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戻らない君との「過ち」の時 〜みきとP「サリシノハラ」の歌詞について~

※ヘッダー画像はサムネイルを貼らせていただいてます。

2012年10月4日に歌い手のりぶ氏と同時投稿で世に出たこの曲は、現在みきとPの代表曲のひとつとして多くの人に愛されている。

https://youtu.be/fAbO6CV7Qko

私は14歳の時にこの曲と出会い、穏やかでキャッチーなメロディーに惹かれ、よく口ずさんでいた。
しかし時が経ち、世の中のことが少し分かるようになった今、このレビューのために改めて歌詞を味わうことで、当時の自分には理解しえなかった切なさを強く感じている。



この曲を一言で説明するなら、今をときめく女性アイドルの元カレが、彼女に溢れんばかりの愛を謳う楽曲である。
「大抵の事じゃ挫けない 僕は君と共にある 」というフレーズは、何があっても「君」を応援し続けるという意思表明であり、メロディーの穏やかさからその決意の「当然度」と呼べるようなものが伝わってくる。「僕」にとって「君」は何があっても応援するのが当然なのだ。

また「ないものだって強請りなよ 君は貪欲なんだ しょうがない」「新しいトビラの前で 独りで寂しくないかな いっそ 死にたいなんて 思ってるのかな」という歌詞には、過去を共に過ごした元恋人への深い理解や、好きな人を心配する純粋な想いが表現されている。

例え自分の恋人でなくとも、自分と目が合わなくとも、「君が好きだよ」と言いきれる「僕」の深い愛には感じ入るばかりである。

そして、だからこそ、次に挙げるいくつかのフレーズが、切なさのあまり私の心を抉ってしまうのだ。


1つ目はラスサビ前の「思った以上に その肩は 裏も表も少女を極めてた」というフレーズ。ライブで「君」を見た「僕」の感想として綴られている。

まず「思った以上に」が悲しい。恋人だった「君」とは違う「君」がそこにいることが表現されており、ますます「君」が遠い存在になったことを「僕」と「僕」目線のリスナーに叩きつけてくる力がある。

さらに「裏も表も少女を極めていた」という言葉にも、「僕」にとって計り知れないパワーがあると思っている。MVの「君」の描写から、「君」は「少女」と呼べる年齢では無いと想像がつく。ではこの曲の「少女」とは何を指すのか。
私はこの曲の指す「少女」とは、男性を知らない純粋な女性、すなわち「処女性」を表しているのだと感じた。
男性と交際したことがない、男性が求めがちなウブで可愛い女性性を極めていた「君」を「僕」は見てしまった。

「僕」はライブを見た際に、「君」の中に交際していたはずの「僕」の存在が全く感じられなかったのではないだろうか。かつて相思相愛だった、今でも好きな元恋人が自分のことを忘れ去ってしまっているように感じた「僕」はどんな気持ちだったのだろうか。想像するだけで胸が痛くなる。




これに関連して、個人的に(いい意味で)最もキツいと思わされたフレーズが、1番のサビの最後の「隠したい過去があっても」と、ラストの「君が犯した過ちに 刺し殺されてしまっても」である。

芸能人はしばしば、昔犯した過ちを蒸し返され、窮地に立たされることがある。アイドルともなると、過去の異性関係に少しでも綻びがあればこぞって騒ぎ立てられてしまう。当然「君」もそれを追求されたくはないだろう。

とすれば、「君」にとっての「隠したい過去」や「犯した過ち」は何か。

ずばり「僕」のはずである。


「僕」との思い出、「僕」と交際していたという事実、さらに言うなら「僕」の存在そのものが「君」にとって隠したいものであり、アイドルとしての過ちになってしまう。「僕」は「君」のことがこんなにも好きで大事で応援しているのに、「僕」の存在は「君」にとって間違いだったのだ。

つらい、つらすぎる!!!!!



私事ではあるが最近アイドルにハマり、アイドルにとってスキャンダルがどれほど重たいものかを知ることが出来た。「君」と通わせた想いが全て過ちとなってしまっても、応援しているからこそ絶対に叶ってはいけないと頭では分かっていても、「触りたい 触りたいよ もう一度」と願う姿を6年越しに改めて見て、もう身が引き裂かれるほど切ない。

しかし同時に、私が勝手に切なく思うのはおこがましいとも感じるのだ。
なぜなら「僕」は、君の過ちに刺し殺されたとしても「ここにいるからね」と、並々ならぬ覚悟で「君」を見ているのだから。




最後までお読みいただきありがとうございました。

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