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中国は清朝時代に内戦で先に南京大虐殺を行っていたことをChatGPT3.5で確認しました


ジム・ロジャーズの本がきっかけ

十数年前に「ジム・ロジャーズ中国の時代」という本を読み、本当かなぁ、どうなのかなぁ、前著の「大投資家ジム・ロジャーズが語る商品の時代」では商品(原油や貴金属、穀物などを指す)の時代は来てなかったような記憶があるしなぁなんて思っていました。

ジム・ロジャーズって誰?って方に簡単に説明すると、ジョージ・ソロスと組んでクォンタム・ファンドというヘッジファンドを立ち上げたアメリカ人で、クォンタム・ファンドを退社後はバイクで世界一周(1990年~1992年)して、約10年後には今度は車で世界一周(1999年~2002年)をした人です。それぞれの旅について、以下の本を出しています。

今手元に本が無いので確認できないのですが、覚えている範囲で興味深かったのは中国へ行ったときの話で、多民族国家である中国は民族や宗教に関して寛容で、様々な宗教の寺院も建っている、という部分。「あれ、文化大革命(1966年~1976年)の影響は?反省して見直したの?」と思いました。今の中国はどうなんでしょう?

読み物としては面白いので興味のあるかたはどうぞ。今は中国の伝道師っぽくなって傾聴に値しないように感じます。

話を戻して、同じ頃Amazon.co.jpをふらふらしているときに以下の本を見つけました。

今はこれの新版が出ています。

ジム・ロジャーズの中国に関する本の影響もあって興味本位で購入して読んだのですが、驚きの連続でした。

「太平天国の乱とそれこそ本物の『南京大虐殺』」という章があり(Kindleだと146ページあたり)、清朝時代に内乱があり、大虐殺が行われた様子が書かれています。そこから一部抜粋します(注:天京とは当時の南京の名称)。

私の手元には、当時の虐殺にかんするもう一つの証言がある。湘軍と共に天京に攻め入ったある外国人の傭兵が、城内での目撃談を、英国の植民地だったインドで発行している新聞『インドタイムス』で語っている。

「私は朝廷の部隊が太平天国軍の捕虜たちを殺戮する場面をこの目で見た。彼らは本当に軍の捕虜であるかどうかは定かではない。とにかく、普段は野菜売り場である町の広場に、捕虜とされる数百人の人々が集められてきた。群れの中には男もいれば女もいる。老人もいれば子供もいるのだ。歩くにも無理な老婆、生まれたばかりの嬰児、懐妊している婦人の姿も見られる。

 朝廷の兵士たちはまず、若い女性たちを捕虜の群れの中から引きずり出した。彼女たちをその場で凌辱した後に、周りで見物している町の破落戸(注:ならずもの)たちの手に渡して輪姦させるのである。その間、兵卒たちはにやにや笑っているが、輪姦が一通り終わると、全裸にされた女たちの髪の毛をんで一太刀で斬り殺してしまうのだ。

 それからが男たちの殺される番である。彼らは全員、小さな刀で全身の肉を一片一片切り取られて殺される。何のためかはよく分からないが、心臓は、一つずつ胸の中から丁寧に抉り出されて、用意された容器に入れられるのである。

 次に、子供たちが母親の前で殺され、母親たちも同じ運命となる。しかし私には、そこまでの殺しの場面をここで語る勇気はもはやない。とにかくそれは、私が生まれて以来目撃した数多くの際どい光景の中でももっとも恐ろしいものであった」

なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか

最近X(Twitter)で流れてくる某テロリストと同じようなことをしていたのですが、このような話がいろいろと出てきます(現在の中国共産党でも殺戮のノルマがあったりとか)。

この大虐殺についてChatGPT 3.5は答えられるか試してみた結果が以下の通りです。

ChatGPT 3.5に聞いてみた

南京大虐殺だと日本の方を答えてくるので、以下のように質問しないと中国の方は出てこないようです。

中国の太平天国の乱について教えてください。

太平天国の乱(TaipingRebellion)は、19世紀半ばに中国で起きた大規模な反乱であり、1850年から1864年まで続いた武装蜂起です。この乱は太平天国と呼ばれる反乱政権が形成され、清朝政府に対抗しました。以下は太平天国の乱の主な特徴や経緯です:

指導者と思想:
太平天国の指導者は洪秀全(HongXiuquan)で、彼はキリスト教の教義を元に独自の宗教思想を展開しました。太平天国のイデオロギーは、社会的な平等と土地の再分配を主張していました。

発端:
1850年、洪秀全は南京を拠点に反乱を起こし、清朝政府に対抗して太平天国を樹立しました。この反乱は当初、社会的な不満や宗教的な動機に基づくものでした。

規模と影響:
太平天国の乱は中国歴史上最大規模の内戦の一つであり、数百万人から数千万人に及ぶ死者が出る大惨事となりました。清朝政府は激しい抵抗を試みましたが、太平天国は一時的に南京などの広範な地域を支配しました。

外国の介入:
太平天国の乱の時期には、外国からの介入もありました。太平天国は一時的に広東を占領し、外国との交渉が行われました。また、太平天国の一派は外国人傭兵を雇用することもありました。

