕史の演技である。(もはや演技をしているのかすら怪しい)

メフィラス編の中で、実に6分くらいの間メフィラスと神永がゆったりと会話をするシーンが続く。だがその6分の間、自分はメフィラスのトークに惹きつけられっぱなしであった。(もちろんそれに相対する斎藤工の演技も素晴らしいのだが)
特に居酒屋での雰囲気は、それはそれはもうゴクジョ―であった。正直この作品の中でもトップクラスの名シーンだと思う。居酒屋でおじさん二人が飲んで語っているだけで作品を代表するシーンになるってヤバくないか?

実際この居酒屋で生み出されていた空間、というものは非常に心地の良いものであった。そんな店内を見渡しながらメフィラスが言う「この美しい星が欲しい」「私も現生人類が好きなんだよ」という言葉には非常に説得力がある。(ウルトラマンがどんな思いで飲食をしていたかは謎だが)

当然の話なのだが、メフィラスはウルトラマンを「ウルトラマン」と呼び続けた。それは姿が神永新二であってもだ。
姿がウルトラマンでも彼を「神永」と呼び続けた禍特対とは真逆である。

この居酒屋は「浅草一文本店」というお店。自分も是非訪ねてみたい。
ちなみに「河岸(かし)を変える」というのは「事をなす場所を変える。飲食したり遊んだりする場所を変えるのにいう。」だそう。

余談だが、居酒屋の店主を演じていたのは映画監督の白石和彌である。エンドロールにこの人の名前があって驚いたのだが、店主で間違いないだろう。
白石和彌は2022年秋に配信が予定されている『仮面ライダーBLACK SUN』の監督である。ちなみにその作品は主演の一人が西島秀俊、コンセプトビジュアルが樋口真嗣と、この『シン・ウルトラマン』と何かと縁のある作品である。(というか恐らくその繋がりで出演したのだろう)
ちなみに特撮監督は我らが田口清隆であり、非常に期待が持てる。

直近で言えば、5/6に公開された『死刑にいたる病』という作品も中々に面白かったのでオススメ。

居酒屋というちゃぶ台

さてこの居酒屋のシーンだが、ウルトラファン的にはどうしても脳をよぎるものがある。それがちゃぶ台だ。
知らない人にはさっぱりだと思うが、『ウルトラセブン』という作品には主人公のモロボシ・ダンとメトロン星人がちゃぶ台を挟んで会話するという、屈指の有名シーンが存在する。

ちゃぶ台(左の人物がウルトラセブン)

『ウルトラマン』が対怪獣を描いた作品だとすれば、『ウルトラセブン』は対宇宙人を描いたストーリーだ。それを代表するのがこのちゃぶ台である。
つまり居酒屋のシーンに関しては『シン・ウルトラマン』というより『シン・ウルトラセブン』と言ってしまった方が適切だろう。

私の好きな言葉です

メフィラスがここまで爆発的な人気を出した理由の一つにメフィラスの「私の好きな言葉です」「私の苦手な言葉です」という口癖があるのは言うまでもないだろう。

取り立てて特別な語句を使っているという訳でもないのだが、山本耕史の言い方もあってか非常に耳に残る言葉である。そしてなんと言っても大きいのが、日常生活においてあまりにも汎用性が高すぎるのだ。
実際Twitterで「私の好きな言葉です」を検索すると、おびただしい数のツイートがなされているのが分かる。確かについ言ってしまいたくなる、そんな謎の魅力を秘めた言葉である。

この言葉を生み出したというだけでも『シン・ウルトラマン』には十分な意義があると感じてしまう、それほどだ。

メフィラスとメフィラス星人の相違点

ザラブ編ではザラブがほぼ原作準拠であったのに対し、メフィラスは原作と異なる部分も多い。(地球という美しい星を欲しくなったという点は同じ)

原作のメフィラス星人は割とめちゃくちゃな存在で、地球奪取を「10歳程度の子供であるサトル君に『地球をあなたにあげます』と言わせる」事で実現しようとしていた。『シン』でのメフィラスはちゃんと総理大臣と交渉しようとしていたのだからえらい違いである

メフィラス、サトルくんと交渉中

そのサトルくんはメフィラス星人の様々な甘言に対して「僕一人がどんなに長生きしたって、どんな豊かな暮らしができたってちっとも嬉しくない、僕は地球の人間なんだぞ!」と言って要求を跳ね除け続ける。あまりにも立派な少年過ぎる
一方で『シン』ではあっさりと密約が結ばれていた。本当の狙いが伏せられていたとは言え、えらい違いである

実際の戦闘に関してだが、原作のメフィラス星人もウルトラマンと同等の戦闘能力を見せた。だが最終的には「よそう、ウルトラマン。宇宙人同士が戦っても仕方がない」という言葉を残して地球を去っていった。それは自分の、サトルくんという子供すら説得できなかったという敗北を認めたからだ。

一方で『シン』のメフィラスは、最後の最後まで全力でウルトラマンを倒そうとする。それも当然だ。だって負けていないのだから。正々堂々とした手段で地球を手中に収めようとした矢先に女性の匂いクンカクンカという変態行為で邪魔をされた形であり、当然引き下がる理由もない。だがそれでも彼が退却したのはゾーフィの存在を認知したから。
「よそう、ウルトラマン」という言葉で戦闘を中断したのは同じだが。

原作とは違う展開を見せたメフィラス戦だが、落とし所を同じにするために「ゾーフィという次のゼットン編の要」を持ってきてメフィラスを退散させたのは非常に上手い手法だなと感じる。ゾーフィがヤバい奴だという印象もつくので。

