【小説】捨てる女 集める男 (上)
今秦 楽子
男は行く。山に薪を集めるごとく昨日を行く。
女も行く。川に想いを捨てるごとく明日を行く。そしてコンビは解散した。
♢1
「スニーカーと腕時計は自分自身だからこだわるよ」男が言う。
彼の部屋にはナイキやジョーダンの靴の箱がゴロゴロと転がっていた。「箱も価値があるんだからね」なんて言いながら誕生日や給料が多かった日にはウキウキとスニーカーのサイトを閲覧する。「限定」の文字に心踊らせているのは言うまでも無い。
「狭いけど入ってー」
初めて男の部屋に足を踏み入れた女。余計なものは削ぎ落とす主義で、断捨離をしないと運は手に入らないとまで信じ込んでいる。あらかた整理されたコレクションに特に難癖はないものの、もしも一緒に暮らすならコレクション部屋を一つ、自分の目に触れないように準備したいと考えた。
♢2
「あ、これー。今日中の賞味期限なんだけれど。豚まん」
「おー、蓬莱やんね、551」
「常温のやつ買ってきたから、新幹線は匂いテロやったよ、知らんけど」
「食べよ、食べよ」
「レンチンは任せて」女は言う。
ターンテーブルに並べられた豚まん2つが揃って温められる。皿に乗ったそれは小さな白い湯気を出して、ソファーの前に並んだ。
「カラシ塗ると美味しいよ」
「九州のコンビニは肉まんに酢醤油もついてくるんよ そうや」
立ち上がった男は何やら小皿に何かを注いで戻ってきた。
「酢醤油と胡椒、551に合うかわからんけれど、試してみ?」
男の差し出した小皿にちょこんと豚まんの縁をつけ、女は頬ばった。
「不思議な味。いつも食べてる豚まんとはまた違う感じ。もちろん美味しいよ。けど不思議やわ」
男は俺も俺もと、同じように豚まんを賞味し自分の功績を女に説いた。女によって大方の食器類が片づけられ、溜まっていた茶碗も洗う彼女の行為に男はソファーに腰掛けながら謙遜した。
SNSで知りあったふたり。改めてソファーに腰かけてみてもお互いを認識するのにぎこちない。男が他愛ない話題を振っては女が受け答える。そんなつまらない風が過ぎる。ただ二人の意識にもっと踏み込んで行きたい相手の領域は、そこにあるのに届かない。大人であるし独り身同士、何に対して躊躇しているのだろう。刻々と渦巻く時間の波にさらわれるだけだった。
♢3
「こっちの路面電車に乗るよ」
男がさり気なく女の手を取り引き合わせる。女は暖かくがしりとした感触に優しさを受ける。自分と違う人間の意図を掌に握りしめ、逃すまいと思う中するりと抜けるその手はこの男が自分に「いわゆる」好意があるのだろうか、女はそんな手応えを見失っていた。
男に出会う前の女は、荒廃していた。マッチングアプリを設定しては会える男、会える男と逢瀬を重ねる。そしてひとり傷ついて納得させ、次の男にシフトする。そんな寂しい夜を繰り返して自傷する日々だった。うわべだけれど、女に構う男たちは、大きく愛情を表現した。それに反して曖昧な態度をとる目の前のこの男の表現は、女をくるわせ始めた。
二人の昨夜は他愛ない話しに終始し、別々の夜が過ぎた。男の住む町に滞在するのもあと一泊、もうそんなのかと女は吐き捨てた。
「こっち、こっちー」
三歩前を男が歩く。
「あ、待って!」
ただ流されよう、彼の吹き下ろす波に流れてみよう、きっと素敵な漂着地に出会えるから、と女はそう心に留めた。
「まず見て欲しいんだけれど、これ」
爆心地モニュメント広場で男はそこにいる母子像を紹介した。男の住まう長崎の土地は悲しみや憂い、そして祈りに包まれている。
「1945 8.9 11:02 、これ何を意味してるか知ってる?」男は問うた
