【あの銘店をもう一度”94年組シリーズ”第4弾 喜多方 「大安食堂1994」 御年86歳。これからもまだまだ現役
新横浜ラーメン博物館は、30周年を迎える2024年へ向けた取り組みとして、過去に出店した約40店舗の銘店が2年間かけ、3週間のリレー形式で出店するプロジェクト「あの銘店をもう一度"銘店シリーズ"」が2022年7月1日(金)より、1994年開業時のラーメン店が約3カ月前後のリレー形式で出店する「あの銘店をもう一度”94年組”」が2022年11月7日(月)よりスタートしました。
【これまで発表された出店店舗】
銘店シリーズ(3週間のリレー形式出店)
・第1弾 和歌山「井出商店」(2022年7月1日~7月21日)
・第2弾 福島・会津「牛乳屋食堂」(2022年7月22日~8月11日)
・第3弾 埼玉・川越「頑者」(2022年8月12日~9月1日)
・第4弾 福井・敦賀「中華そば 一力」(2022年9月2日~22日)
・第5弾 静岡・伊豆「あまからや」(2022年9月23日~10月13日)
・第6弾 岡山・笠岡「中華そば坂本」(2022年10月14日~11月3日)
・第7弾 札幌「名人の味 爐(いろり)」(2022年11月4日~11月24日)
・第8弾 久留米「大砲ラーメン」(2022年11月25日~12月15日)
・第9弾 青森「八戸麺道大陸」(2022年12月16日~2023年1月9日)
・第10弾 高知・須崎「谷口食堂」(2023年1月10日~1月30日)
・第11弾 博多とんこつ「麺の坊 砦」(2023年1月31日~2月20日)
・第12弾 飛騨高山「やよいそば」(2023年2月21日~3月13日)
・第13弾 博多「元祖名島亭」(2023年3月14日~4月3日)
・第14弾 函館「マメさん」(2023年4月4日~4月24日)
・第15弾 支那そばや(2023年4月25日~5月15日)
・第16弾 アメリカ「IKEMEN HOLLYWOOD」(2023年5月16日~6月5日)
・第17弾 イタリア・ミラノ「カーザ ルカ」(2023年6月6日~6月26日)
・第18弾 佐賀・唐津「らぁ麺むらまさ」(2023年6月26日~7月17日)
・第19弾 京都「新福菜館」(2023年7月18日~8月7日)
・第20弾 アメリカ・NY「YUJI RAMEN」(2023年8月8日~8月28日)
・第21弾 博多「ふくちゃんラーメン」(2023年8月29日~9月18日)
・第22弾 久留米「魁龍博多本店」(2023年9月19日~10月2日)
・第23弾 気仙沼「かもめ食堂」(2023年10月3日~10月30日)
94年組シリーズ(3ヶ月前後のリレー形式出店)
・第1弾 目黒「支那そば勝丸1994」(2022年11月7日~2023年2月26日)
・第2弾 環七「野方ホープ1994」(2023年3月2日~7月17日)
・第3弾 げんこつ屋1994(2023年7月20日~10月22日)
94年組のコンセプトは「94年当時の味の再現」。
“94年組”の第4走者は、喜多方「大安食堂」さん
創業者の遠藤進さんは御年86歳。遠藤さん曰く「これからもまだまだ現役」という鉄人職人です。
・大安食堂の歴史
創業者 遠藤進(えんどうすすむ)
昭和12年8月5日、6人姉弟の3番目として福島県喜多方市に生まれました。
大安食堂が創業したのは昭和53年10月12日、遠藤進さんが41歳の時でした。
遠藤さんは大安食堂を創業するまで、当時地場産業の1つであった繊維関連の仕事に長年携われていました。遠藤さんはお兄さんが営んでいたメリヤス関連の仕事からスタートし、20歳で上京。当時目黒にあったレナウンの工場でさらなる技術を習得し、喜多方に戻りました。
そして昭和31年、昭子さんと結婚。昭子さんの実家は、喜多方で製麺業を営む朝日屋食品。
朝日屋食品は、喜多方で現存する最古の製麺店で、初めて機械打ちの製麺を始めた蓮沼製麺の親戚で、昭子さんはラーメンに関して精通していました。
昭和40年代に入ると、大企業が会津エリアに繊維工場を建設。地場の繊維工場と比べ破格の高い賃金を払い、多くの雇用が大企業へと流失。
地場の中小企業は立ち回らなくなりました。
そんな状況もあり、遠藤さんは繊維業に見切りをつけ、昭子さんが製麺店の娘さんということもあり、昭和53年に大安食堂をオープンしました。
