【小説】捨てる女 集める男 (中)
今秦 楽子
男は行く。山に薪を集めるごとく昨日を行く。
女も行く。川に想いを捨てるごとく明日を行く。そしてコンビは解散した。
♢14
「何があったん? 話してみて」
男がLINEで遠く離れた女の途切れるセリフを一生懸命拾おうとしていた。
「警察が来て……それから……精神科に運ばれて……」
「それで連絡取れんかったんやね。それで?」
「子どもは児童相談所に行った……これから一緒に住めるかわからないだって」
「何があったの?」
「子供を叩いたの、叩いて押さえつけて。で警察が来てね、保護された」
「何をやってんの。もう……、でも起きたことは仕方ない。娘ちゃんも今は無事なところにいてるんやね。でも暴力はよくないよ、何があったか知らんけれど、暴力はダメだよ……、俺一番ダメだって言ってたじゃん」
「ごめんなさい……」
「ま、一番応えてるだろうから、何にも言わない。けど俺は誰がなんと言おうと味方でいるから。それだけは覚えておいて」
「ありがとう」
男は大阪の精神科に身を寄せる女がしばらく消息不明だったのでひとまず安堵の息を降ろした。警察だったり精神科だったり児童相談所なんて施設の名称を一度に聞くことが悩ましくて仕方ない女からの安否のLINEだった。
♢15
一ヶ月を待って女は退院した。女は気分障害、いわゆる躁鬱病を持っていた。けれど児童相談所が女の行為を不適切だとした上で、娘が元夫のもとで養育されることを望んだことにより母子は世帯を離れた。女のそれは憔悴し切った体に塩やにがりが擦り込まれたような悶える毎日を送っていた。唯一、男とのLINEが女の生きる灯だった。
「今は、時が解決するのを待つだけだよ、それしかないよ」
「うん」
「待とう。きっと拓けるからさ。待とう」
「うん」
女は、男からの言葉に頼るほかなかった。時間が解決する、果てない時間だろうか。待てるのだろうか。毎日頬を涙で濡らす女は生きる価値を見出せず、毎日男からくる励ましの電話で辛うじて1日1日を繋げていた。正月休みにはゆっくりできるという男のもとに2週間駆けつけた。
「いらっしゃい」男が扉を開くとすでに女は涙を頬に伝わせていた。
「こうして受け入れてくれることが感謝でさ、独りじゃないってわかっていてても半信半疑だったから。こうして長崎に来ると迎えてくれる人がいる。ありがたい」
「何をかしこまっていうんだよ、俺たち運命共同体だろう?」
「うん、運命共同体ね」
「娘ちゃんのことは今はなんともできない代わりに時間が解決するから待とう。何度も言うけどさ。俺がいるじゃん」
「うん、運命共同体の俺ね」
女は、まともに食事も作らなかったし、ほとんど寝て過ごしているだけだった。それを男は甲斐甲斐しく世話をし、床に伏せてばかりを責めもせず優しくいたわった。女は起きては涙し、涙しては男の大丈夫だよの言葉に甘える。やった後悔が毎日毎日感情を司る神経に突き刺さる。
「仕方ないんだよ、起きたことはさ。これからどうするかなんだから」
「うん」
「今のところは、ゆっくり傷を癒して、ご飯食べてゆっくり寝てたまに散歩に出て、そうやって過ごしてたらさ、いつかなんとでもない日が来るんだから」
「いつか来るかな?」
「大丈夫だよ、俺が大丈夫だって言ってるんだから」
LINEでは伝わらない温もりある男のセリフは女の中の大きな綻びに少しずつ縫い代を重ねて行った。2週間はどこも行かずに男の部屋で何もできなかった女に男は何もしないをしていたんだよと言葉をかけた。
景色もない、ブルーのソファーベッドにうずくまりながら年の始まりを逃す女は少しだけ身軽になって大阪へ帰って行った。帰りに男と寄った氏神様にいつか娘が帰ってくるように願いを託した。