日本に生まれて知って当たり前の日時。知らないはずがないと女は無知を決め付けて話す男の言葉に絶句した。
「原爆が落ちた時間だよね」
「正解。そう、ここの抱えられた子どもの表情見て欲しい。この脱力したような垂れ下がった四肢。それをなんとも言えん表情で母親は。何を感じ何を見据えてるんだろう」
男は思いを言葉にしながら、人が人を殺める行為の野蛮さを憤っていた。女は一歩下がり、天頂に広がる青空を仰いで静かに手を合わせた。この今ある平和が、たくさんの犠牲の元にあることに哀悼の意を腹に落とし込む。背中を通る風を感じて、ありし日の人々の無念を背負う。女のその祈りは長かった。男はその姿の美しさに感嘆する。突如として、大阪からやってきたこの女のひとつ深い心の部分を男は見いだした気になり、緊張の皮をひとつ脱ぎ去った。
「この先に浦上教会があるから」
そうして男は女の手をしっかりと引きながら目的地の教会まで、汗ばんでも暑くなってもその手を離さず歩みを絶やさず進み行った。女は今まで自傷の為の男たちとは違うまっすぐな男の行動に素直な喜びを感じた。
鐘が豊かに鳴った。時は正午を告げていた。
礼拝のルールで、脱帽をした男。煌く青いステンドグラスの魅惑に陥っていた。女も然り。「ザ教会」と言えるほど、厳かで迎える観光客を微塵とも感じない大きな箱の中は信者の祈りで溢れていた。ここが観光の場でないと、示されていた。
「カタン」
関係者がペンを置くだけの音でも大きく反響し、静寂を伝える。遠くにある中央の祭壇には十字架にイエスキリストがはりつけられている。この拘束され処刑される像を眺める女はこの宗教の信仰対象を許容できなかった。
男は魅了された施設内が厳粛で信者のためにあるのだと、片隅に安置された被曝マリアを眺めて気づいた。同時に彼女へも手をあわせ祈りを捧げる女の姿があった。
信者と共に復興を担ったであろうマリア様。原爆で首だけ残され、一部の信徒が大切に隠していたという映画をのちに知る。
「マリア様、凄かったね」男が興奮気味に話す。
「うん。ていうかすごく厳かな場所だったね。私たち入ってほんとによかったのかな?」
男はまたマリアに祈りを捧げる女の横顔に見入っていた事もその美しさも話せなかった。
「お昼さ、さっき通ってきたところにイタリアの国旗のあるお店があったから、そこ食べに行きたいな」
女が日常の会話を話し出す。
「パスタか、外食で食べるのもあんまりないし、道案内を任せるよ、はい」
男が手を差し伸べて女の掌を掴みとる。彼女の掌の中にするりと男の掌が合わさる。少し冷たい弾力のある彼女の手を、今日はこれからも離さないでいようと決めた。
♢4
その夜はわたしが作ると煮込み料理を女は始めた。材料の皮を剥いたり切ったりは男が加担し、キッチンにはいい香りとガチャガチャした慌ただしさが入り混じる。二人の動作が一旦落ち着いた時、隣に立つ女の腰に回った手を男は引き寄せた。
「明日、帰るなんて言わないで、なんて言うつもりなかったけれど、いっそ、ずっと帰らないで欲しい」
「え、さっきのビール、もう回ってるの?」
まんざらでもない女は男の手に指を絡ませ、ひとこと伝える。
「こんな事言うとシラけるかもしれないけれど、子供を放置出来ないから帰らないと」
雰囲気を出した者負けのような白い空気が辺りを包んだ。女には同居する中1の娘を家に置いて来た経緯があった。「そっか」と、からませた手をするりと抜かして、男は風呂の準備を始めた。
「食事出来上がるまで俺が火を見ておくよ、お風呂の準備するね、さっき言った事は忘れて」
