高橋留美子『らんま 1/2』について
高橋留美子先生による、漫画『らんま 1/2』について、
今年、アニメのリメイク版が放送されている。
それについて、私が思う事を、以下、恣意的に、いたずらに述べてみたいと思う。
私の意見について、
「失礼だ」
「見当違いも、甚だしい」
という反論もあるかも知れない。
そのような場合は、私の話を、無視していただきたい。
(以下、敬称略)
01.『らんま』における、女らんまの視点
るーみっくわーるど作品の女キャラは、絵柄が、可愛い。
その上、目尻に、アイ・シャドウなどしていて、
どこか、見る者を惑わすような、官能的な、妖しさを漂わせているのが、特徴である。
そのうちの『らんま』について、
バトル、ラブ、コメディの要素を備えた、
一見、ありふれた少年漫画に見える。
しかし、これは「特異な、魔法少女もの」である…。
と言ったら、非難を浴びるだろうか。
私が、そう感じるのは、女らんまの存在からである。
『らんま』のストーリーは、
男乱馬が、玄馬との、中国の呪泉郷での修行で、
娘溺泉(ニャン・ニーチュアン)に落ちてしまい、
それ以降、水を被ると、女になってしまう、という呪いを受けてしまった事に、端を発する。
それを、私の場合、逆に考えてみたのである。
男乱馬の変身ではなく、
もし、初めから、女らんまという人物が、いたのなら、と…。
この女らんまから見た視点で考えてみると、
湯を被って、男乱馬に変身する時というのは、
魔法少女ものとして、考える事も出来るように思う。
『らんま』では、女らんまのように、なぜ、男に変身する女が、登場するのだろうか。
02.現実における、男になりたがる女
「男に生まれたかった」
翻って、現実では、このような願望を、抱く女は、よく見かける。
まず、私の姉などが、他でもない、そういうタイプである。
様々な価値観ゆえか、
思考が、男性化している、女がいるのである。
その上、私の姉は、天海祐希のファンだ。
天海といえば、宝塚の経歴があるのは、周知の通りだが、
宝塚の、タカラジェンヌを見ると、女でありながら、男を演じる役が存在する。
女であったとしても、男の役割を求められる者がいるのである。
つまり、「男になりたい」という願望は、特別、変わった事ではない。
『らんま』の作者である、高橋留美子自身が、
タカラジェンヌの男役のように、「男になりたい」という願望があったかどうかは、定かではない。
しかし、『らんま』では、あかねや、小太刀など、男勝りな性格なキャラが多いというのは、どういう事だろうか。
男乱馬譲りの、江戸っ子口調で話す、女らんま。
彼女など、「本当は、男になりたかった」という、誰かの願望そのものを反映した、キャラのように見える。
漫画も、私小説のように、自伝や、随筆(エッセイ)の表現方法の一種である、と考えるならば、
私は、あかね、小太刀、女らんまは、
作者である高橋の、紛れもない、過去の断片の一つであり、
分身ではないのか、と思っている。
つまり、『らんま』の高橋は、過去に、
あかね、小太刀、女らんまのような言動をする時があったのではないか。
引いては、男性になりたい願望を、密かに抱いていた…。
可能性の高さから、こう見て、差し支えなかろう、と私は思っている。
03.『ベルサイユのばら』のオスカルと、『らんま』における変身
ある事情から、女でありながら、男のなりをする。
傍から見れば、一見、綺麗な、優男にしか見えない。
そのような男装の麗人が登場する作品といえば、『ベルサイユのばら』である。
この作品を描いた、池田理代子にしても、
明らかに、主人公のオスカルに対して、
「本当は、私は、男になりたかった」という、切実な願望を、託しているように思う。
もしくは、実際に、オスカルのように、親から厳しく育てられたに違いない…。
と言ったら、失礼だろうか。
高橋の『らんま』で、女らんまが、湯を被って、男乱馬に変身する時、
(つまり、魔法少女が、魔法のステッキを使って、大人へ変身するように)
世の中の、「男になりたい」女の抱く、長年の、カタルシスが叶えられる。
それが、『らんま』を描く上での、高橋にとっての秘められた、悲願だったのかも知れない。
04.現実における、女になりたがる男
『らんま』の読者には、反対に、
「女に生まれたかった」
という、奇妙な願望を抱く者も、いるのではないだろうか。
要するに、男物のズボンではなく、
女物のスカートを穿いたり、