♢16
「わたしね、このままだったらダメな気がするん。で、娘のこと文章に綴ってみようと思って書き始めたの」
「え、いいやん。それ」
「何が正解かわかんないけど、やってみたい、書いてみたいって。文章に起こしたら涙が止まらないんだけれど、それでも書いてみようって」
「いいと思う。才能あるんだから、書きな」
女は娘との思い出を自伝にするといい、母子手帳から、日記から、アルバムから子供との思い出を掘り出しながら言葉に綴っていくと言う作業に集中した。時に悲しみに襲われたり、時に寂しさに襲われたりしながら、男との電話を通して書けるとこまで書き上げた。
赤い提灯(ランタン)が天井を埋め尽くす中華街の小路にふたりは立っていた。またひと段落したからと女は長崎にやって来ていた。2月、旧正月を祝う中華街は一際ランタンに埋め尽くされていた。赤や黄色やピンクの提灯の揺れる街は華やかで立っているだけで気持ちも晴れやかになる。娘を失った悲しみも少しは癒えたかのように女には文章という見方が後押ししてくれているようだった。
「読める?」
部屋に戻り書きかけの原稿を男は手元に置きながら、しばらく沈黙の末、口を開いた。
「うん、読める。だいぶ上手になったね、次の展開も期待できる文章だよ」
「飽きちゃうかと思って。続き書いていっていいのか不安だったけれど。まだ続けていいのね」
「じゃんじゃん書きな、気持ちが落ち込んでも、なんでもとにかく文章にするんだよ」
女は娘との幸せな日々をそして転落していく結末をむせび泣きながら書いて来た。男はそれを肯定して感情を文章に乗せることを評価した。
「いいんだよ、素直に書いてさ。心のままに文章に乗せたっていいんだ。そのエネルギーが作品に乗るんだからさ。またできたら持っておいで。いくらでも相談乗るしさ」
「うん、ありがとう」
原稿を置いて、見つめ合う。
ひとつに混ざり合ったふたりはランタンの優しい灯火のように心を溶かす。それは女にとっても安堵の時間であり男もまた安息の時間であった。
♢17
女は男の好意を受け取ってまた、しばらく長崎に滞在したのち大阪へと戻った。
「書けたよ。小説になった。原稿が届いてると思うんだけど」
「うん、届いてる。すごいやん。読ませてもらった。すごくいいよラストがまた」
「うん」
「で、どうするの? その原稿。作品にしなよ。出版社に掛け合うとかしてみたら?」
「え?出版社? わたしの原稿を?」
「書いたんでしょ、書き終えたんでしょ? やってみればいいじゃん」
「え、でも、だって……」
「やるべき」
男は女が書きつけた思いや迷いをひとつの作品として見ていた。今でも後悔しているであろう子供への思いは溢れる文字たちで取りこぼしそうになる程、原稿は女の想いそのものだった。悲しみに暮れる女の数ヶ月を寄り添った文字たち。それらは第三者の目に触れられるべきだしそうしたいと男は思っていた。
「いいね、どこか出版社をあたること」
男のアドバイス通り女は「出版」という壁を目標に足を一歩踏み出す。
「出版企画書を書いてみたんだけど、これをいくつかの出版社に出してみるよ」
女のフットワークは軽かった。男の助言を受けてまっすぐ作品にしたい気持ちを汲み取った。何社も何社も投げてみるけれど返事すら来ないことが多々。それでも女は出版できる可能性のありそうな出版社へ企画書を投げ続けた。
「文芸書は、正直売れ行きの見込みがない作家さんでしたら当社では取り扱っていないんです」
なんとかzoomで話が聞ける担当者と繋がってもこんな言葉をこぼされて途方に暮れる。それでも女はもう一社、またもう一社と企画書を投げかけた。
「弊社の関連会社になりますが、よければ応募いただきたい」
