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愛のものがたり①

                今秦 楽子

♢1

 文生が死んだ‥‥

 この手には文生の胸を圧迫したあの反動が残っているし温もりも感じていた。


「文生さんのご友人ですか。心落としのところ申し訳ないんですが、死亡事案ということでこれからご自宅に伺って実況を説明していただく必要があります」

 同年代だろうという身なりの刑事に促され大学病院を後にした。数分前まで文生は挿管された口から酸素を取り込み圧迫された胸で血液を循環させていたヒトだった。文生は生きていた。生きていたのに。

 長崎の町は路面電車が車と協調して走り過ぎ街路の木々は赤く優しく葉を照らしている。人は足早に歩道を行き交い目的地までまっすぐに歩みゆく。空は綺麗な夕焼けを魅せる。文生がもう空に溶け込んでしまったかの様な雄大な夕焼けは浮かぶ雲たちをピンク色に染めあげた。この景色がスローモーションに見えるほどわたしの目には何も映らない。

 警察の車両に乗り込み、アパートへ向かう。その間、刑事は慰めるでもなく申し訳なさそうに仕事なのでと謝っていた。泣くでもなく落胆するでもなく淡々とわたしは生きていた。文生ができなかった息をしていた。

「人の死ってあんなに呆気ないものなのか」 そんなことを考えていた。

 さっきまで歩いて息してトイレにたって戻ってきたら卒倒した文生。生々しい光景が蘇る。

♢2 

 ガチャ。
 ドアを開けあの時のままのわたしの部屋が自由を取り戻した。

「現場は動かさないでくださいね」

 刑事に先導され開いたスペースで質問を受ける。

「これが文男さんのバッグでよかったですか」

 文生の好きなメーカーのトートバッグを刑事が持ち出す。

 これいくらだと思う? それがさ、雑誌の付録。昨日タクシーで自慢げに戦利品を披露した文生がよぎる。文生はこのバッグに朝食のパンや寝る前に食べたいと言ってたパイの実、お酒なんかを詰め込んで、やや長い階段を登って私の部屋まで一緒に上がってきた。きついと言いながら上がってきた。

 さっきまで文生が寝ていた布団はそのままにそこには写真を撮る警察関係者が膝をついてしゃがみ込んでいた。
この空間にいま文生がいない違和感に押しつぶされそうになる。助けてほしいと呟いたところで、大丈夫やよ、と言ってくれる文生はいない。

「これが文生さんの携帯ですか」

 ちょうど朝、文生のiPadを借りNetflixを見ていた。その時に聞き出したロック解除の番号を空で覚えていてそれも含め刑事に話す。刑事はいろんなアプリを開けては家族関係の話をするし、文生の足跡なんかを調べていた。病院では亡くなった文生を検査し死因を調べているところだった。

 携帯から集める情報から文生は健康診断をうけていたことがわかった。そこで不整脈を指摘されていたけれど受診に至らず今日を迎える。

「内因性原因不詳」それが文生の死因。

 2時間にも思えた捜査は、文生の病死と片付けられわたしはまた警察車両に身を乗せ大学病院へと戻った。

♢3

「申し訳ありません」

 わたしの連絡を受けて駆けつけた彼の兄に放った一言がこんな言葉だった。それからしばらくして再開した彼の兄と義姉は救命の部屋で処置を待っていた。

「文生さん泊まるホテルがないって、昨日からわたしの部屋に泊まっていたんです。今日は少し調子悪そうで朝からゆっくり寝ていたんです」

「はい」

「で、トイレにたって戻って寝ようとした時、壁に頭を打ち付けて苦しそうにしてるので、救急車を呼ぶね、って呼んだんです」

「心臓マッサージしてくれてたんですか」

「救急車が来るまでは、はい」

「救急車に乗ってからは連絡した通りです」

 わたしと文生はいわゆる恋人関係を解消した後だった。原因はわたしにある。それでも毎日電話したし恋人のそれと何ら変わりなかった。わたしは文生に生きる勇気をもらったし夢見る事を目覚めさせてもらった。わたしと文生は似たもの同士で、そこにない愛情を探り合っていた。

「準備ができました」

 看護師が文生のケアが終わったと文生の眠る安置室へと案内する。

「文生さん‥‥」

 そこには、先ほどの滾る様な見開いた眼球が静かに閉じられて、口元にもうっすら笑みを浮かべた穏やかで静かに眠る文生の姿が横たわっていた。

「文生さん‥‥  文生さん‥‥」

 白いかべの真ん中にぽつっとベッドが与えられ花も線香もないただ静かな部屋に、わたし、彼の兄、そして義姉の三つの影が距離を置いて佇んでいた。

 冬なのに裸足にビニールサンダルで歩き回った足の傷もきれいに処置が施された。痛い、痛い、と笑い合った今朝の思い出が蘇る。触っても引っ込める足はなく、ただ人形の様に放り出された足は冷たく形状を保持するための何かが塗り込まれているかの様だった。

