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愛のものがたり⑦
今秦 楽子
♢1
「文生さんよろしくお願いします」
「こちらこそ」
そうやって、わたしたちの生活は始まった。ただ文生は目が黄染していたしふたまわり痩せて、足元もおぼつかなかった。それほどに急を要したのでわたしはふたりで住めるような広い物件をあきらめて慌てて長崎にやって来た。大阪の家財も処分した。
「助かった」
文生の心の声が漏れたように不意にそんな言葉がかかった。文生の安堵は生命に関わりを持つ重みがあった。
「もう大丈夫よ、わたしおるから」
玄関を開けて左手に2口のガスコンロのあるキッチン。右手に独立した風呂と洗面所。その先にトイレ。そんな廊下の奥に文生のデスクとソファーベッド。一Kのこの部屋が文生の全て。文生の部屋はゴロゴロとゴミが散乱していた。ゴミを集める労力もゴミステーションまで持ち出す気力ももうここにいる文生にはなかった。ここで文生は何と闘っていたのだろう。一つずつ空き缶を拾い燃えないゴミの袋の隙間を埋める。プラスティックのラーメンの器もとりどりのものを集めてはスープを流す。電話口の文生は調子よくわたしに元気そうに話していたけれど、ここまで体力がなくなっていたとは思ってもみなかった。
「片してもらって悪りぃ。本当は片付けて迎えたかったんだけど。階段が厳しくてさ」
「大丈夫、そのために来たんやから。ゴミ捨ててくるね」
♢2
袋に収まったゴミは5つほどにまとめられた。それを持って外のゴミステーションまで降りる。それらを放り投げる。気づくと頬に涙が流れた。何を思ってか涙が流れる。文生がここまで体調を崩していたからか。それに早く気づいて早く住むことが出来なかったからなのか。涙は乾かない。この顔で文生に会うわけにいかないのでその足でスーパーに買い出しにいった。スーパーには夏の野菜が並ぶ。トウモロコシが皮付きのままゴロンと並べられていたり枝豆が大きな枝にぶら下がったまま袋に入っている。田舎の野菜売り場は新鮮さを売っていた。文生の絶望を目の当たりにして、わたしは覚悟をしてこの長崎にやって来たのだと自分を奮い立たせた。食材を吟味し、文生には肉を食べさせようと炒めるだけのプルコギをカゴに入れた。そして。アルコール。毒だと知りながらカゴの中に放り込んだ。
「スーパーも行って来た」
「やったー文ちゃんのアルコール!」
レジ袋の底がゴロッと音を鳴らして床を叩くと文生はすぐに反応した。
「その代わり、文生さんご飯しっかり食べて欲しい。お肉買ってきたから」
「肉食べる! 俺作るよ、炒めるだけっしょ」
わたしが野菜を切り文生が炒める、キッチンに並んでああでもないこうでもないと宴の準備を整えた。ポンもおやつのジャーキーをしがんで夕食を待つ。
送った荷物の奥底に食器類が2組ずつ梱包され今日の日を待っていた。文生の家にはちぐはぐな食器類しかなかったので大阪から送ってきた。包み紙を剥ぎながら、シンクにおろす。文生は赤ら顔に黄色くなった目を覗かせ肉を振るっている。洗った皿を並べ味噌汁とご飯とよそって文生の肉を待った。
文生はアルコールをチビチビと飲む。そんなに煽って飲むような素振りがないのはわたしにとっての救いだった。そんなに量は飲んでいないからそんなに高い濃度のものを口にしていないから。そんな言い訳を自分自身に言い聞かせる。
♢3
明くる日も、明くる日も、食材を買い込んでは文生に精の出るものを作った。
「京子ちゃん、少し歩かない?」