VSメフィラス

メフィラス戦もザラブ戦と同様、非常に見応えのある戦闘だった。メフィラスに弾かれて転がりながらガスタンクを真っ二つにするウルトラスラッシュ(八つ裂き光輪)なんかは特に印象深い。それまでの戦闘曲と違って、ギターゴリゴリの現代チックな曲が流れていたのもそうだ。
そしてここまで圧勝していたウルトラマンが初めて明確に苦戦した(というか実質負けていた)戦闘でもある。ラストに向かうにつれてどんどん強くなる敵。ラスボスはきっととてつもない奴なんだろうなぁ。
ウルトラマンの弱点である「時間制限」について詳しく解説がされたのもこの戦闘でだ。ウルトラマンの身体をプランクブレーンから呼び出す事、そして人間との融合情報を維持する事で急激にエネルギーを消耗してしまうらしい。ナルホド。

禍特対とウルトラマン

メフィラス編でも神永が禍特対と絡むシーンは殆どなかった。だが彼らの絆というのは遺憾なく描かれていたように思う。
今回ウルトラマンは、初めて明確に禍特対へ助けを求めた。そして皆に頭を下げたし、田村にはお礼を言った。(長澤まさみをクンカクンカする斎藤工は知らん、聞かないでくれ)
確かに圧倒的な力を持つウルトラマンだが、決して人間を一方的に守るだけではなく、お互いに支え合っていた事がこのシーンから分かる。この場面において、ウルトラマンは「個」ではなく「群れの一員」であった。

そして最後、活動限界のギリギリまで禍特対の皆を守るウルトラマン。その目つきは非常に優しいものであったように感じる。
人間を見下ろすウルトラマン。ウルトラマンを見上げる人間。この構図はこの作品内で幾度となく描かれたが、非常に美しい構図であると思う。仮に志を共にする仲間であったとしても、片方は見下ろし、片方は見上げている。これがウルトラマンと人間なのだろう。
ちなみにだが、限界を迎えて足元から消え去っていくウルトラマンはとても綺麗だった。見惚れてしまった。

ゼットン編

さて問題のゼットンである。ここまでに登場した他の禍威獣と違い、ゼットンは予告編等では一切姿を見せていなかった、いわば完全なサプライズの存在である。だがウルトラファンにとってすれば予定調和だったと言ってしまってもいい。
実は公開前から、公式Twitterが投稿した画像に写る時刻を元に「これはゼットン登場が示唆されているのでは?」と言われていた。この時刻が、ゼットンが登場する『ウルトラマン』の最終回にて、科特隊が攻撃を開始する時刻と一致している(最初に気付いた人すげーわ)。ただ円谷プロのロゴをイメージしただけという説もあるが。

結果的にはそれが的中したわけだが、仮にこのツイートが無かったとしてもゼットン登場を予期していたウルトラファンは少なくないだろう。確かに他にもバルタン星人やゴモラなど登場しなかった有名キャラもいる。だがゼットンは特別だ。常識的に考えてゼットンを出さない、というのはほぼあり得ないと言っていい。特に今回のような原作登場怪獣を何体も出すような構成の場合、ゼットンを出さないと収集をつけるのは不可能だと言ってしまってもいい。

ここで『ウルトラマン』最終回のあらすじを超簡単に説明しておこう。
「ウルトラマンがゼットンに完全敗北するものの、科特隊がゼットンを倒し、ゾフィーがウルトラマンを助けに来る」
大体こんな感じだ。

では実際、『シン・ウルトラマン』の劇中で「ゼットン登場の確定演出」と呼べる部分はどこだろうか? もちろん実際に確定したのは神永が「ゼットンか…!」という言葉を発した瞬間である。
だがもっと前の段階、メフィラス戦で既に登場は予告されている。まず分かりやすいのが、メフィラスが去り際に放った「さらば、ウルトラマン」というセリフ。これは『ウルトラマン』の最終回のサブタイトルそっくりそのままだ。この言葉が出た時点でゼットン確定と言える。

もう少し遡って、メフィラスが金色の「何か」を見た瞬間。ここが最初のフリだったと思う。あの金色の何かはどう考えてもゾフィーだし、ゾフィーが出るという事は必然的にゼットンも登場するということである。(実際はゾーフィだった訳だが)

そんな予定調和のゼットンだが、実際蓋を開けてみると誰もの予想を裏切るとんでもない存在だった。これに関しては映画を観た人全員がそう言うだろう。ゼットンを知っている人も知らない人も、誰しもがその形態に驚いたと思う。

元々のゼットンってこんなんすよ

ゼットンの正体、それは天体制圧用最終兵器だった。そのビジュアルの圧倒的な存在感と絶望感については今更言うまでも無い。
『シン・ウルトラマン』ゼットンの凄い所は、原作ゼットンのトンデモ設定をそのまま引き継いだ事である。そのトンデモ設定とは「一兆度の火球を放つ」というものだ。
元々往年の特撮作品の数値設定は、リアリティという観点からすると甘い部分がある。だがそれにしても一兆度というのはあまりにも投げやりな設定過ぎる。数字にすると1,000,000,000,000度だ。
ここで身近に存在するもので最も熱そうなものはなんだろうか? そう、太陽だ。(いや直線距離で言えば1億5千万Km程度あるから身近ではないが)
太陽の場合、表面温度が約6千度で、中心温度が約1600万度。
太陽の中心温度も中々の高温だが、それでも数字にすると16,000,000度程度。1,000,000,000,000度の足元にも及ばない。