髪を伸ばして、化粧をするなど、女装をする男などである。
一昔前までは、このような男は、変態と言われていた。
このような性癖をもつ者を、
異性装者(トランス・ヴェスタイト)と呼ぶ。
しかし、最近は、学校などで、男子、女子の制服について、
生徒の性別に関係なく、どちらを選ぶかを自由にする、という風潮が生まれている。
異性装者について、社会が寛容的になって来ているように感じる。
その上、同性の者を、性愛の対象と見做す事に、
次第に、偏見がなくなりつつあるようにも感じる。
このような例を述べていきたい。
05.『聖闘士星矢』の同性愛と、『らんま』における変身
目鼻立ちが、くっきりした美少年達が、
自ら、愛する存在を守るため、互いに戦い、傷つき、倒れてゆく。
そのような作品と言えば、車田正美の『聖闘士星矢』である。
この作品で、アンドロメダ瞬というキャラクターがいる。
彼の外見は、男にしては、華奢であり、
その顔貌や、髪の艶は、女のものと、見紛われるほどである。
瞬には、兄の、フェニックス一輝がおり、
一輝は、瞬に対して、ある特別な感情を抱いていた。
以前、一輝には、恋人、エスメラルダがいたが、
彼女を失う事で、一度は、一輝の精神は、闇に堕ちてしまう。
この一輝の精神を、辛うじて支える、よすがとなったのが、瞬の面影である。
瞬の面影は、亡き、エスメラルダと、瓜二つであり、一輝にすれば、色めき立つものがあったのだろう。
瞬を守ろうとする、一輝の思いの強さは、
この性を超えた部分にあるのかも知れない。
高橋の『らんま』では、女らんまが、
あかねの身代わりとなって、新体操のレオタードを着たりするエピソードがある。
しかし、実は、それは、男乱馬の行為である。
この時、女らんまは、どのような気持ちに浸り、
あかねは、いかなる思いで、女らんまを眺めていたであろうか。
定めし、互いに、名状し難い、含羞と恍惚を、交互に味わっていたに、相違ない…。
しかし、やはり、これらの例も、特別、変わっている、という訳ではない。
最近の、ジェンダーレス化を、推進する社会の到来を待たずとも、
このような男性の例は、実は、少なからず、日本の社会に、あったのである。
06.日本における、同性愛の文化、習慣
既に、この事を、詳細に研究し、
学術的な著書として、記述されている人がいるので、
それを読んでいただくと、分かるのだが、
古い文献を調べると、日本では、古くから、男が、女の役割をするような文化というか、習慣があった事が、浮き彫りになる。
古くは、女装して、熊襲の豪族を油断させ、討伐した、大和朝廷の、ヤマトタケルノミコトに始まる。
にわかに想像し難いが、
彼の女装は、敵を欺けるほど、美しかった、という事だろうか。
その驚くべき習慣は、時代が進んでも、存在し続けた。
戦国時代の、衆道、稚児愛、
江戸時代の、陰間などを、ご存知だろうか。
これは、戦場や、寺社など、
女人禁制の場所で、長い間、男だけで生活し、
お互いの身の回りの世話などをしていると、
遅かれ、早かれ、発生する習慣である。
(つまり、現代の男子校の寮などでも、充分、起き得る事である)
そこまで行かなくとも、
現代でも続く、歌舞伎では、
なぜ、女形が存在するのか、と考えていただくと、ある事情が察せられるだろう。
人間には、いや、あらゆる生物には、
男でもない、女でもない、何か、中間のような、存在になる時がある。
両性具有者と、いうべき存在になる時が…。
一般に、それは、男色、男妾、男娼、
オカマ、オネエ、男の娘、
欧米では、ゲイ、ホモだとか、
卑俗な呼称を用いられる事が多い。
最近の、BL、ボーイズ・ラブなどは、
つまり、このような男達の、淀んだ世界を、耽美に描いた作品である。
07.インドなどにおける、ヒジュラと、『らんま』における変身
日本以外の国でも、やはり、男でもない、女でもない、両性具有の概念を、もつ国がある。
有名なものは、インド、パキスタン、バングラデシュにおける、ヒジュラだ。
このヒジュラは、宗教的な身分を表すと同時に、
(但し、アウト・カーストとされている)
ヒジュラ同士の共同体をも意味している。
その総数は、インドで、五万人とも、
五百万人とも言われているが、
詳らかではない。
非常に複雑なものなので、詳しくは、Wikipediaの該当ページを参考にしていただきたい。
ヒジュラの習慣として、聖者として、宗教的な儀礼に参加する事などがある。
この点で、ヒジュラは、何も、いかがわしい存在ではない、という事が分かる。
