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愛のものがたり⑥

♢1

大きな大村湾に面した斎場に降り立った。文生の通夜式が行われている。青空は天頂に向かい濃い藍へのグラデーションを魅せている。文生の魂が今日の日を晴れやかに穏やかに整えたようだ。海は静かに横に開け鏡のように雲を映している。スカイブルーが天と海との境界線に白い地平を描きながら湾の奥の霞んだ山脈をうかがわせた。斎場に向かう前に目の前に広がるこの景色をわたしはただ文生との時間だとボーッと眺める。昨日の夜に大学病院で別れてから、もしかするとまだ大学病院の片隅で点滴でも受けながらうたた寝をしている文生がいるんじゃないか、なんて。いつものように救急車で運ばれた翌日の様に文生は生きているんじゃないか。黒いワンピースに黒いパンプスを履いたわたしがここに佇んでいるのにそんな願望が溢れ出てくる。海は静か。

 斎場に進む。

 故のしたに文生の名前が記された通夜式の案内版はさっきまでの願望を打ち消した。

「こんにちは。柳川です」

 斎場にはころっと肉付きのいい笑顔の文生の遺影が大きく引き延ばされてパネルに光っていた。出会うもっと前のわたしの知らない文生。黄色い服を着てブイサインを顔の横で掲げる文生。自信を満ち満ちに笑っている。ポンとの写真、姪たちとのショット、チャけた写真がコルクボードにひしひしと止められてる。真ん中に置かれた棺に文生が眠る。囲む様に色とりどりの花々が飾られ、それを取り囲んで椅子が並べられていた。

「あ、柳川さん、初めまして文生の母です」

 文生の母は大きな文生のパネルを見上げて涙をハンカチに収めていた。

「この度は、ご愁傷様でした」

「こちらこそ、ご愁傷様です。文生の最後があなたと居れたこと、感謝して
います」

 紹介しますね、と面識のない文生の次兄、父親を紹介してくれた。長兄も居合わせたので一緒に挨拶をした。

 昨日、文生がYouTubeでウルフルズを寝床から最期に聴いていた話を長兄に連絡していたからか、斎場にはウルフルズのガッツだぜが掛かっている。大きな葬式ではなく、宗教色のない「お別れの会」を明日執り行うらしい。

 棺に眠る文生に会う。文生は成形されたのか頬もふっくらしてチャームポイントの口のシワが浅く若返った様だった。眠る目は安らかに少し口角を上げて薄ら笑っている。

「文生さん、あなたのゴールはここなの?」

「文生さん、あなたはやり切った?」

 文生への言葉が次々と湧く。

「わたしと出会ってよかったの?」

「わたしはあなたと出会ってよかったって思ってる」

「文生さん、お疲れ様でした」

「文生さん、あなたは愛の人でした」

 ひとしきり文生と対話して家族のもとで文生の話に加わった。

 悲しみの中に彼の持つエピソードはほろっと頬が緩むユニークな出来事ばかり。文生が晩年書き上げた小説がPCの中に入っている事を告げた。そのPCは紛失したらしく発表する事を頑なに時期ではないと拒む文生は、作品をあの世に持って行ってしまった。人には出版しなと言い簡単ではない出版をわたしにはさせておいて。

 文生はもうアルコールの要らない世界にいるのだと、わたしは1杯目だけ黒ラベルを献杯してエビアンの鉱水を飲み続けた。文生が飲みたいと体を通して言っていたかわからないけれど、その水をゴクゴクと寿司やオードブルと一緒に飲み込んだ。家族と文生の話を大いに語らった。文生の性格、文生のプライド、文生の生き方。長く長く語らった。

 中座して、文生の棺にもう一度話しかけた。最後の会話。

「文生さん、生まれてきてくれてありがとう。わたしと出会ってくれてありがとう。文生さんの愛を受け取りました。ありがとう」

 棺の中の文生は変わらず静かに微笑み、何も返事をくれない。これからもわたしはこうして何も返ってこない質問を文生に投げ続けるのだろうか。文生の好きだったキャップが棺に並べられ文生を愛する人たちが並ぶ。それなのに何も返してこない文生。きっともうここにはいない。身体はあるけれどもうここにはいないんだ。文生さん、文生さん、心の中で叫んでも、呼んだ? ととぼけて変な格好で登場する文生はもういない。いなくなってしまった。

♢2

 一歩踏みだす決心をした秋。

「京子ちゃん、出版はいつ頃?」

 文生は発熱して入院を余儀なくしていた。

「来年の春ぐらいらしい。わたしね、大阪離れることにした。大阪にいても沙都や家族に迷惑かけたくないから」

「一緒に暮らそ」

「いいの?」

「うん、俺もこんなだしポンのこと見てくれると助かるし」

 わたしは大阪から出版社をあたり、出版契約できるところまで漕ぎ着けていた。文生は2週間ほどの入院で済むと聞いていたのだけれど、結果的に1ヶ月半に及んだ。

 わたしの部屋は相変わらずがらんとひとり。ダイニングにはPCが開いている。その中に(了)と打った小説が文字の中ひときわ明るく佇んでいる。窓の外には青空に掠れた雲が左右に伸びて鳥たちは囀りながらつがいの二羽が群れて飛んでゆく。

