
ミタニさんの『ゴミ部屋』と、聖域。
「足のふみ場が、マジで無い……」
ぼくが初めて、
ミタニさんの家に行ったのは、
ちょうど息が白くなり始めた頃だった。
原付バイクを飛ばしての、出張マッサージ。
お歳暮のハムみたいに分厚い手袋をしていても、
寒いものは、寒い。
時計を見るともう、1時。
「冬ってやつぁ、深夜から支配を始めるんだな」
みたいなことをボヤくほどの凍えかたと、脳のやられ具合。
止まらない鼻水。
顔が冷え過ぎたときの、
何ともいえない、キーンとした頭痛。
ぼくは20代後半……
それこそ「ハナタレの見習い」だった。
◆◆◆
ピンポーン……
玄関のベルを鳴らしても、返事はない。
「あんちゃんは、そのまま入ってきていいよ」
そうミタニさんから言われてから、
ただ挨拶のように鳴らすだけになった。
ドアをそっと開ける。
今日も……足のふみ場は、ない。
そして家の外と中の気温が、あんまり変わらない(笑)
もう70歳近いはずのミタニさんが、心配になる。
でも、
「おれは、こたつがあれば、大丈夫なんだ」
彼はいつも、
お地蔵さんのように静かで優しい顔をするだけで、
とりあってはくれない。
「……あ、あんちゃん、寒いか?
そうかそうか、そりゃダメだ、ストーブ入れるか?」
って言ってくれるけど、いつも断っていた。
ぼくならホッカイロで、何とでもなる。
◆◆◆
『ゴミ部屋』といっても、
捨てられないものが散らかっているだけで、
ひどい匂いなどは、しない。
服や何かの紙、
週刊誌、新聞、焼酎の紙パックなどが、
スキマを埋めるように重なっている。
そして……音がない。
ミタニさんの人柄が漂っているのか、
もしかして、あり余るものたちが音を吸収するのか……
その部屋はいつも静かで、空気が穏やかだった。
ここだけ、
時間が流れることなく、ゆっくりゆっくり、
降り積もっているような。
ちょっとだけ、ふるさと富山の雪の夜に、似ている。
◆◆◆
ミタニさんは今日も、コタツで横になっている。
歴史の雑誌を読みながら、うとうとしている。
このコタツと歴史とマッサージの組み合わせが、
ミタニさんの “贅沢” だった。
ぼくはそれを決してジャマしないように、
ミタニさんの肩をほぐし、腰をゆるめる。
あんなに何も話さない接客なんて、他に思い出せない。
……あんなに、
何も話さなくても、居心地がよかった仕事も。
「タクシーの運転は、見た目より、きついよ」
「月に1回だけ、あんちゃんに来てもらうのが、
おれは、楽しみなんだ」
たまにしか口を開かない彼の言葉は、
不思議なほど記憶に残っている。
たしかに彼の体は、いつもガチガチに固い。
それでも、マッサージをしていくうちに、
素直にやわらかくなってきて、
ミタニさんの「うとうと」が、少しずつ深まる。
やがて「がくがく」になり、
「がっくん、がっくん」に変わっていく。
そういうときのミタニさんは、
もとから細い目が、ますます細くのびる。
お地蔵さんを通り越して、ネコみたいになる。
なんともいえず幸せそう。
だから、寒くても、
足場がないほど散らかっていても、
ぼくはミタニさんの家に行くのが好きだった。
(実際、マッサージのしにくさはヘビー級なのだけれど)
◆◆◆
ただ……
そんな彼の部屋にも3つだけ、
きれいな場所があった。
1つは、コタツ。
正確にいうと、コタツのテレビ側の一角だけ。
(他は埋まってる)
なぜなら、そこがミタニさんの定位置だから。
もう1つは、
そのコタツの一角から、手を伸ばせばギリギリ届くところ。
積み上げられた歴史の雑誌と、そのまわり。
もう読んだ雑誌の束と、
まだ読んでない束が、
だいたい同じぐらいの背丈で並んでいる。
「あんちゃん、
あの雑誌の山の……左っかわの、
上から2番目のやつ、取ってくれるか」
そう頼まれたことがあったから、
ミタニさんはきっと「ちゃんとした順番」に並べている。