そんな嬉しい手応えがあったのは、応募を始めて5ヶ月が経とうとしていた秋口だった
♢18
「それって、出版にお金がかかるんでしょ?」
「自費出版ではないんだけど、買取150冊って言われて」
「うーん、賛成できかねるな、やるんだったら何も言わないけど、俺だったらその方法では出版しないね」
「でも、やっとこさ漕ぎ着けた出版社だし、自費出版に比べたら費用も出せる額だしさ」
「俺ならやらない」
「わたしは出版してみたいの。ここまできて辞めるなんてできない」
「俺ならやらない」
女が漕ぎ着けた出版社は本の買取を条件に出版を打診してきた。女は金額が妥当だとして本を買い取った上出版することを目標に話を進めていたのだけれど、男の意見とは食い違っていた。男はそれを出版ビジネスと捉えていた。純粋に作品として世に出そうとしていないような出版社に預けることは作品にも女の努力にも失礼だとした。けれど女の耳には入らず、女は出版の契約を締結した。
女は気付くと出版することに邁進して独り身の寂しさだったり切なさだったりを振り返る余裕もなくしていてた。そして男の反対する出版を決めてからは男のいうことに耳を傾けることを遠ざけていた。文章を推敲する段階では一人黙々とP Cに向き合って大阪の自室で籠る。そこにはもう娘を失った悲しみを男のマンションで拭う女はいなかった。それほど女は娘との物語に全てを賭けていた。男もそれがわかるだけに手も足も出さなかった。
「本を出す頃には大阪を離れていたいんだ」
「どうして?」
「家族に迷惑かかるじゃない? もう大阪にいても何も変わらないし一緒に住みたいの」
「一緒に住むのはウェルカムだよ。いつでもおいで。でもそうだね、福岡の方が何かと動きやすいかもしれないね」
「うん、一緒に物件見に行ってみようよ」
福岡に降り立った女は、待ち合わせのカフェに男を見つけた。
「お疲れ様、とりあえずチェックイン行く?」
「うん、荷物置きに行きたいな」
「さ、これからどうしましょ、福岡でやりますか、長崎でやりますか」
「そうね、交通の便はこっちの方が何かといいよね」
「そうだね。いいとこよ、福岡。明日の内見楽しみにしましょ」
そこは白い壁に木目調の家具が配置された可愛らしいツインルームだった。荷物を置いたふたりは長らくの遠距離に終止符を打った。お互い意見が合わなかった日々に不安が募ったけれど、お互いを否定しているわけじゃない。気持ちが同じ向きに向かなかっただけなのだと、見つめあいながら心を解いた。
「オイスターバーが隣にあったんだけど、行って見ない?」
「うわ、牡蠣めっちゃ食べたい。行こ行こ」
ふたりは更ける福岡の街に溶け込んでいった。
♢19
「人気エリアですので、今空いてる物件が2件になります。そのうち1件はまだ住んでおられるので内見は難しいですね」
「どうする? 見ないで決める?」
不動産会社の女性は張り切ってお任せくださいと物件を探してくれたのだが、結果内見できる物件は1件のみという結果でふたりをがっかりさせた。
「いいよ、内見できる物件だけでも見に行こうよ」
「そうだね」
女性の運転で条件の合う物件に同行した。
「ここですね、えーっと、5階なんですけど、階段なんです」
「そっか、それで安かったのか。一回試しに上って考えようか」
「そうだね」
女性に案内されたのはいわゆる昭和のハイツでエレベーターなし物件。ひたすら階段、踊り場、階段を繰り返す5階への道のりは荷物を持っていない女でも応えたし、肝臓の悪い男は顔色が悪くなった。
「間取りは3LDKで、オーナーさんが住んでらした物件ですね。2軒分ぶち抜いて広々としてますね。80平米かな」
「はい、見てまわっていいですか」