そんな「一兆度の火球」という屈指のトンデモ設定を現実的なラインに丸め込むことなく、正面から実現させようとしたのが今回のゼットンである。そりゃあんな訳の分からないデカブツになるわ。(寧ろあの規模ですら一兆度を制御するには全然足りていないと思う。てか一兆度ってなんやねん)

これは余談だが、最初ゼットンの攻撃は「1テラケルビン」と説明された。1テラ=1兆、0度=約273ケルビンなので、超正確に言うと
1テラケルビン=999,999,999,727度という事になる。有効数字何桁やねん、という世界なので一兆度と言ってしまって全然問題ないのだが。
ちなみにデザインワークスによれば、この火球で直径200光年の空間を消失させることが可能だそう。いややりすぎだって。

実はゼットンというのは、その人気っぷりから色々な派生種が生まれている。その中にはオリジナルのゼットンからかけ離れたデザインの個体も存在し、「こんなのゼットンじゃねぇ!」と声をあげるファンも存在した。そんな人は今回どんな思いなのだろうか。
ちなみに自分は今回のゼットン大好き。まさに最終兵器という感じがして良い。

ゾーフィ

もう一つ衝撃的だったのが、ゾーフィがゼットンを使役しており、かつ人間の敵に回ったという点だろう。原作ではウルトラマンを助けに来る存在であったのだがら正反対である。
庵野秀明も言っている通り、これは放送当時の児童誌の記述が由来となっている。これはどうやら「ゼットンを使役するゼットン星人」とゾフィーの情報が錯綜した結果だそう。いやどんだけマイナーなネタ拾ってくるんや。

宇宙人ゾーフィ

さてそんな絶望的なスペックを誇るゼットンに対し、ウルトラマンは再び禍特対の助けを借りようとする。
ゼットンが絶対に自分の手には負えないと分かっていて、真っ先に禍特対の元へとやってくるという所から、やはりウルトラマンが禍特対の事を強く信用している事が分かる。
もし禍特対の皆の命を奪えば、躊躇うことなく人類を滅ぼす」という、おおよそ正義の味方が言ってはいけないセリフからもそれは伝わってくる。(実際それが可能なのがまた恐ろしい)

だがゼットンの圧倒的なスペックの前に、遂に滝の心は折れてしまった。階段に一人座り込む滝の姿の悲壮感と言ったらない。恐らく彼も地球と、そして神永を助けたいと思っているはずだ。だが目の前に立ちはだかるのは一兆度の熱球を放ってくる存在。滝は頭が良い、頭が良すぎるからこそ、現在の地球人の科学力ではどうしようもないことを、どこまでもハッキリと痛感してしまったのだ。
滝明久を演じた有岡大貴の演技についてどうこう言う人も見受けられた。しかし自分は、理想と現実のギャップに無力感を味わい絶望していく様が上手く表現されていて、名演だったと思っている。(というか禍特対全員ハマり役だったよね)

オマージュ?

そのままウルトラマンは「為せば成る、為さねば成らぬ何事も。やってみるだけさ」という言葉を残しゼットンへと特攻する。
だがそこにあったのは、圧倒的過ぎるまでの力の差であった。

スペシウム光線も、巨大ウルトラスラッシュも、超巨大分裂ウルトラスラッシュも、全てがゼットンのバーリアに防がれてしまう。(原作のゼットンも、ウルトラスラッシュをバリアで防いでいた)
迎撃体制を取るゼットン。なんとか地球への被害を最小限にしようと奮闘するものの、その絶望的な火力の前にウルトラマンは完全敗北してしまった。

このウルトラマンがゼットンに立ち向かうシーンだが、実は2003年公開の映画『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』に非常に似た場面が存在する。
その映画では「デラシオン」という宇宙正義を司る存在が、「地球が2000年後に宇宙に害をもたらす星になる」という判断をしたため、地球の全生命をリセットしようと「ギガエンドラ」という究極の兵器を送り込んでくる。

そのギガエンドラを止めるためにコスモスとジャスティス、2人のウルトラマンが立ち向かう。だが必殺の光線は全く効かない。そんな中発射される1千万度の消滅エネルギー「イレイザーボール」。コスモス達は必死にバリアで地球を守ろうとするものの、遂には耐えきれず消失してしまう。

とまあ、マジで『シン・ウルトラマン』とそっくりの描写である。ウルトラマンのサイズを遥かに凌駕する超巨大兵器、攻撃を一切寄せ付けないその装甲、大気圏に押し付けられ燃えるウルトラマン。ほぼそのままである。地球人を滅ぼそうとする宇宙の意思 VS ウルトラマンという構図まで同じである。
むしろこちらの映画の方が尺をたっぷり使って絶望的な状況が緻密に描かれている分たちが悪い。(実際当時鑑賞した時にはかなりの絶望だった)

「溶けていく…ウルトラマンが溶けていく!」「ウルトラマン…何故そこまで人類を!」
「もういいムサシ…! もう十分だ!」「無理だジャスティス…もうやめるんだ!」

そんな過去の映画の1シーンが頭をよぎったこともあって、このゼットン戦で自分は涙が止まらなくなってしまった。勝てないと分かっていても、それでもほんの僅かな可能性の為に自分の命をなげうって戦うウルトラマン。そんな彼らに対して僕たちはどんな言葉をかければいいのだろう、どんな形でその思いに応えればいいのだろう。
ウルトラマンへの感謝の気持ちと、応援するしかできないであろう自分の無力さがごちゃまぜになる。結局最後に出てくるのはこの言葉だけだ。「頑張って、ウルトラマン」