女は気まずかった。いつも逢瀬を重ねる男たちにもあえて子どもの存在をひけらかさないことで、母親から離れた女という身分を築いて来たのに。男の用意した湯船につかりながら自由に恋愛がしたいと今ある現状を嘆いた。
男から借りたスエットとTシャツに袖を通した女は、男を後ろから抱きしめて「ごめんね」と囁いた。女の手を解く男はそのまま後ろに向き直り湯舟で熱くなった女の体を抱擁した。
「無茶いったね、困らせたね。親である事も含めて愛おしいと思ってる。来てくれてありがとう。しばらく俺が独り占めしたから、お子さんのところに帰って、思う存分母親をしてあげな」
鍋はトマトの匂いをグラグラと沸き上げて、ふたりの夜の始まりを今かと待っていた。
♢5
女は帰途にいた。車窓に映る弓なりに走った海岸線は長崎の情緒をぽつぽつと印象付ける。長く打ち寄せた波の沖には次の波が白く控えている。ひと気のない波打ち際は寂しさを映すのだけれど、女にはもう寂しさなんて不要なほどに感傷に浸る時間は消滅していた。
そんな景色の奥に昨夜の出来事を想起する女は長崎に思いをひとつ捨てた。
「俺は全てを肯定するよ。自分に嘘ついて、自分を大切にして来られなかった事。否定はしない。一緒に愛してゆくからさ、自分を大事に愛してあげな」男が昨夜口にした意味。
男は女を抱かなかった。決して女を嫌になったわけではなく、さらに魅了されたからだ。女の身を軽んじて差し出す態度に違和感を感じた。女はこうも言った。
「もう今夜で帰っちゃうのだから」と。まるで世話したお礼を身体で返すような態度だった。
「大切にしたいからお互いを知り合うのは時間をかけるべきだし俺は逃げない」
昨夜抱きしめられた時、気づかされた。やっと気づいてあげられた。おろそかに、むげにしてきたわたし自身の大事な気持ち。自分を痛めつけてきた昨日までの自分に懺悔した。窓に映る波の潮紋が美しく続く様子が滲む。じわっと頬に伝う暖かい雫は受け止めきれないままに落ちゆく。女は自傷してきた意味を深く探求しながら、この列車に揺られていた。
あの日。携帯にマッチングアプリをダウンロードした日。「いいね!」の数を競うように獲得する日々は刺激的だった。何人もの男の人とやりとりを始めて、日に日に好意を寄せる文章が浮かび上がった。チヤホヤされて、有頂天だった。待ち合わせして目の前の相手に愕然とする事も多かった。彼らのつく嘘やまやかし。席を立って帰ることもできたのに、自分を誤魔化し大した嘘じゃないなんて目を瞑った。軽くその男の車に乗ったり、部屋に行ったりした。もちろん、そんな軽はずみな自分を正当化する。もてあそばれても自分を慰めもせず、自傷したわたしが更に精神的にも傷を拡げる。そうして失敗した男との関係を間違っていなかったと、また新しい自傷相手を見つけては、自分をボロボロに扱ってきた。溢れる涙は女の奥底の意識から出たのだろう。止めどなく、辛かったんだよ、苦しかったんだよ、と受け止めてもらうためあらわになって溢れ出てきた。
♢6
「ご乗車ありがとうございました。間も無く終点の博多に到着いたします。新幹線にお乗り換えのお客様は階段を降りて、新幹線乗り換え改札口へお越しください」
構内アナウンスの女の声は無機質に正確に行き先を告げる。大阪に戻ろう、偽ってきた大阪に戻りつこう。流した涙で落ちた化粧をとりつくすこともないまま、女は博多で新幹線に乗り継いだ。いよいよ新大阪と言う目標が近づいた。情緒あったあの特急列車とは違った車窓は長いトンネルの世界を経て、あっという間だった。
「ママ、あと1時間くらいかな、家につくよ」娘にLINEを送る。
