自信がなかった少年が勇気を出したその先へ
僕は青森県青森市で生まれました。両親は教師で、姉が2人います。父は公務員で数学の教師、母は小学校の先生。家計的には裕福だったのかもしれません。貧乏だと感じたことは一度もありませんでした。家では「末っ子で待望の男の子」として、たくさん可愛がられ、姉たちのおもちゃで女装したりして遊んでいました。小さい頃は、とにかくもみくちゃにされるほど愛されていた気がします。
父は、熱血漢で信念が強く、何事にも動じないタイプ。校長にだって「これは違う」とNOを突きつけるような人でした。日本一周の途中、駅で寝ていた大学生を家に招いて泊めるなんてこともしょっちゅう。それでいて、怖さと優しさを兼ね備えた、とても大きな存在でした。母は温かく、優しい人。毎日忙しくしていたけれど、僕にはちゃんと愛情を注いでくれました。今思えば、僕は本当に良い家庭で育ててもらったなと感じます。感謝の気持ちでいっぱいです。
その影響もあったのか、小学校に上がると、「正義感が強くて目立ちたがり屋」の少年になりました。両親や姉たちに甘やかされて育ったせいか、どんなことにも「これは違う!」とNOを突きつけることが多かったです。けれど、先生に怒られるとすぐ泣いてしまう、ちょっと弱い一面もあって。強く言われると、すぐビクビクしていました。でも、正義感が強い分、周りの友達を助けようとして、逆に自分がいじめられることもよくありました。
両親は忙しくしていたので、小学校の頃はよくおばあちゃんの家に通っていました。おじいちゃんは厳格な人で、県庁で働いていた偉い人でした。姉たちには全然怒らなかったけれど、僕はよく怒られていました。生意気だったからかな。両親と過ごした記憶は少ないけれど、家族旅行には必ず行っていたし、愛されている実感はありました。それでも、自己肯定感は高かったものの、自信はなかったのかもしれません。
小学校4年生から野球部に入りましたが、6年生の時には自分は「6番サード」と、なんとも中途半端な位置でした。ショートのポジションにはすごく上手な子がいて、いつも「自分にボールが飛んでこないでほしい!」と思っていました。なんでこんなに自信がなかったんだろう(笑)。今でも覚えています。最後の試合、2アウト、最終回、1点ビハインド、ランナー2、3塁。僕はネクストバッターサークルにいました。前のバッターが打てば、自分に打席が回ってきます。ここで普通なら「俺に回ってこい!ヒーローになれるチャンスだ!」と思うでしょう。でも僕は、本気で「回ってこないでほしい」と願っていました。もし三振したら耐えられないと思って。結果的に、前のバッターが三振してゲームセット。ほっとした反面、その自分にがっかりもしていました。
今思うと、なんてしょぼい自分だったんだろうと思います。でも、そんな自分が今でもこうして独立できたのが不思議です。振り返れば、自信は今でも完璧には持てていません。でも、昔から「いじめっこに向かって言ったり」「皆の前で発表したり」というように、怖いけれど勇気を出して踏み出すことはできていたのかもしれません。自信は一生つかないかもしれない。でも、勇気を出して踏み出すことは、今でもできると信じています。
小学校のころはこんな感じで、中学校は部活も真剣にやらず、遊びだけに没頭していました。あぁ、こうして書いていると、少し悲しくなってきますね。でも、あの頃の自分も、今の自分にとって大切な一部です。