両統迭立って?日本初の武家政権の裏側での出来事
鎌倉時代の大きな流れ
安徳天皇亡きあと、平家を倒した源頼朝は鎌倉にて日本初の本格武家政権である鎌倉幕府を開きます。並行して全国に守護地頭を設置し、鎌倉幕府を頂点とする新しい統治体制が出来上がりました。天皇家や朝廷は西日本を中心に未だに一定の影響力が見られたものの、承久の乱以降は徐々にその力を失い、また皇位継承問題から鎌倉幕府に両統迭立を提案され、持明院統と大覚寺統に分かれて覇権を分けあいました。しかし鎌倉幕府が衰退するとこの方法にも歪が出始め、後醍醐天皇の登場によって再び、朝廷に権力が戻ってきます。
両統迭立の原因は「後嵯峨天皇」です。
第88代後嵯峨天皇は、土御門天皇の皇子。母は贈皇太后源通子 (贈左大臣源通宗の娘) 。承久の乱によって父土御門上皇が四国に移されたのち、外戚である源通方に養われ、通方の死後は祖母承明門院源在子の土御門第に移りました。土御門家が没落すると厳しい生活を強いられていましたが、四条天皇崩御の際には、父の土御門天皇の印象がよかったこともあって執権北条泰時の後押を得て即位します。
法華八講を安楽心院に修し、後鳥羽天皇の諡号を贈り冥福を祈りました。さらに八講を修して父土御門天皇の霊を慰め、同4年位を皇子久仁親王 (後深草天皇) に譲り、以後、後深草、亀山の2代の間、院政を行いましたが、温和な性格で、幕政に対してもあえて対立せず、連携を図ったことから、摂家将軍の代わりに宗尊親王を将軍とすることで合意もしています。また長子久仁親王(後深草天皇)よりもその弟恒仁王 (亀山天皇) を愛し、後深草天皇の子をおいて亀山天皇の第2子世仁親王を皇太子に立て、いわゆる持明院統と大覚寺統対立の端緒を作りました。
これです、、、親というのは兄よりも弟が可愛いのがいつの時代も変わらない親心なんでしょうか。。。結局この処置が、鎌倉時代だけでなく、南北朝時代を引き起こし、室町時代はこれによって始まったともいえるのです。
一方、後嵯峨天皇は厚く仏教を信奉して出家し、しばしば高野山や熊野を巡り、また経論を書写供養しました。和歌にも長じ、藤原基家、為家らに命じて『続古今和歌集』を撰ばせ、『続後撰集』をはじめ多くの勅撰集に天皇の歌が収められています。嵐山に離宮を持って天龍寺の基礎となり、車折神社の創建にも深く関わっています。また火災にあった三十三間堂の再建も命じました。陵墓は嵯峨南陵(京都市右京区)に治定されています。