家に着くなり、カステラや明太子、お菓子の袋。九州の土産を開け漁る娘は、早速まな板にカステラを置き、包丁を取り出していた。ひとり家で留守番させた、後ろ髪ひかれる思いの心苦しさは、あっけらかんと、自由で楽しかったと話す子の笑顔に溶けた。またいつでも九州に行ってきていいよとの言葉は泡が弾けるように足元を軽くした。
心配してるだろう男に「無事着いたから」と連絡を入れる。すると間髪入れずに通話着信が鳴った。
♢7
男と女はお互いの距離を感じさせないほど、通話を重ねた。電話を初めて手にいれたように、くる日も来る日も話した。それでもありし日常に戻って、男はリモートの営業の仕事を。女はリラクゼーションセラピーを続けた。あの日、さようならを言う前にハグした女に男が告げた「俺たち運命共同体だから」のセリフをふたりは大事に繋いでいた。それにはきっと深い意味があるのだろうけれど女はさっぱりわかっていなかった。
「そうですか、難しいですか」娘の担任は腕を抱えて自分の膝を見つめていた。
「ですので、勉強はうちで見ますので、定期テストもうちで受けさせますから。テスト用紙はもらいにわたしが頂きに来ます」
女は中学の会議室で担任と対峙した。隣には娘も座っている。娘は理由がないのか理由を秘めてか、学校に来られなくなっていた。不登校。学校に行けるか行けないかじわじわ気は焦っていだが、2週間が過ぎた頃、もう行かせないと女は決めた。娘の朝を整えて、希望的に学校に行かせることに心血を注ぐのに疲れたからだ。
女は自分に落第点のレッテルを貼る。子供を満足に中学校へ行かせることもできない母親は、世の中の何にも役に立っていない人間として攻め立てた。男から自分を大事にするよう気づかされたのに、また自分を攻撃する気性は何も変わらず以前と同じ、揺り戻しが起きていた。
男の声はいつも包容的で力強かった。
「気にしなくていいよ。毎日学校行ってくれるのはありがたいだろうけど、それは誰にとってありがたい話だろう」
「うん。もっとわたし、彼女に何か出来たかも? って思うの」
「したいことは、今からでもしてあげられるでしょ。前しかないんだから、前向いて行こう」
「……うん。……だけどわたし、悔しい」
「そうか。悔しいか」
「まともに子供を育てあげたかった」
「娘ちゃん、まともじゃないの? そんな言葉を言いだしてたら、悲しいな。言霊ってあるんだよ。優しくていい子じゃない?」
「うん、優しくていい子」
「大丈夫、自分と娘ちゃんを信じて。俺は信じてるよ」
女が一旦家庭で引き受けるといった娘と娘の学業が順風満帆に風を受けて将来に出向できてると思いたかった。それをまだ信じ切れない女にこれから待つ大きな揺り戻しがやってくる。嵐の前触れの静かな凪の中に親子はいた。
♢8
不登校の娘との暮らしが始まり、女は少しずつ窮屈を覚えた。家の作り上、男と電話するにも娘の気配を消すのは大変だった。
「娘ちゃんどう?」男はいつも娘を気に掛ける。
「やっぱり学校がないと、時間にルーズになるよ。今日も11時ごろに起きて」
「寝っぱなしでないだけいいよ。ちゃんと起きるんだからさ。今はやりたい様にさせてあげなよ」
「一緒にいないから言えるんじゃん、結構時間がズレると心配になるもんだよ」
「そうだね、理由はわかんないけどさ、娘ちゃんは今日までがんばってきたんだから」
いちいち娘の見方をする男に、女は自分だけが悪者なのかと、気持ちを沈めた。
「それでさ、今の小説なんだけれど」
