御殿人について
気付けばおかしなもので、一番苦手としていた分野での研究生活を送っています。とはいっても、ノルマがあるわけでもなく、有名になろうとする意思もなく、説を強く主張するでもなく、生きる為の糧として研究するのでもないので、お気楽です。
学校時代、英語が一番苦手で次に古典、日本史でした。漢文はそこそこ人並みレベルでしたので、それが現在役立っているのかもしれません。古文書を見ても(読んでもじゃなくて)何を書いてあるのかさっぱりでした。しかし、慣れは恐ろしいものです、書にも全く興味は無いものの、ミミズがのたうち回ったような字が若干読めるようになりました。といっても、興味のある極限られた文書だけなのですが。
今回、12/18に、もと徳島県博物館の館長であった、長谷川賢二先生に講演いただけることになりましたので、前座で少しだけ喋ることにします。
天皇即位式である秘儀践祚大嘗祭において、御殿人がどのようにコミットするのか、また、その御殿人は何者なのか?あるいは、御殿人たる所以、エビデンスは何なのかを語ります。
困ったことに、阿波古代史に興味を示す方は、忌部原理主義者と呼ばれても致し方無い人が多いのです。更に、困ったことに、日ユ同祖論まで加担して徳島の古代史は将にフュージョン!よって、未だに噴飯説の域から抜けられないでいます。
この度、長谷川先生に、歴史の創作がどのようになされてきたのかも含め興味深い事をお聞きできると期待しております。また、原理主義者のどこがどう違うのかも明らかに示していただけるものと信じております。
さて、私の話の一部の資料を掲載しておきます。
践祚大嘗祭の麁服調進プロジェクトリーダの御殿人たる所以、エビデンスとなっている中世文書を少々紹介しておきます。
まず、一番手となるのは、なんと言っても官宣旨でしょう。これは、天皇陛下のおっしゃったことを、大納言が拝聴してきたと、辨官局のお偉いさんに言ったというので、辨官局の私が書きますよと、国府に向けて(あるいは寺社)宣旨を出します。
次に、口宣(案)
斎部氏長者からの下文
文應元年十二月二日(1261年)宗時入道宛の下文については、少し解説・コメントをしてみようと思います。
これによれば、”先例によって、早く御殿人に成れと指示があります。更に、宗時に対して、阿波国内にいる忌部長者(直系とその副官)に随わなくても良い”と書かれています。
この文言をどのように解釈するのか?当日質疑応答もあります。中世書式に詳しい方が、いらっしゃれば、この書の意味するところを答えてくれるのではないかと期待しております。
阿波徳島の山岳部において、13世紀14世紀頃の様子が伺える書を徳島県教育委員会がまとめ本にしてくれています。一次資料に触れる機会の少ない在野にとっては、すこぶるありがたい事です。いい時代に生まれました。