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生老病死


老いや病気や死について書くことが好きだ。

というのは、それに直面したときにしか見えないヒトの断面が見えるから。

たとえば若いときに老いについて書こうとは思わないし、たぶん空疎なものしか書けない。

ニーチェに「病者のパースペクティブ(遠近法・眺め)」という言葉があり、印象に残っている。

老いや病は、主観的な視点の根拠である心身が特殊な状態にある。その状態でしか見えない世界がある。

死については僕には死者の観点から書くことはできないのは残念だ。

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ところが老病死については、FBでもノートでもいいねなどの反応が少ない。

もともと少ないがさらに少ない。

やはり忌みごとなのであろう。

日本には言霊思想が根強くあり、言葉にしてしまうと、現実もそれによってくる、という感覚があるようだ。

日本人が政治批判をしないのも、そこに悪を見出すと、それが現実化してしまう、と思っているのではなかろうか?

悪を見なければそこに悪はないのである。

原発が事故起こそうが、見なければ無害なのである。

この傾向があまりに強いので、政治を批判する者はどこか世間から浮き上がって見える。

そういう土着的な風土である。

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老人の病気話がつまらないのは、現代医学の信者たちの話だからである。

医者のマーケティングの掌の上で、いかに踊って見せようと何の創造性も魅力もない。

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音質育ちのお釈迦さまは、四門出遊といって、城の4つの門を順番に出て、老人と会い、病人と会い、死者と会った。

やがて老いるべき者、病むべき者、死すべき者としての自分を知ったのである。

生老病死の生ってなんだったっけ。

と思ってwikiると、修行者のことであった。

インドには、たとえば「一生左手を上にあげたままにする」というような修行者がいるらしい。

ある種の聖者なので、それで喜捨を受けられるのだろう。

たぶんそういう人を見たのではないか。

最後の門で修行者を見て、その後出家している。

4つの苦しみのうち、修行者だけが「自発的受苦」である。

それを選んだのか。

お釈迦さまも後に断食行を行なっている。

そして「こんなことは意味がない」と言って途中で(といっても相当やってから)やめている。

グルジェフはインドのさまざまな行者について、「より高次の認識を持つ者たちがいて、彼らの実験動物に過ぎない」と言っている。

つまり剣山みたいな釘の上に裸で寝られる者がいる。

だからといって悟るところ、精神的内容は何もない、ということだ。

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お釈迦さまも生老病死ということを深く考えられたのである。

僕はせめて書けることを書くことにする。

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