女が切り出した。男とは文章で繋がっていると言うと簡素だが、男は文章を創作することに精通していた。男の勧めで、ひとつ小説を書いてみたらどうだろうか、と、男が使わなくなったノートPCを女が引き取った。文章を書くのは女にとって新鮮な作業だった。身近な人たちをモデルにして、架空の話を作る。それは白色のページに黒い文字が並ぶだけの事なのに、脳にはカラフルな情景と人々の思いが交差する不思議な体験だった。
女は仕事のない日にはそんな風にしてPCの中の世界にどんどんとのめり込んだ。
「書くのが小説になったのね。それで?」
「書き始めたのが、三角関係のお話なんだけど」
「うんうん、今度きた時でも見せてよ」
もっぱら女はダイニングテーブルを占拠し、言葉を綴ってゆく。遅くに起きてきた娘が何か食べたいものを用意するのを傍で見ているだけだった。視線は PCに置いたまま最低限の挨拶を交わす。娘も学校に行かないからなのか遅くに起きたからなのか、積極的な母親との会話は特段ない。日に日に冷め切った空気がダイニングを支配する。女はそれが普通に思える時も、寂しく思うと、男からもらったPCを抱えて近くの公園に逃避する。その行為が、娘には冷たく寂しく刺さった。
ただ学校に行けなくなっただけなのに、寂しいと娘は追い詰められる。見て欲しいのに、愛して欲しいのに、素直に表現できない細い糸のような気持ちは切れるか切れないかのギリギリで女に向けられていた。
それを知らずに女は文章の世界へ浸かっては男との通話を毎日のように続けていた。
♢9
西坂の丘、女は立ちつくしていた。長崎に佇むそこはかつて悲しみに濡れた土地。秀吉の命で連れて来られた聖人たちが殉教した場所だった。
「ごめん、ちょっと仕事が入った、1時間ほど長崎駅で時間を潰してくれないかな」
新幹線のデッキで言われた女は、大丈夫、と記憶の男の甘いマスクを思い出す。この声、1時間我慢すれば出会える。と持て余す時間を、西坂の26聖人殉教地で過ごす事を決めた。
立ってみると見晴らしも良く、かつては海が開けていたであろう場所には、駅前の賑やかしい街並みが広がる。この景色を異国から来た聖人は今も見つめているのだろうか。世の中がガラッと変わって、信仰の自由を手にした日本人たちは彼らの信仰心を踏みにじってはいないだろうか。女もまた教会の光の美しさに魅了されたので一概になんとも言えないが、日本人はキリスト教をどう感じどう思っているのかも、きっと殉教者には伝えられないだろう。
女は信仰の歴史が展示された博物館を眺め歩いた。そして一つの答えにたどり着く。
「この地は、だから、穏やかなのだ。……人々の祈りに包まれているからこそ」
時計の指す時間がちょうど1時間を過ぎていた。彼のもとへ駆けようと足をバス停に向けると、ふっと追い風が女を越した。
♢10
「ごめんね、急な予定変更で」
玄関先で男が扉を開きながら、よく来てくれたね、と話す。女は迷いなく男の胸に飛び込んだ。40を優に超えたことも、中学生の子供がいることも、どうでも良くてただ男の胸に包まれたかった。男もまたそんなことはどうでも良くて丸腰の女を抱きとめた。しばらく長い距離を埋めるように時間をかけながらお互いの体温を還流させていた。男と女はここに来る前に、電話で確かめ合っていた。「人生最後の恋人にすること、なること」を。
「とりあえず、カレー作ってみたから、食べよ」
玄関からスパイシーなつんとした香が鼻をよじる。美味しそうなその匂いに追いつくようにピーッと炊飯ジャーの米の炊けた音が響いた。
「サイコーじゃん。もうご飯食べれるなんて」
女は荷物をあらかた寄せて、男は食べる場所を作った。
男のカレーは斬新だ。玉ねぎ以外の野菜は皮がついたままのポークカレー、それにトマトも入った。
「料理は切ったり剥いたりが苦手で、ほら皮の近くに栄養があるとか言うじゃん」