人間、がんばる

結果的に『コスモスVSジャスティス』ではデウス・エクス・マキナ的な存在の登場で事なきを得たのだが(ヒーロー映画ってそういう物だよね)、『シン・ウルトラマン』はそう片付ける訳にはいかない。そんな事をしたら、それこそ大衆は納得しないだろう。

ゼットンに敗北し、落ちていくウルトラマン。「無駄な抵抗はやめろ」というゾ―フィに対し彼は「人間を信じて最後まで抗う、それが私の意思だ」と伝える。

ウルトラマン敗北により皆が諦める中、一人解決策を模索し続けている船縁。(彼女の底抜けなポジティブさは是非見習っていきたい)
そんな彼女から、滝にUSBメモリが託されていた事が明かされる。そのUSBメモリには「ベーターシステムの原理を人間の言葉で論文にしたもの」が記録されていた。そしてそこには「ウルトラマンは万能の神ではない、君たちと同じ命を持つ生命体だ」というメッセージが込められていた。

「いやいや最初からそのデータを滝に渡しておけばよかったじゃんw」と思うかもしれないが、きっとそんな簡単な話ではないのだろう。
あの時点では、ほぼ全ての人がウルトラマンの事を神だと思ってしまっていた。確かに神のような存在であったし、縋り付いてしまいたくなる気持ちもよく分かる。
だがそれではダメなのだ。あくまでウルトラマンは我々と同じ、命を持つ生命。ウルトラマンと人間が共に手を取り合って、肩を並べて地球を守るからこそ意味があるのだ。それを身をもって伝えるために神永は、ウルトラマンは決死の思いでゼットンに挑んだのだ。
例え負けると分かっていても。

サコミズ・シンゴ

ここで2006年放送の『ウルトラマンメビウス』に登場した防衛隊『チームGUYS』の隊長であったサコミズ・シンゴの言葉を引用したい。
状況としては、エンペラ星人という最悪の存在が地球を侵略しようとしており、手を引いてほしければウルトラマンを引き渡せと要求している状態。(ウルトラマンメビウスは敗北済)

昔私が亜光速で宇宙を飛んでいた時、侵略者から地球を守る為、人知れず戦っているウルトラマンを目撃しました。その時彼は言いました。
『いずれ人間が自分達と肩を並べる日が来るまで、我々が侵略者の盾になる。』と。
彼等は人間を愛してくれた。そして人間を命懸けで守り続けてくれたのです。私達はその心に応える責任がある
『地球は我々人類、自らの手で守り抜かなければならない』ウルトラ警備隊、キリヤマ隊長が残した言葉です。この言葉はウルトラマンが必要でないと言っている訳ではありません。彼等の力だけに頼る事なく、私達も共に闘うべきだと伝えているのです。

ウルトラマンメビウス第48話『最終三部作I皇帝の降臨』より

この『地球は我々人類、自らの手で守り抜かなければならない』という言葉は、ウルトラシリーズの根幹を貫くテーマだと言っても過言でない。そしてそれはこの『シン・ウルトラマン』でも例外ではない。ゼットン戦のくだりのほぼ全てはこのサコミズの言葉で説明できるだろう。(ちなみにこの「人知れず戦っているウルトラマン」というのはゾフィー)

結果として滝らが立案した計画は「変身後1ミリ秒でゼットンを殴り飛ばす」という作戦だった。
恐らくこれを聞いてこう思った人も多いだろう。
結局ウルトラマン頼みなのかよ」と。「ゼットンの放つ一兆度の熱球をプランクブレーンに飛ばしちゃうマシーンでも作ってみせろよ」と。

だがそうであっては意味がない。人間とウルトラマンが力を合わせてゼットンに立ち向かうからこそ意味があるのだ。
確かに最終的にはウルトラマンがゼットンを殴り飛ばさないといけない。だがその作戦は、「群れ」である人類が「群れ」であることを最大限に活用した結果生み出されたものなのだ。恐らくウルトラマンにも、ゾーフィにもこの作戦を立案することはできなかっただろう。彼らは個である。個であるからこその限界もある
ウルトラマンの「個」としての強さ、そして人間の「群れ」としての叡智。その2つが掛け合わさってのこの作戦なのだ。
それでも最終的に、ウルトラマンにのみ「不明の並行宇宙へ飛ばされる」という犠牲を強いる結果になってしまったのは実に残念だが……

遂に披露されたアレ

禍特対の皆に見送られながら最後の変身をするウルトラマン。そこでようやっと見せてくれたのが「ぐんぐんカット」である。
ぐんぐんカットというのは、ウルトラマンが変身する時に右腕を突き上げながら「ぐんぐん」迫ってくるアレである。その名前こそ知らなくとも、このシーンを見たことのある人はかなり多いだろう。誰もが知っている「スペシウム光線」と並べてしまっても遜色ない程有名なものだ。

ぐんぐんカット

ファンの間では「今年の新作ウルトラはどんなぐんぐんカットなんだろうね」と毎年注目されているくらい、ウルトラシリーズにとって大事な概念である。

様々なぐんぐんカット。どれも個性があり美しい

ぐんぐんカットはそのウルトラ戦士の個性を表すものだ。上にその中の一部を挙げてみたが、各々がそれぞれのスタイルで「ぐんぐん」していることが分かるだろう。

そんな訳なので、『シン・ウルトラマン』でもぐんぐんカットはあるのか? と多くの人達が期待をしていた。何を隠そう自分もそうだ。
だが結局ガボラ戦~ゼットン戦と何度も変身を見せたにも関わらず、ぐんぐんカットが披露されることは無かった。その時点で我々は察する。

「きっと庵野秀明はぐんぐんカットを良しとしていないのだろう。恐らく彼の考えるぐんぐんカットはザラブ戦で見せた『拳で包み込む』アレなのだ。まあしょうがない、それが『シン・ウルトラマン』だというのなら我々も受け入れよう」

と思って諦めていた矢先の、お手本のようなぐんぐんカットである。溜めて溜めて、我慢して我慢して最後にこれである。こんなん感情グチャグチャなるよ

オマージュ??