遠藤さん曰く「当時喜多方ではラーメンの専門店はごくわずかで、ほとんどのお店が食堂スタイルでした」とのこと。最初はカツ丼やカレー、うどんや日本蕎麦に至るまで様々なメニュー構成だったようです。
・喜多方ラーメンの歴史
ここで喜多方ラーメンの歴史について簡単に触れさせていただきます。
喜多方ラーメンのルーツは、現在も現存する「源来軒」に遡ります。
創業者の藩欽星(ばんきんせい)さんは、先に日本に渡っていた叔父を頼って昭和2年に入国しております。
「源来軒」が始める前に「震来軒」というお店や、「上海軒(現在喜多方にある上海とは別)」があったという説もありますが、「源来軒」が喜多方のラーメンの発展に大きく寄与されたことは間違いありません。
一説によると、藩欽星さんがラーメン作りを教えたお弟子さんは100人を超えるとのことです。
また藩欽星さんは、中国浙江省出身の方で、この場所から多くの有名ラーメン店が誕生しています。京都「新福菜館」、新潟燕「福来亭(杭州飯店)」、王貞治さんのお父さんのお店「五十番」は、全て中国浙江省出身の方々です。
そして戦後になると、「まこと食堂」、「上海」、上海で修業し独立した「坂内食堂」が中心となり喜多方ラーメンは発展していきます。
戦前から昭和40年代の喜多方は、今のようにラーメンが観光資源だったわけではありませんが、地元では出前も含め古くから根付いていた食文化でした。前述通り、喜多方は食堂文化としてラーメンを中心に、かつ丼やカレー、うどんや蕎麦、チャーハンに至るまで多種多様なメニュー構成でした。そのため老舗のお店は「○○食堂」という屋号が多いのが特徴です。
・喜多方における大安食堂の発展
大安食堂は昭和53年の創業時から地元のお客さんで賑わっていました。
色々なメニューを出していたものの、ラーメンは自信の一品であり、人気のメニューでした。
そんなある日、創業から3年ほど経った頃、NHK仙台の「東北めん類考」という番組の取材が入りました。レポーターは、当時全国ラーメン党会長の林家木久蔵さん(現在は木久翁さん)。
その時のエピソードが新聞記事に紹介されています。
以下新聞の記事を文字起こししております。
この番組をきっかけに、大安食堂は大繁盛しました。
そして、翌年の昭和58年には、喜多方が日本三大ご当地ラーメンとして知られるきっかけが生まれます。
・喜多方が日本三大ご当地ラーメンになった訳
喜多方はラーメンが観光資源になる前「蔵のまち」として脚光を浴びました。
「蔵のまち喜多方老麺会」のHPによると以下のように書かれております。
ではどのようにして喜多方がラーメン処として観光資源になったのか?
同じく「蔵のまち喜多方老麺会」のHPによると以下のように書かれています。
喜多方ラーメンが観光資源になった理由は、もともと根付いていた食文化に着目し、当時喜多方市役所商工観光課の職員であった富山昭次さんが尽力されたことが大きな要因でした。
・喜多方ラーメンの一大ブーム
新横浜ラーメン博物館の展示コーナーにも当時喜多方ラーメンが話題になった記事(オール生活/実業之日本社/昭和63年4月発行)を掲載しております。著作権の関係でこのコラムには載せられませんが、以下のようなことが書かれています。
タイトルには「とうとうラーメンツアー列車も運行。大人気 喜多方老麺は地域おこしの横綱格」と書かれており、以下のように説明されています。
その前年の昭和62年3月には蔵のまち喜多方老麺会が日本で最初のラーメン会として発足しました。
大安食堂の遠藤さんによると、遠藤さんは初代のメンバーとして名を連ね、自分のお店のみならず、喜多方ラーメンを全国区にすべく、北は北海道、南は九州まで、全国の物産展に出店したとのことです。
こうして喜多方ラーメンは日本三大ご当地ラーメンとして名を馳せることとなりました。
・新横浜ラーメン博物館への出店
私たちが大安食堂さんにお邪魔したのは1992年頃。日本三大ご当地ラーメンとして喜多方というラインナップは外せないという想いの元、誘致活動をしました。しかし前述通り、当時の喜多方は多くの観光客で賑わっておりました。私たちが大安食堂にはじめてお伺いした時、遠藤さんは物産展に出ており不在で、奥様にご挨拶したところから始まりました。
