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徳島みづほ古代史講座は11月27日です

次回、徳島みづほ古代史講座(”邪馬壹國は阿波から始まるの会”)では、『あいうの話』の第二部、いよいよ『い』の話をしてみようと思います。

そもそも、日本は古代中国から『委』の国と認識されていた証拠に、後漢書によれは、建武中元二年(西暦57年)光武帝から金印には、「漢委奴国王」と彫られていました。

ではなぜ、我々は「かんのわのなのこくおう」と習ったのでしょうか。それは、明治の学者、三宅米吉が減筆による印字で、人偏を省略したものだと提唱したことが元になっています。学説も、憲法九条同様に、偉い先生の唱えた説は一字一句たりとも修正してはならないという暗黙の忖度があったようです。しかも、今なお続いています。

しかし、2.3cm角もある巨大なハンコに人偏があってもなくてもほぼ彫ることにおいての難易度が上がるはずはないので、減筆などしていないことは素人目でも明らかです。


ウィキより、金印

また、他にも、中国の正史である漢書の校注からも明らかです。
魏の如淳の校注「『如墨、委面』だから日本人は倭人(いじん)だ。」を受けて、晋の臣瓚は「『倭(い)』はこれ国名、墨を用いるを謂わず、元これを『委』という也。」と反論しています。

つまり、倭(中国古代の発音は2音あって、『ゐ』と『わ』)というのは『ゐ』と発音していて、国名であったのです。

古代史を研究し始めた頃、徳島県人は昔より、一人称単数を「わー」というから、中国へ行っても、「わーの国」と謂ったのが始まりかなと思っていたけど、そんな簡単なことではありませんでした。

一応、今回はその件に関しての平安時代のエビデンスも示しておこうと思います。

鎌倉期、仙覚和尚和尚が、日本では古来、和語は「い」から始まり、天竺(インド)は「阿(あ)」から始まると解説しております。仏教と共に、アーリアの哲学も入ってきて、日本も”a”から始まるようになったみたいですね。

でも、日本最古の歴史書である古事記に、この件に何も触れていないと主張される学者の方には、ちゃんとしたエビデンスを用意してありますので、お暇な学者の方、是非、私のレクチャーにおこしを!

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