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幕末の女傑・村岡の局とは

嵐山界隈にこの女性の銅像があることを知る人は少ないと思う。場所は嵐山公園の園内だが、周恩来の石碑や角倉了以像に気がついても、この村岡局像は見過ごしがちだ。

嵯峨生まれで12歳の頃より近衛家に仕えた。当時の当主が近衛忠煕(このえ ただひろ)でいわゆる尊王攘夷派としても知られた人物。そもそも近衛家は薩摩藩との繋がりが深く、忠煕の正妻・郁姫は薩摩藩出身だ。この頃、薩摩藩を率いていた島津斉彬は名君として知られ、藩政を充実させるだけでなく、幕政改革も働きかけていた。その大きな目標が13代将軍である徳川家定の後継ぎに、英邁な一橋慶喜を立てるというものであった。これの工作に動いていたのが斉彬の側近であった西郷隆盛であった。そのため必然的に近衛家の内部に通じた村岡局と西郷隆盛は密に連絡を取り合う仲となったという。さらに薩摩藩から篤姫を13代将軍に輿入れする際にも、篤姫は一度近衛家の養女となり、その後、将軍の御台所となったわけだが、このとき郁姫は他界していたことから、村岡局が篤姫の養母となった。

しかしこういった一橋慶喜を推す運動は、徳川家茂を次期将軍に推す、大老井伊直弼らによって押さえ込まれ、家茂が将軍に決まると「安政の大獄」という一橋派の粛正が実行された。その結果、村岡局も江戸に送られ、座敷牢に30日入れたが、のちに許された。嵯峨に戻ると、直指庵(「想い出草」と呼ばれるノートが人気)を再興して、現在の形に整え、付近の子供達の教育にも熱心に取り組んだと伝わっている。※ただし当時の建物はその後、焼失し、現在の建物は明治32(1899)年に再建。

同時代の幕府側の女性として、NHK大河ドラマ『花の生涯』のヒロインとなった村山たか女(金福寺に隠棲、墓は圓光寺)がいるが、村岡局もいつか取り上げられるかもしれない。

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