彼にとって歴史は、特別なものなんだろう。
なんとなくだけど、
その山から1冊を引き抜いて渡すとき、
絶対にこの山を崩さないようにしたいと思う。
別に崩したって、
怒ったりする人ではないけれど。
最後の1つ。
ミタニさんの部屋の中で、
いちばんきれいな場所は、仏壇だった。
新品かと思うほど、その金色が、ピカピカ。
黒い木の部分に傷はついているから、
かなり前からあるものだろう。
それでも、ホコリひとつ、見当たらない。
その仏壇には、1枚だけ、
こちらを向いた写真が立てられている。
お花みたいに、顔いっぱいで笑っている女性。
その隣に、まだ白髪じゃないミタニさん。
……40代ぐらいだろうか。
目をニューッと細めて、あのネコの顔だ。
その写真もやっぱり、ピカピカに磨かれている。
足場のない部屋のなかでも、
その仏壇のまわりだけは、
見えないバリアでも張ってあるみたいだ。
ゴミも紙クズも週刊誌も新聞も焼酎のパックも、なかった。
――あそこは、ミタニさんの聖域なんだな。
と、思う。
よく考えたら、
このコタツのミタニさんの定位置だって、
正面にあるのはテレビだけじゃない。
仏壇がよく見える場所でもある。
仏壇から、よく見える場所でもある。
つい……
仏壇をせっせと磨くミタニさんを、想像してしまう。
他のゴミなんか、そっちのけで。
お地蔵さんみたいな顔で。
もう何十年、そうやって来たんだろう。
もう何十年、そうやって行くんだろう……
そんなことをつい考えてしまったあと、
気持ち良さそうに眠る彼の横顔を見たら、
神様でも仏様でも何でもいいから、
どうか今すぐぼくに地上最高の整体能力を授けてくれ……と思った。
◆◆◆
ミタニさんと話した文字数は、
きっと500文字も行かない。
でもなぜか、
ぼくはあの静かな人が、好きだった。
あのゴミだらけだった部屋……
まるでゴミでさえ存在を許されているような場所に行くと、
気持ちが安らいだ。
彼の声なき歓迎を受け、
ネコのような寝顔を見るたびに、
「誰かにとっての贅沢の1つに数えてもらっている」
という……初めて感じる誇りを、頂いていた。
マッサージを終えた後に手渡される5,000円に、
ズシリとくる重さを感じた。
「あんちゃん、また頼むな」
というひとことに、おなかまで熱くなった。
大切なものだけ、全力で、大切にする。
大切な人を大切にすることは、
近くにいなくたって、できる。
人は、本当に大切にしたものから、
本当に支えられる。
そんな意図なんて、別に本人には、ないだろう。
でもぼくは、ミタニさんと会うたびに……
あの部屋をたずねるたびに、
そう教わっていた。
あんちゃんは、何が大切だ?
大切なもんと、そうじゃないもんを、
ちゃんと区別できてるか?
今大切にしてるものは、
ほんとうに、大切なものか?
大切な人がちゃんと見えるように、
大切な人から自分がちゃんと見えるように、
できてるか?
◆◆◆
彼がせっせと仏壇を磨くように、
ぼくは何を磨いていこう……
それはすごくシンプルな、とても楽しい想像だ。
共感してくれる人は、そう多くないかも知れない。
でもぼくの中に、彼の生きようは、
ひとつのお手本として刻まれている。
出張マッサージの職場をやめてから、もう何年もたつ。
それでも記憶の中のあの部屋は、静かで穏やかで、
何一つ、変わっていない。
ゴミたちも、ミタニさんも、あの仏壇も。
聖域のままだ。
ぼくは
誰かが「ああいう表情」になれる時間を増やすことを考えて、
この仕事を、続けていけばいい。
そのために技術と人間性を、磨いていけばいい。
彼のことを忘れない限り、
この根っこが揺らぐことはない。
そしてすごく有り難いことに、
彼のことを忘れることもない。
とんでもなく無口で穏やかなのに、
冬がくるたびに鮮明に思い出してしまう……
ミタニさんと仏壇のお話。
……ただ、あの部屋の寒さと焼酎だけは、
心配だったなぁ。