「it(インフルエンザかもしれない)」から思索の旅がズルズルと始まった/身体を内側から語ること /身体の物語
「真剣な恋は暇人の特権である」といったのは、オスカー・ワイルドである。
忙しい日本人からは、どうも真剣な恋が減少していっている。
誰も真剣に恋する暇などはない。
真剣な思索もまた同様ではなかろうか。
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私はこの身体の物語で2つのことが書きたいのです。
1 身体
2 言葉
身体について言葉にするのは、むつかしいおもしろいテーマです。
しかし、まだ私の読者でない方にどうおもしろいかを説明するのはまたむつかしいことです。
そういうわけで唐突にはじめてしまうのがよいかもしれません。
ただ1つ言えるのは、ここでは身体は「内側から語られる」ということです。
「身体を内側から語る」というのは、たいていの方は何のことかわからないものです。
日本社会にはそういう習慣があまりないのです。
自分の身体も外側から眺めるのです。
「体温は何度?」
「身長は?」
「体重は?」
「過去の病歴は?」
これらはすべて外から見た姿です。
では、内視鏡で腸内を見たらどうでしょう?
これはたしかに内側から見ているけれども、見ている主体はたいていお医者ですね。
医者は「見る人」。
患者は「見られる人」
という強固な関係があるのです。
内側から見る、というのは、身体が主体となって「感じる」ことです。
お腹がいたい、といったときに、「キリキリ痛い」「しくしく痛い」などと言いますね。これこそ、内側から見たお医者さんにはわからないことです。
だいだい痛みも快感も、みんな同じかどうかはわからない。
あなたと私が同じものを感じているかどうかわからない。
ただ表情や反応から類推してだいたい同じものだと扱っている。
これが視覚であると、写真を撮ったり、絵を描くことによって、およそ共通のものを見ているとはっきり確認できます。
身体の感覚はそのような共通性がありません。だから、不確実と軽視されることが多いですが、じつはたいへん確実なものです。
前置きはこれくらいにして始めましょう。
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2019年の年末のある朝、私は「インフルエンザにかかった」のです。
ただし、私はお医者というものにできる限りかからないで生きようとしているので、医者には行きませんでした。「これはインフルエンザである」というお墨付きはいただいていないのです。
世の中には、この種のエビデンスがいちばん大切な方もいるわけです。
私にとっては、内部から身体を見るものには、医者が何をいうかは大したことではなく、これはインフルエンザなのですが、医者好きの方からからまれると厄介なので、スティーブン・キングにならって「it(インフルエンザかもしれない)」という呼び名にしましょう。
一種の魔除けです。
さてある朝「it」は、訪れました。
「it」はウィルスのことでもあり、症状、病気のことでもあります。
必要がない限り、書き分けませんので読み分けてください。
「it」が来た朝の私の感覚は「これは反乱だ」というものでした。
身体の一体感がないのです。
熱があり、上半身が不必要に緊張しており、咳がでてだるい。
非常なイヤな感じ。
風邪と違うのです。風邪は身体の免疫力とがっぷり四つに組んだような感じがあるのです。
つまり風邪と身体が戦っている感があります。
風邪のウィルスと免疫力が戦っている姿が「風邪」という現象と言えます。
ところが「it」ときたら、このような一体感がありません。免疫力と戦う様子もありません。ただそこにいて悪さをするのです。
風邪が正規軍とすると、インフルはゲリラみたいです。
都市ゲリラは命令系統がはっきりしないのがいいのです。というのは、ボスが誰だかわからないと潰しようがない。捕虜を捕まえて尋問しても、組織全体を知らない。バラバラの小ユニットが動いている。
だからとらえどころがないのです。
あるいは、風邪がシュワルツネッガーのターミネーターだとすると、「it」は『ターミネーター2』のなんかニュルニュルと変形してしまう始末の悪いタイプのような感じ。
そういう異物が体内に居座り、数日のバッドトリップは始まりました。