 わたしのいる場所はここではない。目を閉じると紫の普賢山、八郎川。その満ち引き。あの自然こそ文生の笑顔こそわたしは安らいで暮らせるのだと。文生の言葉に甘えよう。Safariを開いて空き物件がないか検索した。
 そして沙都に手紙を綴る。14年前生まれてきてありがとう。14年間辛い思いをさせてごめんなさい。とだけ筆圧を押さえて、それでも強く書いた。

 文生の退院を待って福岡へ物件を探しに待ち合わせした。文生は相変わらず、手にはペットボトルに詰め替えたレモン酎ハイを携帯して。あいにく人気エリアらしく、コレといった物件には巡り会えなかった。文生は福岡だ、街だ、と洋服店や時計店を物色して人気の時計を手に入れた。わたしも普段なかなかひとりでは食べないからと文生にご馳走になる。物件を決めることができなかったけれど、文生の覚悟に安堵した。そしてわたしが入院し、文生が入院し、春までお互いの養生を余儀なく送った。

 春になり出版がいよいよとなる。思いがけない人からの連絡がついた。沙都の父親。沙都をわたしに逢わせたいのだという。近くの緑道には桜が満開にそれを告げる。

「え、沙都ちゃんがくるの?」

「うん。父親と会いに来るって」

「どういうこと?」

「内容はよくわからないんだけどね」

でもいい知らせだと思うよ。と文生は話した。

♢3


 沙都とはおおかた1年会っていない。沙都の気持ちを尊重しての言葉を大事にこの1年耐えて来た。沙都の気持ちとは対照にわたしの気持ちはどこか遠くへ追いやってしまい、頑なに心の奥の方へ仕舞い込まれた。わたしは会えない間、PCの中でありし日の沙都と対話して来た気がする。沙都へ向けた攻撃的な、抑圧的な母親は、もう萎んで枯れ果てる。あの日の正義なんてものはもう薄ら遠くどこかへ行ってしまい、反対に悲しみがやって来た。咽び泣いたあの日。ひとり孤独と闘っていたあの日。そんな日々を積み重ね、沙都へ謝罪の手紙を送っていた。沙都は新しい家族と幸せに暮らすだろう。そんな沙都を想ってやまない。わたしに抱ける愛は沙都の幸せを遠くから願うこと。それだけだった。そんな毎日を積み重ね1年が経った。やっと1年。沙都がわたしに会いに来る。決して許してもらえることではないだろうけれど、父親を連れて会いに来る。

♢5


「ちょっと準備に時間がかかって到着が1時間ほど遅れる」

 沙都の父親からそんな連絡がついた頃、わたしはダイニングに沙都の好きなお菓子を並べて張り切っていた。冷蔵庫にはコーラを冷やしてたくさん作った氷をかき回す。わたしは浮かれていた。窓の外にはぽかりぽかりと綿雲が浮いて晴天を誇っている。ハルカスだけはいつもと同じ立ち位置でそんな空を支えていた。

「沙都ちゃん入って」

「‥‥お邪魔します」

 控えめな挨拶で靴を脱ぎ新しい家に入った沙都は、ダイニングチェアーに腰を落ち着けた。好きそうなお菓子買って来たよ、と勧める。

「今日は、話があって」

 沙都の父は前置きを並べてこう切り出した。

「沙都も今年15歳になるわけで、もう僕を通さずに京ちゃんと会ったらいいかなって話し合ったんだ」

 コクリと沙都も頷く。

「それでね、面会とか制限なく沙都が会いたい時に会ってもらいたいんだ。お互いLINEで繋がってるからそれで連絡とりあってさ」父親が続ける。

「いいのん? 沙都ちゃん。もうママのこと嫌ってると思ってた」

「もう、終わったことやから」 沙都は大人のようにそう答えた。

「ちゃんと向かい合って言わなあかんと思って。沙都ちゃん、ごめんなさい」

「いいって‥‥」

 沙都が会いに来てくれた。そしてこれからも会ってくれる。胸が弾む。ドキドキが止まらない。声が上ずって何から話していいのかわからず、けれど沙都に話しかけた。沙都は相変わらず学校には行けていないけれど、食事の支度をしたり、楽器を引いたり、好きな事をして過ごしているらしい。沙都の作る食事はおいしいと父親は話す。わたしのひとり過ごしているダイニングはポッと花が咲いたように白い壁がより明るく、窓の外には青いグラデーションの空が光った。

