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愛のものがたり⑧

               今秦 楽子

♢1

 冷気を連れて県営バスはやってきた。つーっと垂れていたひじの汗を拭う。看護師に渡されたリスト通り、入院に必要なものを詰め込んだバックを持った肘から汗がしたたっていた。曇天の9月半ばの蒸し暑さからの解放は、まだ到着していないのに目的地にたどりついた様な安堵感に包まれた。

 お気に入りの左側の車窓を独占する座席は空席。わたしはすっと席を陣取った。背景を次々と変る車窓は、公民館、小学校、警察署が鉛色の風とともに流れとび、八郎川が橘湾に流れ込む橋が映り込んできた。矢上大橋。その上をトラックたちが揚々と過ぎた。町の端。あぁ文生はこの町にはいないのか、と呟く。荷物の中身には文生の身の回りのものが詰め込まれていた。


「文生さん、元気。これ、預かってた携帯」

「おお、来てくれた」

 病衣の襟元から鎖骨がはみ出した文生の胸元は、また痩せたなと思わせた。面会が30分だけだというので荷物をロッカーに放り込み、欲しいものを買いに売店まで往復した。改めて着席すると残された面会時間は20分ほど。わたしは時間を惜しむほどに銘一杯話した。命について、アルコールについて。そんな真剣な話はできなかった。ただ日常の会話をひたすらした。それができる精一杯だった。

♢2


 港が見える文生の病室は暑くもなく寒くもなく無機質な空気感には、客船の停泊している様や鉛の色の雲を浮かべている海面の暑さも乗って来ない。

 昨日あのまま文生が起きなかったら、なんて良からぬ心配をしていたわたしはこの何ともない日常会話を心からありがたく受け止めていた。

 動画を回す。

「ポンくん、パパです。しばらく入院することになりました。会えなくて寂しいワン。ママの言うことをよく聞くんだワン!」

 家でのポンの動画を見た文生はポンくんにお返事だと動画をまわさせた。

「じゃ、また明日来るから」

「ありがとう」

 文生が生きている、生きたいと言った文生が息をしてそこに寝ている。それがあたりまえじゃなくかけがえのない事実。文生はいる。

 わたしは電停とは違う方向へ歩んでいった。オランダ通り。Googleマップではそこから浜町までつながっている。路面電車もいいけれど、歩いて浜町まで歩いてみたくなった。石畳の歩道を曲がりくねりながらそれでも確実に目的地まで繋がる。一歩一歩。中華街を抜ける。ランタンフェスティバルの妖艶さはないものの黄色い提灯が鉛色の雲を隠しゆらゆらと天井を揺らしていた。

♢3


 明くる日も、また明くる日も文生の元へ足繁く通う。文生の顔色は日に日に良く、輸血した健康な血が文生の体を改善させた。歩ける様になり、点滴棒を引っ張りながら海の見える談話室でつまらない会話をするのがわたし達のルーティーンになった。水分をとり、おかゆが食べられ、固形の食事ができる様になり文生は退院できる話が出はじめる頃には文生の足取りは軽やかに調った。

わたしは真っ直ぐに家に帰れなくて、眼鏡橋で中島川を眺めたり、港によって船を見たりしながら文生との未来を考えていた。


あれだけの障害物に思えたエントランスの階段も文生は自分の力で一歩一歩上りゆき、玄関で待つ愛犬に久しぶりの再会を挨拶した。

「ポンくんただいま」

 尻尾をちぎれんばかりに降って足踏みするポンはこの日を待っていた。わたしも待っていた。

 文生は疲れた、とソファーになだれ込み、炭酸飲料をグイッと飲み干した。薄いストライプの壁紙には時を戻した様に秒針は時間を刻みわたしと文生の時間が戻ってきた。

「久しぶりにピザ食べない?」

「そんな文生さん行けるの? 濃いの食べれる?」

「退院したんだからさ、大丈夫よ。 残したとしてもどうせ京子ちゃんがペロリするでしょ?」

 病院の食事が飽きたからと言って、文生は全快パーティーをピザですると言った。

「アルコール買ってくる?」

「いや、こんなことになったし、お医者さんからも言われたからしばらくは飲まない。禁酒するって言っても飲みたくなったら飲むし、それまでは飲まないし。京子ちゃんはビール飲んだらいいよ」

