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愛のものがたり④
今秦 楽子
♢1
大阪へ戻ると、沙都はお土産の明太子を早速コメで食べると輪切りに包丁を入れた。その表情は無邪気で可愛らしい。
「沙都ちゃん、学校行かへんなら行かへんなりになんかしない?」
「え、何もしない」
「イラスト描いてんねんから、イラスト売るとかさ」
「売れるような腕ないもん」
「そのままでいいん?」
「うん、何もいい」
たまに話すとこんな調子で意欲や向上といった単語が当てはまらない沙都との会話に疲れた。沙都には沙都の世界があると言うのにわたしは自分の世界での沙都の振る舞いが容認できるほど心のゆとりをなくしていた。沙都を大目に見ることのできないわたしの性分はだんだんと気分をイライラに募らせる。
朝が来て、沙都が家にずっといてて、夜が来て、沙都は何も変わらない。変わっているのだとしてもそこに目をやれない。そんな毎日を繰り返すうち、わたしは段々と自分を責めるのをやめ、矛先を沙都の自堕落な生活に向け始めた。
「沙都ちゃん、前も言ったけどイラスト売りよ、そんな毎日毎日、iPadばっかり、生産性のある事したら? 学校だって勉強遅れてんねんし」
「‥‥」
「沙都ちゃんいつまでゴロゴロしてるんよ」
「‥‥」
「沙都ちゃん、いい加減に‥‥」
「‥‥」
そんな会話にならない親子の会話はひらけた1LDK を狭く狭く縮めた。音を知らせる家電たちはわたしを焦らせる。洗濯、レンジ、冷蔵庫。毎日時間がわたしを追い詰める。やっているのに、わかっているのに見えない時間が迫り来る。そこにのんびり構える沙都の様子が対比的でとうとうわたしの精神に破綻をきたした。
♢2
「京子ちゃん、最近、眠れてる? いきなり長崎来るって言ってみたり、来ないって言ってみたり、心配だよ」
「文生さんは長崎来て欲しくないの?」
「そうは言ってないけれどさ、沙都ちゃんのこともあるでしょ」
「沙都のこともだし、文生さんのことも両方わたしは守るって決めたんよ」
文生にいわれたとおりわたしは昼も夜も眠れない日を過ごしていた。親にも手伝って欲しいと頼んでおきながらやり方が違うと押し返したりもした。主治医にはただ何も変わりはないと平静を装い眠剤の追加を頼む程度の受診の仕方を続けていた。
2ヶ月後、わたしは変わってしまった。毎日、慌ただしく植物園に向かう。書きたいものがあれば良いのだが一貫性のない駄文に駄文を重ねては作品を書いたと思い上がったり。文生の許可も聞かずに新幹線のチケットを取っては散財する。人の忠告も聞かない躁状態に陥ってしまった。そんなわたしに沙都は困惑した様子だった。
「沙都ちゃんさ、ほんまママの言うこと聞かへんねやったらこのうちから出て行きよ」
「出て行ってどこ行くん?」
「そんなん自分で考えよ。毎日当たり前にご飯食べて、学校もいかんと」
「そんなん言われたって‥‥」
♢3
「ただいま」
「どこ行ってたんよ」
「ママ行け言うから外行ってたんやん」
‥‥そしてついにわたしは沙都に手をあげた。
「何その目、ママに歯向かってんの? 叩かれておかしないようなことしたん沙都やで」
「‥‥」
わたしを睨む沙都。
「何よ、ママ悪いんか。それやったら警察電話しよ」
「‥‥」
携帯を手に沙都は110番をした。
「あのー親に殴られました」
家に警察がどさっとやってきた。制服を着た警官らがずらずらとわたしのダイニングに入ってきた。何もしてない、わたしは何も悪いことをしていないのだから、こんなに来られても怖くはない。怖くない。わたしはそう言い聞かせながら文生に警察が来たこと、この現場を録音して欲しいと頼んだ。文生は冷静にその場の状況を録り続けた。