さてそんなぐんぐんカットを見せてくれたウルトラマンは、無事バーリアも突き破りゼットン本体を1ミリ秒の間に殴り飛ばすことに成功する。
だがその瞬間重力場のような物が発生し、ゼットンもろともウルトラマンも吸い込まれそうになる。必死に抗うウルトラマン。だが最後には力尽き、吸い込まれてしまうのだった……

この場面なのだが、1997年に放送された『ウルトラマンダイナ』の最終話にもほぼ同じシーンがある。「グランスフィア」という地球と同じ大きさを誇る敵をダイナは必殺のソルジェント光線で撃破するのだが、その時に生じた光すら脱出不能な重力崩壊に飲み込まれて地球の皆の前から姿を消してしまう。
ヒーロー番組の最終話で主人公が生死不明となるという衝撃的な結末であり、当時の子供たちに与えた衝撃は大きかったという。かくいう自分も、子供の頃ダイナのVHSを見てわんわん泣いていた。(結局ダイナの生死は、実時間で11年程不明のままだった)

ウルトラマンダイナ第51話『最終章III 明日へ…』

このシーンでもう自分の情緒はグチャグチャのボロボロのメチャメチャだった。ダイナを観ていた当時のように「ウルトラマン、頼むから逃げ切って!」と手に力を込めて応援してしまった。
だがエネルギーも尽きてしまい、ウルトラマンは重力場に飲み込まれてしまう。

このウルトラマンが必死に逃げるシーンだが、中には「滑稽だ」と感じる人もいるかもしれない。だがそんな姿を見せてでもウルトラマンは生きたかったのだ。直前でキメ顔で「君たちの未来が最優先だ。私の命をそのために使い切っても構わない」と言っていたにも関わらず、彼は生きたかったのだ。

死にたくなかったのだ。

それが自分の命を失う怖さからなのか、神永の命を今度こそ奪ってしまうという恐れからなのか、はたまた浅見の「必ず帰ってきて」という願いに応えるためなのか。それは分からない。
だがあの瞬間、ウルトラマンは必死だった。恐らく彼が生きてきた長い時の中で一番必死だったのではないだろか。あの時ウルトラマンは、紛れもなく「人間」だった。

重力場が過ぎ去り、そこに映し出されたのは青く輝く星だった。
地球は守られたのだ
だがその静寂が、ウルトラマンが居なくなったことをこれでもかと突きつけてくる。

ウルトラマン、そんなに人間が好きになったのか

どこぞのプランクブレーンを漂っていたウルトラマンの元にゾーフィがやってくる。
ウルトラマン!目を開け!
これは原作でゾフィーがゼットンに敗れたウルトラマンにかけた言葉と全く同じ。その後の(経緯は違えど)ウルトラマンを光の星に連れて行かないといけない、だがそれだと神永が死んでしまうという流れも同じである。

原作ではゾフィーの「私は命を2つ持ってきた」というトンデモ技によりハッピーエンドに落ち着いていたのだが(これこそデウス・エクス・マキナだな)、やはり『シン・ウルトラマン』はそうはいかない。命はそう簡単に増えない、一度死んだ者は蘇らない、当たり前である。
結果的にウルトラマンが神永に命を譲ることとなり、禍特対の皆の前で神永が目覚めるシーンでこの映画は終わる。

高橋一生

些細に見えるが需要な事実として「ラストシーンでウルトラマンの声を当てていたのは高橋一生」という物がある。何故高橋一生なのか? 確かに高橋一生は『ウルトラマンコスモス』や『ウルトラゾーン』という円谷プロ製作の番組に出演していたことはある。

だがここで語らなければいけないのは『MM9』という作品である。これは山本弘による怪獣小説で、2010年に樋口真嗣監督総指揮の元テレビドラマ化された。(特撮監督は田口清隆)
主人公が所属するのは「気象庁特異生物対策部(ドラマでは対策課)」を略した「気特対(きとくたい)」である。(ちなみに禍特対(かとくたい)は「禍威獣特設対策室専従班」を略したもの)

その作風も特徴で、特撮モノではあるもののウルトラマンなどのスーパーヒーローが登場する訳ではない。あくまで現実の延長線上で、公務員が「怪獣災害」と戦っていく様子が描かれている。
ここまで言えばもう分かるだろう。この『MM9』という作品は、『シン・ゴジラ』の前身とも言える作品だ。

なんなら庵野秀明もゲスト出演している

誰がどう見ても庵野秀明(MM9第6話より)

そんな『MM9』という作品にまだ売れる前の高橋一生がほぼ主役(班長)として出演していたのだ。(その他にも『シン・ゴジラ』とキャストが被る部分も少なくない)

となると『シン・ウルトラマン』にてウルトラマン(リピア)の声を高橋一生が当てたというのも、あながち不自然な現象ではないだろう。

個人的には割と楽しめると思っているこのドラマ版『MM9』だが、実は非常にマズい問題を抱えている。
なんとあまりの解釈違いに原作者である山本弘がブチギレてしまったのだ。