まず台所、二口で十分なところ3口のコンロにシンクは贅沢に広い。家電を配置するスペースも十分に確保できる。日当たりも良い。女としては理想的なキッチンだった。続いて浴槽、洗面の水回りも広々、追い焚きまでできる昨日が嬉しい。家事を楽にできる部屋はなかなかないとして、他の部屋も問題ない。ただエアコンが部屋数ないとしてその費用がかさむ問題、そして階段問題が浮上した。
「ありがとうございました。とりあえず持ち帰って検討でも大丈夫ですか」
階段が5階というのが男の体調が不安な面と、何かと初期費用のかさむ上、家電を買い揃えたりと考えると現実的ではない額になってしまうのでこの度は見送る形をふたりはとった。
しかし女はキッチンや水回りの快適さ、立地のよさをとると勿体ないと男に食い下がる。男は男で金銭的感覚がズレる女との生活はやや考えにくくなる。少しずつ二人の間に価値観のズレが見え始めていた。
「じゃ、ここで一旦お別れね」
博多駅で女は新幹線に乗り、男は在来線に乗って別れた。この旅で明らかになったのが、ふたりで大きな買い物をすることができなかった事実。気に入った物件を内見できなかったチャンスのなさも相まって、男も女も納得することの出来なかった物件探しにお互いないものを求めていたしそれが明確だった。
「あの時、選んでたら良かったやん」
何気ないことばのぶつかりの度に、女はこんな風に持ち出して男を責める。男は責められるべきは自分ではないとした上で、情緒が安定しない女との会話を遮断することも多々増える。女の一方通行な会話が目立ち始めた頃、男に一報が入った。
女の母親からだ。
「今、また入院してるんですが、娘から連絡を取るようにと名刺預かりました。一本電話入れてやってもらえませんか」
♢20
「お母さんから連絡があって、こっちにかけてるんだけど、携帯はどうしたの?」
「携帯は壊した。粉々になるまで叩き潰した」
「何しよるん?」
「それぐらい頭がおかしかってん」
「何があったの?」
「家で鍵なくして交番に行ったんだけど警察の態度に腹が立って歯向かって行ったんよ」
「何しよるん?」
「それで精神科になった」
最近の女の言動や行動が常軌を逸していると思っていた男はやっぱりそうなったかと、ことの顛末を見守っていた。今日のところは声が聞けただけでも安心材料が揃ったと早々に電話口から遠のいた。
「また明日電話するから」
男は毎日女に電話をかけた。女は親から受ける高圧的な態度に辟易してた。それは親からの愛情の不足が根底にあって。女がこの病気になって症状が出る度、周りへ掛ける迷惑行為が親の態度を硬化させる。親ではなく女のそれを親身になって受け止めてくれるのは男だけだった。男もまた、アルコールで親との距離を見誤っている最中、女に共感を持つ。ふたり同じベクトルを以って互いに親に対する価値を分かち合い、さらに惹かれ合う事に溺れて行く。
「お母さんからそう言われるのは、気にしないでいいよ。俺がちゃんと話聞いてるでしょ」
「もうわたしコントロールされたくない。わたしはわたしの生き方がしたい」
「そうだね」
男と暮らせればこういった親からの圧力を受けることもない。女はそう思っていた。男もまた女が楽に生きられる方法はないだろうかと模索していた。親と離れる選択をふたりは互いに考えていた。
治療が進むにつれ徐々に落ち着きを取り戻した女は以前のように一方的な会話をすることもなくなり男を安心させた。この入院は離れかけていたふたりの気持ちが、また戻される役割を果たす。男は女の言い分を許したし、女は男を丸ごと頼り切った。
♢21
「俺、親父がエリートでさ、羨ましくて仕方ないんだよね」