「お母さん、娘さんに何をしたんですか」
「しつけです」
「しつけって何? 具体的に言って」
警官は沙都を連れ出した後ぐるりとわたしを取り囲む。
「しつけはしつけです」
「しつけは分かるけど何したん? それ言うてもらわな」
この問答を40分ほど続けた。すると一部の警官はわたしの体を押しながらこんなことを言った。
「今押したな」
「現逮。現逮。時間とって。あ、それと録音も切って」
「もうあなたには自由ないから」
わたしの手にガチャガチャと金属同士が擦れ合う音を出しながら黒い手錠がかけられる。‥‥逮捕。わたしは部屋を後にして連行された。
ダイニングスペースには作りかけのカレーがスパイシーな香りを奏で、四角くい壁に囲まれた白いテーブルが真ん中で佇む。2つぶら下がったペンダントライトが優しい光を中央に集め、炊飯ジャーはもうすぐ炊けるよと水蒸気をふかして。壁にひっつけたチェストには親子ふたりの写真立てがにこやかに虚しく笑って空っぽになった家を見守っている。
♢4
わたしは警察を経由し精神病院に移送された。措置入院。白い壁に囲まれたベッドのだけが佇む精神病院。だけれどそこには文生がいる。沙都がいる。わたしの中の妄想に彼らは佇んでいた。一日中そこに身を置いてふわふわと彷徨っている。看護者が訪ねるけれど、ここは精神病院だと言われるけれど現実が見えていなかった。
渡される薬を飲む。毎日毎日、寝て、食べて薬を飲んで。日に日に彼らの亡霊は夢の中に仕舞われる。現実の中にはわたしひとりしか存在しないことに気づかされる。看護者から娘さんにしたことは反省すべきだと諭されてもわたしはわたしの正義を貫いていた。精神鑑定の末、起訴も裁判もない中わたしの正義はどこかに追いやられてしまった。
落ち着いた頃、個室に部屋を変えた。と同時に携帯電話の使用が許可された。
「今どこにおるん?」
心配そうに通話がつながった文生と1、2週間ぶりに話す。
「今、精神科にいてる。躁状態だったんだって」
「俺、聞いてたけど、警察のアレは人権侵害だよ。一方的だった。初めてやよ、俺。人が逮捕される瞬間。録音するなんてさ」
「笑い事じゃないよ」
「それはそうだけど、沙都ちゃんに何したん?」
「平手で顔を叩いた」
「なんで?」
「門限」
「それは良くない。暴力はなんの解決にもならんの、いつも言ってるやん」
「うん」
「本当に暴力では何も解決にならんのやって。何でなん、なんで京子ちゃんが暴力なんか‥‥」
「ごめん」
「俺はいつも言ってたやん」
「うん」
「沙都ちゃんには深い傷になったよ。それだけは覚悟しな」
「‥‥ごめん」
「俺に謝ることでもないよ。でも、仕方ないよ、こうなってしまったんやから。あの時の京子ちゃんは少しおかしかったのも確かだよ。そこでゆっくり休みな」
「ごめん」
「どうであれ、俺は京子ちゃんの味方やから。何があっても味方やから」
「うん‥‥」
熱い涙が溢れる。文生に諭されたからなのか、孤独の中ずっと鍵のある部屋に閉じ込められていたからなのか、沙都がいないからなのか。いろんな要素がわたしの中から解放されて涙に変わった。
♢5
携帯で管轄の児童相談所を調べる。
「あの、柳川沙都の母親ですが、沙都そちらに預かってもらってないでしょうか」
児童相談所は沙都の所在を明確にした。事件のあった日から沙都は児童相談所の一時保護を受けていると言い、沙都は食欲は細く落ち込んでいると言った。退院するまでは引き受けに行けないけれど、それまで預かってもらいたい、必ず迎えに行くと話した。