当時のことを遠藤さんに伺ったところ「あの頃はとにかく忙しく、私は喜多方ラーメンの発展のために月の半分は物産展の仕事をしておりました。妻からラーメン博物館の話を聞きましたが、これは間違いなく詐欺だと思いました。それには理由がありまして、当時喜多方のラーメン店はどこも繁盛していたこともあり、ラーメン店に先物取引などの儲け話をもってくる詐欺師が多く来ていました。私はこれは新しい詐欺だと思い、すぐに断るよう妻に指示しました」とのこと。
当時誘致をしていた岩岡曰く「私たちは諦めず、喜多方に何度も通いました。ある時、遠藤さんが横浜の物産展に出店するという話を聞き、その時は毎日のように通いました。私が怪しいものでないことをわかっていただくために、私の姉が女優であったため、姉にも会っていただきましたし、遠藤さんは私より20歳以上年上でしたので、父にも会っていただきました。」
遠藤さんは「また来たのか、内心はしつこい人たちだなと思いましたが、何度も来てくれますし、詐欺師ではないということはわかったので、徐々に出店したいという気持ちに代わっていきました。ただ、ラーメンを食べるのに入場料もかかるし、正直お客さんもそれほど来ないと思っておりましたが、内装や厨房機器などのイニシャルコストがかからないということもあり、ダメだったらすぐ辞めればよいという腹づもりで出店を決めました。まさかあんなにお客さんが来るとは夢にも思いませんでした」とのこと。
・喜多方に帰れないほどの繁盛
「私は喜多方で妻と二人でやっていましたので、ラー博出店時は喜多方の店を休み二人で横浜に行きました。当初の予定では1ヶ月で体制を作り、喜多方に戻る予定でした。しかしオープンすると毎日600杯~800杯のラーメンが出るため、夜2時頃まで仕込みをして、ふらふらになりながら住まいに戻り2~3時間の睡眠をとりまた朝6時に店に戻る。そんな日々がずっと続きました。
娘にも手伝ってもらい、横浜でスタッフも雇ったのですが、それでも体制が作れず、ようやく妻が喜多方に戻れたのは半年後でした。喜多方からは”いつ戻って来るんだ!このままだとお店が閉店したと思われるよ”という連絡も来ておりました。私のラーメン人生の中でこんなに忙しかったのは初めてでした。ただこの経験があったからこそ、自信にもなりました。」とのこと。
・大安食堂のラーメン
創業から50年近くたつ大安食堂。創業者の 遠藤進さんは今年8月で86歳を迎え、今でも現役の鉄人。遠藤さん曰く「うちのラーメンはシンプルだからこそ、ごまかしが一切きかない。まだまだ勉強」とのこと。
★スープ
スープはとんこつを中心としたスープと、魚介系をブレンドしたダブルスープ。そしてタレに使用する醤油は江戸時代から続く、地元喜多方の特注醤油を使用。芳醇な香りが漂う“懐かしさと新しさが同居した正統派喜多方ラーメン”。
★麺
喜多方最大の特徴はやはり麺です。飯豊山の天然水で打たれた熟成多加水手もみ麺。つるつる、しこしこした食感がスープとベストマッチです。喜多方ラーメンはスープも美味しいですが、麺を食べるという感覚の方が強いです。
★具材
具材はシンプルに、豚のバラ肉、ネギ、メンマ、なると。色々試したのですが、主役は麺とスープのため、余計な具材は入れませんとのこと。
周りからは「そろそろ引退してはどうか?」というお声もいただきますが、私としてはまだまだ極めていませんし体が動くので、まだまだ現役を続けます。私の人生で大きな分岐点となった新横浜ラーメン博物館への再出店は、大変ワクワクしています。少しでも恩返しがしたいという想いで今回は挑みます。今回は原点に戻り引き算のラーメンを出します。1994年当時の味を是非この機会に味わっていただきたいです。
大安食堂が卒業したのが1996年2月26日。2012年1月13日の「がんばれ東北!がんばろうラーメン!」で5日間限定で出店しましたが、レギュラー店の卒業からは実に27年ぶりのラー博復活となります!
御年86歳の鉄人が作る昔懐かしのシンプルな喜多方ラーメンをこの機会に是非味わっていただきたいです。期間中、遠藤さんが厨房に立ちラーメンを振舞います。出店期間は2023年10月27日(金)~2024年1月8日(月)です。
「あの銘店をもう一度“94年組”」の第5弾以降は順次発表させていただきます。詳細はオフィシャルホームページやSNSをご参照ください。