ふと父親のことをこんな風に話す男は親の文章マンの仕事にいつも憧れを抱いていた。親の背中を見て独学で文章の創作をする男は、副業として依頼を受けてきた。お堅い父親の文章術など足元にも及ばないと遠慮していた。文章に関しては聖域だと、男は父親と文章について話さないどころか、陰でこっそり出版するなどして、親に対する尊敬を表現できないでいた。
「お父さんに文章見せたりしないの?」
「恐れ多いよ。有名新聞社の編集長だったんだよ」
「きっと読んでくれると思うけどな」
「無理無理、俺ができないよ」
女は男が親に対して遠慮している事がそもそも幼児期からの遠慮があったと聞いたことがあった。忙しい父親からの愛情不足、男もまた親からの愛情を一身に受けたかったのだと女は思っていた。
「ねぇ、長崎に住んでもいいんじゃない? わたしたち。福岡はもういい、山があって川があって広い空があるその長崎で暮らしたい」
「うん、俺も考えてた。ここの景色、結構好きなんだ」
「わたしも好き」
「うん」
男と女は、福岡でなく長崎に住もうと意思が固まった。内見しにまた長崎合流の話が出たばかりになって、今度は男が病に倒れる。
「肝臓の数値が悪くて入院になったんだけど」
「数値が悪いだけ?」
「肝性脳症って言われた。はじめ意識がなくて、オムツ履いてベッドんで寝てたんだ」
「意識が戻ってきたんね」
「うん、なんか変な夢見てたよ」
男の肝臓は日に日に蝕まれていた。アルコール性の肝炎から肝硬変に移行していた。
♢22
男が入院している間、女は作業が待っていた。出版に際しての装丁を決めたり、最終稿の最終チェックなど。もう男はあまり口も出す余力もなく否定もせずにいた。一方、女は自分の一部になる書籍に心血を注いでいた。上がってきたデザイン案に目を通す。その中にある、ベージュに青い鳥が首を傾げているものを表紙とした。青い鳥は幸せを呼ぶなんて言うけれど、そこにしあわせがあったかはわからない女の自伝には相応しかった。
「幸せの鳥。青い鳥」と呟いて女は目を閉じた。
「おお、俺。なんか食事が少なくて萎えるけど。肝臓の数値も少しずつ良くなってるし、意識がおかしくなることもないから」
「そう、良くなってる。いつ頃退院とかわかったりする?」
「そうね、4月ぐらいには退院できると思うよ」
「4月にね、本が出るの。今最終稿あげて印刷所に行った」
「お、いよいよやね」
「うん。そう」
男はあんなに反対したのにも、聞かなかった女の出版を認めざるを得ず、それは心からではないが表面的に喜んだ。出版できる、女のときめきは男のシラけたそれとは裏腹に一つの作品が世に出る、子供を出産するような喜びでたまらなかった。
ふと携帯に目をやると元夫からのLINEが届いていた。娘を会わせたいとあった。
高鳴る気持ちを抑えて返信する。いつがいいかどこで会うのか。気もそぞろだった。
「やったやん。気持ちが届いたんやな」
「うん、今度うちに父親とやってくるんだって」
「本の出版といい、娘ちゃんといい、いいことづくめやな」
「うん、ありがとう。それに退院の予定もあるでしょ」
「そうか」
4月は全て順調に行く、そんな気運が混じっていた。
♢23
4月になり男は退院した。それに伴い女はまた西九州新幹線に揺られていた。今回は男と住むマンションを内見するために長崎に向かっている。武雄温泉から長崎までの新幹線の旅はあっという間で今まで揺られていた特急の海岸線が懐かしい。路線バスに乗り継いで男の好きな街並みを久しぶりに目に入れる。窓の形が西洋風などこか芸術品を鑑賞するような建物たちが街に並ぶ。長い路線を走ると峠を越す。そして見渡す橘湾を越して男のマンションの最寄りのバス停についた。
「いらっしゃい」ドアを開けながらひとまわり痩せた男がそこに立っていた。
「きたよ。遥々。これソース。大阪でもなかなか売っていないんだ」