「わたしもアルコールいいや」

 文生はしばらくはアルコールを飲まないと言った。命の際を味わって、自らそう決めた。わたしがどうこう言って話し合うこともないな、とわたしが医者に説明を受けたあの日の感情はそっと胸に収めることにした

 インターフォンが鳴りピザがやってきた。ピザクルサのマルゲリータは丸い大きなパン生地にベトっとチーズがとろけフレッシュトマトが散りばめれられている。それは、箱の底から伝わる熱さそのもので、トロッと糸を引くチーズが食欲をそそった。

「文生さん退院おめでとう。お疲れ様」

「ありがとう」

 缶酎ハイや缶ビールのない乾杯。ふたりでシェアするピザは昨日までの味気なさが吹き飛ぶ。ポンもパン生地の耳の部分はお座りして待つ始末。1Kには華やかさと温もりがあふれ壁時計の秒針も軽やかに走った。

♢4

 一週間してわたしは博多に出かけた。文生はまだ本調子ではないと留守を預かった。博多のイタリアンダイニングを友人の美佐が予約を入れてくれてた。

 カウンターに2席だけのその店は店主のこだわりらしく客に目が届く店。こじんまりした構えだった。それでもゆったり寛げるカウンター席に通され、美沙とアラカルトを頼んだ。繊細な細工のされた前菜が通され、もったりしたチーズのパスタをシェアし、その間白ワインを一本ふたりでシェアした。

「ずっと、禁酒してたんだよね、文生さん今も禁酒してるから後ろめたいな」

「そっか。わたしは飲むよ」

「うん、わたしも飲もう」

 ひとしきり飲み食いしてドルチェが運ばれた頃、エスプレッソを啜りながら話が深まった。

「で、文生さん、やっと生きるって言って救急車に乗って入院したの」

「うんうん、それで今日話したいって言ってたのは?」

「美沙ちゃんさ、元彼を亡くしたって言ってたやん」

「うん」

「それでよかった?」

「だけぇ、京子と逆よ。わたしは彼の癌がわかって一緒に闘病する気でおったんよ。けど彼は生きたくない、死にたいってずーっと言うけぇ、わたしは別れた」

「うん」

「ようやく、彼と住んでた部屋の前に行けることができて」

「うん」

「時間はかかったし葛藤もあったけれど、自分のしてきたことに後悔はないって思ってる」

「そうか、頑張ったね」

 美沙はコクリと首を縦に振った。その話を聞いてわたしは彼の命を引き受ける覚悟ができた。

「お医者さんが血管が破裂して突然ショックを起こす可能性があるって言ったのね。美沙ちゃんの話、聞いてわたし彼に責任を持とうって決めた、うん」

 それは大きな物を引き受ける事を意味しているけど、逆に大きな物を引き受ける器がわたしにはあるんだと気付かされた瞬間だった。

「うん、文生さん生きたいって言ったんだし京子だったら一緒に歩んでいけるよ」

「ありがとう」

「ところで文生さんの何を愛してるの?」

「彼のもつ才能だね」

 のろける頃にはエスプレッソもカップに縁に泡の印が付いていた。

♢5


 美佐と別れて博多のビジネスホテルに戻る。文生と通話をすると快活な口調で返答する文生のセリフたち。嫌な予感が過ぎる。文生はアルコールを飲んでないと言ったけれど。


 博多からの車窓は朝日を浴びた稲穂田たちが黄金色に輝いて実りを称えている。秋晴れのスカイブルーの澄み切る奥行きある空に反してわたしの心はモヤモヤと苦味を殺していた。文生がわたしの不在に飲酒しているかもしれない。その不安と罪悪感だけが心を支配していた。出かけなければ、わたしが一緒にいたならば。そう責め続けても、空はキラキラと朝日を注いで車窓からは明るい黄金色が飛び込んでくる。