しかしそんな都合よく沙都の身柄はわたしの元に戻ってこなかった。
1ヶ月治療を受け、退院した足で児童相談所へ赴く。そこに待っていた担当者は、今回の事件について、わたしの生育歴や沙都の生育歴を事細かにヒアリングしたけれど、すぐに沙都に引き合わせる事はなかった。
何度も児童相談所へ赴く。けれど一向に沙都と一緒に家に帰ることができない。わたしが2度と沙都に手をあげないと言う保証がない限り、帰ることはないのだと。
そして沙都はひとつ結論を出した。わたしと暮らすことをやめて療育里親のもとで暮らしたいと決めた。
♢6
どん底だった。
「沙都ちゃん、そうか。そんなことになってるん。厳しいね。けれど希望はあるよ。京子ちゃんと暮らしてきた中で幸せなこともいっぱいあったはずだよ。いい風に変わるから、待とう」
「ありがとう」
そんな文生の助言も虚しいまま沙都は元夫の家族に養育される手筈になった。
あの日、家の前はパトカーが並び手錠をして出てきたわたし。思い出の詰まった家の前には野次馬達の人だかり。そんな噂に晒されることを避けたくて沙都と暮らした部屋を手放し、隣町の2LDK に引越しした。沙都が帰ってきていいように彼女の部屋も用意して。ひっそりわたしはひとり暮らしている。
沙都がいない新しい家は新しい年を迎えるには寒々しく暗い。引越しを決意したのはわたしなのに後悔ばかりしてしまう。ここにきっと沙都が来る。沙都がイラストをかいて、わたしが小説を書いて。そんな世界に夢焦がれる。沙都‥‥沙都‥‥沙都‥‥。
♢7
「京子ちゃん、俺年末年始なら仕事もないし来れるなら来な。俺と一緒にすごそ」
文生の誘いに乗らずにいられなかった。寒い窓の外には天王寺のハルカスが重い空気を抱えてそびえ、大阪の街の一部として輝いている。寒さの中ビールを注ぎ冷凍ピザを温めた。温めたのにすぐ冷めるピザは、あんなに暖かかったふたりの部屋からポツンとひとり立ち返るこの空間に瞬間的に移動したようで、虚無なわたしの胃袋を埋めてゆく。
流れゆく特急かもめからの車窓にベージュの田畑はひとつトーンを落として乾風に晒されている。左手に見える弓形の浜辺は白い波を立て、かもめが孤独に飛んでいる。もうすぐ文生のいる長崎。いつもの高揚感とは違いわたしには終着地につくような安堵感に包まれていた。
「終点長崎ー長崎です」
アナウンスが流れ窓の外を見ると坂にベトりと家が立ち並ぶ長崎の町。わたしは感嘆もせずぼんやりと眺める。頬杖をついて飲み残しのぬるいビールを煽った。
長崎の町は4ヶ月も経つと景色はかわり駅舎が立派にできていた。新しく機能した改札を抜け、バス停までのいびつな仮歩道を渡っていく。住民はそれを愉快に見つめ目的地まで歩幅を広く歩き去る様子が、今のわたしの未来と真逆を向いていた。
バスに揺られ流れ着いた先にはいつもの橘湾が当たり前のように存在していた。ようこそでもなくお疲れ様でもなく、ただ無言に存在する。集落に入り文生の最寄りのバス停に着く。わたしは景色を拝むでなく、無心に、ただまっすぐ、まっすぐと文生のマンションまで駆け出して行った。
「文生さん、文生さん」
口をついて出てくる名前は、わたしの本当の拠り所だった。
♢8
「いらっしゃい」
玄関をあけた文夫は一段と柔らかい眼差しでわたしを迎え入れてくれた。正月休みになる前にと焼肉大将へ行こうと提案し、わたしに性をつけるよう肉を食べろと促した。
「京子ちゃん、だまってばかりでも良いよ。気持ちが追いついてないんだから。とにかく食べな、ハラミが焼けたよ」