「じゃ、この前送ってくれたたこ焼き機でたこ焼きしようよ」
「うん、いいね。やろう」
「買い出し俺が行こうか、何買うかいまいち分かってないんだけど」
「一緒に行こうよ、お酒も飲んでるんでしょ。重たいし」
男は退院したと言え、アルコールを手放すことはできなかった。げんに昼から缶酎ハイのプルトップが開けられて無造作にテーブルに置かれている。何かに依存してしまう心境は何かが足りていないものだと女は考えていた。それが愛情なのか。女からの愛情だけでは男は満たされない。きっと家族からの愛情の不足が男を依存にさせているのだと女は思っていた。
沢山の食材を買ってアルコールも揃えてたこ焼きパーティーを始める下準備に女は取り掛かった。キャベツや紅生姜、竹輪に蒟蒻をみじん切りににして小皿に分ける。
男はその間、PCに向かい何か創作していた。
ジューっとだし汁が回った中にたこや食材が満遍なく振り入れられ緑や赤のカラフルな土台を作る。男はたこ焼きを1からできるのを見ながら興奮冷めやらぬ様子で竹串でくるくると回すのを見様見真似で始めた。
「明日にでもさ、不動産屋さん行こうか」
「うん、見てた物件まだあったらいいね」
「そうだね、まだネットに出てたし大丈夫でしょ」
熱い丸い塊はホフホフと舌を焦がすほどに、大阪からやってきたソースに化粧されふたりの口に入った。
「お疲れー」の声でアルコールを流す。
決して病み上がりにふさわしいパーティーではなかったがお互いリラックスしたホームパーティーになった。
♢24
「キッチンも広かったし、立地も今と変わらないし、審査通ったら早速引越しの手配するよ」
「うん、家賃もまぁ予算内だしよかったよね」
こんな感想を持ち合わせてふたりは不動産屋から戻ってきた。男の暮らすマンションから見えるファミリータイプのそのマンションはベランダからの眺望が美しい。龍の背のようにうねった河川が桜並木を抱えて河口まで走る様は今ちょうど見頃を迎えた満開時期と重なって、圧倒的な眺めだった。何も言うことない、そんな物件に巡り合う。女はワクワクを携えて大阪に戻る。
新幹線から眺める田畑の飛ぶ様子は、あっという間を物語っている。ひとり家に帰るとただただ誰もいないダイニングに腰掛けてビールと孤独を飲み込んだ。
「ちょっと信じられないんだけれど……」
1週間ほどして男から電話が入った。
「信じられないんだけど、審査、落ちた」
「え?」
「そんなことある?」
「普通にそんなことないけど、厳しかったんっやね」
「そんなことある? 申し訳ないけど、また探し直してからやり直しになる」
「うん、それは大丈夫だよ。今回は縁がなかったんよ、あまり落ち込まないで。また行くからね」
女は引越しのために荷物を減らすのに、あちこち調べ物をしていたばかりで、前提にあった引っ越しが愕然と崩れるなんて思っても見ない。物を片付けるのが好きな女は友達に譲る物など仕分けしていた最中でもあった。引っ越しが未定になる中、女はひとつ大きな日を迎えることになる。
桜が散り始めた頃。待ちに待った書籍発売日が来る。女の元に宅配便が届く。女の書いた書籍150冊が玄関に積まれた。段ボール2つに分けられた書籍は10冊単位で包まれていた。女は中から一冊取り出すと徐に読み漁る。何度も何度も読み返した本文だけれど、紙として手にした文字たちは優しく目に入ってくる。「うん、うん」 と頷きながら読み進める。あらかた満足いくところまで読み進めてページを閉じる。そこにあるベージュ地に首を傾げる青い鳥は、デジタルで確認した装丁のものより懐かしい感触をしていた。
家にある、あらゆる茶封筒を持ち出し、一冊一冊、宛名を書いて梱包する。読んで欲しい友人や、男に郵送するため準備した。そして、娘にも送ることを決意する。もうすぐ娘と再開できるのに合わせて。