なんと恐ろしいことに、この『MM9』番外編で登場人物の口を通して約7,000字に渡ってドラマの文句が綴られているのだ。その熱量は凄まじいものなので、是非軽くでいいから覗いてみて欲しい。
ただそのリプライツリーには「なおスタッフの方に恨みはありません。悪いのは金もないのに『MM9』を作ろうとした奴!」とあるので、恐らく樋口真嗣らに特別な怨恨は無いのだろう……たぶん。

禍特対を支える人物たち

この『シン・ウルトラマン』の特徴として、明確に嫌な奴が存在しなかったというのは大きいと思う。ザラブもメフィラスもゾーフィも、彼らなりの絶対的な基準とそれを支える強い意志の元に行動していた。手強い敵だなと思いこそすれ、嫌なやつだなとは一切思わない。
日本政府の面々はそんな外星人にいいように弄ばれていたが、我々目線からすれば「いやまあ仕方ないよね、うんうん騙されるのも分かるよ」くらいのノリである。愚かな人類が騙されとるわ! ガハハ!

そして何よりも禍特対を支える面々が気持ちのいい大人達であった。
班長の田村も、室長の宗像も、防災大臣の小室も、全員が全員部下のことを信頼し、彼らのために全力で動いていた。防災大臣の「私は人を見る目だけが取り柄だった」というセリフも印象深いし、要所要所で的確な判断をしてみせた室長の存在はありがたい。そして何と言っても一番は終盤での田村の言動だろう。
滝が説明する作戦に対し「ウルトラマンが犠牲になる」と知った田村は、迷わずその作戦に反対した。その反対が地球人の絶滅に繋がると分かっていてもだ。この場面に田村の矜持というものが凝縮されているように感じる。

室長と政府の男(演:竹野内豊)の会話も良かった。もちろん彼らにはしがらみも多いのだろうが、そんな中で色々と踏まえた上で大人の交渉がなされていた。こういう「言わなくても分かるでしょ?」みたいな駆け引きってなんとなく憧れないだろうか?
子供が憧れるような大人像を描く、これも「ウルトラマン」の役割の一つだと自分は思っている。

もちろん中には「もっと人間のドロドロとした部分が見たかったよ」という人もいるだろう。それをまるっきり否定する訳では無いが、ただでさえ尺が不足気味のこの作品に、これ以上の人間ドラマは必要なかったと思う。
それに何より、人間の嫌な部分を見せられて心の中にドロッとしたものを残すより、気持ちのいい人間関係で気分もスカッとするほうが嬉しいだろう。

だってウルトラマンだもの。楽しい気分になりたいじゃないですか。

ウルトラオタクの感想

ここまで書いておいてなんだが、結局のところ「ウルトラマンに詳しくない人がこの作品を観たらどう感じるんだろう?」という疑問に対する回答を自分は見つけることはできなかった。
「面白い」という声があるのも、「つまらない」という声があるのも両方理解できる。

一方で「難しい」と感じる人もいるだろう。確かに原作の『ウルトラマン』とくらべて、より難しい言葉が随所で使われているし、よりSFな領域に足を踏み込んでいる。だがそんな中でもウルトラマンのカッコよさだとか、人間の強さだとかが伝わっていればいいなと思う。

そんな中でウルトラオタクの自分はどう感じたか?
申し訳ないことに、これも説明するのが非常に難しい。途中途中で説明してきた通り、作品鑑賞中(特にゼットン編)で自分の感情はめちゃくちゃになってしまった。
結果として鑑賞後に残ったのは、「あぁ、良かったなぁ」という感想と、涙でぐしゃぐしゃの顔面だった。(あとマスクもびちゃびちゃ)

この作品には、過去のウルトラシリーズを想起させる部分が多々あった。それは『ウルトラマン』もそうだし、『コスモスVSジャスティス』や『メビウス』に『ダイナ』もそうだ。どれもここでは軽い説明に終わってしまったが、実際はどの作品でもそこまでに長い期間をかけて人間とウルトラマンが信頼関係を築いたからこその演出であり、だからこその感動や寂寥がある。

だが別に、そんな具体的な作品を思い出す必要は無いのだと思う。きっとみんな、今までに自分がしてきたウルトラの体験というものがあるはずだ。子供の頃画面にかじりつくようにウルトラマンを見ただとか、親とヒーローごっこをしただとか、友達と必殺技のポーズを取っただとか、ソフビなんかで遊んだだとか。

自分が人生で触れてきたそんなウルトラ作品への体験とか思い出だとかみたいなものを、この作品によって一度にまとめて浴びせられてしまった気がする。なんだかこう、脳内で今までの色々な思い出がまるで走馬灯かのように流れていった気がする。
そんなはずは無いのに、そんな訳は無いのに、ウルトラを純粋に楽しんでいた頃の自分が今の自分に語りかけてきたような気がする。
今もウルトラマンを楽しんでる? と無邪気に話しかけてきたような気がする。
子供の頃に抱いていた憧れのような、そんなものを改めて見せつけてくれた映画だったように感じるのだ。

衝撃

そもそもとしてこの作品は「当時ウルトラマンを初めて見た時と同じ衝撃を目指す」というコンセプトで作られている。

「ウルトラマンを初めて見た時の衝撃」というものを自分は知らない。何故なら自分が生まれたときには既にウルトラマンが存在していたし、寧ろ存在するのが当然だった。
そんなものがまるで存在しない世界にある日突然銀色の巨人がやってきて、毎週のように数多くの魅力的な怪獣や宇宙人と戦って、そしてゼットンの前に散っていった時の衝撃というものを自分は知らない。知る術もない。
あるとしたら、記憶喪失になるくらいか。だがそれでは意味がない。