 もうここには文生はいない。圧倒的な力に支配された様に文生の声を、息づかいを探し彷徨うわたしは心ここにあらずだった。

♢4

 どう歩いたら家に帰れるのだろう、なんて心配をよそに大学病院を後にした。

 日も暮れて空は漆黒に雲がかすれて月や星ひとつないそんな世界。街灯がポツポツ灯りチカチカと歩道用の青信号が点滅している。何となくそこに行けば何とかなる。タクシーを拾う事もできたけれど、歩きたい気分だった。信号にたどり着いた頃、既視感を覚えフラフラと歩みゆく。原爆資料館前の電停がぼっと背後の商業ビルの明かりに照らされわたしは家路を見つけた。

「俺のマックのハンバーガー一位は、ビックマック。俺の中ではポテトは入ってないん」

 そんな言葉を思い出し最寄りの電停でマクドナルドに吸い込まれた。夜遅くまで開いているファストフード店の照明は煌々と夜とも思わせないカラフルな店内を映し出す。ビッグマックと2位のフィレオフィッシュを単品でポテトはつけずに持ち帰りで買った。

♢5

「暗くなるので、電気はつけたままで」

 先ほど警察関係者にはこういって鍵をかけた。再び開かれたドアの中は蛍光灯の明かりに写しだされ雑然と現場検証の残骸が「わたしの部屋」になっていた。

 簡易に畳まれた布団、テレビ、こたつ。わたしの部屋の全て。ただベランダの向こうの小学校のチャペルにはイルミネーションが輝いているし、マンション群の明かりが星の様にキラキラとしていた。

 徐にマックの紙袋をコタツに置く。昨日、文生が持ってきたレモン酎ハイを2杯作り、ハンバーガーと並べる。

「お疲れさま」

 並べたグラスにグラスを弾く。文生の一位のビッグマックの箱を開ける。形の整ったそれはいつものようにバンズにゴマがまぶされ真ん中のバンズから見えるオレンジのチーズがトロッととろけていた。

「いただきます」

 一口含むと、味がしない。いつもの形なのに味は何もしない。と同時に胸の底から熱い感情が込み上げ何かに取り憑かれた様にわたしは咽び泣いた。嗚咽が大きく大きく部屋中にわたる。もうマック買ってきたよなんて言ってくれる文生はもういない。本当にもういなくなってしまった。鼻水と涙とぐちゃぐちゃになったビッグマックからはピクルスの食感がする。それが文生と過ごした日の最後の味だった。

♢6


 部屋を見渡すと、文生に貸したパーカーが枕の横に丸まって転がっている。救急隊が点滴のために右半分ハサミを入れたパーカー。寝込んでいた文生が失禁して着替えさせたものだ。

「これ着るのー?」 と女物のヒートテックからデコルテを見せつける文生のちょけた態度が蘇る。悲しみの中に笑みが溢れる。彼のものは洗って乾いていた。それらは着て帰ってくる為にとわたしは看護師に託した。まさかそのまま看護師から返却されるなんて思ってもいなかった。文生が履いていたわたしの一分丈のレギンスとパンツ。それだけはわたしが引き受けた。

 そのビニール袋を開ける。匂いはないものの衣類には文生の汚物が付着していた。

 生きているなら、自分で処理しなよと言いたいところだけれど、それらは文生の生きた証だと汚物でさえ愛おしくてゴミ袋に捨てる手を止めた。

 付着していた便をトイレに流し、文生の抜け殻を手洗いした。

 思いおこすと文生は朝から何も食べていない。最後に食べたのは昨夕、一緒に駅前で食べた「若竹丸」の回転寿司。オーダーをしたらカウンターから直接、握りが渡されるシステムになった回転寿司。最期に食した回転寿司。文生もいつになく食欲旺盛で飲み食べした。

♢7


「駅ついたよ」

「俺、クリスマスツリーの前いるんだけど、トイレに行きたくて、ちょっと行ってていい」

「うん、クリスマスツリーに向かうよ」

 路面電車から上がる歩道から見る「長崎駅前」は開発途中の地面をシャベルカーが右左に首を振っている。夕景をバックにクリスマスツリーは青白いライト達が連なって長崎の入り口をきらびやかに人々の瞳に焼き付ける。12月に入った駅前はいよいよシーズンだよと衣替えした後だった。