「うんうん、美味しいよ。よく煮込んであるね」
「昼に仕込み始めたんだけどね、仕事が入るなんて思わなくてさ」
地元の野菜だからだろう、優しい甘味がスパイスの中からゴロッと出てくる。キリシタンがマリア菩薩の優しさを奥の奥に隠したように、優しい柔らかい味だった。
「これね、出来上がったよ」
女は冊子をおもむろに取り出した。大阪で綴ってきた小説という名の雑記。女の半生を元に書いたと言うそれは、かしこまった言葉ばかりが並ぶ処女作だった。
「何字いったん?」
「そうね、多分13,000字ぐらい?」
「がんばったね、まずそこに拍手だわ」パチパチと手を鳴らす男。
「内容云々より、書き上げることが達成出来たことは誇るべきだよ。先お風呂入って来なよ、その間、読ませてもらうから」
「うん、ありがとう」
♢11
相変わらず水圧の強いシャワーを受けながら、女は再会した男との抱擁を思い出し、長旅の疲れも流した。男との繋がりは妄想なんかではなく肌で確かめあえたことに浴場の熱気以上の昂った感情が合わさった。
「いや、ほんとお疲れ様。正直書き上げることができるなんて思わなくてさ。しかもこの短期間にね。後それから、わざわざこんな冊子に仕上げてくれて読みやすい原稿だった」
「うん」
「感想はまだまだこれからだなって、厳しいけど。次々書いて書いて上手になっていくもんだよ。で、ね。これをキンドル で出さない? マック持って来てるでしょ? 明日にでも。お金になろうがどっちでもいいの、やったって手応えを作品にしてみて、もしさらに読者が購入すればそれは嬉しいじゃん」
とりあえずと出された缶酎ハイで二人は乾杯をした。唐突な男からの提案とアルコールに女はその渦に巻き込まれていく。肝臓や膵臓を壊したと話す男がアルコールを飲む行為は咎めてもシラけるだけだと、女は男との飲酒を容認する。酒の力もあって男と女は、ほどけてゆく。男は女の髪を梳き流し耳元でこう言った。
「やっと会えたね、そしてやっと触れるよ」
「うん、ほんと。やっとだね」
ほろほろと女の衣服を解くと男は優しく口びるを重ねた。女は男の愛を受け入れる。女は全身を曝け出すと男の所有物になる。愛撫で、よだう女は所々吐息まじりの声を洩らす。それを聞く男はまた気を昂らせる。初めての者同士ではない大人な交わりは無駄はなかった。交わり終えても女はたびたび身を硬直させながらも優しく男が体を撫でる快楽に溺れていた。男もまた女の体に触れて、いつも虚と過ごしていた電話だけの時間を慰めていた。またしばらく会えなくなるなら、話せることを話そうと、男は身を乗り出してこれからのことを話した。
「東野圭吾みたいな、論理的な文章に憧れてて。ロジカルでしょ、みんながみんな納得する文章。俺もさ、理系大卒業したから、あんなかっこいい文章が書けたらなんて」
「何個か読ませてもらったけど、すごく近いよ。ロジカルな文章書く人だと私は思ってる」
「ありがとう。でね、俺もね、実は純文を書こうかと思ってて。今構想中なんよ」
「うん、うん」
男は女の小説完遂に感化されたと言った。長らく文章に携わっていなかった自分への戒めなのだとも言った。女は数知れぬ男の発表作を目にし男の文才に惹かれていた。それをまた当たり前のように文才に惚れたのだと男に告げていた。
「わたしは文才あるあなたのように書きたくて、ここに来たんよ。憧れてるから、楽しみにしてるね」
「プレッシャーだな、でも書くよ。書いてみせるよ」
ふたりの夜は、文章の話で夜更まで続いた。
♢12
「これやってみたんだけど、上手くいかない……」
男は仕事を抱えながら合間に女のキンドル 出版の操作を見ていた。
