『「サル化」する人間社会』(山極寿一)【言葉と家族とゴリラ】
あまりにも一貫性のない記事なので内容の説明というか弁解です。
1.コミュニティの義務である活動内容を勘違いして必要ない書評を書いてしまったので書評があります。
2.読んでいる途中で自分用に残した感想があります。
3.自分という人間が読んで展開する内容です。
4.本来は人に晒すようなものではありません。
なお、3.以降は読んでもわからないと思います。。。
ちゃんと伝わるように書くなら小説でも書いてみようと思います。
書評を供養する
本書はゴリラの専門家が書いたある種の社会批評。人間のコミュニケーションは面と向かい合ってするべきだと述べている。中盤過ぎまで内容はもっぱら著者のゴリラ研究の話が綴られている。ゴリラと猿を対比させ、それぞれ人間との類似点をあげている。最後には今の人間が猿社会に近づこうとしており、このことに著者は悲観的だという見解で締めている。おそらく生物学者だからか、人間を霊長類という括りで捉えることがまず前提にある。この点が本書の特徴と言える。この書評を書いている者は全く社会学に明るくないのだが、人間同士のコミュニケーションのあるべき姿について論じる場合、人間の心理あるいは人間社会の成り立ちなど、動物の一種族として人間社会を捉えることが前提にある。
以上が本書の特徴と捉えた点であり、未読の方に紹介するための話。以下は私なりの視点。
私は同書を読んで人間の知性が「家族」のあり方を変えたのではないかと思える。私の場合、「言葉」は音というよりも文字だ。また私にとって「言葉」は知性と切り離せないものだ。人間社会の複雑さはほかの動物とは比べ物にならないが、最大の原因は文字=知性だと思っている。
遠くの人間ともコミュニケーションができるから複雑な社会が存在できる。複雑になるほど、誰もがやらねばならないことは増える。必要以上の情報量を受け取る必要もないし、むしろ容量を考慮すれば受け取るべきではない。これが身体性を伴うコミュニケーションを排除しようとしているのではないかとすら思ってしまう。
だから面と向き合ってコミュニケーションしないといけないというのが難しく感じる。その困難さを打ち破るほど、身体性を持つコミュニケーションを持つべきである理由があるのか、同書が提示する内容ではまだまだ希薄に感じる。
たぶん感想を書こうとしていたはず
感想1:
さーっと読んだ。理系なせいか、ところどころ論理的な飛躍に嫌悪感を覚えたが、おそらく私が知識不足なせいだろう。著者の憂慮は、以前見かけたフィルターバブルの問題に帰着されて、そのことを私がどう思うかについてという問題になるのだが、包みかくさずに言えば、なるようになってしまえだ。
感想2:
もっとも身体性を感じられるコミュニケーションといえば、性交渉あるいは暴力だと考えている。極めて強烈な情報が五感を通じて互いにやりとりされている。一方で、言葉=人間の知性でのコミュニケーションというもの自体、人間の動物性・カオス性を排除する性質があるとも考えている。そんな筆者だから、著者が身体性や家族の重要性を強調することは、知的なあり方への反駁にも映った。なんで知への反駁だと思うんだと説明を求められると、話が長いしうまく説明できる気もしないのでしない。
本当に何を書こうとしたのかわからない
提言1:
家族の束縛はほとんど呪いのように個人の中に息づいている。私自身10代の頃から早く独り立ちしたくて仕方なかったが、いざその夢が叶ったときには、自由の幸福を噛み締めていた。逆説的に、これは私の根っこに家族に帰属していた意識があったという何よりの証拠でもある。束縛から自由を求めたのなら、その人間を作った土台があり、ほとんどの場合が家族になるのだろう。なので著者の意見は理解できる。
ところが、動物として人間を見て論じている点がやはり気になる。いや人間は確かに動物なのだが、本文に書かれている内容の如くメタ的な認知ができる動物界の異端児が新しく織りなすコミュニケーションの形態に対して保守的な立場をとる必要はない。というのが筆者の考え。むしろ本に書かれているように、いざダメだったら原始的な社会に戻っていく運動が発生するするだけだろう。
手段としての情報か、価値としての情報か
情報技術によるコミュニケーションでは生の情報量がどうしても落ちてしまうからダメだと著者は言いたいのである。私もとにかく相手の情報量が欲しい場合には現実で足を運ぶ。
ex: 推しのアイドルのライブ、何かの分野で熟練者の動きを見て盗む
逆に生の情報が必要ない場合は行かない。効率を求めるていると本文中にも書いてある通りに、十二分以上の情報を追求しない場合は問題にならない。そういう情報は手段・過程的な要素でしかない。
なので問題があるとすれば、追求するほどの情報がないことくらいか。その情報があるだけで自分にとって幸福となるようなモノが存在しない場合、極めて現代では幸福を感じにくいのかもしれない。そして、競争社会で勝つこと以外で自分なりの幸福を構成出来ない時にサル化するのだろう。ただ、それでも悍ましいのは、本来なら複雑な情報を伝達できるコミュニケーション道具でもある言葉を、(厳密には暴力には該当しないらしいが)ほとんど暴力のために使っている様子をインターネットでよく見かけること。やはり道具には善いも悪いもなく、あるとすれば使い手の問題になる。動物として生存競争、帰属する社会での競争、このいずれでも淘汰された者が、とうとう形而上の舞台で言葉を武器にしているサルなのだろうか。筆者は自分がそうなってしまうことが怖いので、散々競争で負けまくってもなお踏みとどまろうと足掻いている。
結局のところ、美学的な問題になってしまう。それも、
・思考は言葉で行われていること
・内気で物思いに耽る人間であること
・美学的な要素にこだわっていること
という事実が私にとって言葉によるコミュニケーションが最優なのだと信じさせるのだろう。
唐突すぎる告白
肉体的に生きている人たちに敬意を払っている。私にはとてもできそうにない。ここでいう肉体的に生きていける人たちっていうのは、例えるなら「最初の人間」(アルベール・カミュ著)に出てくる叔父のような人物を指す。耳は聞こえないが、周りに慈愛深く、誠実に与えられた人生を送っている。私も幼少の頃、家族にそのような人たちがいた。今でも眩しく感じる。自分には到底できない生き方だと知っているので、そしてだからこそ真に理解できない相手なのだと知っている。それでも、相手を理解できるかできないかは尊敬の念には関係ないのだと信じている。