 クリスマスツリーの前に立つ文生は、一時のことを考えると荷物を抱えられ寄りかからずに直立し、一見、体の調子も優れている様だった。

「お疲れ」

「おう。まだ早いけど、飯行く? 映画とか見る? 映画見てないなー」

「デートじゃないんだから」

「え、デートじゃん、いいやん、いいやん」

 わたしは肩を抱き抱えられ、行こう行こう、のノリに合わせた。グルメマップの看板の前で「若竹丸」を文生と一緒に指差した。

「やっぱそうやんな」

「うん」

 そんなやりとりをしてアミュプラザに入っていった。

♢8

 文生の汚物はシャボンと一緒に洗い流され文生の抜け殻からわたしの下着に戻りつつあった。

「文生さん、前に泊まった時、結構トイレ汚れてたよ」

 そんな心ない言葉を投げかけたわたしに対して、

「文ちゃん、トイレきれいに使いました!」 と報告する文生の姿がよぎる。それからみるみる体の痛みや腹痛にもだえ夜には壁に寄りかかりながらトイレに向かう文生の姿をわたしは介抱するでもなく眠気に襲われ冷たく見届けていた。あの時、もっと優しくしてあげられていたら、もっといたわっていたら‥‥ 後悔がすり抜ける。

 そんな文夫が使い終わった便器にはトイレットペーパーで汚れを拭き取った形跡があちこちにひっついていた。

 ユニットバスになっているトイレを洗面台からそれを見つめる。あんなにのたうち回っていながら、わたしの手を煩わすことなく自らの手で清掃していたんだと気づかされる。

「文ちゃん、トイレきれいに使いました!」

 きっとこう言って歩いて次の目的地に出発するつもりだったんだと思うと熱い涙が頬を伝う。かじかむ手との温度差に死んでしまった文生と生きているわたしの差を重ねる。

「明日、掃除しよう。今日は疲れた‥‥」

 布団を敷くとそこにも文生の残した汚物が隠れていた。その輪染みにまた文生の生きた証拠を重ねた。それにバスタオルをかけ文生の眠っていた首筋に鼻をやる。文生の匂い。体臭でもなく心地いい香り。わたしが安らげる香り。さっきのシャボンとは違う、ヒトの香りに文生のぬくもりや優しさがくっついてきた。布団には新たにわたしの涙のしみがポロポロと形を崩していた。

♢9

 精神科からもらった5粒の薬を口に含む。心が乱れないようにと願って寝床に伏せるけれど、今日の出来事はそんなものでは眠れない。温もりを感じた文生の匂いもだんだんと鼻は慣れて来た。徐々におかしなテンションに変わっていく。そう、わたしの患う病気が見え隠れし始めた。眠れない、眠れないなら起きてていいや。

 傍のiPhoneにセカイノオワリのプレイリストを呼び掛けた。布団から這い出てタバコをふかせる。ゆらゆらと上がる煙はまるで文生の魂が形を操っているようで。夢中でその影を目で追いかける。文生が好きだったアーティストは、この日のために誂えたような曲を歌っている。

「Ah 君はいつの日か、深いに眠りにおちてしまうんだね そしたらもう目を覚まさないんだねー」

 流れる唄声に冬なのに窓を開け目を外に向ける。チャペルのイルミネーションが答えるように輝く。空には星がポツポツと月明かりに負けないように光る。文生はこの星の一つになってわたしを励ますんだ。わたしに頑張れと言っている。何を頑張れと言っているのかもわからないままに輝く光を受け止めた。

 空気が入れ替わったところでカーテンを引く。それしか受け入れない四角い壁に2面の窓は簡素なわたしの部屋に白い空間を作りだす。そこに魂となった文生とふたりだけの世界が出来上がった。曲調に合わせて手を叩く。嗚咽しながら響く手拍子にこんな台詞が続く。

「これからは星になって見守ってくれるの?」

「そうだよ、これからもずっと京子ちゃんを見守っているから」

 そんな声が聞こえた気がして、わたしは文生が急逝した実感を欠いていた。プレイリストが次々と文生の気持ちを綴ったような曲を流す。

「そうなんや、そんなっこと思ってるんや」

 わたしはiPhoneからランダムに叩き出される楽曲から言葉を拾っては文生からのメッセージだと夢中に夜明けまで涙を道連れに聴き漁った。

 2時間は寝ただろうか、わたしは疲労感を抱えながら精神科を受診した。そこにいた松田先生とはこんな出会いがあった。



      愛のものがたり②に  つづく


♢愛のものがたり①あとがき

 きっと読まれて苦しいお思いになられたと思います。楽子も苦しかったです。

 さて愛とはなんだろうかと考える訳ですが、きっとこうして彼が生きていたことを言葉に綴る作業こそ愛なのだと思います。彼は言いました。「俺は死ぬのは怖くない、ただ人々の記憶から消える死こそ怖いのだ」と。わかった、じゃ、楽子がなんとかしましょうと誓ったことこそわたしの愛です。

 これから愛の物語②に続くのですが彼にはまだまだ登場していただきたいのでしばらくお付き合い願います。
 わたしが彼の死を経て立ち直るためのツールが作品を発表することなのだと確信しています。時々筆が止まるけれど、いつか(了 を打てる日まで夢中で駆け抜けたいと思います。よろしくお願いします。




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