 稲穂の輝きはわたしがずっと文生とい続けて文生に一切飲む自由を与えないというのがもしかすると一種の支配じゃないか。と問いかける。沙都をコントロールしようとして失敗した愛との違いは何なのか、その愛を文生に繰り返すのか。文生には文生の自由があり文生の尊厳はどこにあるのかとも問いかける。

 流れゆく車窓の先の青空は遠く澄んでわたしの迷いをいつまでも眺め続けた。

♢6

「ただいまー」

 ポンと一緒に出迎えた文生は少し赤く頬を染め、おかえり、と玄関まで迎えた。

 博多からの明太子と煎餅をローテーブルに並べる。そこにはプルトップの引かれた缶酎ハイが持ち主の座席を示す様に立っていた。

「飲んだんだ。うん、ちょうど二週間かな、禁酒して。よく頑張った方だよ」

 心にない言葉がついて出る。なんで命を縮める様なことするの? 何でわたしに死の恐怖を味わせるの? そんな言葉が喉でつかえて唾と一緒に飲み込む。それはわたしごとだから。わたしの不安を文生に押し付ける物ではないと腹に収めた。

「俺さ、飲みたくなったら飲むって言ったよね」

 文生は何か言いたげなわたしに予防線を張った。もちろん昨夜わたしも文生がいないしと、美佐とワインを開けた。罪悪感は同じだ。

「わたしも昨日ワイン飲んだんだ。明太子、解凍できてたら、ご飯と食べない?」

 白米をジャーに仕込み遅めの昼ご飯の準備に取り掛かった。洗い物をしながら、考える。文生のしたいようにさせるべきだというわたし。それは命を縮める行為だよというわたし。文生を愛しているならどちらが正義なのか、見えないトンネルの先はまだまだ針の先の様にわたしを導き出そうとはしなかった。

「はい、明太子切ったよ。簡単だけど、卵焼きも焼いた」

 皿には明太子や卵焼き、冷奴。ウィンナーも添えられた。

「わーい、わーい。明太子。白ごはんと明太子」

 文生は福さ屋の明太子は贅沢品だと言って、一切れ一切れを勿体無そうに、ご飯にのせて口へ運んだ。おいしいの言葉がそろったら、わたしはこの一瞬が幸せな時間だと思った。そして涙がこぼれた。

「どうしたん」

 文生がわたしの様子を伺う。

「ん、幸せだと思って」

「幸せだよ、俺」

 わたしは言葉にならないこれからを憂いて涙が溢れた。文生さんといつまでも幸せに白米を食べ続ける、そんな些細な幸せがいつまでも続くことが願いだから。

「文生さん、アルコールはやめられない?」

 意を決して言葉にしてみた。

「ごめん、辞められない。それはわかって欲しい。俺は今まで4回も5回も生死を彷徨ったんだよね。それでも生きている。生かされてるん。おまけの人生なんよ。たとえ明日死んだとしても‥‥後悔はないよ。申し訳ないけれど、俺は京子ちゃんより長く生きることは出来んて思ってる。それははっきりしとるんよ」

「おまけの人生か」

「だから、その日まで京子ちゃんとポンくんと楽しく暮らしたい」

 文生の気持ち、わたしの気持ちは平行線。けれどわたしは文生の尊厳を守りたいと思った。そう、死がふたりを分かつまでは。わたしは文生を説得することもなく、自分の意見をぶつけるのもやめた。文生がしたい様に生きればいい。その陰に、アルコールを文生に買ってくる行為はいつまでもわたしの中での罪悪感としてモヤモヤとくすぶり続ける。いつまでも、いつまでも、彼に毒をわたしは運んでいた。