「どれ、貸してみて……本当だね」
あれやこれや試行錯誤を一日中女は試した。それも虚しくうまくアップロードが出来ずに電子書籍は夢に終わった。
「残念だけれど、昨日行ったみたいに書けばいいってものじゃなくて、書き上げた後に作品としてきちんと残すのも作者の責任だからね」
「うん、今回持って来た冊子をたくさん刷ってフリマで配ろうかな」
「それ、いいね」
「うん、なんかスッキリした。最後まで描いてみてよかったよ」
「よし、今日は俺の奢りで焼肉に行こう。バス停の近くに気になってる焼肉屋があるんだ」
「奢り? いいね」
ふたりは夕暮れを待って連れ立って歩いた。その日は月がきれいな満月で、月明かりに照らされた夜道は歩きやすい遊歩道。
「手、貸し手ごらん?」
「ん?」
「こんなつなぎ方、嫌、選手権しよう」
「何それ?」
「とにかく手を貸してよ」
そう言いながら男は女の手を繋いだり解いたりしながら、女の心も繋いだり解いたり、手の感触だけで心揺すぶる歩道を楽しんだ。女ももてあそばれながら、そう言った発想をする男に興味が深々だった。
「俺ね、夜になると月が青く見えるんだよ。俺に文章の素晴らしさを教えてくれた恩師の命日あたりの満月の夜はね」
さっきまでの戯言とは違って、真剣に不思議な話をする。
「青く見えるの?白くじゃなくて?」
「全体に夜空が青いんだ、眼科ではなんともないって言われるんだけどね」
「恩師の先生の何か力があるのかな、不自由でなければその力で何か救われているのかも知れないよ」
「そうだね」
そんな不思議な話をしながら夕食を焼肉屋で済ませた。とってもきれいな月の夜、女は月明かりがこんなに明るく頼もしいものだと初めて知った。
♢13
「あっという間だったね」
玄関先で男と抱擁をし次また来るからと、約束した女は後ろめたくドアを出る。男と過ごす束の間は充足感に溢れていた。男の住むこの町は天頂を高くした広い空に真っ白い筋雲が合わさる。河口に続く幅の広い大きな川と、普賢菩薩を祀るこんもりとした森と。女はバス道まで前後左右、大阪にはない雄大な景色をいっぱい吸い込んだ。1時間に4本来るバスは、すこし待てばやって来る。役場や小学校、警察署。バスはぐんぐんと追い抜いて行く。長崎駅前までの路線には男の好きな独特の異教の影響を受けた様式の学校だったり病院だったりが流れて行く。大きな橘湾が背に来る頃、女は男との数日間を思い起こしていた。
「新大阪、新大阪。お忘れ物のございませんように……」
自由席から一番遠いコンコースへの階段を目指しホームを流れる。右手には娘へ買ったカステラと明太子の袋を下げて。この長いホームで女から母親へ切り替える必要があった。娘は以前交際した男たちにいい感触はなく、母親が女だという事に拒絶しているかのような振る舞いがあったこと、こうして家を空けて数日帰らないことへの後ろめたさが女をそうさせた。だけれど娘に対して母親はこんな女なんだと開き直る方がお互い楽だったのかも知れない。
「おかえりなさーい」
「ただいまーお土産あるよ」
リビングの方でソファーに身を預ける娘は玄関でまごつく女に向かって久しぶりの挨拶を投げた。そのソファーの居心地が良いかで姿勢を変えず、振り向くだけ振り向いてお疲れ様と話す。傍には誕生日に貰ったアイフォンが熱を持って握られている。完全に母親に戻った女は、夕飯の支度に取り掛かる。コンビニやお惣菜で過ごした娘へのせめてもの償い、家にあるもので温かいご飯を作るのだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?