 コーヒーを飲み終え沙都を置いて父親は帰ると言った。沙都と久しぶりに水いらずの時間をすごせば、と残し行った。

「沙都、行きたいとこあんねん」

「どこでも言って」

♢6


 桜が満開だ。駅までの緑道は散り始めた桜がちらほらと舞っている。沙都は街の楽器店に行ってみたいと心斎橋までついて来て欲しいと頼んだ。ギターを見たいらしい。沙都は新しい環境で学校も変わり、以前の学友も疎遠になったと言った。学校に行けてないので友達もおらず、ひとりで行動しているらしい。そんな中、友達がわりにわたしをつれて歩くなんて事は初めてデートをしたトキメキよりも嬉しい。桜の中、何を話そう、何を話そうかと進んでいると、沙都が鞄の根についた鯨のキーホルダーに気づいた。

「何それ?」

「これ? これ鯨の歯。長崎は鯨の町でな、鯨食べる文化があるねん。で民芸品ではを加工してこんなんも作ってんねん」

 ランタンフェスティバルで見つけた鯨の歯。なくなったものが帰ってくると願掛けた鯨の歯。わたしの歩くリズムに揺られて揺れていた。沙都が再びムスメに戻った日。沙都が再びママと呼んでくれた日。桜が大きく風にゆられ見事な花吹雪が舞った。

♢7

 桜の散りきったある日、発売された書籍を誰よりも早く文生に届けた。

「文生さん届いた?」

「おお、すごいやん。読ませてもらったよ。これね、うんうん」

 ちょっとごめんと言いながら電話の向こうで鼻を啜りながら鼻声の文生が続ける。

「すごいね、京子ちゃんの気持ちが詰まってる。いい作品。俺あんまり人の作品褒めないんだけど、これはいい」

「ありがとう。これからは、これを売らなきゃいけないんだ」

「アイデアならいくらかあるよ、また来た時にでも」

「うん、今度。物件見に行く時聞かせて」

「思うんだけどさ、京子ちゃんが小説書かなかったら、沙都ちゃん帰ってきたかなって。京子ちゃんが小説を通して自分や沙都ちゃんとまっすぐ向き合ったから、この結果になったんじゃないかなって」

「うん」

「小説に向き合って、泣いてたじゃん、苦しかったじゃん。で小説書き上げた頃、京子ちゃん変わったんよ。説明しにくいけど。その心の行き先が何かに及んで沙都ちゃんの何かをノックしたみたいなロジック」

「何かに及んで何かをノックしたロジックって‥‥」

「伝わらないか」

「伝わるよ、見えないけれど何か変わったんよね」

「そう。だから小説書かなかったらこんな結果はこない気がするんだよ。しかも出版市までしてさ、遅くなたけど出版おめでとう」

「うん、ありがとう」

 そうして文生に会いに行った。物件を見るのをやめ即決で狭い彼の家に住もうと決めた。

♢8

「じゃ、沙都ちゃん、ママ行ってくるね」

 それから何度も何度も沙都と会った。たくさん話したし、沙都は小説の中のような、それ以上のママを慕うムスメだった。

 ツインのホテルの一室で沙都とデパ地下グルメを買い漁り宴を催す。そう、わたしが長崎に旅立つ前夜の宴。沙都は沙都の生活をこれからも続けるといいわたしとは暮らさない選択をした。それは成人するまでずっとだという。高校に進学し大学に進学したとして今のまま。そこに愛があるのならわたしは沙都の幸せな未来を遠くから願うだけだった。

「沙都ちゃん夢とかあんの?」

「んー、わからんけれど児童相談所の相談員さんみたいな仕事がしたいな。
子供とか嫌いじゃないし、親に寄り添える相談員さんになってみたい」

 そういう彼女の夢は、優しさ。その優しさはわたしの心の奥底をえぐった。児童相談所で受けた愛をまた彼女は暖めているのだろう。

「さ、沙都ちゃん寝ちゃいそうやからママタクシーで送るわ。それやったら帰れるやろ」

「いいのん?」

 この時間がいつまでも続けばいいのにと思いながら沙都を帰すべき場所に送り届けると心を強くもって切り出した。沙都の母親を14年させてもらえて、その思いを書籍にすることが出来て、それだけで十分だと感じた。沙都は沙都。彼女の道を歩く。

 長崎に向かう特急は西九州新幹線になり変わった。弓なりの浜はもう通らないし防音壁で大村湾の少しだけが映る程度の情緒が長崎への景色になる。新しいシート、新しい車内、わたしはそんな単調な九州新幹線の無機質さが気に入った。新しい生活がこれから始まる。文生との生活がこれから始まる。胸踊らせて向かう反面、わたしには文生の行末だけが流れるトンネルの黒い車窓と重なった。




♢愛のものがたり⑥あとがき

今回もご覧いただきありがとうございます。沙都との再会が果たせましたが、全てが元どおりというわけにいきませんでした。京子はそれでも進みます。いよいよ文生との長崎での生活が始まりますがうまくいかないことが人生でもある様です。ゆっくりとですが綴っていきますのでお待ちください。



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