♢7

 文生はまた日を送るにつれ外出が困難になる日、はたまた外出できてパチンコに気分転換に行ける日が来たり波を繰り返した。この頃から、もう公共交通機関の利用はできなくなる。タクシーやわたしの運転するレンタカーが文生の足となった。失業保険の手続きだったり、ドライブだったり、パチンコに勝った日はタクシーで帰ってくるのが文生の行動だった。

 わたしもレンタカーを借りてふらっと海に行くことが増えた。

 日産のマーチに乗り込み、東長崎からは34号線をまっすぐひたすらまっすぐ駅前まで走る。教会や病院を越え橘湾が左手に広がる。

大きな橋梁をくぐり新しくできたトンネルに吸い込まれる。ただトンネルの中では無になっって邪念や邪心を払った。暗がりにポツポツと流れるオレンジのランプを感じながら文生との窮屈な生活から少しずつ解放されてゆく。文生の命を引き受けることは「窮屈」と感じていた。わたし本来の生きている意味が失われる様で窮屈だった。オレンジのランプの配列は一定でわたしの目を刺激する。だんだんと無に近い感情になり変わりわたしを解放する。

 トンネルを抜けて山あいの大きな車線が順調に車を運ぶ頃、街に変わった。気分が少しはれた。見慣れた路面電車が合流し道は一気に混沌とする。いろんな車が街へ流入する中、信号機の機嫌を伺いながら路面電車とも協走する。大きなビルになった市役所をこえ中島川と併走する。止まる信号につけアーケードの人並み、活気に圧倒されながらグーグールの地図を確認する。大波止、202号線の入り口。大型ビジョンが長崎の銘菓CMを流していた。後はただひたすらまっすぐ標識を辿って走り行くだけ。肩の力が抜けるとともに旭大橋からは拓けた稲佐山の壮大な歓迎を受ける。橋から見下ろすとキラキラとした海面は瞬く反射して、ふと文生と来ればよかった、文生に見せたかった。なんて感想を持つ。そして港沿いには三菱造船所の赤煉瓦の塀が存在感を誇り、文生なら長崎らしい景色として紹介するのだろうな。とか、ひとりでドライブしてても文生の影がわたしには刷り込まれていると気づかされた。トンネルを抜け山を越え海辺を越えて「かきどまり白浜海岸」に到着した。

 そこにはさらさらとした砂浜に打ち寄せる波は穏やかで。コバルトブルーの海が奥に行くほどにグラデーションをつけて、静かに穏やかに波を寄せ返ししている。わたしはブロックに腰掛けてその波に話しかける。文生の楽しく暮らしていきたいという願いを叶えること、それに罪悪感がわたしを引っ張って許さないこと。この罪悪感を押し殺しているわたしは正義なのかどうか。海は穏やかにさざ波を作っている。天頂の太陽はギラギラと儚く遠い宙からのシルエットを藍色のグラデーションで創っている。この自然の美しさはまるで「そんな事はどうでもよい」と言っている様だった。ただボーッと海を眺めて、ただボーッと見えない答えを探し続けて、ただボーッと文生の幸せを願う。波は寄せ返す。呼吸をする様に寄せ返しするだけだった。

♢8

 窮屈だと気付かされた文生との暮らしにも明るいニュースが飛び込んできた。

「見て、沙都からLINEきた。これ」

「え、沙都ちゃん?」

「冬休みに長崎に来たいだって」

「文生さんいい?」

「もちろん、そんな。京子ちゃんの過ごしたい様にしたらいいよ」

「うん、ここじゃ狭いから民宿とって過ごすよ、昼間一緒にご飯食べたりしよ」

「ありがとう。でもよかったね‥‥、本当よかった」

 沙都が冬休みに、長崎に大阪から会いにきてくれるというのだ。ふたりしてそのラインの文字を見ては感動しやったね、やったね、と心踊った。




♢愛のものがたり⑧あとがき

ご覧いただきありがとうございます。今回は今日この価値観が揺れる回でした。文生の飲酒を許すか許さないか。依存症を抱える患者、家族の永遠のテーマだろうと思います。愛とはコントロールするものじゃないと沙都から学んだ京子だったのですが。つづきをお楽しみに




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