腫瘍
目を覚ますと、見慣れない天井がそこにはあった。蛍光灯の光が眼に痛い。体を起こそうと、上半身に力を入れるが、上手く起き上がることが出来ない。再び寝台に身体を預けると、ずきずきと頭が痛む。枕元を見ると、ナースコールボタンがあったので、呼んでみることにした。聞きなれない音が室内に響く。しばらくして、看護師らしき足音がこの部屋に近づいてきた。
「よかった、お目覚めになりましたね」
白衣に身を包んだ短髪の女が、カルテを確認しながら微笑んだ。
「えっと、ここは?」
とりあえず、今の状況を確認したい一心で、ナースに尋ねる。最後に記憶しているのは、自分の部屋で酒を飲んでいたこと。一人で飲んでいたことは記憶していない。
「先生を呼んできますね」
ナースは白い歯を見せながら、部屋を出ていった。しばらくして、ナースの足音に加わって、二人分の男の足音らしき音が近づいてきた。
「よかった、善弥、無事だったか」
一人の男が馴れ馴れしく私に話しかけた。何やらこの男は私の事を知っているようだったが、記憶にない。
「自分の名前と職業、言えますか?」
もう一方の男が、始めの男の話を遮るように私に質問した。
「私は、目黒……目黒善弥。職は……、あれ?」
思い出せない。しかし私はこの思い出せないことに対し、大して絶望感や焦燥感を感じることは無かった。
「やはり、記憶の混濁がみられるな……」
「そんな! あの時は大丈夫っていってたじゃないですか」
馴れ馴れしかった男の表情が一変し、深刻な顔になる。
「あの、ここは何処なんです? どうして私はここに?」
とりあえず、さっきナースにも質問したように、この二人の男にも同じ質問をした。
「あなたは、悪性脳腫瘍により、自宅で倒れ救急搬送されました」
「はぁ」
実感がなかったので、私は驚きも恐怖も感じなかった。
「そのあと、緊急手術により腫瘍は取り除かれ、無事命は助かりました。ですが、目黒さんも体感しているように、一部記憶の混濁が見られています。思い出せるように、私たちがしっかりサポートいたしますので、頑張りましょう」
淡々とその男は表情一つ変えずに私に言った。何度かこういった場面に遭遇しているのだろう。言葉の抑揚の無さと、何度も作られたであろう笑顔にそれは感じられた。
「善弥、本当に思い出せないのか? 俺だよ、加藤だよ」
加藤と名乗った男は、私の顔を覗き込んだ。この加藤という男には悪いが、全く記憶にない。
「申し訳ない、わからないです」
「そうか……」
加藤は悔しそうな顔を私に見せたあと、看護師からカルテを受け取った。
「今日はまだ安静にしておきましょう。時間になれば食事をお持ちいたしますので」
そう言われ、室内に置いてある時計に目をやると、午後三時二十五分を表示していた。
「ではまた、何かありましたら、そのボタンでナースをお呼びください」
「どうですかー、身体の調子は」
目黒に声をかける。最後に酒を飲み、俺の前で突如倒れてから、目黒は記憶がない。勿論すぐさま救急車を呼んだ。幸い、俺は救急医として働いていたので、適切な処置方法は熟知していた。ただ、後悔があるとすれば、他の救急医に施術を頼んでしまった事だろう。目黒とは同期で同じ病院で働いていた。たまたまその日は非番が目黒と重なり、久しぶりに飲もうという話になったのだ。
「ええ、特に問題は無いです」
ありがとうございます、というかつての友人と話していると、もの哀しい気持ちになる。食べ終えた食器を片付け、運搬用のカートに乗せる。目黒の友人ということで特例が敷かれ、担当医とまではいかないがサポートとして就くことになった。
「本当に覚えてないのか?」
「ええ、そうなんです。すみません」
目黒は一瞬表情を固まらせた後、申し訳なさそうにそう告げた。
「でも、なんか清々しいというか、嘗ての記憶が無い分、前向きにやっていこうかなと思いまして」