思いもよらなかった夕暮れに文生は八郎川まで誘った。マンションは階段になっているエントランスが待ち構えている。そこへ右手は壁に左手はわたしの右手に支えられ一歩一歩震えながら歩み降りる文生は顔をしかめながらその障害物をのみこむ。ゆっくりでいいから気をつけてね、とわたしが言うと、うん、うん、と頷きながら地面に着地した。平地の東長崎は坂や階段といった長崎独特の地形は少ない。家からの階段を除くと歩道も整備され、大きい信号のある横断歩道も整備されている。八郎川までは文生もスムーズに歩み行けた。それでも繋いだ手は固く握られつまずいて転ばないように文生は注意深く歩いていた。
あの日、文生と八郎川を眺めた日。飛び魚のアーチを眺めた日。わたしは文生も沙都も守ると決めたあの時。わたしは何も守れていない、何ひとつ守れなかった敗北感に包まれていた。八郎橋の橋脚あたりで文生は川を眺めて立ち止まった。八郎川は満ちて。
「京子ちゃん、見て。川は流れるんよ。美しい山と空と。ほら月。この自然に俺は救われてきたんよ。京子ちゃんもこの自然気に入ったやろ。ここで一緒に‥‥ね」
「文生さん、わたし次、何書くか決めた。文生さんの闘病記」
「俺、そこまで末期なん?」
「だよ」
冗談として受け取った文生だったけれど、わたしは冗談じゃなくて本気で話ししていた。そう。長崎で彼の最後の時を過ごそうと。
川は流れる。滔々と、滔々と。わたしはそれに飲み込まれるように視線が動かずにいた。文生は語り出す。
「俺、やりたいことがあるんよ」
「何?」
「文章を書きたい人、書いててもどう発表していいかわからない人。京子ちゃんみたいにね、発表できる場を作っていきたい。書籍でも電子書籍でもSNSでも。俺は文章に救われたからさ、もっともっと文章で救われる人がいるはずだと思う」
「わたしも文章書いててまず自分が癒された。救われたと思ってる」
「休眠させてた会社があるんだけど、それ復活させて一緒に会社やらない?」
「‥‥うん、わたしで力になれるんやったら」
文生は体力の限界だと今のリモートの仕事を手放していた。わたしも先の入院で仕事を失っていた。ふたりの貯蓄だけで当面しのげると、その橋をわたしは渡る決意をする。
「わたしは何を手伝えばいい?」
「京子ちゃんのすることはひとつ。文章を書き続けることだよ。短い分でもいい。闘病記でもいい、なんだっていい。それが京子ちゃんの仕事だから。俺も書くよ。もっともっと書くよ」
川は流れる。滔々と。
文生の強く握った手を引きながらマンションへ戻る。文生のトートバッグには文生の缶酎ハイわたしの缶ビール、スーパーで買い込んだ文生の毒が揺れていた。
♢4
わたしは昼間に文生は夜間に文章に向き合っていた。ひとしきりに文生の体調を将来を夢を綴ったエッセイをわたしは書き上げた。文生と再開して愕然としたこと、文生のアルコールを止められないこと、文生の行末が目に見えたこと、毎日、目が覚めると文生が息をしているか不安でたまらないこと。それらに潰されそうになりながら文章を綴る。苦しみの中、文章を綴る。
そんな中、うちを出て目に入る自然は美しく空や太陽や山や川はただそこに在る。そう言ったものと対話をすると、景色がもたらす安堵感はわたしの気持ちを少しずつ変えてくれた。わたしは教科書通りに人が死んでゆく様を想像するし、ネットでも検索していた。けれど、文生は生きている。息をして夢を持って、文章を考えている。何を大事にみなければいけないのか。文生のアルコールへの依存の改善よりも、文生が文生らしく夢を追う姿を応援することがわたしの宿命であり幸せなんじゃないかと。そう思うようになった。
文生にはおいしいご飯を食べてもらい、アルコールで弱る肝臓を作り直して体の中から元気になってもらおう。そう気付いてから、せっせと栄養のあるもの季節のもの、血になるもの肉になるものを作り、それだけで文生は生きてくれた。東長崎の自然は、わたしにそう言って教えてくれた。
文生もひとり外出するほどに、体力が戻ってきたのでわたしはパートに出ることにした。そこには閉鎖的で序列的な人間関係が渦巻いている。
「柳川さん、まだその作業してたの」
