本日、命日を迎えた早良親王と御霊信仰
今日は早良親王の命日。延暦4(785)年、享年35。
桓武天皇の実弟として政治にも参画したが、長岡京遷都直後に謀反の疑いをかけられて乙訓寺に幽閉。食を断って抗議したが、島流しへ。途中で餓死したという。
その後、桓武天皇の身内が次々なくなり天変地異が頻発したので、平安京遷都が決定した。
祭神となった神社は多く、御霊信仰のご祭神として中心的存在となった。
以上が、今夜ツイートした内容。まだまだ内容が足りないので、こちらに記載しておく。
◆桓武天皇登場までの背景◆
壬申の乱の後に勝利を手にした天武天皇は、絶対的な権力を確立し、中央集権国家設立に大きな足跡を残した。
その後即位する天皇は、代々天武天皇の子孫である天武系にて輩出されてきたが、称徳天皇に男子が生まれず、称徳天皇の寵愛を得て台頭してきた道鏡の「宇佐八幡信託事件」のあとに、称徳天皇が崩御すると、当時中央政界で活躍していた吉備真備や藤原百川(ふじわらのももかわ)が話し合いを行い、結果、桓武天皇の孫である光仁天皇が770年に即位することとなった。
これは、それまでの政界の常識を覆す大きな出来事で、裏には藤原氏の大きな力が動いていたとされる。
ただし、光仁天皇は聖武天皇の皇女であった井上内親王を皇后として迎えており、この点では女系は天武系であったといえる。
しかし、井上内親王は、772年に天皇を呪詛したとして皇后を廃され、皇太子であった子供の他戸親王(おさべしんのう)も皇太子を廃されることになった。(774年には幽閉先で二人とも謎の死を遂げた。他戸親王の死後には天変地異が相次ぎ、光仁天皇や桓武天皇を悩ますこととなる。)773年には山部親王(後の桓武天皇)が立太子された。これらの一連の動きも、藤原氏の中でも式家の陰謀が働いたとの見方が有力だ。
◆桓武天皇即位と平城京の終焉◆
桓武天皇は781年に即位すると、翌年には天武系の皇子であった氷上川継(ひがみのかわつぐ)の反乱が起こり、これが失敗に終わったことから天武系の有力者は消滅し、桓武天皇が実権を掌握することとなった。
さらに今までの旧勢力からの脱却、興福寺や東大寺など肥大化した寺院の権勢から距離を置くべく遷都を画策する。他にも内情としては、人口増加によって平城京の下水機能などが限界に達しつつあり、衛生的な問題も表面化していた。
しかし、急な遷都は反発も多いことが予想されたため、極秘に準備が進められたという。
◆長岡京遷都◆
延暦3(784)年に長岡京遷都の詔が発せられ、即座に移動が開始された。通常は遷都の詔が出されても、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であることから時間も要し、ややもすると政治的なかけひきによって実施ができない可能性すらあったが、準備が極秘に進められたこともあり、大きな反発が起きる前に、一気に実行に移した。長岡京遷都にあたっては、時間短縮を図るために大阪の難波宮の資材などが転用されたと考えられている。
こうしてスタートした長岡京の規模は、東西4.3km、南北5.3kmと平城京、平安京に匹敵する広大なもので、北や西からひろがる段丘上に位置し、南には三川合流地点をもち、発掘調査ではほぼ各家に井戸が見られるなど、水運にきわめて恵まれた都となった。都の中は、碁盤の目に配置された道路が造られ、長岡宮へとつながる朱雀大路が都の中心を通り、南北方向の大路が右京・左京にそれぞれ4本ずつひかれていた。東西方向の大路は、九条大路まで造られたことがわかっており、それぞれの大路に囲まれた中は小路などで区画され、役所や市、貴族の邸宅などが身分に応じて割りあてられた。
◆長岡京・早良親王事件と天変地異◆
順調にスタートしたかにみえた長岡京だが、反対勢力は徐々に巻き返しをはかる。旧勢力の代表たる大伴氏らが中心となって、再度平城京へもどる運動を開始し、その動きの中心人物として、桓武天皇の実弟である早良親王に白羽の矢が立った。早良親王は桓武天皇の片腕として実務に長けて人望もあり、この力を見込んで反対勢力が盟主として祀り上げたのが真相のようだ。
そしてその運動の頂点となったのが、長岡京遷都及び建設の責任者であった藤原種継暗殺事件であった。責任者の暗殺は都中に衝撃をもたらし、激怒した桓武天皇も誰が犯人かを捜すように指示したが、その捜査の中で浮上した黒幕が早良親王であった。親王は捕らえられて乙訓寺に幽閉される。逮捕された親王は必死に無罪を主張したが、聞き入れられず流罪となり、配流先の淡路国に護送される途中、親王は悔しさのあまりに自ら食を断ち、壮絶な最期を遂げた。怨みを残して死んだその霊魂は怨霊と化し、新都をめざして舞い上がったと伝わる。
親王の死後まもなく、桓武天皇の周囲を次々と異変が襲った。妻、母、皇后が相次いで亡くなり、皇太子安殿親王(あてしんのう)が病気になった。さらに水害が民を苦しめ、天然痘が流行るなど天変地異が頻発したことから人々は早良親王の祟りと恐れ、桓武の心も大きく揺れた。皇太子に伊勢神宮に参拝させ、非業の死を遂げた早良親王には改めて崇道天皇という追号を発したが、世情不安はやまず、この親王の怨霊の呪いから逃れるには長岡京を離れるほかはないと思い定めた桓武天皇は、和気清麻呂の建議もあり、完成に近づいていた長岡京を放棄し、その北方にある葛野(かどの)の地に新都を造り直すことにした。長岡京の主な建物は解体されて新しい都へと移され、次第に田園地域へと姿を変え、10年間の都の歴史は地中に埋もれてやがて「幻の都」と呼ばれるようになった。
◆御霊信仰の魁となった早良親王◆
桓武天皇の片腕として将来を嘱望された早良親王は、人格者でもあり、人望も集めていた。藤森神社には5月5日に藤森祭の中でもメインイベントである駈馬神事が行われるが、これは早良親王が蝦夷追討の大将に任命されて、神社に戦勝祈願をおこなった故事に基づく。この参拝の噂が東北地方に伝わると、屈強な蝦夷たちも早良親王の遠征を前に戦意を失い、反乱は収まったと伝えられている。
そんな政局の大人物であった早良親王の悲惨な亡くなり方は、次第に怨霊となって関係者や長岡京を呪うのではという心配へとつながり、当時起こった様々な災害や、病死は、すべて早良親王に結び付けられた。
そこで平安京には崇道神社が建立され、上御霊神社、下御霊神社、藤森神社など多くの神社に早良親王は祀られることとなる。また奈良にもゆかりが深かったことから、奈良市内にも崇道天皇神社が創建された。
以後、こういった一定の支持を得た権力者が不幸にも戦いに敗れて非業の死を遂げた場合、怨霊となって災いをもたらすことが一般的通念として定着し、菅原道真、平将門、崇徳上皇に代表されるような御霊信仰、御霊のための神社が相次いで創建されるようになった。
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