では今回『シン・ウルトラマン』にて「初めてウルトラマンを見た衝撃」を体験することができたか? 残念ながら恐らくそれはノーだ。ここまでさんざん説明してきたように、自分は今までのウルトラ作品と重ねながら鑑賞してしまった。勿論様々な衝撃はあったが、そのどれもが「今までのウルトラ体験をベースにした上での」衝撃である。
だがそれは別に構わない。ウルトラ既習者に対しても、既習なりの、既習だからこその衝撃があったからだ。

だがそれでも、初めてウルトラというコンテンツに初めて触れた人が、いろんな衝撃を受け取っていたのなら嬉しいと思う。

「昔みたウルトラマンそのまんまじゃん」というような感想も一定数見受けられた。恐らくそれは、中途半端に微妙に覚えていたからこそ起こってしまった事だろう。当然初代のオマージュ部分はいくつも存在したが、描かれていたもの、描きたかったものはまた違うものではないかと思っている。

『シン・ウルトラマン』から受け取ったもの

この作品から受け取ったもの、というのはそれこそ個人個人によって全く違うだろう。映像が凄かった、山本耕史が外星人だった、スペシウム光線がカッコよかった、ウルトラマンがクルクル回るのがダサかった、ストーリーがつまらなかった、セクハラやめろ。どんな体験を得ていても良いと思う。

自分は「人間とウルトラマンの関係性」という物を改めて突き付けられたと思っている。
人間とウルトラマンの関係性、それは非常に難しいものがある。勿論理想は対等な関係であることだ。だがその圧倒的な体格差が、その圧倒的な能力差がそれを許してはくれない。
近年は特に多様性、そして平等が騒がれている。実際この地球には色々な人間が存在する。性別が違えば肌の色が違えば喋る言葉も違えば趣味嗜好も全然違う。何もかもが異なる。
確かに人類の歴史では色々な差別があったし、現代にもそれは残っている。
だがそれは確実に改善されていると思う。だって同じ人間なのだから。

それをウルトラマンに対しても同じ事が言えるだろうか?

我々はせいぜい身長2m弱程度の存在だ。空が飛べるわけでもないし、手から破壊光線を出せるわけでもない。
だがウルトラマンは身長が60mもあり、自由に空を飛ぶ事が出来る。手からスペシウム光線が出せるし、人間の科学力では傷を付けることすら非常に困難だ。本人が言っている通り、人類を滅亡させることだって容易だ。

あまりにも違いすぎる。似ているのは身体の形状くらいだ。

そんなウルトラマンを「彼も我々と同じ生命だ、ただの仲間だよ」と言える人がどれだけいるだろうか。
仮にウルトラマンが実在して、空を音速で飛び回り、手から放つ光波熱線で巨大生物を殺す様子をこの目で見てしまったらもう無理だろう。それこそ「神」と認識するしかないと思う。
神と崇め奉ってどうにか機嫌を損ねないようにする、という対応を取るのが自然だし当然だ。気まぐれで地球文明を壊滅でもさせられたらたまったものじゃない。

だからこそどうしても「ウルトラマン=守る側、人間=守られる側」という図式ができてしまう。

だが少なくとも、ウルトラマン側はそうは思ってはいない
「守ってあげている」という意思もなければ、「対価として何かが欲しい」とも思っていないだろう。「赤ちゃんを守ってあげている」というような庇護の感覚ともまた違うはずだ。
先程説明したゾフィーの言葉にもある通り「いずれ人間が自分達と肩を並べる日が来るまで、我々が侵略者の盾になる」、それが彼らの考えなのだろう。彼らの方がたまたま数歩先に進んでいるから、いつか隣を歩けるようになるその日まで彼らが出来る方法で道を示す。それだけのことなのだ。

見返りを求めない、ただ相手のためを思って行動を為す。この一見不思議に思える現象を説明できる言葉を、自分は一つしか知らない。

それは「」だ。

この期に及んで愛かよと思うかもしれないが、だが結局はそれに集約されるのではないだろうか。一見不可思議に思えるウルトラマンの行動も、「愛」という概念を持ち出すことで、いとも簡単に解決されるように思う。

ガボラの光線を身体で受け止めたのも、スペシウム光線を使わなかったのも、死体を宇宙まで運んでくれたのも
ザラブの思惑に抗ったのも、浅見を信じてベーターカプセルを託したのも、
「自分の中の人間の部分の感情だ」という荒業で密約を阻止したのも、禍特対の皆を活動限界まで見守ったのも、
負けると分かっていてゼットンに挑んだのも、自分を犠牲にしてでも地球人の未来を優先したのも、
そして自分が死んででも神永に生きてもらおうとしたのも、

全てはウルトラマンが人間を好きになったから。人間を愛したから。
好きになっちゃったんだから、仕方ない。

ウルトラマン、そんなに人間が好きになったのか

結局この言葉がすべてを表している。それ以上でも、以下でもない。
確かに最初は、神永の「自分の命を犠牲にしてでも他人を守る」という、ウルトラマンにとっては不可解な行動を理解したかったのだろう。そのためにわざわざ禁忌である人類との融合を試みた。

そしてその結果、ウルトラマンは我々人類を好きになってくれた。
いつ好きになったのか、どうして好きになったのか、なぜそんなに好きになったのか。その描写は残念ながらほぼ無いと言っていい。
でもいいじゃないか。いつの間にか好きになっている事だって、何故か好きになっている事だってある。好きってそういう事じゃないか?

