睡眠願望

最初は小学生の時だった。
親が離婚し、僕は母親の方についていくことになった。「ごめんね」と泣いて謝る母親に「大丈夫だよ」と感情を殺した顔で囁き、これから自分はどうなってしまうのだろう、と思考を巡らせていたらいつの間にか眠っていた。
夢の中で見るその地下商店街はすべてのシャッターが閉まっており、あちこちに錆ができていて少し鉄の匂いがする。所々に貼ってあるポップなチラシや、静まり返っている店の装飾された看板が余計にこの空間の寂しさを際立たせていた。
「迷子かい」
 いきなり声を掛けられる。振り返ると人がいた。長身で髪は長く、女声だったのでおそらく女の人なのだろう。薄暗いせいか顔はよく見えなかった。僕は不思議とその女性が怖くなかった。知らない人のはずなのに妙な安心感があった。
「私も迷子なんだ。よかったら一緒にこの辺を歩かないかい?」
いつまでも続くその地下商店街を歩いた。その人は中性的な喋り方をしていた。女性なのに女性っぽくない。僕はその人になんとなく好意を持った。翌朝目覚めるとふくらはぎが筋肉痛になっていたのを覚えている。
そんな夢を見るようになってから、僕は寝るのが好きになった。
 二回目は高校生の時だった。恋人に浮気をされ、何もかも信じられなくなった時だった。
また僕は夢の中でその地下商店街に居た。周りを見渡すと、あの時すべて閉まっていたシャッターが一つだけ開いていた。「アンドロメダ」という看板が灯っていた。
 僕は吸い込まれるようにその店の扉を開き、中に入っていった。入店してはじめてここがバーらしいことに気が付いた。中にはセミロングで長身の女がカウンターで酒を飲んでいた。僕は再び吸い込まれるようにその女の隣へ座ることにした。
「久しぶりだね。君も大きくなった」
 やはりその女は以前夢の中で出会った女だった。僕は何もかもを忘れたい一心でその女と同じものを頼み、あの時からどれくらい経って自分に何があったかを話した。女は微笑みながら「うんうん」と相槌を打ち、ちびちびとウイスキーを飲んでいた。僕はその横顔がたまらなく好きになった。前髪で顔の全貌は見えなかったが、鼻立ちがシュッとしていて、乳房もいい形をしていた。
「君は今、何をもって生きているんだい?」
 答となる考えを持ってはいなかった。僕も真似をするようにグラスを傾ける。頬と喉の熱さに思考を邪魔されながら頭を捻らせたが答は結局出なかった。客は僕たちのほかに居ないようだった。
「いいんだよ、それで。下手にそんなものを持っていた方がのちのちに面倒くさくなるだけさ」
 女は少し寂しそうな顔をしているように見えた。横顔に見惚れていると、女は僕のおでこにキスをした。
 最後は会社を解雇されたときだった。地下商店街はいつものように多くのシャッターが閉まっており、「アンドロメダ」の看板だけ点いている。店先に置いてあるベンチが以前より小さく思えた。会社から出世意欲が無い、仕事が出来ない、新人の教育ができない、との文句を受け、そのまま解雇された。
「あれれ、おじさん、またきたの?」
いつものように未来の扉を開けるとそこには一人の髪の長い幼女がカウンターに座っていた。容姿がまったく変わっている筈なのに、私はその幼女がいつか見た女だとすぐにわかった。
「もう疲れたんだ、なにもかも。良かれと思って自分を殺して生きてきたけど、それがだめだったんだ」
「おじさん、よくわからないよ」
「そうだよな、わからないよな。私すらわかってないんだから」
怒りや悲しみは沸いてこなかった。ただ何も感じずにスーッとどこかに落ちていくような感覚だった。
 ウイスキーを頼み、一息で流し込んだ。カッと喉が熱くなる。浮遊感が体に広がっていく。もう一杯ウイスキーを頼もうとしたとき、店の中に置いてあるラジオからニュースが流れだした。
「本日未明、○○市のアパートから独身男性の遺体が見つかりました。死因は薬の過剰摂取とのことです」
「ふふ、これでなにも考えなくてよくなるね」
女は悲しそうな眼をしながら私に笑いかけた。

 そう。私はずっと昔から、すっかり眠ってしまいたかったのだ。

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