全力でカッコつけて「東京は夜」の歌詞に物語を見出していく #ボカロリスナーアドベントカレンダー2022
初めましての方は初めまして。そうでない方はよく来たな。
楽宮と申します。
この記事は「ボカロリスナーアドベントカレンダー2022」23日目の参加記事となっております。
主催のobscure.さん、今年もありがとうございます!
普段は、VOCALOID楽曲を中心に洋楽や邦楽を混ぜたオールジャンルDJとして都内で活動しています。オファーください。
最近ハマっているのはSnow Manというアイドルグループです(去年も書いてた)。最近二回目のファンクラブ更新を終え、ジャニーズのビデオメッセージ付アドベントカレンダーに癒される日々です。えへへ。
今回のnoteでは、平田義久作「東京は夜」について、果たしてこの歌はどういう物語だったのかを勝手に見出していきます。それってアドカレの趣旨としてどうなん? って感じもしますけど、要は遊びです。二次創作です。お付き合い下さい。
このnoteをご覧の平田義久さんにおかれましては、どうぞ温かい心でお受け止め頂けましたら幸いです。ムカついたら今度会った時にぶん殴ってください(読んでるかわかんないけど)。
以下カッコつけパートです。
一体いつの「東京は夜」?
「東京は夜」の解釈を深めるにあたり、大切なのは時代のイメージだ。
竹下通りができる前と後では原宿という街を同一視して語れないように、サムネイルに描かれた雷門が鎮座する浅草もまた、時代ごとに違った顔を持っている。
では、この作品の時代イメージはどうなのか。私はある一節に着目した。
日本において鉄道が普及し始めたのが開国時期、都市部で鉄道の電化が進められたのは1900年代初頭で、市川駅~押上駅間で電鉄が採用されたのは1911年(明治44年)である。押上駅は浅草、(馬喰町のある)日本橋と距離がそこまで遠くなく(現在は都営浅草線一本で行ける)、馬喰町に汽笛が響き渡っていたのはほぼ明治時代と同時期であると考えてよいだろう。
以上を踏まえ、今回のnoteでは「東京は夜」の舞台を明治期の浅草であると仮定し、論を進めていく。
「東京は夜」と江戸の浅草
前提を共有したところで、歌詞を味わっていこう。8拍の軽やかなキックの後、ゲキヤクの声でこう語られる。
漢字の格式とカタカナの突っ張った雰囲気は、こうして文字で起こすとより一層感じられるものだ。情景描写に「ツラ」という棘を忍ばせた、美しくもピリリと辛い秀逸な歌詞である。
さて、「夏の空気に浮かれた者」という、何者かを特定する言葉がさっそく現れる。これは一体何者なのか。
この疑問を解く鍵は、かつて浅草がどのような場所であったかを知るところにあるだろう。
そう、浅草とはかつての遊廓吉原と切っても切れない関係、それどころか全く同一の場所なのだ。「夏」を吉原の夏と見なすことは難しくないだろう。
そして吉原の夏といえば、「吉原俄」である。
「俄」と呼ばれる祭りは全国各地で行われ、例えばかの有名な「博多通りもん」の特徴的なパッケージは「博多俄」で用いられた目鬘とされている。「俄」とは、それほどまでに大々的な遊郭の祭りだったそうだ。
要するに「夏の空気に浮かれた者」というのは「東京は夜」の舞台となる浅草の夏全体を指していると考えられる。(「笛の音にツラ上げりゃあ」という歌詞からも、祭りの情景描写であるという見方が無理からぬことがわかるだろう。)
ラップパートでも「むしろイカれてるよ 冷静な奴らは」とあるように、この時期に周りを観察している作中の主人公はむしろ異端で、吉原という街になじみ切っていなかったことが読み取れる。
そしてその観察眼を光らせたまま、曲は勢いよくサビに突入していく。