清朝の反攻と終結:
太平天国の乱は清朝政府が多大な犠牲を払って鎮圧し、1864年に太平天国政権が崩壊しました。洪秀全は南京で自殺し、乱は終結しました。

太平天国の乱は、中国の歴史において社会的・経済的な不満が反乱につながる例として注目されています。また、その影響は清朝政権の弱体化や中国社会の構造にも影響を与えました。

中国で起きた「天京屠城」について、どこで行われ、犠牲者の数が何人かも含めて教えてください。

「天京屠城」は、太平天国の乱の中で、1856年に南京(当時の名称は天京)で発生した事件です。以下はその概要です:

発生地:
天京屠城は、当時の太平天国の首都である南京で発生しました。南京は太平天国の指導者洪秀全によって「天京」と改名されました。

発生時期:
天京屠城は1856年に発生しました。この事件は太平天国の内部で洪秀全の信任を受けた楊秀清(YangXiuqing)とその支持者との対立から始まりました。

経緯:
楊秀清は太平天国の指導部において権勢を振るっていたが、彼の急逝後、指導部内で権力闘争が勃発しました。この闘争の中で、洪秀全は楊秀清とその支持者を粛清することを決定し、天京屠城が発生しました。

犠牲者の数:
天京屠城における犠牲者の数については諸説あり、正確な数字は不明です。一部の史料や記録では、数万人から数十万人に及ぶとされています。事件は極めて残忍なものであり、多くの人々が虐殺されたとされています。

影響:
天京屠城は太平天国内での権力闘争や内部の混乱を象徴しています。この事件は太平天国の組織や統治に深刻な影響を与え、その後の清朝との戦闘において太平天国が大きな打撃を受ける一因となりました。

天京屠城は太平天国内部の混乱と残酷な事件であり、その影響は中国の歴史において重要な出来事とされています。

曾国藩について教えてください。

曾国藩(ZengGuofan、1811年11月26日-1872年3月12日)は、清朝時代の中国の政治家、軍人、学者であり、特に太平天国の乱(1850年-1864年)の鎮圧で知られています。以下は、曾国藩に関する主な情報です:

官職と功績:
曾国藩は進士出身であり、科挙に合格して官僚としての経歴をスタートしました。彼は太平天国の乱で太平天国軍に対抗するために招集され、湖北省で活躍しました。彼は湖南省での戦いで功績を挙げ、さらに江西省、安徽省、湖北省などで反乱軍の鎮圧に尽力しました。

湘軍:
曾国藩はその指導のもとで湘軍(XiangArmy)を編成し、これは清朝政府のために太平天国軍と戦った軍隊でした。湘軍は効果的な戦略と組織力で知られ、曾国藩の指導により反乱軍との戦闘に成功しました。

勉学と思想:
曾国藩は学者としても知られ、儒学の思想に深く傾倒しました。彼は『曾文正公全集』など多くの文献を著し、儒学の伝統を重んじる立場をとりました。

維新への影響:
曾国藩はその功績から清朝の重要な官職に登用されましたが、一方で彼の意見は時折改革の必要性を訴えるものでした。彼の弟子たちも後の中国の近代化運動に影響を与え、曾国藩の思想は維新派(自らを「挙人派」とも称した)に受け継がれました。

曾国藩は中国の歴史において重要な人物であり、その影響力は彼の生前から続く長い歴史にわたっています。

曾国藩は天京屠城のとき、敵兵士や民間人に対してどのようなことをしましたか。

曾国藩は天京屠城の際、太平天国の首都である南京(当時の名は天京)を攻略し、その結果として発生した屠城に関与しました。天京屠城は太平天国の指導者洪秀全が率いる反乱勢力が清朝によって鎮圧された際の出来事で、屠城の過程で多くの人が犠牲になりました。

曾国藩は屠城において、敵兵士や一般の民間人に対して厳格な制裁を行いました。以下は、一般的に知られている一連の出来事ですが、注意が必要であり、具体的な詳細は複雑で論議の余地があります。

残虐行為:
曾国藩の軍勢は天京を占拠すると、戦闘での敵対者や一般の市民に対して残虐な行為を行ったとされています。これには略奪、殺戮、異常な拷問などが含まれます。

清朝政府の支持:
曾国藩は清朝政府の代理として行動し、天京の陥落は清朝にとって歓迎される出来事でした。そのため、彼は清朝からの支持を受け、功績を認められました。

曾国藩自身の手紙:
曾国藩は屠城後に清朝の高官に宛てた手紙で、降伏勧告や攻略過程における功績を報告し、清朝に対する忠誠を示しました。

天京屠城は歴史的な出来事であり、その詳細や曾国藩の行動については資料によって異なる記述が存在します。一部の史料では彼の厳格な行動が強調されていますが、他方で彼の行動を清朝の忠実な奉仕と見る立場もあります。

調べ方に工夫が必要

「太平天国の乱」について調べるとき「南京大虐殺」で調べると期待した答えが返ってこないあたり、質問の仕方に工夫が必要なようです。あるいは歴史的には太平天国の乱は南京大虐殺と呼ばれていないのかもしれません。

AIというなら「もしかして以下のことですか」と南京で行われた他の大虐殺について答える、あるいはその大虐殺の呼び名を示してくれるくらいのことはして欲しいと思いました。

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