コクリと頷き文生の焼く肉の塊とビールを飲み込んだ。涙が溢れる。ただ肉を振る舞う文生と一緒にいられるだけで心が満たされて涙ばかりが頬をつたう。その日の大将はテーブル席が埋まって煙が蔓延していた。年末とあり地元住民が大声で酒を煽る喧騒の中。わたしはただうつむいて文生の優しさに触れて。ただ涙をこぼす。文生もこの日ばかりはしっかりと飲み食いをセーブしたようで、危うい足元も危うい言動もなく家路についた。
「ポンくん‥‥」
家に帰るとポンが尻尾を振って匂いを嗅ぐ。彼をひろいあげると涙の後をペロペロと舐める。
「ポンくんはわかってるんだよ。京子ちゃんの辛さも悲しみも。わかってるの」
堰を切ったように嗚咽が文生の部屋に鳴り響く。今日まで貯めていた悲しみがいつまでもいつまでも響いていた。
年末年始、文生はわたしに甲斐甲斐しくご飯を作り与えたし、洗濯、掃除を買って出た。わたしは文生のソファーベッドからひとつも出ずにベッドと化していた。
「ちょっと外に出てみない?」
年が明け文生が誘った。キリッと風の冷たい国道沿いをただ目的なく歩く。
「歩くと少しは気が晴れるでしょ」
バス停を越え、量販店を超え公民館を超えて。立ち並ぶ飲食店が過ぎても黙々と歩き続けた。しばらく行くと茶色いタイルに丸いはめ込みガラス、文生の好きな擬西洋風の建物が現れる。聖母の騎士東長崎教会。大きなチャペルは幼稚園に併設され、石膏のマリアは両手を静かに広げていた。
「こっちぐるっと回って帰ろう」
そう言う文生にちょっと待ってと、わたしはチャペルに吸い込まれていった。開かれたドアがわたしを待っている。
「少し入っていい?」
「ああ、俺も入っていい?」
「もちろん」
中に入るとステンドグラスからの明るい優しい光が中を照らす。椅子に座り心を落ち着ける。文生も隣で脱帽し光たちを受けていた。しばらくそっと気持ちを落ち着ける。わたしは守ると言ってかけがえのない子を失った。しかもわたしの手から手放したも同じぐらいに失ってしまった。失ってしまった。懺悔という感情が溢れる。その静寂な空間に涙をこぼす。止まることを知らないどくどくと温かい感情の水はスーッと頬を濡らすだけだった。それを見ていた文生がそっと手で拭う。
「これは京子ちゃんの優しい感情だから。ここは慈しみの場だよ。流すだけ涙は流せばいい」
「うん」
「俺は隣のパチンコにでも行くか。‥‥なんて嘘」
文生はあれからわたしを責めることをしなかった。わたしを肯定する事もしなかったけれど、ただ傍にあり続けてくれた。傍でただ頷いた。
「京子ちゃん、俺のスウォッチコレクションでこれあげる。時計はね、同じ時を刻んでるんだよ。遠く離れてても同じ時を生きている。そう思って欲しくて。この時計をあげる。俺だと思って」
そう言って文生は青い文字盤の大きなスウォッチを私の腕にはめた。
結局、何もしなかった長崎で私は「慈しみ」を深く受けた。寒い冬だったけれど心までも凍えるには勿体ない文生との生活だった。
車窓には後ろに流れる山にひっついた小さな家々。青空。冷たい空気。辛かったらいつでも来な、と改札で別れた文生の言葉。文生の腕時計。町がトンネルに差し掛かると全てがわたしを包むように心の中に染み渡る。流れ飛ぶベージュの田畑も、乗り換えた新幹線の黒い窓も。全てポッと温かな抱擁だった。
♢愛のものがたり④あとがき
ご覧いただきありがとうございます。
衝撃的な展開にびっくりされたかと思います。楽子も辛い描写でした。
この後2人の愛はどこに落ち着くのか、楽しみにしてください。