先の「宵は花見か月見で一献が風流でざんしょう」という歌詞を受けた冒頭から、雑多な東京の夜を高らかに歌い上げるこのサビは、令和の歌姫Adoをも虜にした爆発力を伴って中盤のラップパートへと入っていく。
物語を見出すうえで注目すべきは「お月がこんなに! 空デカく写った真っ赤な杯 」という描写である。
もしあなたが遊廓を歩いているとしたら、果たして杯に月が映っていることを感動的なまでにまじまじと見ることが出来ただろうか。
答えはきっと否だ。
とするならば、この「杯」は語り手である主人公が手に持っているものだと考えるのが妥当だろう。
さらに「高下駄」というアイテムにも物語を連想するヒントが隠されている。
高下駄とは、花魁や太夫といった格の高い遊女が履くものだったのだ。「馴れねえ高下駄」と言うからには、恐らく格が上がったばかりの花魁か太夫を指しているのだろう。
そして漢字が「馴れねえ」であるところにも注目したい。経験が浅い場合は「慣れねえ」となるところを「馴れねえ」と書いているということは、ここで「馴染まない」というニュアンスが表現されているのではないだろうか。
さらに「ド派手に転んだお上りさん」も「野良猫がギャーッ」も、新吉原に歓迎されない未熟な遊女を拒んでいるように感じられる。
野良猫というキーワードや、畳み掛けるように目線を動かしていく情景描写が、街の雑多さやそれに置いていかれている主人公の、悠然としつつもどこか寂しい様子を表しているのではないだろうか。
時間にして約一分と忙しなく過ぎていく一番は、DJ中に「一番全体が前奏なのでは?」と錯覚させるほどだ。このスピード感は、世界観の説明を含む回想パートのようなものだと解釈した。
「東京は夜」と歓楽街浅草
JOLNOのラップパートを挟み、以下の歌詞へ移っていく。
私はこの歌詞が一番味わいがいがあって大好きなのだがそれは置いておいて、この短いリリックには「明治期の浅草」が詰め込まれている。
これは、明治期の浅草を舞台とした谷崎潤一郎の小説「秘密」の一節である。引用部分は、浅草の寺に引越した「私」がその理由を語る場面である。
ただ自然と暮らすのではなく「人工的な生活様式」を求める「私」は、なぜ浅草に移住したのか。
これは東京の人口に関係している。
当時の東京は約10年の間に100万人近い人間が流入し、左右を見れば知らない人しかいない状態になっていた。
それはそのまま反転させれば、誰も自分のことを知らないということに繋がる。
「私」は敢えてその中に身を置いて自身を「匿名化」することによって、自身の生活を再構築しようと試みたのだ。
このころの浅草は、まさに「ゆくもかえるも分かれては知るとも知らぬも東京」だったのだ。
その中で、目新しいもの「だけ」が好きというのは、まさに Mode of life、過去を経て「刃の擦り切れたやすりのやうに、鋭敏な角々がすっかり鈍って」しまった主人公の、遊郭浅草に対する反抗とも思える。
遊郭の様子をシニカルに見ていた様子からも、匿名化した明治浅草の街の在り方のほうがより好ましく感じたと考えるのは自然だろう。
なぜ彼女は遊郭を冷めた目で見ていたのか、これはきっと後に続く歌詞と関係しているだろう。
楽曲の中でも群を抜いてエモーショナルな、気持ちをストレートにぶつける歌詞があえて音数を少なくしたインストに響くパートである。
「商売上手」と「床上手」というワードが引っ付いていることから、おそらくこれは遊郭にいた主人公を指していると思われる。
そこに「一糸乱れぬ着付けに似合わぬ嘘つき」と続く。
「嘘つき」という単語は否定的、非難するような文脈で使われることが非常に多い。主人公は自分のことを「嘘つき」と否定し、「一糸乱れぬ着付けに似合わぬ」と、自身の品の良さ諸共腐している。
一方で「キミ」については「恋泥棒」と、かなり優しめな形容だ。