「柳川さん休憩行くけど、それ終わらせておいてね」
「柳川さん」
「柳川さん‥‥聞いてる?」
決まった作業を毎日する。決められたことだけすればわたしにもできた。臨機応変に対応することが難しいわたしには次第にその仕事がストレスとして刺さる。
次第に文生には職場の愚痴や文句を話し文生もわたしを非難することはなかった。それが文生へのストレスへと変化する。
毎日、圧力を押し殺し愛想を振りまいてやり過ごす、そんな仕事が1ヶ月ほどした時、わたしの病気が発病した。
「ちゃんと説明してくれやなわからんやん」
「何でもかんでも自分のペースで押し付けて」
「わたしはやりません。もうこんな仕事やってられへん」
「店長、わたし今日でやめます」
職場でキレた。冷静に職を辞すれば良かったのだけれど、相手を罵り、泣き喚き、迷惑をかけた。即日退職。そうしてわたしはこの町の人間を嫌いになった。文生は、勉強になったやん、それだけのことやよとだけ受け止めてくれた。文生の抱えるストレスは計り知れない。
♢5
仕事を辞めてしばらくした頃、わたしは出先で滅多に受けない文生の通話を受けた。
「京子ちゃん、多分血だと思うけれど、少し吐いた。帰って来れる?」
「今、買い物済んだところだからすぐ帰るよ」
慌てて家に戻ると、そこにはケロっとソファーで寛ぐ文生が相変わらず黄色い目をして待っていた。
「どうしたん?」
「さっきちょっとムカムカしてさ、吐いて見たんやけど血の味がして」
「どれくらい吐いたの」
「ちょっとだけだよ。そんな心配しないで大丈夫やから」
「けど文生さん肝臓が悪かったら大量に血を吐いてしまうこともあるからね。今、気持ち悪いんよね、とりあえず食べるの辞めとく?」
と言ってる間に文生の顔色がみるみる青ざめてゆく。とっさにトイレに立った文生はゲボゲボと音を聞いても大量の何かを吐いていた。
「文生さん‥‥」
トイレにはチョコレート色の泥のような液体が水たまりを埋めて飛び散った雫は赤い褐色の玉が散りばめられていた。
「文生さんこれ、あかんやつやん。救急車乗っていかなあかんやつやよ」
文生はトイレの壁に寄りかかりながら大丈夫、大丈夫と青ざめた顔を見せる。ウエットティッシュを渡され口の周りを拭きながらソファーベッドに戻ってきた文生は安静にしたいと言った。
♢6
わたしは知っている。食道静脈瘤破裂。肝臓に何らかの疾患があった場合、栄養を送るための血管がスムーズに通らず血液が満たされ怒張して破裂する。命を失う症状。昔、看護学校で学んだ肝硬変の症状。
「‥‥京子ちゃん、今はそっとしておいて。安静にしてたら楽やから」
「それでも、それでも」
文生は頑なに救急車には乗らない病院にはいかないと言い張った。わたしも次また吐血がある時に、立ち上がらなくて済むように洗面器にビニール袋をかけて準備した。文生はしばらくしたのち2度3度と洗面器をいっぱいにするほどのドロドロの血を吐き切った。それでも意識を保って病院にはいかないと決めた文生はここで死んでいいと言った。
「文生さんの意識なくなったら強制的に救急車呼ぶから。それだけは約束して」
「そうして。俺は昔、血を吐いて病院に行かずに治ったことがあるから、あの時ほどではないから」
そう言って、文生は昔話を話し始めた。まるでそれで意識をくい止めているかのように、いつもの健忘癖で、聞いた話も聞いたことない話も文生は話し続けた。吐血が治ってある程度、文生の血色も良くなった。経口補水液、カロリーのあるゼリー。吐いた水分を補水して、摂取できると言ったのでゼリーも飲んで文生は昔話の続きを話した。夜になっても病院へは行かないと言ったので、寝ずに文生の話を聞き続けた。
空が白み始め、窓の外が明るくなると止まない吐血が始まった。洗面器をチョコレートだまりにする文生は今度こそ意識を保てず、もうろうとこう言った。
「俺、生きたい」
♢7