実際、ココに運ばれてくる前の目黒は、職場や友人関係、男女関係は勿論様々なことで悩んでいた。親の遺産相続や、兄妹の借金まで。一緒に酒を飲みに行くと、「自分が頑張らなきゃ」と言いながらも、その眼からは希望の様子は見て取れなかった。
目黒本人の言うとおり、顔つきはこの一か月でだいぶ良くなった。隈もなくなり、目の充血もなくなっている。しかしその目黒は、俺が知っている目黒ではなかった。
「そうか……、俺とココで働いていたことも忘れてるんだな……」
しまった、と思った。担当医から、記憶に関する話題はなるべく避けるようにと言われていたのに、口走ってしまった。
「そうなんですか。よかったら私の過去の話を聞かせてもらえませんか?」
俺は戸惑った。悪影響が出る恐れがあったからだ。だが、正しい記憶がもとに戻るという可能性もある。
「目黒さんは……」
俺たちの経歴を話した。この病院に同期で入り、同じ部署として仲良くなったこと。月に一回は時間を作って飯に行っていたこと。そして、あの夜に俺の目の前で倒れたこと。執刀医を務められなかったこと。
「そう、ですか……」
目黒は不思議そうな顔をしていた。しばらく沈黙が続いた。そしてまた申し訳なさそうな顔をして、
「やっぱり、思い出せないです」
と俺に言った。
「どうですか? 彼、諦めそうですか?」
どうかな、と茂野は首を傾げた。
「まあ、相当懇意にしていたようだからね、君の事」
表情一つ変えないまま、形だけの笑顔で茂野は答える。
「そろそろ、君の情報を彼にだけ隠しておくのも無理があるし、退院して貰おうと思ってるよ」
「そうですね、いい休暇になったと思います」
私は人生に疲れていた。いくら自分が努力しても、私の周りは変わらなかった。親は働かない癖に、金遣いが荒いし、兄妹はギャンブルでため込んだ借金を抱えている。自分の人生に嫌気がさしていた。この救急医という職業も、自分の中では人の為というよりも、金のためという意味合いが強い。
「まあ、新しく始めたらいいさ、私は君の腫瘍を取り除いただけさ」
茂野には、この一連の工作の協力者になってもらっていた。茂野は俺たちと同じ年ではあるが、他の病院から移動してきた救急医だった。その表情は仮面、と病院内であだ名が付けられるほど、形の決まっているものだった。茂野が本心で感情を出している所は、周りの人間でも居ないとまで言われている。そのせいか、目黒は茂野のことが苦手だった。もともと体育会系の雰囲気を纏っている彼にとっては、合理的な考えの茂野は合わなかったのだろう。
この記憶喪失という状況のおかげで、私は親族と縁を切ることができた。医者という職業の為に金づるとして扱われていた私は、とても新鮮な気持ちだった。
「じゃあ、来週あたりでお願いしようと思います」
この場では、茂野に対して敬語を使っていた。記憶がないという偽装をする以上、誰が何処で会話を聞いているか分からない。実際、この会話も本当に周りに聞こえないように喋っていた。
「ん、了解した。報酬の送り先は後日連絡するよ」
茂野はいつもの様に、形だけの表情で私に笑顔を見せ、退室していった。
一週間後、私は退院した。目黒は最後まで私の記憶の復元具合を確認しに部屋に来ていたが、私は分からないとだけ答え続けた。病院を出ると、持っていた携帯のバイブレーションが鳴る。茂野からのメールだった。
「僕はこれからもココでやっていくよ、万が一またココで働きたくなったら相談してくれ、腫瘍を取り除いであげるよ」
と書かれていた。私は良い友を持ったものだと思う。今日は智咲に連絡をして、ディナーでもいこう。結婚のこともそろそろ考える頃合いだ。障壁もなくなったし、円満に進めることが出来るだろう。私は軽い足取りで、帰路についた。
自宅の前でまた、携帯のバイブレーションが鳴る。今度は電話だった。
「もしもし、○○病院の者ですが、智咲さんが脳に腫瘍が見つかりまして、緊急手術を……」