例えば子供が見れる時間に放映される恋愛ドラマに出てきた山田涼介を「初恋泥棒」と形容できるように、「恋泥棒」という言葉にはかなり恋愛面で肯定的なニュアンスが含まれている。
主人公にとって、「まだキミが好きなんです」という言葉の責任の大半が主人公自身にあることが端的に表現されている。
そしてこのパートの歌詞の締めが「サヨナラ東京!」である。
客観的に考えれば因果関係のない「東京」という地名がここに出てくることが、かえって主人公の心情を浮き彫りにさせる。
本当は自分と相手の感情の話なのに、その記憶が「東京」という土地にしみついているのだ。
この恋の土地の記憶の結びつきこそが、主人公が江戸浅草を冷めた目で見て、歓楽街浅草に迎合するような言葉を放った原因であり、「東京は夜」というタイトルの根底にあるのではないだろうか。
そして、曲は爆発的なラスサビへ移行する。
雨と涙を関連付ける表現はこの世にごまんとあるが、雨四光と涙を関連付ける表現はこの楽曲でしか見たことがない。オリジナリティにあふれた天才の歌詞だが、この歌詞の天才性は関連付けのオリジナリティにとどまらない。
冒頭に「宵は花見か月見で一献が風流でざんしょう」という歌詞があったことを覚えているだろうか。
「花見」「月見」「一献(一杯)」とくれば、花札の役である「花見で一杯」「月見で一杯」を連想するのが自然である。なぜこう言い切れるかといえば、「雨四光」も同様に花札の役だからだ。
「雨四光」は「こいこい」という花札のルールにおいて、「雨」以外の20点札(最高得点の札)に「柳に小野道風」という札を合わせた4枚の札で作られる。つまり、雨四光の中には必ず「柳に小野道風」が含まれている。
そしてこの「柳に小野道風」を持っていた場合、「花見で一杯」「月見で一杯」の役が流れてしまう場合があるのだ(これを「雨流れ」という)。
つまり、「雨四光」であるということは「宵は花見か月見で一献が風流でざんしょう」という前提がなくなってしまいましたよ、というサインだととらえられる。
新吉原であれだけ自信満々に断定していた事柄が変わってしまったという時代の移り変わりと、「サヨナラ東京!」とがなる主人公自身の折り合いを「流れ」という花札のワードで示唆する歌詞のなんと粋なことか。
恋は実らなかったし、キミのことはまだ好きだし、それでも時代は移り変わっていく。「遊女」という一人格しかなかった自分を、歓楽街の浅草で起こった「人々の匿名化」という波に落とし込み、「目新しいものだけが好き」と嘯いて再構築していく。
過去の恋に未練があるようで、過去との別れ際を涙で飾った主人公はきちんと門出を迎えられたからこそ、最後は言葉の通り勢い盛んに「滔天!」という言葉が繰り返されているのだろう。
かつて吉原の視線を一身に集めた遊女も、近代化にあたって匿名化し、もう彼女に視線を遣る人はいない。
盛者必衰の理を「笑」で済ませられる主人公は、新吉原での出来事に区切りをつけ、「ゆくもかえるも分かれては知るとも知らぬ」東京へ繰り出し、私たちの前から姿を消してしまったのだろう。
あとがきなんかねぇよ
ただの書き散らしにお付き合いいただきありがとうございます。ただの書き散らしをアドベントカレンダーに乗せるんじゃねぇ。
歌い手カバーの流行などで人気なこの曲ですが、噛めば噛むほど味がする楽曲でもあるので、何かほかに思いついた解釈等があればぜひまとめていただきたいです。私が読みます。
個人的に今回参考にした柳澤先生の論文が結構好きなので、「秘密」がお好きな人にはぜひ読んでいただきたいです。
最後に、この解釈は作者の平田義久氏の意図とは何ら関係ないことを付記して、締めさせていただきます。
書くの楽しかったです。私は満足しました。