ヒジュラと、一般的な家庭の関わりとしては、
子供が生まれた、新婚の家庭などに、ヒジュラが趣き、
歌や踊りの披露がある。
人を楽しませる音楽やパフォーマンスで、
夫婦や、子供の幸せを願うのであるが、
それは、本来、男の役割と言うよりも、女の役割である。
ここで、ヒジュラが、純粋な男ではなく、
何か、別の存在という事が分かるだろう。
このヒジュラとは、ヒンディー語、もしくは、ウルドゥー語で、半陰陽を意味し、
つまり、両性具有者を指す。
ヒジュラの多くは、先天的な半陰陽とされているが、
中には、女装した男も見かけられる。
更には、完全に、男性の機能を、去勢した者も、ヒジュラには、いるという。
去勢した男について、
宦官と呼ばれる事がある。
宦官という言葉を、ご存知の方は、多いのではないだろうか。
真っ先に思いつくのは、中国の王朝時代などの宦官である。
中国の王朝時代では、宦官が、政治の中枢で、為政者に取り入り、権力を握った。
ヒジュラにしても、英語で、宦官を意味する言葉に訳される事がある。
インドの都市部に当たる、ニューデリー、カルカッタでは、
男娼として、振る舞う、ヒジュラも存在するためである。
男でもない、女でもない存在というのは、
このように、古今東西、存在していたのであり、
今更、驚くべき事ではない。
人間社会では、白か、黒かではなく、
何か、中間のような存在があった方が、都合がいいという事だろうか。
2014年の四月、インドでは、ヒジュラは、第三の性として、認められている。
『らんま』では言及されていないが、
作者の高橋は、いわば、ヒジュラのような存在を、明るく、爽やかに、肯定的に描きたかったのではないか。
男乱馬が、女らんまに変身する、という、フィルターを通して…。
私は、そう思っている。
08.『らんま』における、両性具有
『らんま』という作品では、男乱馬が、水を被る事で、図らずも、有り得べからざる、両性具有が、実現する。
水の中から、男乱馬ではなく、
絵画にある、水辺のオフィリアのように、女らんまが現れる時、
現実の、性の束縛というものから、解放されている瞬間を感じる。
この、女らんまに対して、あろう事か、恋愛感情を抱いてしまう、九能や、三千院などの男達がいる。
恋に燃え立つ、源氏の君が、想い人を抱くように、
男から、濃厚に接吻される、女らんまの苦痛に満ちた表情。
それは、滑稽と笑い飛ばすべきなのか、
悲劇と感じて、戦慄すべきなのか…。
そうかと思えば、男乱馬を意識して、
恋愛感情を抱く、あかねや、小太刀がいる。
それは、女がもつ、男への母性本能からの想いだ。
このように、『らんま』では、ノーマルな、男女間の恋愛も、用意されているが、
他の恋愛に較べると、あまり目立たない。
女らんまと、
彼女の事情を知っている、あかねという、
女同士の友情、もしくは、やはり、同性愛を感じさせる、組み合わせもある。
(この場合は、レズビアンと呼ぶ)
この時、あかねは、女らんまに対して、
「女の肉体を理解している男」と見做して、
他の男にはない、安らぎを感じるのかも知れない。
このように、『らんま』の主人公は、
性的に見れば、どのような方向も、OKという、まさに、奔放な「乱」である。
(このような人を、バイセクシャルと呼ぶ)
これを、視覚的に、手品のように、表現する事が出来るのが、漫画や、アニメである。
世の中には、さまざまな、性的嗜好があるが、
『らんま』は、ある種の必然性をもって、生まれた作品なのかも知れない。
09.『らんま』とは、性の束縛からの解放を目指した作品か
『らんま』は、「特異な、魔法少女もの」である…。
意見の冒頭で、このように、私が、僭越ながら、断言した理由が、お分かりいただけただろうか。
『らんま』のように、自分の気持ち次第で、
頼り甲斐のある、かっこいい男になったり、
綺麗な、可愛い女になったりする事が、自由に出来る能力、もしくは世界。
もし、このようなものが実在すれば、
今の時代よりも、幸せに生きられる人が、多く、出て来るかも知れない。
(当然、トラブルもありそうだが…)
これは、間違いなく、古来から、人が抱く、夢の一つである。
ゆえに、『らんま』は、今でも、多くの人から共感され、支持を得ているのではないだろうか。
今年の、『らんま』のアニメの、リメイク版を見て、私は、つくづく、そう思った。
そのような事は考えず、単純に見る。
それが、一番の視聴方法なのかも知れないが…。