アルコールの匂いがツンとする診察室にその人はブルーのVネックの白衣を着て腰掛ける。光る大型のモニターは白黒の画像が細やかに臓器の違いを映し出していた。白い壁に囲まれたそこにはその医師とわたしだけの空間だった。
「先ほどの承諾書、ありがとうございました。今、治療としては輸血をしています。それをしながら内視鏡の検査を行いました。」
「はい」
「これを見ていただければ‥‥」
そこに新しいカラーの画像が飛び込み鮮やかなピンクの空洞の中を映し出す。カメラが侵入する先をピンクの空洞の奥へと奥へとコマ送りにその画像は走った。
「これは食道なんですけれど綺麗いなピンク色の壁なんですが、こちらに出血した後が見えます。こう言った箇所が数カ所見つかって、おそらく昨夜からの出血箇所になっています。これらは自然と止血されてるんですが、この画像。こちらはまだじわじわと出血していたので小さな機械を入れましてレーザーで焼いて止血すると言った処置をしました。内視鏡で検査するのに軽い鎮静剤で眠ってもらってます」
「ありがとうございます」
「で血液検査なんですけど、貧血がひどくてですね、輸血を今しています。こちらが今回の治療のメインになっていますね。あと肝機能のデータですね、アルコールを飲んでると本人もおっしゃっていたので数値にもそれが表れています。でこちら」
ぱっと光る大型モニターの画面が切り替わった。先ほどの白黒の画像が飛び込んできたそこに医師はボールペンの先を指しこう説明した。
「これが膵臓で、萎縮しています。インシュリンも出ないでしょうね、そして肝臓ですね。肝硬変が進んでますね、三段階で言うと真ん中といったところでしょうか。本格的に断酒しないとという段階に来ていますね正直。そしてこちらですね」
医師はマウスを操作し画面の臓器は大きくなったり小さくなったりする。凸凹とした腸の様なものが入り組んだ画像が出たところでまたボールペンを手に説明した。
「これ全部肝臓の周りにある血管です。肝臓への血液が滞ってこんなに膨らんでるんですね。この血管が破けると予後は厳しいですね」
医者の並べる言葉は鮮明に耳から脳へ入ってくる。その回路が「予後」という言葉が出たと同時に脳内が暗転した様に言葉がすり抜ける。医者の言葉は遠く遠く霞んでいく。文生の体の中で起きていることを突きつけられる。わたしは文生を守りたいと思って長崎に来たのに。守り切れるのだろうか。医者の言うとおり、これを機に断酒を守らなければ、それを伝え続けなければ。「生きたい」と言った文生の意思だけがわたしの心の中を反芻し続けた。
♢8
「文生さん」
病室に移った文生はベッドで静かに穏やかに眠る。頭元にはテレビが暗い画面で視聴者を探している。さっきとはトーンが暗くなった病室。ベージュのカーテンに囲まれて文生は寝息を立てている。窓の外には長崎の港が静かに水面を輝かせた。穏やかな海。かつては貿易で盛んに賑わった港も静かに陽の光を受けて揺らぐ。対岸がすぐそこに緑の山をかすませる。看護師に声を掛けて、病室を後にした。
「ポンくんただいま。お留守番偉かったね」
ドアを開けるとポンがあれ、パパは? と言わんとした表情でわたしを迎え入れた。水やご飯を補充して頭を撫でる。こんな切ない夜にこのポンの存在がどれだけ大きくほっとできることだったろう。デスクトップの前には誰も座らないデスクチェア、灯りを灯さないテレビモニター、薄いストライプの壁紙には悲しく壁時計が秒針を送る。ヒグラシが寂しげに鳴いていた。
♢愛のものがたり⑦あとがき
ご覧いただきありがとうございます。やっと文生と暮らすことが叶った矢先、京子は自分のするべきことを見失っていきます。もしもわたしならばと考えていただく機会になれば幸いです。センシティブな描写も含まれますがリアリティーを尊重したく載せました。あしからずご容赦ください。続きをお楽しみに