個人的な見解を述べるとするなら、序盤に神永が自分の分のコーヒーだけを入れてきた場面。あそこがウルトラマンにとってのターニングポイントであったのかなと思う。
人は誰かの世話になり続けて生きている
ともすれば我々も忘れてしまいそうになる、当たり前の真実。それを目の前のバディに突きつけられた事で、ウルトラマンとしても色々と考えることがあったのかもしれない。

そんな人間を好きになってくれたウルトラマンに対して、我々は何ができるだろうか? もちろん向こうが好きでやってくれた事に対して、何かを返さなきゃいけないという義務は無い。ただそれでも「ありがとう」とお礼を言って、何か恩返しをしたいと思うのが人間ではないだろうか。

劇中で浅見がしっかりとウルトラマンに何度も「ありがとう」と伝えていたのも、そういう意味では感慨深い。

だが仮にどんなに対等な関係を築けたとしても、ウルトラマンが我々を見下ろして、我々がウルトラマンを見上げるという物理的な構図が変わる訳ではない。だからこそ禍特対の皆がウルトラマンを見上げる様子に、自分は特別な感情を抱いてしまうのかもしれない。(もしかすると、身長差のあるカップルがキスをしようとしているのを眺めている感覚に近いのかも)

まとめ

結果として「愛」だの「好き」だのというふわっとした結論に着地してしまった。この文書を書き始めた頃には、まさかこんな事になるだなんて自分も思っていなかった。だがそれでも今回、自分がたどり着いた答はここだ。「愛」だ

実際の所、我々が普段接している現実は「愛」や「友情」「信頼」といった心地の良い言葉で解決できるほど甘いものではない。それは誰もが身に沁みて感じているだろう。
だがそれでも自分は、そういった形もない、見返りも求めない、よく分からない物こそが世界を動かすのだと信じたい。

ウルトラマンと人間が手を合わせて、あの難攻不落のゼットンを討ち破ったように。

だって「ウルトラマン」なんだから。そんな夢や希望を信じさせてくれたっていいじゃない。

ここで2016年放送の『ウルトラマンオーブ』からクレナイ・ガイ(ウルトラマンオーブ)の言葉を引用したい。

闇は永遠じゃない。
唯一永遠なもの、それは愛だ。
この宇宙を回すもの、それは愛なんだ。
暗闇の中に瞬いている希望の光だ。

ウルトラマンオーブ第25話『さすらいの太陽』より

M八七とかいう曲

この曲のせいで信じられないくらい泣かされた。マジで許してない。
おのれ米津玄師。

本当にまとめ

この映画は確かに完璧な映画ではないと思う。だが同時に、謎のパワーを秘めた作品だとも思う。
個人的な話になって申し訳ないのだが、この映画の公開翌日に、自分が大学時代に所属していた特撮サークルの一部メンバーによるオンライン感想会が開かれた。
諸事情で自分が世間から離れていたというのもあるのだが、本当に顔を合わせるのが久しぶりだった、ただ純粋に嬉しかった。
元々このサークルの面々は「オンライン飲みしようぜ~」みたいな事を言うタイプではない。なのにも関わらず、公開翌日というスピード感でその会が開かれたのには本当にびっくりする。(その会で皆が何から話そうかと困っていたのもまた面白い)
『シン・ウルトラマン』には、そんな風に人を動かす力があったなと感じる。

『シン・ゴジラ』はリアルを追い求める作品だった(ヤシオリ作戦は知らん)。一方で『シン・ウルトラマン』はそのキャッチコピー通り、浪漫を追い求める部分が大きかったように思う。
恐らく『シン・ウルトラマン』にリアルを求めていた人はガッカリしたことだろう。だが自分は、ガチガチのリアル路線じゃなくて良かったと思う。

先程は少し濁してしまったのだが、「初めてウルトラマンを見た衝撃」というのは結局、夢だとか希望だとか浪漫だとか、そういった事なのではないだろうかと思う。
閉塞感の強いこんな時代だ。だからこそ「ウルトラマン」という作品を通して明るく楽しい気持ちになって欲しい。助け合う事の素晴らしさを思い出して欲しい。信じることできっと未来はいい方向に変わる、そんな風に思って欲しい。自分はそう願う。

あとがき

この文章を書いている時点で文字数は35,000に迫ろうとしている。5/13に公開されたこの映画に関して語り尽くすのに、実に1週間もかかってしまった。(5/20に公開されている……よね?)

まずはこの文章をここまで読んでくれた人(そんな人いるのか?)にお礼を言いたい。ありがとう。読みづらい部分も多々あったと思うが、そこは勘弁してほしい。

この作品は今までのウルトラシリーズと比べても、遥かに多くの人が鑑賞している事だろう。その中には当然、より正確で分かりやすく簡潔な感想を述べている人もいるはずだ。
自分の力不足のせいで文章がここまで膨れ上がってしまい、本当に申し訳ないと思っている。

だが自分の言いたい事を全て書ききったかと言われると残念ながらそんなことはない。だが、当初より「感想文を公開から1週間で完成させる」という目標を立てていたのでここいらで妥協しようと思う。(本当は神永が見つめていたドッグタグの話とかもしたい)

ありがとう、『シン・ウルトラマン』。

そして、ウルトラマンを好きでよかった。

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