桜が青々しい葉をつけた頃、元夫と娘が女の家へやってきた。これからは娘の自由で女と会って構わないと、親子で決めたと言う。
離婚した親子のように月に何回など縛りを設けず、娘が会いたい時に会ってやってくれないかとの申し出だった。女は快く引き受ける。予定として長崎に引っ越すことを伝え、それまでならいくらでも応じると答えた。
伝えることを伝え、あとは娘とご自由にと元夫は娘を残しひとり立ち去った。娘は久しぶりの母親と街に繰り出したいとリクエストをし、桜の葉の青い公園をあるき駅に向かった。そんな中、女は娘に言う。
「ママ、本書いてん。よかったら送っていいかな」
「そうなんや、送っていいけど、読まないよ」
「うん、なんでもいいよ、送るから」
街に出てギターを見たいと言う娘について行きこのフォルムがかっこいいだの、この色素敵だの一つ一つのギターを称賛する娘が久しぶりに自分に甘えてくれることを、女はしみじみと味わっていた。
♢25
それから女は娘と商業施設に出向いたりテーマパークに出かけたりふたりの時間を謳歌した。無くした一年を大事に手繰り寄せ、2ヶ月が過ぎた。
「ママな、多分長崎に住むと思う。もしママとあの部屋でやり直すんやったら、長崎行くのやめてもいいねんけど」
「いや、パパと今のまま住むわ。学費だって出してくれるって言ってるし。今のままでいい」
「いいのん? 不自由ない?」
「うん、不自由ないよ」
女は娘ともう一度やり直すことを断念した。今のままでいい、たまにこうして会って笑い合って。それがいいと心に留める女であった。
女は男の住む町への路線を車窓を眺めながら揺られていた。
「お疲れ」 また一回り痩せた印象の男は、いつもの通りドアを開けた。
「またきたよ。今度こそ物件見つけないとね」
女はもう長崎に移住を決めていた。あとは物件を見つけるだけだと息巻いていたのだけれど。どうも男の様子がおかしかった。階段を下りる際、繋いだ手に異常に力を入れたり、買い物にでたら長い時間立っていられなかったり。女と離れていた2ヶ月間は男の体調を悪くさせていたようだ。しばらくは男の体調を見ながら女が食事の支度を担った。
河口に注ぐ川。それに架かる橋から水面を眺める。男が来てみたいと誘った。あたりはやがて暮れて茜色に空が染まりはじめた。水面の先を追う男の目を女は覗き込んだ。美しい水面が映り込んでいればよかったのだけれど、そこには黄染した白目部分が以前よりくっきりと肝臓の動きを物語っていた。
「ね、もう物件探しはよそう」 女はそう言った。
「どう言う意味?」
「あのね、あの部屋で一緒に暮らすの。もう引っ越しなんてしなくていい。私が荷物持ってくるだけにするから」
「どうしたん?」
「急いで一緒にならなきゃダメだって今思ってるの」
「あぁ……、俺の体のことか」
「そう、支えが必要だよ、もう」
「そんなに?」
「うん、そんなに」
男は病に蝕まれていた。今まで悠長に構えていた女は危機感をもつ。一緒にいなければ、一緒にやっていかなければ。
「ねぇ、今度来たら闘病記を書かせてくれない?」
「いいけど、俺、そんなに重症なん?」
「重症かはわかんないけれど、書かせて欲しい」
「いいよ」
禁酒できない男の行方はそう明るくはない。だけど一緒にいさえすれば、なんとかなる。そう女は思い込んでいた。
発車のベルがなった新幹線は福岡に向けて走り出す。トンネルの中を走る黒い車窓には逸る気持ちを抑えた女が写っていた。そこには晴れやかな海岸線が続くことのない無味な新幹線が女をさらっていくのであった。
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